董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
金物屋を離れてから、董白は一度も振り返らなかった。
粗布の下に残った簪へ触れることもない。俺より半歩先を歩き、道が分からなくなると足を緩める。それでも、俺の後ろへは戻ろうとしなかった。
さっきの兵に見つかったのは、粗布から金色の一房がこぼれたせいだった。
俺は人の少ない路地で董白を呼び止めた。
「その髪、もう一度隠してくれ。今度は、頭巾を上げられても見えないように」
「まだ妾の髪をどうにかするつもりか」
「さっき、それでばれただろ。門じゃ顔を見せろって言われる」
董白は俺を睨んだ。それでも粗布の下へ両手を入れ、金色の一房を長い藍紫の髪へ巻き込む。髪を束ねていた細布を額へ回し、金色の根元まで覆った。
これなら、外側の粗布を上げられても金色は見えない。
俺は腰の袋を押さえた。さっきまでの銭に四十枚が増えて、歩くたびに小さな音がする。
これで飯は買える。何日かは持つかもしれない。
ただし、長安を出られたらの話だ。
南門へ近づくにつれて、人の流れが同じ方向へ集まり始めた。背負えるだけの荷を持った人。車に家財を積んだ家族。空の籠をいくつも括りつけた荷車もある。
門の前には、長い列ができていた。
城門の左右に兵が立ち、その間で役人が一人ずつ止めている。名前と行き先を聞き、顔を見て、荷物を調べる。荷車は覆いまで外されていた。
「あの列へ並び、あれを通れと言うのか」
董白の足が止まった。
「ほかの門も同じだと思う。たぶん、ここが一番ましだ」
「何をもって、ましと言うておる」
董白が粗布の端から俺を見上げた。
「北と西は、董卓の兵が戻ってくる方角だろ。ここなら、大きな道をもう通らずに済む」
董白は列の先を見た。役人が男の包みを開き、中の服を一本ずつ棒で持ち上げている。
「あそこで名を問われたら、どうする」
「聞かれても、董白とは言うなよ」
董白の手が、残った簪の辺りへ動く。
「何度言わせる。妾の名は董白じゃ」
「分かってる。でも、今だけは言うな」
董白の顎が上がりかけた。けれど、近くを兵が通ると、粗布を引いて顔を隠した。
「では、何と名乗れと言うのじゃ」
答えられなかった。
ここまで、名乗らせないことしか考えていない。代わりの名前なんて用意していなかった。
「聞かれたら、俺が話す。お前は黙っててくれ」
「また、妾に黙れと申すのか」
「門を出るまで。今度こそ本当に、そこまでだから」
董白は目を細めたが、それ以上は言わなかった。
列の最後へ並ぶ。前へ進むたびに、門の外が少しずつ見えてきた。
城壁の向こうにも道は続いている。当たり前のことなのに、ずいぶん遠く見えた。
列はなかなか進まなかった。頭巾を被った女は、その場で顔を見せろと言われる。腰に立派な金具を付けていた男は列から外され、別の兵に囲まれた。
目立つ物があっても止められる。隠そうとしても止められる。
俺は書具箱を抱え直した。董白は黙ったまま、自分の前にできた隙間を詰める。歩く時よりも遅い列なのに、一度だけ足元が揺れた。
「おい、大丈夫か。立ってられる?」
「妾に構う暇があるのか」
すぐに返事が来た。それで俺は、また先の検問へ目を戻してしまった。
俺たちの前には、幼い子供を二人連れた夫婦がいた。役人は男の名前と行き先を聞き、女の顔も確認した。子供の頭まで順に見てから、ようやく通す。
次は俺たちだ。
「次だ。前へ進め」
兵に促され、門の内側へ入った。頭の上が暗くなる。城門の厚みの分だけ影が伸び、外から吹く風が土埃を運んできた。
机の前に座った役人が、俺の書具箱を見た。
「名と行き先を言え」
「柳誠です。南陽へ、仕事を探しに行きます」
役人は木簡へ二文字を書き付けると、その目を董白へ向けた。
「そちらの娘は何者だ。顔も見せろ」
「遠縁の姪です」
董白は動かなかった。
粗布を握ったまま、役人を見ている。顔を隠しているせいで目は見えない。それでも、役人へ頭を下げるつもりがないことだけは分かった。
「聞こえなかったのか。頭巾を上げろ」
俺は董白の肘へ触れた。
「上げろ。少しだけでいい」
「触るでない」
小さな声だった。
役人の眉が動く。
「そこまで嫌がるとは、何を隠しておる」
役人は机から身を乗り出し、董白の粗布を掴んだ。董白が一歩退く。すぐ後ろにいた兵が道を塞ぎ、逃げ場はなかった。
布が捲られた。
昼の明るさの下へ、董白の顔が出た。
俺は、何も言えなくなった。
灰で汚れているからだけじゃない。頬から色が抜け、唇は乾いていた。目の下には暗い影がある。額には髪を押さえる細布が巻かれ、あの金色はその下に隠れている。
太師府の廊下で見た董白とは、すぐには同じ少女だと思えなかった。
それでも、紫の目だけは役人を睨み返している。
昨日、あの廊下で見た目だった。
大人たちが左右へ退き、濃い紫の衣を着た董白が、その真ん中を歩いていた。誰もが頭を下げる中で、董白だけが真っ直ぐ前を見ていた。
俺は、怒鳴れるくらいならまだ平気なのだと思っていた。
服を脱げと言えば睨み、顔へ灰を塗れば口を利かなくなり、芥車へ押し込めば袖を掴んだ。外へ出てからも、命令するか、俺へ悪態をつくかしていた。
暗い厨では、声が震えていることに気づいていた。寒いのだろうと思った。それでも上着は受け取らず、朝までほとんど眠っていない。
昨日から、食べ物も口にしていなかった。
それなのに俺は、逃げ道のことばかり考えていた。服を脱げ。髪飾りを外せ。顔を汚せ。車へ入れ。黙っていろ。
必要だったとは思う。どれか一つでも嫌がるままにさせていたら、ここまで来る前に捕まっていた。
けれど、必要だったことと、董白が平気だったことは同じじゃない。
家も、家族も、昨日まで自分に頭を下げていた人たちも、一晩でいなくなった。誰が助けに来て、誰が自分を捕まえるのかも分からない。
十三歳の少女は、怒りを原動力として立っていたのだ。
役人が董白の顔を見たまま、首を傾げる。
「その顔、病み上がりなのか?」
董白の目が俺へ向いた。
助けを求める目ではない。役人を睨む目より、さらに強く俺を睨んでいる。
その目で、よくここまで歩いてきた。
「娘、お前の名を自分で答えろ」
董白の唇が開いた。
声は出なかった。
董白と答えれば捕まる。けれど、別の名前などまだ一つも持っていない。
董白はどちらも口にせず、その場に立ち尽くしていた。
「柳白です」
気づけば、俺が答えていた。
まずい。
とっさに浮かんだのが、董白の白だった。せめてまったく違う名前にすればよかったのに、そのまま口にしてしまった。
役人の目がこちらへ戻る。
「お前には聞いておらぬ。娘に聞いた」
「すみません。病み上がりで、まだ声が出にくいんです。名は柳白。私と同じ柳で、白です」
言い直しても、役人は名前には何も言わなかった。気にしたのは、俺が代わりに答えたことだけらしい。
白という名前は、そんなに珍しくないのかもしれない。
「次は手を出せ。両手だ」
役人が命じると、董白の顔が上がった。
「なぜ、手まで見せねばならぬ」
「問答はよい。早く出せ」
董白はすぐには従わなかった。兵が剣の柄へ手を置く。俺が前へ出るより先に、董白は粗い袖から両手を出した。
白く、傷のない手だった。
水を汲んだことも、薪を割ったこともない手だ。汚れた上衣から出ている方がおかしい。
役人の目つきが変わった。
「ずいぶん綺麗な手だな。下働きではないのか。どこの家の娘だ」
「働いてません。ずっと病で寝てたんです」
役人の筆が止まった。
「北の外れです。流行り病で両親を亡くして、それで私を頼ってきました」
言葉が少し速くなった。役人は俺の顔と、董白の手を見比べる。
「その娘も、本当に同じ病だったのか?」
今度は、董白が自分から頷いた。
一度だけ。小さな動きだった。
それでも、俺に命じられたからではない。役人に聞かれ、初めて自分から俺の嘘に乗った。
董白という名前を捨てたわけではない。書具箱の底には、あの印がある。ただ、この場を抜けるための一度だけ、病み上がりの娘になった。
役人はもう一度、その顔を見る。色のない頬と目の下の影は、病み上がりと言われればそう見えた。
「今度はその箱だ。蓋を開けろ」
俺は書具箱を机へ置いた。
蓋へ手を掛ける。箱の底には、渭陽君の印が入っている。ここまで歩く間、何度も鳴っていた印だ。
蓋を開けると、筆と木簡が見えた。ノートも印も、その下に隠れている。
「中身は筆と木簡だけか。書吏なのか」
「末端です。仕事がなくなったので、南へ行きます」
役人は筆を一本持ち上げ、木簡の間へ棒の先を差し込んだ。底に当たる前に、固まった墨へ触れて止まる。
「つまらぬ物ばかり詰めておるな」
「でも、私はこれで食べてるんです」
役人は鼻を鳴らし、筆を箱へ戻した。通行を認める印を木札へ押し、俺たちへ差し出す。
「南陽まで行くなら、門外の荷隊に混ぜてもらえ。二人だけで歩けば、日暮れ前に身ぐるみを剥がされるぞ」
「ありがとうございます」
木札を受け取り、書具箱を閉じた。
董白がまた粗布を被る。今度は自分から深く引き下げた。
役人はもう、次に並んでいた男を呼んでいる。俺たちが何者なのか、これ以上考える様子はなかった。
兵の間を抜け、城門の影から外へ出た。
背中へ声が飛んでこない。剣を抜く音もしない。
土の道を一歩、二歩、三歩。
「妾の名を勝手に作りおって」
董白の声は低かった。
「あそこで何て答えろっていうんだよ」
「だからといって、そなたの姓を付けてよいとは申しておらぬ」
そう言い残し、董白は俺を追い越した。
一歩、二歩、三歩。こちらを見ないまま、わずかに歩みを緩める。
「……仕方ない」
聞き返す前に、董白が振り向いた。
「二度は言わぬ。行くぞ、柳誠」
その声には、少しだけ力が戻っていた。
門の外には、荷車が十台ほど並んでいた。役人が言っていた南陽行きの荷隊らしい。積んでいるのは布と空の酒甕で、護衛らしい男も何人かいる。
先頭の車のそばにいた男へ行き先を聞くと、武関を越えて南陽まで行くと返ってきた。
「歩きで二人、後ろへ付かせてもらえませんか」
男は俺たちを上から下まで見た。書具箱と董白の汚れた上衣を見て、指を二本立てる。
「二人で二十銭。荷が止まったら押せ。食い物は自分で出せ」
安くはない。それでも、二人だけで歩くよりはいい。
俺は袋から二十枚を数え、男へ渡した。
「荷隊から遅れても、こちらは待たんぞ」
「分かりました」
荷隊の最後尾へ回る。董白は並んだ荷車を見て、粗布の下で眉を寄せた。
「妾に、荷車を押せと申すのか」
「止まった時だけだって。嫌なら置いていかれるぞ」
「そなた、誰にものを言うておる」
いつもの返しだった。
俺は書具箱を抱え直し、動き始めた荷車の後ろを歩いた。董白も、少し遅れてついてくる。
振り返ると、長安の南門はまだすぐ後ろにあった。
それでも、董白では門を出られなかった少女が、柳白として俺の隣を歩いていた。