董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
ご迷惑をおかけします
二日後の朝、最後の籠を宛の馬場へ下ろした。
百五十籠。町で数えた時と同じだけ並んでいる。
当たり前のはずだった。途中で捨てたわけでも、売ったわけでもない。それでも受け取りの男が数え終えるまで、俺は控えを握ったまま待っていた。
「これで全部だな。中も見せてもらおう」
「はい。こちらを開けてください」
男が籠の蓋を取った。
今度は隠す必要がない。白瓦を一枚選んで割り、断面までよく見てもらった。男は欠片を口へ放り込み、しばらく噛んでから眉を寄せた。
「硬いな」
「湯へ入れれば、もう少し――」
「火を使わず食える物を頼んだんだが」
しまった。
「そのままでも食べられます。秋にお渡しした物と同じですから」
「知ってるよ。俺も食った」
男が笑った。俺の返事を待たずにもう一欠片を食べ、控えを寄越すよう手を出した。
(それなら先に言ってくれ……)
喉まで出かかったが、何とか飲み込んだ。硬すぎるから持ち帰れと言われるかと、本気で心配したのだ。
男は受領の印を入れると、控えを俺へ返した。
「張将軍には届いたと伝えておく。ご苦労だったな、柳白殿」
礼を言って受け取った。張繡と約束した十日後の朝に、どうにか間に合った。
籠は兵たちの手で馬場の奥へ運ばれていく。空になった車を見ると、嬉しさより先に疲れが出た。もう濡れないかと空を見なくていいし、荷縄が緩んでいないかと後ろへ回る必要もない。
「帰ろう。皆にも知らせないとな」
董白はまだ兵の方を見ていたが、俺が声を掛けると頷いた。
「うむ。鄧遷には、その印も見せてやってほしい。物置まで開けさせられたのじゃ。気にしておろう」
「ああ。ちゃんと飯として受け取ってもらったってな」
「頼まれてもおらぬのに、食べ方まで教え始めたしの」
やっぱり聞いていた。
「あそこは黙っててくれ」
「何も言うておらぬぞ。さっきも黙っておった」
「笑ってただろ」
今度は隠す気もなく笑われた。腹は立ったが、俺も少し笑ってしまった。こんなことで済んでよかったと思う。
~
帰りには、宛に残っていた
城下で話を聞いているうちに泊まりが延びたらしい。馬場の外で待っていた杜恪は、俺たちの顔を見るより先に空車を見た。
「乗っていいか?」
「引く人に聞けよ。俺に言われても」
「じゃあ、乗せてくれ。帰りは話し相手になるからよ」
「話しながら歩きゃいいだろう」
引き手に返されても、杜恪はめげなかった。最後には道の平らな所だけ乗せてもらうことになり、積んであったむしろを尻の下へ敷いている。
俺も乗りたかった。だが、あのやり取りを見た後で頼むのは少し恥ずかしい。坂の手前で降りた杜恪に荷台を見ていたのがばれ、肩を叩かれた。
「次の平らな所じゃ、お前が乗れよ」
「……そんなに見てたか?」
引き手まで笑った。帰り道には、そんなことを言っていられた。
町へ着くまでには二日かかった。
「これで、ようやく眠れますな」
「私もです。袋を開けられた時は、どうなるかと思いました」
「あの袋はまだ残っておりますよ。御覧になりますか」
「……しばらくは結構です」
鄧遷まで笑った。俺は控えをしまい、人足の頭に借りた車の話をしようとした。
その前に董白が口を開いた。
「三台、もうしばらく借りておきたい」
「次は何を運ぶんだ?」
「町の者じゃ。宛で戦になった時、歩けぬ者を乗せて逃がすと約束したであろう」
頭は笑うのをやめ、車へ顔を向けた。
俺も、姑を乗せてほしいと言った女を思い出した。あの家にはまだ、飯を無事に届けたと知らせていない。
「どこまで連れていく?」
「街道を避けて丘へ上がりたい。鄧遷、裏の道にある倉を使わせてもらえぬか」
鄧遷の倉には農具や空袋が置いてあった。町の裏の畑から上がれる場所で、街道を通る者がわざわざ寄るには遠い。
「奥へ物を寄せれば空きましょう。屋根も秋に直しました」
「では、見せてほしい。子供や年寄りが一晩待てるようにしたいのじゃ」
鄧遷が人を呼び、人足の頭も一緒に見に行くことになった。俺は帳を出し、空いている所を開いた。
「今のうちに移ってもらうか?」
「いつ帰れると訊かれたら、そなたは答えられるか?」
答えられなかった。
皆、自分の家で暮らしている。夜に寝る場所だけ替えれば済むわけではない。寒い倉へ先に移ってもらい、何もないまま何日も待たせたら、そのうち家へ戻ると言い出すだろう。
「知らせが来たら出そう。それまでに、乗せる者と迎えに行く順を決めておきたい」
「分かった。俺は家を回ってくる」
董白が頷いたので、まずは姑を乗せてほしいと言っていた家へ向かった。
女は納品の話を聞くと喜んだが、丘の倉と聞いて奥を振り返った。
「あの人、寒い所は嫌だって言うだろうねえ」
「先に布団を運んでおきましょうか」
「いいのかい?」
「ええ。車を待たせながら探すより、その方が助かります」
女は家へ入り、すぐに布団を抱えて戻ってきた。婆さんの声が奥から聞こえる。
「それを持ってったら、今夜は何を敷くんだい!」
女は立ち止まり、俺と顔を見合わせた。
「……もう一枚あるんだよ。ちょっと待ってておくれ」
俺は笑いをこらえて頷いた。
その日のうちに、車を出す家が決まった。歩ける者は家族と先に上がり、車には小さな子や自分で歩けない者を乗せる。
女将も倉を見に行った。寝る場所へむしろを広げて座るなり、これじゃ冷えるよ、と立ち上がる。
「下に藁を敷いておくれ。布団を持ってこられない家もあるんだから」
戻ってきた頭が藁を運ばせ、俺たちも広げるのを手伝った。
帰る頃には、奥の農具が見えないほど寝場所ができていた。運ばれてきた布団を隅へ寄せながら、使わずに済めばいいと思った。
~
数日後の夜、宿の外で馬が止まった。
杜恪が出ていき、男を一人連れて戻った。宛にいる間に知らせを頼んでおいた相手だという。
「昨夜、戦になった。張繡が曹操を攻めたそうだ」
俺は閉じかけた帳を、そのまま机へ置いた。
「張繡が?」
「ああ。陣に火が出て、城の周りから人が逃げてきた。俺も宛を出たんだが、道には曹操の兵が何組もいたぞ。こっちへ来てる」
男は女将に渡された水を飲んだ。
俺は返事もせずに見ていた。
宛で戦がある。それは覚えていた。だが、張繡は曹操に従って劉表を攻めるのかもしれないと考えていたし、董白もそう見ていた。
張繡が曹操を攻めたのか。
馬場で白瓦を齧っていた男の顔が浮かんだ。あの時には、もう分かっていたのだろうか。俺たちが硬いと言われて慌てている間にも。
「柳誠。書付を持ってきてほしい」
董白に呼ばれ、顔を上げた。
彼女はすでに戸口に立っていた。
「車を出すぞ」
「ああ。すぐ持っていく」
立ち上がり、通行の許しを入れた包みを取った。董白は頭を呼びに行き、杜恪は街道の様子を見に出た。
女将が奥へ声を掛けた。
「起きとくれ! 丘へ行くよ。灯と鍋を忘れずにね」
俺も表へ出た。隣の家でも人が起き、戸が開いている。通りの先へ知らせに走る者がいた。
さっきまで開いていた帳の続きは、もう思い出せなかった。
~
婆さんの家へ車を寄せると、嫁が戸口で待っていた。
「すまないね。起こしたら痛がっちゃって、どうにも」
人足の頭と若い男が中へ入った。俺は車の荷台へ布を敷き、乗せる場所を空ける。
婆さんは布団ごと運ばれてきた。
「腰が。もっと、そっちを持っておくれよ」
「はいよ。ここかい?」
頭が腕を入れ直すと、婆さんは少し黙った。車へ下ろす時にはまた声が出て、嫁が何度も謝った。
俺は反対側へ回り、はみ出した布団を戻した。
「向こうにも一枚ありますから。着いたら重ねてもらいましょう」
「そうだったね。あれを下へ敷こうね」
嫁は婆さんの耳元でもう一度言い、自分も車へ乗った。
他の車には子供を乗せていた。母親に抱かれた子が家を指し、帰りたいと泣いている。董白が足に布を掛けてやると、母親が慌てて立ち上がろうとした。
「鍋を忘れた。すぐ取ってくるから」
「湯なら女将が用意しておる。今夜は借りよう」
「でも――」
「歩いて行った者は、もう丘へ着いておろう。妾たちも行こう」
女は家を見た。董白は急かさずに待ち、女が座り直すと頭へ手を上げた。
三台の車が動き出した。
そこへ杜恪が戻ってきた。息を整えるより先に、裏へ回れと言う。
「宛から来た連中が、もう町外れにいる。今は家族連れが多いが、後ろには兵も来てるそうだ。街道には出るなよ」
「女将たちにも伝えてくれ。先へ着いても戻らぬようにな」
董白に頼まれ、杜恪は丘へ向かった。
俺は最後の車についた。婆さんが揺れるたびに布団を掴むので、嫁と一緒に端を押さえて歩く。
家の向こうで誰かが叫んだ。
名前を呼んでいるらしい。別の声が重なり、続いて馬が鳴いた。何人いるのか、どちらへ向かっているのか、家に遮られて見えない。
車が道の窪みへ落ちた。
婆さんが悲鳴を上げ、引き手が足を緩める。俺は前を見た。先の二台も止まりかけていた。
急いでほしかった。
だが、今揺れたばかりの車を押すことはできなかった。婆さんの手が布団から離れるのを待ち、引き手に声を掛ける。
「もう大丈夫です。頼みます」
董白が俺の隣へ来た。何も言わず、車の向こう側へ回って歩き始めた。
~
裏の脇道へ入る所で、また車が止まった。
今度は、揺れたわけではない。
先頭で頭が誰かと話している。俺が見に行くと、道を塞ぐように槍が出ていた。
「軍の荷車が来る。よその車は待て」
兵の向こうにも灯があり、その奥で張繡の旗が揺れていた。
「丘まで上がるだけだ。乗せてるのは年寄りと子供だよ」
「歩く者は通している。車は勝手に入れるわけにいかん」
頭が口を開きかけたところへ、道の向こうから杜恪が来た。
「女将たちは先へ行った。車のことも話したが、上の者に聞けってよ」
俺は懐の包みを開いた。
張繡の兵なら、この書付を見せればいい。あの時、わざわざ車の通行を約束させたのだ。
「将軍から許しを頂いています。こちらを――」
差し出そうとした腕を、董白に押さえられた。
「待て。近すぎる」
目の前に槍の穂先があった。
足を止めると、兵がこちらへ手を出した。そこまで歩かなくても渡せたのだ。俺は書付を預け、一歩下がった。
「確かめてもらえませんか。町の車を通す許しです」
兵は灯へかざしてから、仲間を呼んだ。一人が書付を持って奥へ行く。道を塞ぐ槍は、そのまま残った。
董白は俺の腕を離したが、傍を動かなかった。
車の方を振り返ると、婆さんの嫁が降りてきた。
「待たなきゃいけないのかい?」
「今、見てもらっています」
「乗せたままが駄目なら、布団で担げないかね。私も持つから」
頭が後ろの車へ目をやった。そこにも自分では歩けない者がいる。
全員を下ろして担ぐとなれば、一度では運べない。丘まで往復している間、ここへ残る人もいる。何より、やっと乗せた婆さんを、また持ち上げなければならなかった。
「まだ下ろさなくていいですよ。通してもらう約束ですから」
俺が言うと、女は頷いた。
「そうだね。待ってるよ」
女は車へ戻った。俺はその背中を見送り、書付を持っていった兵を探した。
あんなふうに言ってしまった。
張繡の判はある。だが、今は軍の車が先だと言われたら。約束をした時とは違うと返されたら、どうすればいい。
町の方で怒鳴り声がした。
さっきより近くに聞こえた。頭が振り返り、引き手の一人が車を握り直す。母親たちは子供を膝へ抱き寄せていた。
俺も振り向こうとすると、董白が言った。
「戻ってきたぞ」
兵が上役らしい男を連れてきた。
「この三台か」
「はい。街道沿いの家から連れてきました。丘にある鄧遷の倉へ行きます」
男は車へ近づき、乗っている者を確かめさせた。
婆さんの布団をめくると、寒い、と声がした。兵がすぐに掛け直す。別の車では、子供が母親の上着へ顔を埋めていた。
「人だけです」
報告を聞いた男が、俺へ書付を返した。
「町の車を通せとは聞いている。丘まで行け。途中で車を止めて道を塞ぐなよ」
「ありがとうございます」
返事をする間に槍が引かれた。
頭が引き手へ声を掛けた。先頭の車が動き、二台目も続く。俺は脇へ避け、最後の車が通るまで見ていた。
嫁がこちらへ頭を下げた。
「すまないね。助かったよ」
「いえ。……よかったです」
それだけ言うのに息が要った。書付を包みへ戻そうとして、角を一度引っかけた。
「しまうのは後でよい。行くぞ」
董白に言われ、俺も車を追った。
~
坂は思っていたより長かった。
引き手が止まるたびに俺たちも待ち、動けばまた歩く。子供はいつの間にか泣きやみ、母親の腕の中で眠っていた。
倉の灯が見えた時、俺はようやく前へ声を掛けられた。
「開いてます。女将が待ってる」
女将もこちらに気づき、灯を高くした。
「寝かせる人から入れておくれ。奥が空いてるよ!」
先に着いた者が戸口を空けた。俺は車から布団を降ろすのを手伝い、婆さんの嫁と一緒に中へ入った。
用意しておいた布団が、もう敷かれている。
婆さんを寝かせると、女将が顔を覗いた。
「どうだい。重ねりゃ、家よりふかふかだろう」
「腰の下に何かあるよ」
「藁だよ。まったく、細かい所までよく分かるねえ」
文句を言いながらも、女将は布団の下へ手を入れた。婆さんの嫁が横で吹き出し、そのまま袖で目元を押さえた。
俺は入口の方へ下がった。さっきまで人を呼ぶ声ばかり気にしていたのに、今は婆さんの文句が聞こえるのがありがたかった。
外では三台目の車を寄せていた。
引いてきた男が、荷台へ腰を下ろすより先に仰向けになった。
「帰りは誰か代わってくれよ」
「下りだけ代わる気か?」
頭に言われ、男は片手を振った。
「じゃあ、次の上り。今夜はもう勘弁してくれ」
頭も笑って、若い者へ休むよう声を掛けた。
杜恪はそれを見届けると、また町へ下りると言った。
「家の裏から見てくる。帰れそうか分かったら知らせるよ」
「無理はするなよ。俺たちはここで待てるから」
「分かってる。街道へ出て兵を数えたりしねえよ」
杜恪は手を上げて坂を下りていった。
俺は倉へ戻り、ようやく書付を包み直した。端に折り目がついていたので指で伸ばし、懐の奥へしまう。
董白が入口から町を見ていた。
家々の屋根の向こうで灯が動いている。持っているのが兵なのか、家族を探す人なのか、ここからでは分からなかった。
「座らないか。もう足がきつい」
俺が戸口に腰を下ろすと、董白も隣へ座った。
「妾もじゃ。帰りは車に乗りたいのう」
「引く人に聞けよ」
「そなたも乗りたそうにしておったではないか」
董白は笑い、脚を少し伸ばした。
中から湯の入った椀が回ってきた。俺が一つずつ受け取り、片方を渡す。董白は両手で抱えて、ほっと息を吐いた。
「ありがたいのう」
俺も口をつけたが、まだ熱かった。膝へ置き、指だけを温める。
「通してもらえなかったら、担ぐしかなかったよな」
董白は椀を見たまま頷いた。
「杜恪を先へやって、人を呼び戻してもらうつもりでおった。じゃが、ここまで何度も往復させるのはつらい」
「だよな。俺、待ってれば通れるって言ったけど、途中から怖くなってきた」
婆さんの嫁は俺の言葉を信じて戻った。あの背中を見た時の気持ちが、まだ残っている。
「そなたが先に諦めたら、あの者たちは車を降りておったぞ」
「……そうかな」
「うむ。待ってもらえてよかった」
董白はそこで湯を飲んだ。俺も少し口へ入れ、今度は飲み込めた。
褒められたのだろうか。そう思ったところで、董白がこちらを向いた。
「ただし、槍の前へ出るのはやめてほしい」
「あれは書付を渡そうとしただけだ。兵に掴みかかろうとしたわけじゃないぞ」
「見えておったなら、あそこまで近づかなかったであろう」
言い返しかけて、やめた。
兵が受け取るために手を出すことさえ待てなかった。あの時は早く書付を見せたいばかりで、穂先がどれほど近いかも分かっていなかったのだ。
「悪かった。止めてくれて助かったよ」
董白は俺の右肩へ目を向けた。俺はつられて肩を動かしかけ、そのままにした。
「今日、痛めたりはしてない」
「痛めてからでは遅いと言うておる」
今度はすぐに頷いた。
董白は何か言いたそうにしていたが、やがて椀へ顔を戻した。俺も湯を飲んだ。もう熱すぎることはなかった。
倉の中で子供が母親を呼び、すぐに返事があった。婆さんは寝ついたらしく、嫁が女将へ小声で礼を言っている。
町の灯はまだ動いていた。
あの中に、白瓦を受け取った男もいるだろうか。朝の馬場で、俺をからかった顔を思い出した。今も無事でいてほしかった。
隣で董白が椀を置いた。
「少し目を閉じておれ。杜恪が戻ったら起こす」
「お前は?」
「この湯を飲んでからじゃ」
椀の底にはまだ少し残っていた。俺は自分の分を飲み干し、壁へ背を預けた。
女将が戸口へ来て、子供が眠ったから声を落としておくれと言った。二人で頷くと、彼女は俺たちの脚へ布を掛けてくれた。
俺は端を董白の方へ寄せた。手を離す前に少し押し戻され、二人の膝に同じくらい掛かった。
湯を飲む音を隣に聞きながら、目を閉じた。