董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
納戸の灯は、二つとも点けたままにしてある。
柳誠は眠っておる。息は静かじゃ。ときどき、痛むのか、眉のあたりが動く。動いても、目は開かぬ。熱さえ出なければ塞がると女将は言うた。熱は、今のところ出ておらぬ。
床几の上に、算盤が置いてある。ゆうべ、妾が木簡の上へ置いたきり、動かしておらぬものじゃ。
手を伸ばして、取った。
玉を一つ弾いた。かち、と鳴った。もう一つ弾いた。今度は、指が次へ行った。
行けるのなら、数えられる。
ゆうべ数えられなんだのは、数える先が無かったからじゃ。渡し場は閉じた。籠は渡し切った。あの日の勘定は、もう妾の手を離れておる。
数える先は、これから起きることの方にある。
妾は木簡を膝へ引き寄せた。
~
決めておくことは、一つじゃ。
この男の肌に、二度と刃を届かせぬ。
そう決めてしまえば、あとは道筋を書くだけのことじゃった。妾は四年、それだけをやってきた。人を集め、役目を割り、順に言いつける。今度は、割る相手が妾一人でも構わぬ。
筆を執って、上から順に書いた。
一つ。柳誠を縄の内へ入れぬ。数えるのも渡すのも、他の者にやらせる。
二つ。柳誠を町の外へ出さぬ。峠も、北の郷も、他の者にやらせる。
三つ。軍の来た日は、柳誠を帳場から出さぬ。
書いていて、手が速かった。三つとも、明日から始められる。銭も要らぬ。妾が言えば、それで通る。
通るはずじゃ。この蔵で、妾の言うことが通らなんだことは無い。
~
書き終えてから、いつもの通りに検めた。
決めごとを書いたら、それで町が回るかを見る。回らぬ決めごとは、書いた紙が綺麗なだけじゃ。四年、そう教えてきたのは妾じゃ。
一つ目。柳誠が縄の内へ入らぬなら、番号を読むのは誰じゃ。阿慶は縄と杭を見ておらねばならぬ。杜恪は軍の側を歩いておらねばならぬ。読む者を新しく置くことはできる。銭も出せる。じゃが、雇うた者は読むだけじゃ。八十六で止めると決めるのは、読んでおる口ではない。あの日、筆を置いたのは柳誠じゃ。雇うた口に、筆は置けぬ。
二つ目。柳誠が町の外へ出ぬなら、北の郷との話は誰がする。あの郷は帳に載らぬ相手じゃ。載らぬ相手との話は、顔を知っておる者にしかできぬ。顔を知っておるのは、この男じゃ。
三つ目。軍が来た日に柳誠が帳場におるなら、外と話すのは妾一人になる。
ここで、手が止まった。
妾は、話の早い相手となら早い。じゃが、相手が早いとは限らぬ。妾には見えておる筋を、相手が追いつくまで待って、順に言うて聞かせる。それが、妾にはできぬ。四年、それを一度もせずに済んできたのは、隣で柳誠が言い直しておったからじゃ。張繡の前でも、杜恪の前でも、北の郷の頭の前でも、妾が言うたことを、相手の分かる順に並べ直しておったのはこの男じゃ。
妾一人で外と話せば、話は通らぬ。通っても、相手が怒って帰る。怒って帰った相手は、次に鎌を持つ側へ回る。
一つ目と二つ目は、無理をすれば何とかなる。三つ目は、ならぬ。妾が妾である限り、ならぬ。
三つとも駄目じゃったが、駄目にしたのは三つ目じゃ。
町が回らぬ。回らねば、粟が渡らぬ。粟が渡らねば、また縄の外に、飢えた者が二百人溜まる。
……溜まった先で、誰かがまた鎌を提げる。
それで、妾は筆を置いた。
~
もう一つ、悪いことに気づいた。
かりに銭があって、読む者を置けて、話をする者を置けたとする。それで柳誠が帳場から一歩も出ぬようになったとして。
妾は、それを見て安心するのじゃろうか。
してしまうじゃろう、と思うた。
だが、そこがいちばん悪い。
妾が拾うたのは――いや、妾を拾うたのは、縄の内へ歩いて入ってくる男じゃ。崩れた厨の隅で、妾を芥車へ押し込んだ男じゃ。帳場に座らせて、外の話を全部他人にやらせて、それでも同じ男だと思えるのか。
思えぬ。
それでも安心してしまうなら、妾は、この男を惜しんでおるのではない。この男が居ることに慣れたのを、惜しんでおるだけじゃ。
そういうものを、四年、山ほど見てきた。人を囲うて、囲うたぶんだけ小さくして、小さくなった相手に向かって、なぜ昔のように働かぬと怒る者を。
あれになるのは、嫌じゃ。
~
妾は小刀を取って、木簡を削った。
三つとも削った。削った屑が膝の上へ落ちて、筆の跡が消えて、木簡は元の白へ戻った。削りすぎて、端が薄くなった。
それから、薄くなった木簡へもう一度書いた。今度は、書き出しが違う。
――柳誠を縄の内へ入れぬのではない。縄の外に、鎌を提げる者を作らぬのじゃ。
書いてから、しばらく見ておった。
これは、遠い。あの三つは明日から始められたが、こちらは春までかかる。それどころか、春でも終わらぬ。
じゃが、こちらしか無い。
~
一つ。次に軍が通る時、通ると分かってから知るのでは遅い。先に知る。知らせには銭を払う。杜恪に、どこへどう払えば早く届くかを訊く。
一つ。札の無い者を、縄の外へ溜めさせぬ。落とす者が出るなら、落とした後にどこへ行かせるかを、こちらから先に決めて渡す。渡し場の外の話じゃ、と言うて済ませておったのは妾じゃ。済まぬことになったのも、妾じゃ。
一つ。冬の便は出さぬ。峠の小屋も閉める。運ぶ余りが無いというのは本当のことじゃが、それだけではない。人と銭を、こちらへ寄せる。
一つ。阿慶の縄を、春に買う。伸び切った縄で人を止められると思うておったのは、こちらの怠りじゃ。杭も、抜けると言われた一本を、押される所ではないと言うて放っておいた。あれを言うたのは阿慶で、聞き流したのは妾じゃ。
一つ。蔵の裏は、開けぬ。
そこだけは、書きながら少し止まった。
あの山を開ければ、明日にでも人は雇える。知らせも買える。落とされた者へ渡す粟も出る。
じゃが、あれは二百人へ開けなんだ山じゃ。二百人へ開けずにおいた物を、一人のために開けたら、妾は、妾が四年やってきたことを自分で終わらせることになる。
そうしてまで守った男に、何を言われるかも分かっておる。
書いた。開けぬ、と。
~
そうして全部書き終えてから、数えた。
金も、人も、時も足りぬ。冬のあいだ、妾は眠る間を削ることになる。削って足りるかは分からぬ。
足りぬなら、また誰かが刃を持つ。
それでも、こちらの道は、この男を小さくせぬ。
灯の芯を短くして、妾は柳誠の方を見た。息の音は変わっておらぬ。眉も、今は動いておらぬ。
「……済まぬ」
言うてから、聞かれておらぬことを確かめた。確かめてから、もう一度、同じことを言うた。
起きておる時には、言わぬ。言えば、この男は自分の分を持とうとする。持たせぬために、妾は黙っておるのじゃ。それも一つの縛りではないか、と思わなくもない。思うだけにしておいた。
木簡を巻いて、帯へ挟んだ。誰にも見せぬ。
~
油を足した。二つとも、朝まで点けておく。
阿慶には、冬の便のことを言わねばならぬ。あれの稼ぎが消える。消える分を、何で返すかも、もう決めてある。
その次は杜恪じゃ。銭の話になる。
数えることは、幾らでもあった。