董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
夜が明けきる前に、町の戸が順に閉まった。
女子供は奥へ入れて、通り切るまで出さない。評定で決めたとおりだ。戸の閉まる音が、ぱたり、と間を置いて往来の端から端へ移っていくのを、俺は蔵の前で聞いていた。売り声の一つもしない朝は、火事の朝より静かだ。最後が宿の戸で、閉める前に女将が顔だけ出した。
「湯は運ぶよ。まったく、こんな朝に寝てられるもんかい」
渡し場は街道の南側にある。杭が二列、その間に
籠は三百と八つ。莚の上に、上の段へ手を掛けるのに踏み台が要る高さまで積み上がっている。近づくと、蒸した粟の匂いがまだ薄く残っていた。一つが、十人の三日分になる。
数はゆうべのうちに何度か合わせた。竈の跡から立てた見込みは三千。もっとも、いくら合わせたところで、向こうの頭数がその数で止まる約束はどこにも無い。
人足の頭が来て、例によって杭を握って揺すって回った。途中で、ぐらり、と根元の土が鳴る。舌打ちが飛んだ。
「浅いぞ、こいつは。押されたら抜けちまう」
「そこは押される所じゃないんだよ。なにしろ、列が曲がる外っかわだからね」
阿慶は縄の張りを見たまま答えた。
「抜けて困るのは、右の三本だけだ。あとは、列が曲がる目印さえ立ってりゃなんとかなる」
「打つなら、まっすぐ打て」
頭はそれだけ言って、若い衆に打ち直させてから帰った。まっすぐでなくてもいいと言われて引き下がる男ではないのは、こっちも承知している。
日が昇ってしばらくして、西の道に土埃が立った。風は無いのに、そこだけが動いている。
先に来たのは騎馬が数騎で、うち一騎が縄の手前で下りた。若い。鞍が、ぎしりと革の音を立てた。
「
「はい、帳場です」
……ギリギリ嘘は言っていない。向こうは頷いて、それで済ませた。
渡されたのは布告の写しだった。
「叔父の名で軍中へ回した。破った者はこちらで斬る。……一日に、いくつ渡せる?」
「手のさばける上限で、百五十籠。千五百人ぶんです。……これは上限であって、約束の数じゃありません」
「わかった」
張繡は籠の山へ目を移した。見ているというより、目で目方を当てにかかっていた。
「毒見は」
「渡す前に、こちらが上の一枚を齧ります。籠の中からは取りません。取ると、渡す数が合わなくなるので」
「ふむ。一枚寄越せ」
若い衆が差し出した一枚を、張繡はその場で二つに割った。ぱきり、と乾いた音がして、半分を齧る。噛んでいる間、こちらを見もしなかった。
「·····硬いな」
「流石に歯が立たない程硬いやつは、作り直します。これは齧ってもよし、湯に落とせば戻ります」
「懐へ入れて、三日保つか」
「保ちます。干し場で鼠にやられた時、乾き切ったやつだけは、歯形しか付かないぐらいなんで」
「……ならいい」
それだけ言って、馬へ戻った。上限の数にも、硬さにも、値切る素振りはひとつも無い。こっちが身構えていたぶんだけ、どうにも拍子抜けした。
~
最初の組が縄の内へ入ったのは、日が上がりきった頃だ。待っている間の方が、よほど長く感じた。
杜恪は縄の外で、順番を捌いていた。札の束は朝いちばんに軍の側へ渡してある。あとは、どこまでが今の順かを触れて回るのが仕事だ。喋り続けている。手より口の方が忙しい。
「三十四番までな。三十五から後は、まだ縄へ寄るなよ。……札、なくすなよ。なくしたら、あんたの組は十人まとめて食いっぱぐれだぜ」
俺が番号を読む。若い衆が籠の上の一枚を取って齧る。飲み込むのを見届けてから、組頭が籠を受け取る。齧る音が、思ったより遠くまで届いた。
稽古で若い衆を並ばせた時と違うのは、誰も列の中で喋らないことと、番号を呼ぶ前から、呼ばれる側が札を準備して待っていることだ。飢えた男が三千人並んでいるというより、飯を待つ列が三千人ぶんある、という方が近い。正直、そこが薄気味悪かった。
列は、稽古と同じ所で一度だけ止まった。受け取った組頭が、その場で中を覗き込んだからだ。後ろが一歩も動かなくなる。
阿慶が縄の内から手を伸ばして、その男の肘を押した。
「おっさん、歩きながら覗きなよ。立ち止まる人は、縄の外だよ」
言葉が通じたかどうかは分からないが、押された方は通じた。詰まりが抜けて、列がまた、ずるりと動き出す。
昼が近くなった頃、蔵の方から米屋が歩いてきた。往来は閉めてあるはずだ。
「言っとくが、手伝いに来たんじゃねえからな」
米屋は縄の外に立って、腕を組んだまま列を見た。日陰へ寄りもせず、ずいぶん長いこと見ていた。
「……本当に並んでやがる」
「おう、今んとこは、な」
「俺が兵隊なら、並ばねえんだがな」
「知ってるよ。何度目だよそれ言うの」
米屋はそれきり黙って、列の頭から尻尾まで、目でなぞり直していた。
~
昼前に、西の道から車が二台、列を追い越して来た。
積んであったのは塩の俵と、革の束だった。約定の一部払いだ。引いてきた兵は、荷を降ろすと、受取も何も無しに帰っていった。渡すというより、捨てていくのに近い置き方をした。向こうの帳では、とっくに値の消えている荷だ。
「車は縄の外で降ろしな」
阿慶が真っ先に言った。荷より先に列を見ている。
「一台でも内へ入れたら、そこで列が止まっちゃうからさ。あたしの目が届くのは、内側だけだよ」
湯桶を提げてきた女将が、俵の口を開けて指を突っ込んだ。
「塩四俵かい。……こりゃあんた、冬の漬け物が丸ごと賄えるよ。飯を配って塩が増えるなんてのは、生まれてこのかた聞いたことがないねえ」
「言っとくが、俵ってのは外から見て分かるもんじゃねえ」
米屋が横から俵を覗いて、上と下から一掴みずつ取り、掌に並べて比べた。指の腹で潰して、粒の崩れ方まで見ている。
「上と下で質の違う俵ってのは、いくらでもあるんだ。……だが、こいつは大丈夫そうだな。四俵、勘定に入れていい。革はどこだ?」
「そら、六十枚あるぜ」
杜恪が革の山を平手でぱんと叩いた。生乾きの臭いが、そこだけ立った。
「向こうの帳では死んでる癖に、飯に化けて出てきたんだ。上等な商いさ。こいつはもう俺たちの物だぜ」
「値の動く物を、俺は先に数えねえ」
米屋は革の方を見もしなかった。
董白は塩の俵に手を置いて、それから革の山の方へ顎をしゃくった。
「塩は蔵へ入れよ。革は、ここへ積んでおけ」
「盗られるぞ。縄の外だ」
「盗られたら、その時じゃ。……ただ飯にはせぬと、評定で皆に言うたでな。払いを受け取った、というのが、列から見える所に無ければ困る」
俺は帳に「払い」の欄を作って、塩四俵、革六十枚、と入れた。証文の方の欄は、まだ手付かずだ。埋まる日が来るとすれば、それは宛の倉の前になる。……来るのかね、そんな日が。
~
日が傾いた頃、列の尻が縄を抜けた。
抜けた後ろに、道が空いていた。次の番号を読んでも、受け取りに来る者がいない。若い衆が籠を抱えたまま突っ立っている。
「終いかい、これ」
「今日の隊が、通り切ったってことだろ。……こっちの都合じゃないな、どうも」
阿慶は杭を一本ずつ握って、ぐらつかないか確かめて回った。頭に打ち直させた右の三本を、いちばん長く握っていた。
「手はまだ空いてるよ。あと五十でも六十でも渡せた。向こうが来ねえんだから、しょうがないね」
俺は帳を締めた。通した籠、百二十六。残り、百八十二。
百五十は上限だと、朝に言ってある。今日の数を決めたのはこちらの手ではなく向こうの列で、そこは向こうも分かっているはずだ。分かってはいるが、締めた数の下に空きが残っているのは、どうにも据わりが悪い。
その晩、町の竈へ火を戻した。
閉めていた戸が開いて、女房たちが莚と臼を担いで出てきた。米屋は臼を貸すだけのはずが、また粟の山へ手を突っ込んで、欠け粒をより分け始めている。女将は湯気の向こうから怒鳴りっぱなしだった。
「熱いうちだよ、熱いうちに切りな。冷めてから切ろうなんてのは横着だ」
搗いて延して切るところまでは、夜のうちに片がついた。詰まったのは干しの方だ。莚を出しても、夜露で表がしっとりして、いっこうに乾かない。熾きの上へ回した分から順に並べていくと、竈の数で頭打ちになる。どうにも、火の数より先へは進めない。
「もう二十籠分は延せるぞ」
若い衆の一人が言った。
「延せても、乾かぬ」
董白は莚の端の一枚を裏返して、爪で弾いた。一号と同じ音は、返ってこなかった。
「生乾きを籠へ入れれば、道の途中で黴びる。一枚黴びれば、その籠は六十のうち何枚が使い物になるか分からぬ籠じゃ。……数えられぬ物を、数に入れるわけにはいかぬでな」
「そんならこいつは」
「明日の朝の分にせよ。今夜の帳へは書かぬ」
夜なべで籠になったのは、十だけだった。
~
二日目は、朝から列が途切れなかった。番号を読む声だけが、前の日と同じ調子で続いている。
張繡は昼前に、騎馬で来て下りた。籠の山を見て、一枚齧って、何も言わずに戻っていく。前の日より山が低いことは、下りた所からでも分かったはずだ。
毒見の役は交代で回している。それでも朝のうちから、いちばん若いのが白瓦を口へ運ぶ手つきが、目に見えて遅くなっていた。
「頭ぁ。もう味がしねえ」
「味を見る役じゃねえだろうが。毒味だ毒味」
人足の頭は言いながら、自分が代わろうとはしなかった。代わったら、その組の番号と齧った枚数が合わなくなる。合わなくなる仕事は、この渡し場ではやらせない決まりだ。若いのは口の中の物を飲み込んで、次の籠へ手を伸ばした。
昼過ぎに、俺は帳の頭を読み上げた。
「二日で、百八十籠か」
若い衆の間で、短い声が上がった。上がったのはそこまでで、次の番号を呼ぶ声がすぐに被さる。籠の山からは、もう踏み台が外してあった。残り、百三十八。
杜恪が縄の外から戻ってきたのは、その勘定を書き終えた頃だ。掌の土が、木簡の上へぱらぱら落ちた。
「後ろを見てきた。街道の膨らみから先が、まだ続いてる」
「後ろに要るのは」
「少なく見て百七十籠。……多く見りゃ、二百二十だ」
「幅が大きいな」
「道々拾ってるのさ。庄を空けた先で付いてきた連中が、列の尻にぶら下がってる。兵隊じゃねえのも混じってるぜ。なにしろ、ついてけば飯にありつけると思ってやがるんだ」
俺は木簡へ、渡せる数と要る数を上下に並べて、間に線を引いた。
「足りない。不足分は少なく見て三十籠。悪ければ八十籠だ」
董白は木簡を覗き込んで、線の下の二つの数を、指の腹で順になぞった。
「蒸せる粟は」
「ゆうべの十籠で、町の分はほとんど使った。南の倉から回した分も、もう莚の上に出てる」
「そうか」
それだけだった。董白は木簡から手を離すと、籠の山の横へ戻って、次の番号を若い衆へ言った。声は、朝と同じ高さだった。足りない、と聞いた後で同じ高さの声が出るのは、この娘くらいのものだ。俺の方は、筆を持ち直す前に手を拭った。
縄の内では、列がまだ流れている。番号を読む声と、齧る音と、籠が渡る音。二日、一度も止めていない。
止めていないのに、道の西はまだ埋まったままだった。