董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
三十八。
棚の粟が、町が一日に食う分であと何日もつか、の数だ。米屋が引き取っていった日に数え直して、ほかの日は一つ引く。
怖い数だ。残り日数がひと月足らずだと思うと怖い。
そう思っていたところへ、杜恪が入ってきた。
戸口で足の土を払って、卓の縁へどかりと腰を預ける。
「姫。こないだの続きだ」
董白は顔を上げない。
「うむ。どうなった」
「峠の茶店の親父と、その先の宿場の男だ。どっちも元からそこで暮らしてる。新しい仕事を作るんじゃねえ。店をやりながら、通る荷車を見て、泊まり客の口を聞いて、妙な話が来たらこっちへ流す。それだけさ。……軍ってのは、来る前に噂が来るからな。噂の方が、足が速い」
「値はどうなった?」
「一つ届けて、粟五斗。子供を走らせる足代も、その中から出させる」
と、手を広げて言った。
粟五斗。町の全員が一日に食う量の、半分にもならない。ただ、届くたびに出ていく。冬のあいだに十も届けば五十斗で、それは棚の日数に響く。
「妙な話が来なんだ月は」
「一粒も出さねえ。座ってるだけで銭が入るんじゃ、あいつらは何でもかんでも報せて来る。届いた分だけ払う。そういう約束にしてある」
董白は、よかろう、とそこで初めて顔を上げた。
「柳誠。すまんが、粟米を出してくれんか」
また値切らない。杜恪の眉が訝しげに少し上がる。それきり何も言わずに、うなずいた。
俺は銭函へ手を伸ばしながら、別のことを数えていた。
こないだ、と杜恪は言った。俺の覚えに、その話は無い。無いのなら、いつだ。俺が納戸で天井を見ていた間しかないのだろう。あの間、董白は床几に座って、木簡を膝に広げていた。あれは記録だとばかり思っていた。
知らせを買うこと自体はわかる。前回は、軍が近くまで来てから、数や旗を見に人を走らせた。それでは遅い、と判断したのだろうか。
来るとも分からないうちから人を置いて、届くたびに銭を払う、という話のようだった。
杜恪は包みを検めもせずに懐へ入れた。
それだけ、杜恪は白を信用していた。
「茶店は明日から置く。宿場は、行って口説くのに二日だ、なあに、任せろ」
立ち上がって、戸口へ向かう。俺は銭函を閉めて、戸を開けてやりに立った。戸口で杜恪が、董白に聞こえない声で言う。
「……しかし、姫は値切ってくると思ったんだがな。『高い!』とか言ってな」
シシシ、と笑いながら、俺の右腕を一度見た。それ以上は言わずに、出ていく。
卓へ戻る。董白はもう帳へ目を落としていた。
「気になるか」
董白は、帳面から目もくれずにそう言った。
俺の顔に出ていたのかもしれない。
「この町を守るために、必要じゃ」
筆は止めない。それだけだった。
違和感は、ないといえば嘘になる。
町を守るのは、今までもそうだった。何が変わったのかは、董白は言わない。だが、言っていることは間違っていない。
軍が来て、俺が斬られて、それから幾日も経っていない。備えに銭を使うのを、おかしいとは言えない。
それに、この銭を稼いだのは、ほとんど董白だ。四年、決めてきたのは董白で、俺がやったのは記録に残して、整理することぐらいだ。
いまさら俺が口を出すのもおかしい。
今は黙っていることにした。
~
その晩、夜中に目が覚めた。
董白はまだ起きていた。床几に座って、灯の下で、薄い木簡に何かを書いている。俺の側の灯は消えていて、董白の側の一つだけが点いていた。
灯の火が細くなる。董白が手を止めて、足元の壺から油を足す。火が戻る。また書く。
書き終えると、その木簡を帯に挟んで、帯を締め直した。それから、帳の木簡を膝に広げる。帳の仕事は、まだ残っているのだ。
薄い木簡だ。帳に使う物より薄い。端が削れて、丸くなっている。書いた物を消す時は、木簡を削るものだ。何度も削れば、薄くなる。何を書いて、何を消したのかは、俺には分からない。董白が何かを考えている。それだけは、分かる。
董白がいつ寝ているのか、俺は知らない。伏せていた間は、俺が先に寝て、目を覚ますと董白が起きていた。今も、そうだ。油を足すのも董白で、俺は今夜まで、一度も見ていなかった。
俺が起きているのに、董白が気づいた。何も言わずに火鉢を、俺の側へ押してよこす。
「お前が使えよ、頑張ってるんだから」
「……妾は大丈夫じゃ」
「そんなわけないだろ、ほら、いいから使え」
火鉢は、それきりアイツの側に戻った。董白の手は赤かった。
梁を見る。
この機会に訊けばいい。帯の木簡に何が書いてあるのか。何がお前を突き動かしているのか。訊けば、答えるかもしれない。
でも、訊けなかった。
昼と同じだ。明らかに間違っていると思えば言う。
だが、軍が来たあの日の直後だと思えば、この方針転換は間違ってはいない。
……けれど、寝ていないことは別だ。
銭の使い道は董白に任せるとしても、董白の体は心配だった。これまで、董白が寝ずに何かをしているのを、あまり見たことが無かった。
「白。寝ろよ」
「……あと少しじゃ」
押しても、寝ない。だろうな。董白はなんだかんだ面倒臭い。
その癖、背負おうとするものは大きいのだ。それは分かっている。
起き上がって、董白の側の灯に油を足した。壺は、自分の寝床の側へ持って戻る。
「油は足しといてやる。その代わり、この灯が切れたら寝ろ。寒かったら、ちゃんと火鉢を寄せるんだぞ」
董白の筆が、一度止まる。
「……うむ。 ……すまんな、柳誠」
それだけで、また動き出す。灯が切れるまでに終わるかどうかは、董白次第だ。俺は寝床へ戻って、壁の方を向く。そのまま目を閉じた。
~
それから幾日か後の朝、杜恪が戸を開けるなり、卓まで来ずに言った。
「届いたぜ。宿場の方だ。……曹操って軍が、宛へ向かってるとさ。張繡んとこだ」
曹操。
その名前は知っている。知っているどころではない。俺の持っているノート——元の世界の覚えを書き付けた帳面だ——のどの頁を開いても、どこかに出てくる名前だ。
曹操と、宛。
二つを並べた時、覚えがあった。宛城の戦い。元の世界で遊んだ戦の話のゲームに、そういう名前の一戦がある。杜恪が張繡の名前を言った晩、繡の字に引っかかったのは、たぶんこれだ。
名前は出てくる。中身が出てこない。魏軍シナリオだったのは覚えている。ただ、個人的に魏軍に思い入れがないから、いつのことなのか、誰が勝ったのか、誰が死んだのかまでは詳しく覚えていなかった。
財布に幾ら入っていたかは分かるのに、何に使ったのかが出てこない時の、あれだ。
分かっているのは一つだけ。あそこで、戦がある。
怖かった。掌に汗が出ている。冬の帳場で、掌だけが。
「柳誠、どうかしたか」
董白が呼んだ。手が止まっていたのだと思う。呼ばれて、息を吸い直した。
杜恪に聞こえるとまずいので、適当な紙に文字を書いた。
【宛で、戦になる】
董白の目がこっちへ動く。
「いつじゃ」
【分からない。誰と誰がどうなるのかも分からない。曹操と誰かが戦う。覚えがあるのは、宛で戦があった、それだけだ】
董白は、しばらく紙を見ていた。それから、杜恪の方を向く。
「何やらきな臭い。何かあるとすれば、張済か、甥の張繡であろうな。……杜恪。情報が届くたびに、此方まで届けよ」
「わかった。……姫、先に粟は預けておいてくれ。いちいち取りに戻ってちゃ、足が遅くなる」
「構わぬ。柳誠、五つ分を先に渡してやれ」
杜恪が出ていく。
明確な問題が一つ。蔵の奥の書付だ。
宛の倉から後日払う、と書いてあって、張繡の判が押してある。
そう。近いうちに戦いが起きるであろう場所だ。
董白は俺を見た。
「……今のうちに宛へ行く。書付を持ってな」