董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
董白は、金物屋を振り返らなかった。
俺より少し先を歩き、道が分かれると足を緩める。右だと教えれば右へ曲がるが、俺を先に行かせようとはしない。
腰の銭袋が、歩くたびに鳴った。
銀の簪を売った四十枚だ。これで二人とも飯を食えるし、何日かは仕事が見つからなくても暮らせるかもしれない。そう思って安心しかけるたびに、向かいの路地から兵が出てきた。
まだ、長安の中だった。
南門へ近づくにつれ、同じ方へ歩く者が増えた。背中に包みをくくりつけた男、家財を車へ積んだ家族。籠を重ねて運ぶ者が立ち止まると、後ろの人たちも止まった。
その先に、列ができていた。
門の左右に兵が立ち、役人が名と行き先を聞いている。包みは開かせ、荷車にかかった布も外させていた。顔を確かめてから通すので、列は一人ずつしか進まない。
董白が足を止めた。
「荷をすべて調べておるぞ。あれを通るつもりか?」
「通らないと外へ出られない。ここで駄目なら、ほかの門でも止められると思う」
そう答えながら、俺も動けずにいた。
芥車の中で息を殺していた時は、あの門さえ抜ければと思っていた。抜ければ抜けたで、別の門がある。しかも、今度は自分で兵の前へ歩いていかなければならない。
「北へは行かぬのか? 祖父様の兵が戻れば――」
「戻ってくるかもしれないから、兵も見張ってるだろ。さっきみたいに、お前を知ってる人にも会うかもしれない。ここまで来たんだ。今から引き返すのは、やめたい」
董白は俺を見たが、言い返さなかった。
俺は書具箱を抱え直した。
中には、渭陽君の印がある。
包みを開けろという役人の声が、今は自分へ向けられているように聞こえた。
~
列の最後尾に並ぶと、すぐ後ろにも人が付いた。
董白は頭からかぶった布の端を押さえ、前の者と間を空けて立っていた。道では俺を追い越そうとしていたのに、ここでは誰も押しのけない。
「名を問われたら、どうするのじゃ?」
小さな声で訊かれた。
「俺が話す。お前のことも聞かれたら答えるから、董白とは言わないでくれ」
「それは、もう聞いた。では、妾は何と答える? 別の名を言えと申すなら、先に決めておかねば同じには答えられぬぞ」
もっともだった。
だが、代わりの名前を口にしようとして、止まった。簪を手放したばかりの相手へ、次は名前を替えろと言う。必要だと分かっていても、またあの顔をされるのが嫌だった。
「……聞かれたら、俺が答えるから」
同じことを言った。
董白の口元が固くなる。
俺は門へ目を戻した。考えるのを先へ延ばしているだけだと、自分でも分かっていた。
列は少しずつ進んだ。
頭巾をかぶった女が顔を見せ、役人の問いに答える。腰に立派な金具を付けた男は、列から外へ出されていた。兵が一人付いて、荷物を広げさせている。
取られるのだろうか。それとも、盗んだものだと思われたのか。
俺は男の方を見ないようにした。気にしていると思われることまで、怖くなっていた。
前が空いた。
一歩進むと、董白が少し遅れた。振り向いた時には、もう隙間を詰めていたが、足元がふらついたように見えた。
「大丈夫か? 立ってるのがつらいなら――」
「座れとでも申すか? この列を離れれば、また後ろから並ぶのであろう。妾を見ておらずに、先の役人を見ておれ」
すぐに返された。
確かに、ここで休める場所はない。俺はまた検問へ顔を向けた。
そのまま、頼まれた通りにしてしまった。
前には子供を二人連れた夫婦がいた。役人は父親に行き先を聞き、母親にも顔を上げさせた。子供たちを順に見て、ようやく通す。
門の外へ出た一家が、車の脇へ寄っていった。
あそこまで行ければ。
「次、前へ来い!」
俺は董白と並び、城門の影へ入った。
~
門の中は、思ったより長かった。
頭上には石と土があり、出口の明るさだけがやけに白い。外から吹く風が土埃を運んでくる。役人は卓の端の砂を払い、俺たちへ目を上げた。
「名と行き先を言え」
「柳誠です。南陽へ、仕事を探しに行きます」
役人が木簡へ書き付ける。その筆先を、俺は見ていた。何と書かれるかが気になったが、こちらからは読めなかった。
「娘は、お前の身内か?」
「遠縁の姪です。一緒に連れていきます」
「なら、そちらも顔を見せろ。頭巾を上げて、こちらを向け」
董白は動かなかった。
俺は肘へ触れた。
「少し上げてくれ。前の人も、みんな見せてた」
「自分でできる。触るでない」
手を引いた。だが、董白は布を握ったままだった。
役人が椅子から身を起こす。
「何を隠している? 顔を見せるだけだと言っておるだろう!」
伸びてきた手が、粗布を掴んだ。
董白は一歩退いたが、後ろには兵がいた。逃げる方へ体を向けることもできず、布を持ち上げられた。
顔が見えた。
俺は、一瞬、役人の手を止めようとしたことさえ忘れた。
頬から色が抜けている。灰の汚れにばかり目が行って、気づいていなかった。唇は乾き、目の下には濃い影があった。昼の光に顔をさらすと、疲れは隠しようがなかった。
それでも、董白は役人を睨んでいた。
俺は、まだ怒れるなら大丈夫なのだと思っていた。立っていられるかと訊かれれば、構うなと返す。だから、歩けるのだろうと。
「病み上がりか。ひどい顔色だな」
役人に言われて、董白の目が俺へ向いた。
知らない男の前で、そのことに触れてほしくなかったのかもしれない。俺が何を言うか、睨むように待っていた。
「名を言え、娘。自分の名くらい答えられるだろう」
董白の唇が開いた。
何も出なかった。
俺が言うなと頼んだ名前しか、この娘は持っていない。
「柳白です」
口にしてから、しまったと思った。
自分の柳に、董白の白を付けただけだった。もっと違う名前にすればよかった。だが、言い直せば、今考えた名前だと教えるようなものだ。
役人が俺を見る。
「お前には聞いておらぬ」
「すみません。病み上がりで、まだ声が出にくいんです。柳白といいます。私と同じ柳で、白です」
董白は俺を見たまま、黙っていた。
役人は名前を書き取った。白という字には、何も言わなかった。
「両手を出せ。袖から出して、掌を見せろ」
今度は董白が役人へ顔を戻した。
また触られるのを嫌がったのか、兵が動く前に、自分で袖を引いた。
灰の付いた指先と、白い掌が出た。
荷を運ぶ者のように、皮が厚くなってはいない。荒れてもいなかった。厨に落ちていた服を着せても、その下の手まで下働きにはならない。
「ずいぶん綺麗な手だ。どこの家の娘だ? 何をしていた?」
「働いてはいません。ずっと病で寝ていました。北の外れで両親を流行り病で亡くして、それで私を頼ってきたんです」
言葉が速くなった。
病み上がりだと最初に言ったのは、役人だった。その言葉を借りれば、この顔色にも、慣れない服にも説明が付く。俺はそれに縋った。
役人は董白へ訊き直した。
「お前も、同じ病にかかっていたのか?」
董白は答えなかった。
俺も口を挟めなかった。今度まで代わりに答えたら、さすがに怪しまれる。
やがて、少女がうなずいた。
小さく、一度だけ。
命じてもいないのに、俺の嘘に合わせた。
役人はしばらく顔を見ていたが、差し出されたままの両手へ顎を向けた。
「もうよい。しまえ。今度は、その箱を開けろ」
俺は書具箱を卓へ置いた。
ここまで来ても、まだ終わらない。
蓋を開くと、筆と木簡が見えた。ノートも、董白の印も、その下にある。
役人は筆を一本取った。穂先を見て戻し、木簡の間へ棒を差し入れる。
棒の先が、底の方へ沈んだ。
俺は箱を押さえる手を動かさなかった。そこで蓋を閉めればいい、という馬鹿な考えが浮かんだ。閉めたところで、もう一度開けさせられるだけなのに。
棒が固まった墨に当たり、止まる。
役人はそれを少し持ち上げて、手を引いた。
「書吏か。仕事を探すと言ったな」
「はい。仕事がなくなったので、南へ行きます。筆と木簡があれば、荷の数を書く仕事くらいはできますから」
声が、普段通りに出たかは分からなかった。
役人は箱から顔を上げ、手元の木簡を見直した。
「病み上がりの娘を連れて、二人だけで南陽へ行く気か? 門外に荷隊がいるから、後ろへ付かせてもらえ。二人で道を歩いていれば、飯を買う前に銭を取られるぞ」
通行を認める印が、木札へ押された。
一度見ただけでは、それが俺たちに渡される物だと分からなかった。役人に顎で促され、慌てて受け取る。
「ありがとうございます」
箱を閉めた。
董白は自分で粗布をかぶり直していた。
「次、早く来い!」
俺たちへ向いていた声が、後ろの男へ移った。
~
城門の影を抜けた。
まだ、背中へ呼び止める声が来る気がした。少し進んでも、振り向けなかった。役人が考え直す前に離れたいのに、急げば兵に見られると思って、足を速められない。
道の脇へ荷車が並んでいた。その陰まで来て、俺はようやく立ち止まった。
出られた。
今度は、本当に長安の外だった。
董白も足を止めた。外へ出れば元気になるわけではない。粗布を下げた顔は見えなくなったが、門の中で見た頬の色が、頭から離れなかった。
一晩眠らず、飯も食わずに歩かせた。
休む場所を探すより先に、見つからない道を探した。衣を脱げと言い、顔を汚し、車へ入れと言った。どれも必要だった。それは今でも、そう思う。
ただ、できたのだから平気だったのだと、勝手に考えていた。
「少し、ここで休むか?」
董白は答えず、俺の顔を見上げた。
「柳白とは、何じゃ?」
「……咄嗟に出たんだ。俺と同じ柳なら、身内って説明しやすいと思って」
「妾の名を勝手に変え、その上そなたの姓まで付けおって。先に決めよと申した時には、何も答えなんだくせに」
まったく、その通りだった。
「……悪かった。お前が答えられないのは分かってたのに、俺が先延ばしにした」
董白は俺を見ていた。
怒られるのを避けたくて、門の前でさらに困らせた。それを、うまく言い逃れる言葉はなかった。
「……もう、札には書かれたのであろう」
「うん。別の所で聞かれた時も、同じ名前にした方がいい」
董白は俺の持つ木札を見た。それから、書具箱へ目を落とす。
あの中には、渭陽君の印がある。
「ならば、仕方ない」
声は小さかった。
聞き返そうとすると、先に顔を上げられた。
「二度は言わぬ。荷隊とやらを探せ。ここで立っておっても、何も変わらぬのであろう」
俺はうなずき、箱を抱え直した。
~
門の外には、荷車が十台ほど集まっていた。
布の荷と、空の酒甕。車の間には剣を持った男たちが立ち、縄を確かめる者や、水を飲む者を待っていた。
先頭の車のそばにいた男へ、行き先を訊いた。
「武関を越えて南陽だ。ついてきたいのか?」
「歩きで二人、後ろへ付かせてもらえませんか? 食べる物は自分たちで用意します」
男は俺の箱を見て、董白へ目を移した。
「二人で二十銭。荷が止まったら手を貸せ。遅れた者を待つために、車は止めんぞ。それでよければ、最後尾へ回れ」
二十枚。
簪を売って得た銭の半分が、それだけでなくなる。
俺は袋へ手を入れた。払わずに二人で行くよりはいい。昨日までなら何とかなったかもしれない、という考えを当てにして、董白を歩かせるわけにはいかなかった。
十枚ずつ数え、男へ渡す。
男は自分でも数え直してから、後ろの車を指した。
「もう出る。乗せる場所はないからな」
「分かりました」
最後尾へ向かう途中、董白が小声で言った。
「銭を払うた上に、車まで押さねばならぬのか? 働かせるなら、向こうが払うものであろう」
「護衛のいる荷隊に混ぜてもらう代だ。二人で歩くより、その方が安全だと思う。車を押すのは、止まった時だけだって」
「妾があれを押して、動くと思うか?」
並んだ車は、董白よりずっと大きい。
「……俺も押すよ。とりあえず、歩ける速さでついていこう」
それ以上、返事はなかった。
前の方で掛け声が上がり、荷車が順に動き始めた。
俺は董白が歩き出すのを待った。列に並んでいた時よりも、その歩幅が小さいことに気づいた。
車との間を見て、少しだけ自分の足を緩める。
董白は何も言わず、俺のすぐ後ろを歩いてきた。