董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
本日中に、【幕間 三日分】の方にも手を入れます
町の屋根が見えてきた時には、日が傾き始めていた。
畑の脇を、薪を背負った男が歩いている。俺たちに気づくと片手を上げ、董白も手を上げ返した。家々からは夕餉の煙が上がっていた。宛の川向こうで見た煙と同じはずなのに、こちらを見ると、やっと帰ってきたと思えた。
早く草鞋を脱ぎたかった。足の裏が痛い。だが、町へ入る手前で、董白は倉の並ぶ方へ道を曲がった。
「先に
「粟を買うのか」
「うむ。あの者なら、まだ売りに出す分を持っておろう」
張繡へ渡す白瓦は、百五十籠。乾かすのに六日、運ぶのに二日。帰って仕込む時間も含め、十日後の朝に届けると約束した。その飯にする粟を、まず用意しなければならない。
町の棚にある粟には、冬の間に食う分と、預かっている白札の分がある。目の前に積んであっても、今回の材料にはできなかった。董白も、そこには手を付けぬと約束している。
「竈を借りる話も、今夜のうちにしておきたい。帰ったばかりですまぬが」
「わかった。必要な粟の量は、俺が計算する」
休みたいのは董白も同じだろう。土手では平気な顔で白瓦を齧っていたが、帰り道では口数が減っていた。それでも、鄧遷の倉が見えると足を速める。俺も遅れないように、その横へ並んだ。
荷を片づけていた男に声をかけると、鄧遷はすぐに出てきた。俺たちの足元を見てから、奥へ椅子を用意させる。
座ると、もう立ち上がりたくなかった。湯が来るのを待つ間に、俺は木簡へ必要な粟の量を書き、支払いに出せる品も別に書き出した。董白が覗き込み、指先で数を追ってから、卓の向こうへ身を乗り出す。
「粟を売ってほしい」
「どれほどでございましょう」
俺が必要な量を書いた木簡を差し出すと、鄧遷は一度読み、もう一度、数の所へ目を戻した。
「秋に作った、あの飯でございますか」
「うむ。百五十籠を作る。そなたの売りに出す分で、足りるか」
「ございます。ただ、これほど一度にとなりますと――」
「宛が怪しい」
鄧遷の口が閉じた。
「張済は死んだ。軍を継いだ張繡は、曹操に降っておる。宛の大倉も、今は曹操の兵が開け閉めしておった」
董白はそこで湯を取った。張繡の前で話していた時より、声が少しかすれていた。
「川向こうには軍が並んでおる。宛の粟だけで足りねば、次にどこへ来るか。そなたなら、わかるな」
鄧遷は木簡を卓へ置いた。
俺は、値を上げられると思った。こっちが大量の粟を急いで欲しがっているのだ。少なくとも、商人に教えて得になる話ではない。
だが、鄧遷が訊いたのは値ではなかった。
「お払いは、何で」
「塩と革。足りぬ分は銭で出す。先に品を見てもよい」
「では、お売りいたします」
早かった。俺は支払いの内訳を書いた木簡を握ったまま、鄧遷を見た。
「……いいんですか。戦になるなら、粟はもっと高く売れそうですが」
「買ってくださる方が来れば、でございます。兵が来れば、書付一枚で持っていかれましょう」
言われて、宛で開けられなかった倉を思い出した。あの書付にも、張繡の判はちゃんと押してあった。
「よそへ運ぶにしても、軍の通る道へ車を出さねばなりませぬ。私は、今ここで塩と革を頂く方がよろしゅうございます」
鄧遷は俺の手元へ目を落とした。
「そちらが、お払いの内訳で?」
「ああ。すみません」
慌てて渡すと、今度は丁寧に端から読んだ。売ると決めてから、値段を確かめる。なんだか変だった。
「倉と道については、張繡の判を取ってきた。あの者の兵には手を出させぬ。曹操の側にも、町の飯を置く倉だという知らせは行く。ただし、あちらが従うかは別じゃ」
「そこまでなさっておいでなら、なおのこと」
鄧遷は木簡から顔を上げた。
「倉だけ残っても、運ぶ道がなければ商いにはなりませぬ。どうぞ、使えるようにしておいてくださいませ」
「そのために買いに来た」
董白はようやく背を椅子へ戻した。俺も湯を飲む。冷めかけていたが、乾いた喉にはありがたかった。
春まで使わずに置くはずだった塩と革を、今、出す。
そのつもりで内訳は書いた。それでも、帳に残していた品が一度に消えると思うと惜しかった。惜しんだまま倉ごと取られては、どうにもならないのだが。
「柳誠。人に払う銭は残るな」
「もちろん。そっちは別にしてある」
董白は短くうなずき、鄧遷へ倉を開けるよう頼んだ。
~
その晩。
竈のある家の者と、荷を運ぶ人たちが集まった。
俺は卓に帳を広げた。どこの竈を借り、誰が何日働くか。去年の秋の記録が使える所もあるが、同じ人が同じように手を空けてくれるとは限らない。
「働いた分は、銭で払う。薪を出す家には薪代を、竈を借りる家には、その代を別に出す」
董白が告げると、戸口にいた女が隣の男へ何か囁いた。男はうなずき、こちらへ一歩寄ってきた。
「うちはもう飯を済ませたから、今からでも使える。ただ、明日の朝には空けてくれよ」
「うむ。家の炊事には差し支えぬようにする。今夜使える竈から、始めさせてくれ」
人足の頭が、空いた木簡を俺の前へ置いた。
「竈ごとに、人を分けよう。前にやった奴を一人ずつ入れれば、いちいち教えに回らなくて済む。薪は俺の方で運ばせる」
「頼む。乾かす場所も先に見ておいてくれ。重ねて置かれると困る」
「わかってる。雨漏りする屋根の下も使わねえよ」
俺はうなずき、借りる場所を書き足した。
名を書き始めた所で、女の一人が訊いた。
「これも、兵隊の飯かい」
董白は、そうじゃ、と答えた。
「代わりに、町の倉と道へ手を出さぬ約束をさせた。戦になった時、町の車を通す許しも取ってある」
「車は、荷を運ぶだけかい。うちの姑は歩けないんだが」
「人も乗せる。自分で出られぬ者を、先に乗せねばならぬ」
女は袖の中で組んでいた手をほどいた。
「なら、うちの竈も使っておくれ。焚くのは私がやる」
「ただし、約束した軍の兵にしか効かぬ。どこの兵でも止められると思うてはならん」
董白が付け加えても、女は引っ込まなかった。
「何にもないより、いいよ。道で追い返されるのが、一番困る」
俺は女の名を帳へ足した。家の者を連れて逃げるとなれば、車を通すという一行も、俺が考えていた以上に切実なのだろう。
工賃を訊き直す声がして、空いている息子も連れてきていいかという話が続く。冬は畑の仕事が減る。銭になるならと、その場で人を呼びに出ていく者もいた。
「先生、こちらは、薪を出す家でよいですか」
阿慶が、書き取った名を董白へ見せた。
「うむ。竈も借りる家には、両方付けよ」
阿慶は名の脇へ印を足した。その顔が真剣なので、俺は自分の帳も見直した。工賃の約束を間違えたら、働き始めてからでは済まない。
董白は皆が話し終えるまで立っていた。誰に頭を下げるのも好かない娘が、帰っていく者には、一人ずつ、頼むぞと言った。
~
話が済むと、荷を運ぶ者たちと鄧遷の倉へ向かった。今夜炊く分を先に出してもらい、それぞれの竈へ運ぶ。
最後の車を見送った所で、董白が鄧遷に声をかけた。
「出来た飯を、ここへ置かせてもらえるか。車へ積むまでの間でよい」
鄧遷は少し考えてから、隣の戸を開けた。
初めは、空いている物置を貸してくれるのだと思った。だが中を覗くと、空いている所の方が少なかった。
底の抜けた籠に、蓋のない壺。板の外れた木箱が壁へ寄せてあり、奥には口を縛った古い袋が積まれている。鄧遷が持つ灯では、奥まで見通せない。手前の壺の影に隠れて、その先は、何がどこまであるのかよく見えなかった。
「奥の袋は?」
「割れた器でございます。運ぶ途中でやられた物を、戻った者がここへ入れるので」
鄧遷は袋の一つを開けた。鉢の縁らしい欠片が、薄い皿の破片に引っかかっている。
「捨てないのか」
「車が空けばと思いつつ、売れる荷を先に積んでおりましたら、この有様で」
言いながら、鄧遷は破片を袋へ戻した。片づけるつもりはある、と言う人の顔だった。俺にも覚えがあるので、あまり笑えない。
董白はその袋の口を押し広げた。
「白い物が多いな」
「皿や鉢が多うございますから」
俺も覗いた。灯に近い所では器の縁だとわかるが、袋の底には、平たい白い物が重なっているようにしか見えない。
「白瓦を袋へ入れて、この下へ置けぬか」
董白に言われて、もう一度、袋の底を見た。
「……明るい所へ出されたら、わかるぞ」
「うむ。じゃが、飯だとわかるように積んでおくわけにもいくまい」
白瓦を作ることは、町中が知っている。隠せるはずもない。ただ、出来上がった飯を、宛へ運び出すまで置く場所が要った。兵が来て、積んであるのをそのまま持っていかれたら、竈を借りた代から何から、全部こちらの丸損といっていい。
「布は挟む。欠片を飯に混ぜるわけにはいかんからな」
董白が言うと、鄧遷はしばらく奥の荷を眺めていたが、やがてうなずいた。
「使うのでしたら、通り道だけは空けておきまする」
~
六日かけて乾かした。
朝と夕に莚を見て回り、湿りの残った物を分ける。表が乾いていても、割ると中が柔らかい物があった。そういう物を袋へ入れるわけにはいかない。日数を縮められないと言った手前もあるが、宛で黴びていましたでは、張繡に何を言われるかわからなかった。
人足の頭は、俺が指した分を黙って別の莚へ移した。阿慶が竈ごとの数を読み上げ、俺が帳と突き合わせる。その間にも次の白瓦が届く。
できた分から袋に詰め、鄧遷の物置へ運んだ。上に布をかぶせ、その上へ本物の陶片を入れる。袋を覗けば割れ物しか見えない。そうわかっていても、俺は一袋できるたびに、中を確かめずにはいられなかった。
最後の分を収めた頃には、車も揃った。あとは籠へ詰め直して積めば出せる。
そこへ、兵が来た。
鄧遷の帳場で、出す荷の数を確かめている時だった。戸口を槍の穂先が通り、俺は開いていた帳から顔を上げた。
物置には錠を下ろしてある。だが、鍵を出せと言われれば、それまでだ。
「この倉の持ち主は」
先頭の男が訊いた。兜の下から覗く頬に、古い傷があった。
鄧遷が進み出る。
「私でございます。何の御用で」
「軍へ出す粟を調べる。商いの分を見せろ」
男は懐から書付を出した。曹操の軍だった。
董白は俺の横にいる。ここで俺が顔を向ければ、いつものように前へ出るだろう。俺は鄧遷と男を見たまま、持ってきた町の帳を取った。
「町の者が食う分と、預かりの分は、分けてあります」
「それは聞いている。だから商いの分と言った。帳を出せ」
俺は町の帳を渡し、鄧遷から借りている倉へ案内した。売り物を預かり分に紛れ込ませていないか、先に確かめるという。
兵が袋の口を解き、粟を掌に取る。男は帳の数を追い、どの家の分かを阿慶に訊いた。阿慶は一度俺を見たが、自分の持つ木簡へ目を戻し、名を読んだ。
「その家は、昨日、二斗引き取っています。残りはこちらです」
声は小さかった。それでも、数は合っていた。
借りている倉を出ると、今度は鄧遷が自分の売買の帳を差し出した。男の指が、俺たちの買った日の所で止まる。
「ここで出した分が多いな」
「私が売りました分でございます」
鄧遷が答える。
「誰に」
「私です」
男が顔を上げた。
「何に使った」
「売る飯を作るためです。町の竈へ分けて運んで、炊きました」
嘘は言っていない。ただ、炊いた後で乾かしたことも、どこへ集めたかも言っていない。続きを訊かれる前に口を閉じたつもりが、うまく唾を飲み込めず、喉が鳴った。
男は俺から視線を外し、鄧遷に言った。
「ほかの戸も開けろ」
鄧遷は腰から鍵の束を外した。
空いた粟の倉、荷縄と車の部材を入れた小屋。兵は順に入り、箱を開け、隅に残った袋も動かした。何もないと口で言っただけでは、一つも済まなかった。
最後に、物置の戸が開いた。
「こちらは売り物にはなりませぬ。道中で割れた器を置いております」
「ずいぶんあるな」
「年々、溜めてしまいまして。いずれ車で出そうとは思っておりますが」
鄧遷は戸を押さえた。俺はその後ろに立った。
兵が二人、壺の間を抜けて入っていく。一人が奥の袋を指すと、もう一人がそれを狭い通路へ引き出した。袋の底が土を擦る。
それには、白瓦が入っている。
俺が昨夜、数えた袋だった。
兵は口紐を解き、袋の縁を折り返した。薄い破片を一枚拾い、脇の壺へ軽く当てる。硬い音がした。
「割れ物です」
戸口の男は答えず、顎を奥へ向けた。
まだ終わらない。もう一人が木箱をどけるのを見ながら、俺は袋を戻してくれと思っていた。口を縛って、積み直してくれれば、それでいい。
だが、屈んでいた兵の手が止まった。
「布がある」
陶片を片側へ寄せる。
その下の布を、指でつまんだ。
声を出しかけた。何を言うつもりだったのかはわからない。兵の手元から目が離れず、俺は、ただ口を開けたまま立っていた。
布がめくれた。
重なった白瓦の端が見えた。割れた一枚の下に、四角い物が斜めに入っている。
知っている俺には、飯にしか見えなかった。
兵は袋の口を広げたが、自分の肩が戸口からの光を遮っていた。顔を寄せ、底の方を覗く。その手が一枚へ伸びたら。持ち上げて、こちらへ持ってきたら。
「下も焼き物です」
兵は布を落とした。
すぐには、言われた意味が頭に入らなかった。陶片を戻す音を聞いて、ようやく、飯だとは思わなかったのだとわかる。
「奥は」
「欠けた壺と、空箱です」
もう一人が答えた。男は自分でも戸口から中を見渡し、鄧遷へ顔を向ける。
「新しく粟が入ったら申し出ろ。売ってからでは遅いぞ」
「承知いたしました」
鄧遷が頭を下げた。
兵は物置を出て、それぞれの帳を俺と鄧遷へ返した。受け取る時になって、俺は、自分の指がひどく冷えていることに気づいた。
~
外の足音が遠ざかっても、しばらくは誰も動かなかった。
鄧遷が戸を閉め、鍵を差す。鍵は一度、穴の横を擦った。いつもなら一息に済むことを、今は両手で、確かめるようにしている。
「……捨てずに置く物も、役に立つのでございますな」
笑おうとしたのだろう。俺も何か返したかったが、息ばかりが出た。
あの兵は布までめくった。俺たちが隠したつもりの物を、ちゃんと見ていた。もし袋を外へ出していたら、陶片を拾ったついでに下の一枚も手に取っていたらと思うと、今になって足が頼りなくなる。
董白が、卓から椅子を引いてきた。
「柳誠。ここで数を読んでくれ」
「……今からか」
「車は待っておる。日があるうちに積みたい」
それはそうだった。
座ると、膝の力が抜けた。董白は俺の開いた帳の隅へ、小さな重しを置いた。紙を押さえている手が震えていたことは言わなかった。
人足の頭が戸を開け直し、物置の奥へ声をかける。
「こっちへ出せ。陶片を取るのと、飯を移し替えるのは、場所を分けるぞ」
袋が運び出される。上の陶片を空箱へ戻し、布をよけて、白瓦を籠へ移す。明るい所へ出てきたそれには、粟の粒がはっきり見えた。
俺は帳へ目を落とした。
読み上げた数を阿慶が復唱し、詰め終えた籠に印を付ける。いつもの仕事を繰り返しているうちに、ようやく声が普通に出るようになった。
董白は一籠ずつ中を見て回っていた。兵の前では出さなかった声で、欠けた白瓦も拾って入れよと指図している。
「割れただけなら食える。そちらも入れておけ」
その言い方があまりにいつも通りで、俺は少しだけ笑った。
董白が振り向いたので、何でもない、と手を振る。何でもなくはなかったが、今ここで説明するのは難しかった。
最後の籠が閉じられる頃には、灯が要った。
百五十。数は揃っていた。
帳を閉じて立ち上がると、右肩の奥が鈍く痛んだ。今日は何も担いでいないのに、ずっと力を入れていたらしい。肩を動かしていると、董白が、俺の荷を車の手前へ置いた。
「そなたはこれだけ持て」
筆と帳の入った、軽い包みだった。
「……悪いな。積む方は、任せきりになった」
「数を確かめる者も要る。そなたがおらねば、二度手間じゃ」
董白は車へ向き直り、荷縄を確かめた。
俺は包みを左肩へ掛ける。戸口に立つ鄧遷へ礼を言って、動き始めた車の後を追った。