董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
日暮れに、阿慶が縄を担いで来た。
肩から下ろして、董白の前へ置いた。春に渡し場へ張る縄で、昼のあいだに綯った分だ。買うのはこちらだと、杭を抜いた日に董白が決めた。それから毎日、日暮れにこうして持って来ている。
冬は、もう半分を過ぎていた。
右腕の布は取れている。右で字は書ける。書けるが、遅い。硯は、いつもどおり俺が磨る形に戻した。戻したら、董白にさんざん文句を言われた。妾が磨った方が黒いだの、そなたは薄いだの。なぜそこまで言われるのかは、よく分からない。分からないが、硯は俺の側に戻ってきた。
墨を磨って、筆を取って、今日の数を書いた。帳の数は、今日も一つ減っている。
この幾日か、阿慶は縄を置いたあと、そのまま卓に居る。董白が帳を教えている。峠の小屋を閉めて、北の郷へ便を出すのをやめた分、阿慶の手が空いた。なぜ教える気になったのかは、董白は言わない。訊いても、手が空いておるでな、で終わりだった。そこから先は、俺が気にしても仕方のないことだ。
「今日は、日の数え方じゃ」
董白が帳を阿慶の方へ向けた。俺の書いた欄を、指で押さえている。
「棚を見よ。前より減っておろう。……減った分が、日じゃ」
「は? そりゃ米屋が持ってくんだから減るけどさ。日って、何の話だい」
阿慶の首が傾いた。董白は構わずに続けた。
「町が一日に食う分は、決まっておるからの。幾つも冬を越して、数えてきた分じゃ。じゃから、袋が減っておるということは、残りの日が減っておるということじゃ」
「……減るのは分かるよ。あたしが訊いてるのは、何が幾つ減ったら、何日減るのかってことだよ」
「割ればよい。棚の粟を、一日に食う分での」
阿慶は棚を見て、それから卓の隅の升を、訝しそうに持ち上げた。升というのは、粟を量る木の枡だ。米屋へ出す時も、札を粟に換える時も、あれで量っている。阿慶は升を持ったまま棚と見比べて、もちろん、それでどうにかなるものではない。
「棚を一日に食う分で割るって、どうやんのさ。これで棚を量れってのかい」
董白が詰まった。
「ううむ……どう言えばよいのじゃ」
董白の言っていることは、全部合っている。合っているが、説明が壊滅的に下手なのだ。頭の中で先に答えが出ていて、その答えをどうやって出したのかを、あとから考えている。途中の段は、本人には見えているから、無意識に飛ばしている。飛ばされた側は、上れない。
阿慶が升を置いた。置いてから、縄の端を指で弄り始めた。飽きた時の手だ。董白は帳を睨んでうんうん唸っている。阿慶も、つられて唸っている。変な光景だった。
俺は筆を置いた。
「えーと……口、挟んでいいか」
董白がこっちを見た。
「阿慶が棚の前に立った時に、最初に何をするかから言ってやれ。お前の頭の中の順じゃなくて、阿慶がやる順で。……最初にやるのは、袋を数えることだろ?」
「……そうじゃな。袋を数える」
言わされている声だ。それでも、言った。
「数えたら、次だ。一袋に升で何杯入ってるかは決まってる。それをどうする」
「それを、袋の数に掛ける。そうしたら、棚に今、何杯あるかが出る。……それを、町が一日に食う杯の数で割れば……粟の残りの日が出る」
書いてしまえば簡単だ。棚の袋を数えて、一袋に入っている杯の数を掛ければ、棚に何杯あるかが出る。それを、町が一日に食う杯の数で割れば、あと何日か、が出る。それだけの話を、董白は下から言えない。上からしか言えない。董白の言うことを、他人が動ける順に並べ直すのが、四年、俺がここでやってきた仕事の半分だった。
董白は、けっこう悔しそうだった。口が少し尖っている。説明が下手だと自分でも分かっているくせに、人に直されると、決まってこの顔になった。
阿慶は縄の端から手を離していた。棚の袋を、指で一つずつ差していく。差し終えて、升を見て、帳の俺の欄を見た。
「……そういうことかい。回りくどいね、姫は」
董白の口が、もう少し尖った。
阿慶は、袋を数えて、掛けて、割る、と口の中で言い直しながら、端の木簡に何か書きつけて、立ち上がった。字ではなさそうだった。
「ま、あとは明日、覚えてられるかだね」
~
それからしばらく、白先生の授業は続いた。授業といっても、二人でわいわい騒いでいる時間の方が長い。董白にとって阿慶は、珍しく気の置けない相手なのだろうと思った。俺の前で見せる顔とも、町の前で見せる顔とも、少し違う。
そろそろ帰るよ、と阿慶が戸口へ向かった。
戸口の手前で、董白が声を張った。
「阿慶!」
阿慶が振り向いた。
「……今日、うまくいかなんだのは、妾の言い方が悪いからじゃ。そなたの頭が鈍いのではない」
阿慶は少しのあいだ董白を見て、それから、にやりとした。
「なんだよ、急に。心配してくれてんのか?」
「そういう話ではない」
「してるじゃんか。先に言っときなよ、そういうのは」
「早う帰れ」
「あいよ。心配ご無用」
ひとしきりからかってから、出ていった。
董白は帳を自分の方へ引き寄せた。引き寄せた指の先が、白くなっていた。それから硯を引き寄せて、俺が磨ったばかりの要りもしない墨を、またしゃりしゃりと磨り始めた。
~
翌朝、帳場へ出ると、阿慶がもう棚の前に立っていた。
昨日、米屋が市の日の分を引き取っていった。棚の袋は、その分だけ減っている。今朝の数は四十三だ。棚の粟が、町が一日に食う分で、あと何日もつか、の数だ。
董白は蔵へ行っていて、まだ戻らない。阿慶は縄を持っていなかった。空いた両手を腰に当てて、袋を顎で数えている。数えて、途中で止まって、首を捻って、また上からやり直した。
振り向いて、阿慶が言った。
「ねえ。一袋で、升は何杯入ってんだい」
数は、俺の頭にあった。数える時に使う数だ。言えば一息で済む。阿慶は、俺が知っていると分かっていて訊いている。目がそう言っている。
「あんた、知ってんだろ」
「そりゃ分かる。俺が使う数だ。……ただ、教えてるのは白で、俺はそっちの責任者じゃない。それでもよけりゃ、分かる所までは教えるが」
「じゃあ、教えて」
簡単に教えてやった。一袋に、升で何杯。町が一日に、升で何杯。袋の数に一袋の杯を掛けて棚の杯を出し、それを一日の杯で割る、という順で。阿慶はいらない木簡の裏に、俺の言った順で書いた。書いて、割った。数は出た。
「……出た。出たけど、まだ自信ないなあ。なんで割るのかは、まだうまいこと分かってないよ」
「そこは、白に訊け。俺が言えるのは、やり方までだ」
「でも柳誠、教え方うまいよ。姫様よりもよっぽどだ」
「お前、それ絶対に白の前で言うなよ!」
朝の棚は、俺の持ち場だ。そう決めたのは俺で、董白に断ってはいない。このくらい教えるぐらいなら、いいだろう。
阿慶は木簡を袖へ入れて、縄を綯いに帰った。木簡の数の字は、まだ俺の方がうまい。うまいが、阿慶の字は綺麗だった。線が揺れていない。妙に器用だな、あいつ。
~
夕方、阿慶はまた綯った縄を担いで座るなり、言った。
「やり方は柳誠にも聞いた。数も出た。……出たけど、なんで割るのかが、腹に落ちてない」
董白が、俺を見た。
一度だけだ。何を言うでもない。見て、それだけだ。
俺は口を開く気でいた。朝の続きだ、一袋の杯を言って、掛けて、割ればいい、と頭の中には並んでいて、息も吸った。
そこで止めた。
董白が、こっちを見るのをやめて、阿慶の肩の縄へ手を伸ばしたからだ。
何か考えがあるのだろう。余計なことを言うのはやめよう。
董白は預かった縄を置き、その隣の升を持って言った。
「春の縄は、幾日で綯う」
「……何だい、急に。縄の話かい」
「縄の話じゃ。幾日で綯い終わる」
阿慶は縄を見た。
「端から端で、要る分は決まってる。日に綯える分も決まってる。だから、ひと月と少しだ」
「なぜ分かる。まだ綯い終わっておらぬのに」
「なぜって……綯うのはあたしだ。日にどれだけ綯えるか、腕が知ってるよ」
董白は升を、指の先で叩いた。
「それじゃ。縄が、棚の粟じゃと考えてみよ。そなたが一日に綯う長さが、この升じゃ。町が一日に食う杯の数は、朝、柳誠に聞いたのであろう? 棚の粟を、一日に食う杯の数で割る。縄と同じじゃ。要る長さを、一日に綯う長さで割れば、何日かかるかが出る。それと同じでな」
阿慶は縄を見て、升を見て、棚を見た。
口の中で数を繰り返して、腕を動かして、棚を端から数えた。指が一つずつ動いて、止まって、宙で少し動いて、また止まった。
「……四十三?」
「うむ」
阿慶の指が、棚から下りた。
阿慶は縄なら、要る長さと日に綯える長さから、幾日かかるかをその場で出せた。腕が知っているからだ。董白は、棚の粟をその縄へ置き換えた。置き換えただけ、と言えばそれまでで、しかし昨日の董白には、できなかったことだ。
阿慶が立って、卓の縄を肩に掛け直した。
「先にそう言いなよ、先生」
言った本人は、けろりとしている。縄の掛かり具合を直していて、口の方はもう次へ行っている。
董白も拾わなかった。升を卓の隅へ戻して、明日は妾が言う前にそなたが言え、とだけ言った。
気づいた者は、俺のほかにいなかった。
「飯だよ!」
戸が開いて、女将が椀を盆に乗せて入ってきた。
「揃いも揃って帳の前で何やってんだい。腹が減ってちゃ、字なんざ読めやしないよ。阿慶、あんたもだ」
「これでも、もう結構読めるようになったんだからな!」
女将は聞き流して盆を卓へ置き、置いてから、俺の右腕を見た。布が取れてからも、来るたびにそうやって見ていく。
「女将さん。腕はもう大丈夫だから、次からはこっちが食いに行くよ。……ここまで運んでもらって、助かった。ありがとう」
「礼なんか要らないよ。粥を運ぶくらい、何でもないんだから」
そう言って、それから、俺の右腕をもう一度だけ見て、出ていった。
白と阿慶。
並んで粥を食べるふたりを見ていると、なんだか姉妹のようだった。