董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
目を開けると、天井があった。
見覚えのある梁だ。納戸だ、と分かるまでに少しかかって、分かってから、灯が二つあることに気づいた。この部屋の灯は、一つのはずだった。
右腕が動かない。
動かそうとして、動かないと分かって、それから痛みが来た。肩の付け根から腕の外へ、熱いのが一本通っている。腕は、布で胴へ縛ってあった。
生きている、とはすぐには思わなかった。
それよりも、縛られている束縛感が先に来た。
「やっと起きたか。まだ動くでないぞ」
声の方を見ると、床几に董白が座っていた。膝に木簡を広げたまま、こっちを見ている。いつから見ていたのかは分からない。
「……渡し場は」
自分の声が、思ったより掠れた。
「渡し切った。帳は合うておる。籠は、二つ余った」
「そうか」
「それだけじゃ。あとは、食うてから聞け」
董白は床几を降りて、枕元の椀を取った。布が掛けてある。取ると、粥は冷めていた。
それから、額に手を当てられた。熱を見る手だ。当てて、置いて、離した。熱を見るだけにしては、長かった。
「……熱は出ておらぬな」
誰に言うでもなく、そう言った。言ってから、椀を俺の左手へ持たせた。
「腕は上げるな。ひと月じゃ。女将がそう言うた」
「……ひと月もか」
「うむ。右腕を上げたら傷は開く。開いたら、もう一度縫うところからじゃ」
それだけ硬い声で言って、床几へ戻った。戻って、また木簡を見ている。見ているが、筆は動いていない。
左で持つ椀は、思ったより重かった。
~
左手で書いた最初の字は、自分でも読めなかった。
右手は上げられない。俺の仕事は、当分ぜんぶ左でやる。
初日に書いた分は、こぼした墨の跡と似たようなものだった。翌朝、自分で写し直したが、そっちも似たようなものだった。
「貸せ。妾が書く」
「お前に任せたら、あとで俺が読めないだろ」
「そなたの字よりは読めるわ」
反論できなかった。
それでも筆は渡さなかった。読めない字でも、書かないよりはましだ。仕事は毎日あるし、左手も使わなければ慣れない。
董白は向かいに座り、墨を磨っていた。頼んだ覚えは無い。初めのうちは、俺が硯へ手を伸ばすより先に墨を足すだけだった。それが三日続いて、いつの間にか董白の仕事になった。
「もういいぞ」
「まだじゃろ」
「十分黒い」
「まだ薄いじゃろ」
そう言って、磨るのをやめなかった。
硯の底を擦る音が、朝の帳場へ細く続いた。
肩の布は、朝ごとに洗って替えている。
替えるのは董白だ。女将には宿がある。朝餉の仕込みと客の世話で手いっぱいで、こっちへ寄れるのは幾日かにいっぺんで、来ても、縫い目を検めて指図を置いたら、すぐ戻っていった。だから、間の日の手当ては、ぜんぶ董白の仕事になった。
なった、というか、董白がそう決めた。誰かに諮った様子は無い。
結び目の解き方も、布の巻き方も、女将のやるのを一度見ただけで、同じ順でやった。同じ順どころか、巻き終わりの結び目が、毎朝同じ位置に来た。締めてから、検めるように二度引いた。手つきは、帳面を検める時のそれだ。
「痛むか」
「そりゃ痛えよ」
「で、あろうな。 妙に痛んだら言え。言わなんだら、女将ではなく妾が縫い直すぞ」
「それは怖いな」
「おうおう、精々怖がるがよい」
久々に聞く、からかうような声だった。
女将が来た日は、帳場の卓へ俺を座らせて、縫い目を覗いていった。そのあいだ、董白は向かいでよく墨を磨っていた。布が剥がれるたび、手の動きだけが止まった。墨はもう十分あるのに、女将が口を開くまで、磨り手を硯の上へ持ち上げたままだった。
「膿んでないよ。熱も無い。傷もちゃんと閉じてきてる」
女将が言うと、董白の手がようやく下りた。
「……なら、もう大丈夫そうなのか?」
「あんた、来るたびにそれを聞くね」
「前より良うなっておるかを、確かめておるだけじゃ」
「来るたびに良くなってるよ。だから、あんたも余計なことをさせるんじゃないよ」
「そんなことさせておらぬ!」
董白はたいそう不服そうな顔をした。
女将は俺の肩に軽く手を載せた。
「それにしても、あんた、丈夫にできてるね」
「そりゃどうも」
「けどね、丈夫ってのは、無茶が利くって意味だからね。無茶が利くのと、無茶をしていいのは別の話なんだ」
女将の口が悪いときは、なんだかんだ心配してくれている時だ。
口ではそういう調子で、帰りしなに置いていく指図は、いつも飯のことだ。粥は増やしておくから、血の分は食って作りな。残したら、次は口に流し込むよ。なんて恐ろしい事を言われてしまった。
医者のいない町では、飯の指図がいちばん薬に近い。その指図を運ぶのも董白で、朝と晩、宿から椀を提げてきて、俺が食い終わるまで向かいに座っている。急かしはしない。ただ、椀が空くまで動かない。
傷の痛みそのものは、日ごとに鈍くなっていた。夜には忘れている時もある。
変なところで、生きてるな、と思うようにもなった。帯の結び目が片手で作れた時とか、寝返りを打っても目が覚めなかった朝とか、そういう、割とどうでもいい所でだ。
死にかけると人生の見え方が変わる、という類いの話は元の世界で何度か読んだ。実際に来たのは、こういう細かいやつだった。
一度、墨を取ろうとして、癖で右手が動いたことがある。肩の奥が引き攣れて、息が止まった。
「右手を使うな!」
董白の声が飛んだ。俺より先に、俺の腕を見ている。
硯が卓の端へ遠ざけられた。それから布の上を押さえられて、開いておらぬ、と言われた。言われたあとの間が、長かった。
「次にやったら、右腕ごと帯で胴へ巻くぞ。女将を呼ぶまでもない。妾がやる」
「十分分かった」
「分かったな!きっとじゃぞ!」
それきり硯は、机の端へ遠ざけられたきり、俺の手の届く所へ戻ってこなかった。墨は名実ともに、董白の磨る物になった。
~
杭を抜く日は、風の無い朝だった。
渡し場の杭と縄は、まだ残っていた。すぐ抜く話になっていたらしい。それが今日まで延びたのは、皆バタバタしていてそれどころではなかったからだ。
残しておく理由は、もう無い。
阿慶が若い衆を連れて、朝のうちから縄を外しにかかった。俺も付いて行こうとしたが、戸を出たところで董白に見つかった。
「過保護すぎないか?」
「柳誠はいつ無理をするかわからんからな!」
そう宣いながら、董白は先へ歩いた。俺の歩みが遅いと気付くと、振り返らずに少しだけ足を緩めた。
俺の血の付いた莚は、とうに片されていた。どこへ捨てたのかも、もう分からない。
「まず縄! 杭はその後! ……そこ、緩めてから外しな。無理に引くと手ぇ持ってかれるよ」
阿慶の声で、若い衆が一斉に動いた。
外した縄は、張っていた頃より長く見えた。地べたに置くと、波の形のまま戻らない。阿慶はその上を端から端まで歩き、ところどころを踏んで確かめてから、首を振った。
「伸び切ってるね、こいつは。張り縄にはもう使えないよ。薪掛けか、荷の押さえが関の山だ」
董白が縄の端をまたぎ、阿慶の隣へ立った。並んで、しばらく縄を見ていた。
「白。冬の便は、どうする」
阿慶の方から訊いた。訊く前から、答えは分かっていたのだと思う。
「出さぬ。便を回す人手も銭も、今年は無い。峠の小屋も閉める」
阿慶の手が止まった。巻きかけの縄を持ったまま、少しのあいだ動かなかった。それから、また巻き始めた。
「……あいよ」
去年の冬、峠の小屋を使って、北の郷と荷を回した。担いだのは阿慶と若い衆だ。冬場の稼ぎは、あれでずいぶん立っていた。
今年は、その稼ぎがまるごと消える。
「そなたに、春の仕事を出す」
董白は、阿慶の手元を見たまま言った。
「渡し場の縄を、端から端まで張り替える。要る分は、そなたが綯え。買うのはこちらじゃ」
「……値はどうするんだい」
「値は、春じゃ。綯うたのを見てから決める」
「見てから、ねえ」
阿慶はまとめた縄を肩へ担ぎ、担いだままこっちへ半分だけ笑って見せた。
「あたしの縄を見てから値を言うってのは、褒めてんのか、値切る気なのか。どっちだい」
「値切る気はない、そなたには色々助けられておるからの」
「そりゃどーも」
俺の帳には、春の買い入れとしか書かない。
「抜いた杭は納屋へ運びな! 立てて仕舞うんだよ。春にまた打つんだから、探さなくて済むようにね!」
董白が、阿慶の背中を見ていた。さっきまで固く結ばれていた口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺も息を吐いた。
杭は、若い衆が何人かで揺すって抜いた。一本目が土から起きる時、湿った土の裂ける音がした。抜いた穴は、思ったより浅かった。
あれだけの列を、この深さで支えていたらしい。
抜くのは昼までに終わった。
人を並ばせていた縄が消え、籠を受け取っていた場所から杭も無くなると、渡し場は、ただの川岸に戻った。
渡し場から引き上げた塩と革と、軍の判の付いた木簡は、蔵の奥へ入れた。木簡の方は、張繡が、残りの粟の代は宛の倉から後で払う、と書いた書付だ。
董白は一つずつ置き場を確かめ、戸を閉めた。
「春まで、手を付けぬ」
売り時も使い道も、春になってから考える。
それでいいと思う。触らないと決めた物は、少なくとも勝手には減らない。
いまこの町で、減らずに残っている物は、あれくらいだった。
~
その日の夕方、帳に新しい数を書いた。
六十八。
棚の粟が、あと六十八日ぶん、という意味だ。
説明すると、こうなる。この蔵には粟の置き場が二つある。一つは蔵の裏の山で、町の人が持っている白札の裏付けだ。札を粟に換えに来た人へ渡すための粟で、札が一枚戻れば一斗出す。出回っている札の数と同じだけ、いつもある。もう一つが、帳場の奥の棚だ。北の郷から便で運んだ粟で、町へ売る分だ。売るのは米屋の店で、値は封鎖の前と同じにしてある。米屋は市の日ごとに、何俵かまとめて引き取りに来る。便を止めたから、春まで足すあてが無い。町が一日にどれだけ食うかは、去年の冬、封鎖の時に数えてある。棚に残っている粟を、その一日の量で割れば、あと何日もつか、が出る。それが六十八だ。
数え直すのは米屋が引き取っていった日で、ほかの日は一つ引くだけだ。いつもはその場で帳へ入れている。今日は杭で一日潰れて、書くのが夕方に回った。
去年の冬、この棚が空きかけて、北の郷から粟を借りた。借りた分は、秋のうちに全部返した。返す時は、借りた粟に半分を足して返す約束だった。十借りたら、十五返す。それを五割増しと言う。
五割増しは、借りる時にこちらから言った率だ。高いと思って言い、返す段になっても、やはり高かった。だが、まけてくれと言いに行けば、次に借りる時の話が変わる。
約束を守って薄くなる棚と、破って手元へ残る粟なら、薄い方を取る。そう決めたのは俺たちだ。
それでも、薄くなった棚を毎日見るのは怖い。
帳へ数を書けば、もっとはっきりする。前の日より小さい数を、自分の手で残すことになる。書かずに済ませたい朝もある。それでも書くのは、書かずにいる方がもっと怖いからだ。
「六十八か」
隣で董白が言った。
「ああ。今日の分まで引いて、六十八だ」
董白は帳から目を上げ、粟の棚を見た。上から下までゆっくり見て、もう一度、俺の書いた数へ戻った。
「読める」
「そこか?」
「数が違えば困るでな」
「合ってるよ」
董白はうなずいた。俺が帳を閉じても、まだ六十八のあった場所を見ていた。
春まで増える当ては無い。
そのことは、どちらも口にしなかった。
~
夜は、董白が納戸にいる。
床几は、俺が斬られた晩に枕元へ寄せられたきり、そこから動いていない。
夜の仕事は帳場でやると、いつだったか董白は自分で決めていた。それなのに、この幾晩か、壁の向こうの帳場へ灯が点いた覚えは無い。
代わりに、納戸の灯が二つになった。
春に寝る部屋を分けた時、部屋が二つなら灯も二つ、油が倍要る、と董白と言い争った。いまは本当に倍要るようになったのに、誰の給金から引くという話も出ない。
董白は帳も木簡も納戸へ持ち込んで、床几の上で仕事をしている。時々、目だけが俺の右肩へ寄った。俺が気付くと、すぐ木簡へ戻った。
あの日の話はしない。
取り決めがあるわけではない。それでも、二人ともしなかった。
夜中にふと目が開く晩が、幾つかあった。何で起きるのかは考えないことにしている。灯が二つ点いていて、床几に董白がいる。それを確かめると、また眠れた。
その晩、董白は俺の書き損じの束を繰っていた。左手の稽古に、いらない木簡の裏へ字を並べたやつだ。
一枚をつまみ上げ、灯へ寄せた。
「これは、何と書いてある」
「粟だ」
「……粟」
疑わしそうに木簡を回した。上下を変えても、粟にはならなかったらしい。
「初日のよりは、ましになったんだぞ」
「初日のは字ではないでな。比べる相手が悪かろう」
「さっきは読めると言っただろ」
「あれは数じゃ」
董白はしばらく木簡を眺めていた。笑うでもなく、次へめくるでもなく、灯の近くで止めたままにしている。
「……この、はねの所だけは、右の字に似ておる」
「そうか」
「うむ」
右の字に似ている。
それだけのことを言って、董白の肩から少し力が抜けた。
右手で書けるようになるとは、誰もまだ言っていない。女将が言ったのは、傷が閉じてきたということだけだ。
董白は木簡を束へ戻した。端を揃え、一度置き、また持ち上げて揃え直した。もう揃っているのに、三度目も同じことをした。
「柳誠」
「なんだ」
「……あの男のことを、そなたは訊かぬな」
すぐには、誰のことか分からなかった。
分かってから、答えるまでに少しかかった。
「ああ。訊いていない」
董白の指が止まった。
「なぜじゃ」
「訊こうと思わなかった」
「そなたを斬った男ぞ」
言われてみれば、そのとおりだ。
あの男のことを考えるより、残りの日数を数える方が楽だった。左で字を書く方が楽だった。董白が墨を磨り過ぎるのを見ている方が、ずっと楽だった。
楽だった、というのは半分で、残りの半分は、自分では分かっている。
俺はここの人間ではない。四年住んで、帳を付けて、粟を数えても、この世のどこにも俺の生まれた場所は無い。ここの飢えは、ここの人間のものだ。よそから紛れ込んだ俺が、ここの飢えた男に腹を立てる筋合いが、どうにも見つからない。
そんなことを言えば、気が触れたと思われる。四年、一度も口にしていない。今夜も、しない。
董白は待っている。何か言わなければならなかった。
口から出たのは、別のものだった。
「お前が無事だったらそれでいいよ」
もっといい言い訳はなかったのだろうか。
言ってから思う俺はあまりにも愚かである。
こんなもので通るわけがない。
しかし、予想に反して、董白はそれきり何も言わなかった。
木簡の束を膝の上で押さえたまま、灯の方を向いた。横顔が、泣きそうに見えた。
見えただけかもしれない。そういうことにして、俺は何も言わなかった。
やがて灯が一つ消えた。
俺は目を閉じた。寝たふりのつもりだったが、いつの間にか本当に眠っていた。
~
明け方に、一度目が覚めた。
灯は一つに減っていた。
董白は床几の上で、壁に頭を預けて眠っている。木簡の束は脇へ置いてあった。番のつもりで座って、そのまま眠ったらしい。
これでは、どちらが番だか怪しいものだ。
「朝だ。……起きてるか」
声は、思ったより小さく出た。
床几の上で頭がわずかに揺れ、それきりだった。返事は無い。無くていい。
部屋を分けてから、朝は董白が納戸の戸を三度叩く決まりだった。同じ部屋に居るいまは、叩く者がいない。戸は、今朝も叩かれないままだ。
帳場へ出れば、あの欄へ次の数を書く。昨日の六十八から、また一つ減る。
納屋には、春に打ち直す杭が立ててある。阿慶は新しい縄を綯う。蔵の奥の塩と革には、春まで手を付けない。
その頃には、右で字を書けるようになっているだろうか。
董白が、眠ったまま小さく息を吐いた。
俺はもう一度、目を閉じた。