董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
冬の川は、思っていたより浅かった。
去年の水が残した跡は、渡し場の丸太のずっと上にある。今はその下を、濁った水が細く流れていた。向こう岸の平地には幕が並び、炊事の煙がいくつも上がっている。
旗を数えようとして、やめる。
記録が仕事になってから、どうも数を数える癖がついた。十や二十を数えたところで、どうにもならないのに。
あれが、
名前を知っている相手なら、少しは怖くなくなるかと思ったが、そんなことはなかった。当たり前の話である。
あの軍を前にすると、緊張で喉が乾く。素直に恐ろしかった。
董白は、そちらを見ていない。土手に腰を下ろすと、懐の包みから白瓦を取り出した。二枚のうち、片方は端が欠けている。董白は欠けた方を俺へ差し出した。
「柳誠にはこちらをやろう」
「……ありがとう」
とてもじゃないが、呑気に食える状態ではなかった。
董白は、手元に残した大きい方を齧った。ごり、と鳴る。去年の秋、軍へ売るために町中の竈で作った飯だ。冷たいまま食えて、湯へ落とせば粥になる。旅の途中では、硬さより火を熾さずに済む方がありがたい。
「ちょいと待たせたな」
土手の下から
「悪い方から言うぜ。
董白が白瓦を口元で止める。
杜恪は結び終えた草鞋を履き、踵で二度、土を叩いた。
「それから、もっと面倒なのがある。張繡は幾日か前、曹操へ降った。旗を下ろして、あっちの下へ付いたのさ」
降った軍は、降った先の倉から飯を配られる。自分の倉をそのまま握らせておけば、腹を満たしてからまた旗を上げるかもしれない。だから、まず飯の紐を取るのだと杜恪は言った。
「宛の倉もか」
「新しい錠が下がってる。見張ってんのも曹操の兵だ。張繡の命令じゃ、もう開かねえよ」
俺は懐の紙を、服の上から押さえた。
宛の倉から後で払う。そう書いて、張繡の判が押してある。叔父の名前で軍を動かしていた男が残り、名前を貸していた叔父は死んだ。そして、肝心の倉は曹操に取られている。
判を押した本人は生きているのに、渡せる物だけが無い。
これを、誰に取り立てればいいのだろう。
俺の覚えに残っているのは、宛で戦がある、ということだけだ。いつ起きるのか、誰が勝つのか、誰が死ぬのかは出てこない。目の前に曹操の陣があっても、その先はきれいに抜けていた。
董白は白瓦を包みへ戻して立ち上がる。それから宛の門が見える所まで、口を開かなかった。
門の前では、荷を降ろした空車が続けて出てくる。董白の目は、向こう岸の旗ではなく、そちらを追っていた。
「曹操が、この土地の主になっては困る。……きっと、面倒じゃ」
「何が、そこまで面倒なんだ?」
「宛の次は、うちの白倉にも手が伸びるやもしれぬ。札を持つ者は、妾ではなく、倉を開けられる曹操の側を頼るようになる」
「……白札の仕組みが破綻するってことか?」
「そのつもりがあればな。倉だけでは済まんじゃろう。次は道じゃ。主になった軍は、どの倉から粟を取り、どの道を軍用にするかを決める。そうなれば、うちの倉にも、うちの道にも、あちらの都合が入る。面倒じゃ」
董白が面倒だと言うなら、本当に面倒なのだろう。
杜恪が俺たちの前へ回り込んだ。
「中じゃ、あんたを姫とは呼ばねえ。白様もなるべく無しだ。話すのは柳誠、あんたは横で聞いてる。今度こそ、それで頼むぜ」
「分かっておる」
「毎度そう言って、毎度、途中からあんたが前へ出るだろ」
董白は答えず、門をくぐる。杜恪は俺を見た。
「あれは、分かってねえな」
「……たぶんな」
言ってから、二人で後を追った。
~
倉の前には、低い卓が一つ出されていた。
扉には真新しい錠。左右に立つ兵の具足も、去年この町を通った軍の物とは違う。自分の倉の前で、他人の兵に見張られながら話をする。張繡が機嫌よく来る理由は、どこにもなかった。
それでも張繡は供を離れた所へ置き、一人で歩いてきた。卓の前へ立つと、董白には目を向けず、まっすぐ俺を見る。
「柳白。来たか」
「はい。取り立てに参りました」
懐から書付を出す。渡すのは俺の役目だ。
張繡は紙を開き、自分の判へ目を落とした。しばらく見てから、閉ざされた扉を顎で示す。
「今の宛の大倉は曹操の手にある。我等もあの男へ降った。……俺の判では、あれはもう開かん。倉の物では払えん」
「でしょうね。錠が、ずいぶん新しい」
「だが、払わんとは言えん。叔父の約定を反故にするわけにはいかん。信用に関わる。だから、ここまで来た苦労も認める。倉の物でないなら、俺がいま出せる物で払う。何を取る。そちらが言え」
少なくとも、約束そのものを無かったことにする気はないらしい。
しかし、困った。
塩の袋より軽い紙である。宛の倉から粟を取るつもりで、ここまで持ってきた。別の物で払うから欲しい物を言え、と返されるとは思っていなかった。
「少し、考えさせてください」
杜恪が俺の肩へ寄り、口をほとんど動かさずに言った。
「ここの軍師は、
賈詡。
その名前なら、はっきり覚えている。
たしか、後には曹操の側にいたはずだ。有名な軍師だった。その程度しか覚えていない。
いまは張繡の下にいるのか。
実のところ、会いたくなかった。何を見抜かれるか分からない。
「わたしから申し上げても?」
董白が半歩後ろから言う。俺を見ていない。見ているのは、張繡の物ではなくなった倉の錠だ。
「頼む。俺には、まだ何も出てこない」
張繡の顔は俺へ向いたままだった。娘に好きに喋らせていいのか、とでも言いたげである。
董白は構わず続けた。
「降った兵には、その日を食いつなぐ分しか渡されませぬ。勝手に動かれては困りますから。余分な飯を用意しようとすれば、火を焚かねばなりませぬ。煙も上がる」
声は丁寧だった。丁寧なだけで、柔らかくはない。
「ここなら、何かしようとすれば、川の向こうから、すべて見えましょう。隠し事は難しい。そして、曹操のあれだけの兵が、旗を受け取りに来ただけとも思えませぬ。戦の準備だとしたら……南の
張繡の指が、書付の端を押さえた。
「……俺が、無用な動きをすると言いたいのか?」
問いは俺へ来た。声を張っていないのに、倉の前からほかの音が退く。
「いいえ。動けぬ、と申し上げました」
董白の返しも、俺の横を通って張繡へ届く。
二人は一度も向かい合っていない。それなのに、俺は間へ置かれた薄い板のようだった。どちらかがもう半歩出れば、先に割れるのはたぶん俺である。
「柳白。お前の所の娘は、なかなか面白いことを言うな」
どう見ても、目は笑っていなかった。
「……申し訳ありません。後でよく言い聞かせます」
これで収まるとは思えなかった。だが、董白をここで黙らせられるとも思わなかった。
「目立たぬように食べられる飯なら、こちらで作れます。冷たいまま齧れて、湯があれば粥になる。冬を越しても黴びませぬ。去年の秋、そちらの兵が街道で食うた物です」
「……あの硬い瓦か」
「歯が立たぬ物は、除いております」
つい口を挟んだ。
張繡が初めて、ほんの少しだけ顎を引く。
「持っていて損になる飯ではない。それで、何を取る」
董白は待っていたように指を一本立てた。
「一つ。あの町の倉と道には手を出さぬ、という布告を、そちらの判で。一つ。戦の夜、街道の脇の道を、町の車が通る許しを。もう一つは、戦の後、そちらが宛の主となられたなら、宛城の倉から売りに出す粟を、こちらの札とこちらの値で扱わせていただきます」
「この三つを、いまの書付の払いと、火の要らぬ飯の代わりに頂きます」
張繡の目は動かない。俺を見たまま、董白へ答える。
「三つか。その紙の払いにしては高い。それで、飯の売り込みか」
「はい。火も煙も出さぬ非常食を、いま、ほかから用意できますか」
値の話には答えず、代わりの売り手がいるかを訊いた。
張繡は答えない。答えがないのだろう。
杜恪は横を向き、鼻の下を拳で隠した。たぶん笑いかけたのだ。今それを見つかったら、きっと同じ穴へ埋められるからやめてくれ。
「一つ目は飲む。町を焼いても、俺の腹は膨れん。勝っても負けても、な」
張繡は書付を指先で押さえたまま言う。
「二つ目も、住人が先に出るなら悪くない。城に残る飯と手を、そちらへ割かずに済む。賈詡も同じことを言っていた。……だが三つ目は、宛城の倉にある余剰の粟を、お前たちが扱う話だ。町一つの倉が取るには大きすぎる。そもそも、もう俺は宛城の主ではない」
「そちらがまた、宛の主になられた際で結構です。主にならなければ、それはそれで構いませぬ」
張繡の眉間に、初めて皺が寄った。
「まだ決まってもいない宛の権利を、先に切り分けろというのか」
「そちらが宛の主にならなければ、こちらへ粟を渡す必要もございませぬ」
「……俺が宛を得る方へ賭けるか。嫌な絵を書く娘だな、柳白」
「ええ。しかし、これまで幾度もこれに助けられております」
董白は顎を少し上げる。
「お断りになるのでしたら、お断りください。前の書付は、そのまま持ち帰ります」
断ることはできる。
だが断れば、張繡は叔父の約束を踏み倒した、という事実が残る。その上、飯は曹操軍に握られたままだ。
張繡に、事実上選択肢はなかった。
「必要な数を言えば、その食糧は出せるのか」
「恐らく大丈夫かと。もちろん材料もこちらで用意いたします」
返事は早かった。
張繡はそこで初めて書付から指を離した。とんとんと机を指で叩く。
何かを勘定しているそぶりだった。
俺も、正直よくわかっていない。
董白は、張繡がいつまた宛の主になると思っているのだろう。
まあ、今は分かっているふりで話を合わせておく。
「柳白。あの飯は、いつまでに出せる」
董白が、俺の名を呼ぶ。
「柳白様。前と同じ竈なら、幾日ですか」
董白の口から柳白様と呼ばれ、反応が一拍遅れた。
……本当に賈詡がいなくてよかった。もし居たら、一連の中で直ぐに見破られていただろう。
「……乾かすのに六日。そこは急げません。宛まで運ぶのに、あと二日です」
「では、八日目の朝には着けられます。それより早くは出来ませぬ」
六日と二日。
飯を作って運ぶのに、どれだけかかるか。それを答えただけだった。ところが張繡は、八日目と聞くと、卓の上の帳を開いた。
頁を繰る。戻す。指で一つの行を押さえる。
川の向こうに並んでいた旗が、頭から離れない。あの軍を前に何かを企むための日数を、いま俺が教えてしまった。
張繡は長いこと帳を繰っていた。董白は急かさない。杜恪も、もう笑っていない。
やがて帳が閉じられる。
「三つとも飲む。最初の二つは、俺の兵へは今日布告する。曹操の兵まで俺の判では縛れん。だが、あの町の倉は住人が食う分、道はその運びに使う物だと書いた写しを、曹操の側へも渡す。あとは、そちらが中身を証明しろ」
張繡の判だけで、曹操の軍すべてを止められるわけではない。それでも、町の倉と道が住人の物だという話は、曹操の側にも届く。手を出すなら、少なくとも上へ話を通す必要ができる。
「三つ目は、今後、俺が宛の主となった場合に限る。宛の主でいる間だけ、だな?」
「それで結構です」
「よかろう、いつになるかわからんがな、それまで死ぬなよ」
「貴方こそ」
俺がそう言うと、張繡は鼻で短く息を出した。笑ったのか、腹を立て直したのか、俺には分からない。
それから、最後まで俺を見たまま注文を寄越す。
「火を使わずに食える飯を、籠で百五十。ほぼ三日分の糧食になる。それを八日目の朝、宛の西門外にある古い馬場へ」
倉の前ではなかった。西門外なら、川向こうからは城壁の裏になる。出来るだけ目立たない場所でということだろう。
俺は木簡を出し、三つの約定を文章にする。右腕はもう使える。ただ、速く書こうとすると、肩の奥が引きつった。遅い手を待って、張繡は一枚ずつ読み、最後に判を押していく。
一つ目と二つ目は、張繡の兵には今日から効く。曹操の側へは、町の倉と道を住人が使う物だと書いた写しが渡るが、曹操の側に効く保証はない。
三つ目は、張繡が宛の主となった時にだけ効く。ならなければ、ただの紙だ。
紙を取り立てに来て、また紙を持って帰る。だが、今度の紙には、倉と道と、これから入ってくる粟が書いてある。
張繡は立ち上がり、二歩行って足を止めた。
「柳白」
俺が顔を上げると、その向こうで董白も張繡を見ていた。
「お前の所の娘は、よく仕込んである」
~
門を出た所で、杜恪が足を止めた。
「俺はちょっと残るぜ。城下で口を聞いて回る。もっと情報が欲しいだろ。俺も冬の蓄えが、もう少し欲しいからな」
言うだけ言って、往来の方へ入っていく。人の多い所へ入ると、この男はすぐ見えなくなった。
董白には、賈詡について知っていることを言っていない。言えば、この娘が何を言い出すか見当が付かない。……いや、それは言い訳だな。単に、言いたくないだけだ。
日が傾いている。来た道を、今度は二人で戻る。
「随分多くの兵糧を求められたな」
「うむ。まあ、安い方じゃ」
「それより、どうして張繡がこれから宛の主になる前提で話したんだ?」
「柳誠の話を真とするなら、宛で戦があるのじゃろ?であれば、まず曹操と劉表じゃろ。曹操が劉表との戦を終えれば、宛には誰かを置かねばならぬ。この土地と兵を知り、すでに降っておる張繡を置くのが手早い。張繡も、その目はあると思うておる。ゆえに紙を受けた」
「ならなかったら?」
「宛の粟は諦める。そのために、町の倉と道の約束も取っておる」
董白は懐から白瓦を出して、齧りながら歩き出した。
百五十籠は、千五百人が三日食う量だ。劉表との戦に持っていくのだとすれば、飯を欲しがるのも分かる。
「でも、曹操に従って戦うなら、飯も曹操から出るんだろ。わざわざ俺たちから買う必要があるのか?」
「出してもらえるうちはな」
董白は齧りかけの白瓦を、包みへ戻した。
「飯を止められてから買いに来ても、八日は待てぬじゃろう」
俺は懐の書付を押さえた。
張繡は、何に備えているのかまでは言わなかった。董白も訊かなかった。
三日分あれば、その間は曹操に飯を頼まずに済む。
そう考えると、さっきまでただ多いと思っていた百五十籠が、妙に心細い量に思えた。