董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

56 / 61
52話、町の被害をそこそこ追加しました。
それと、二章をまとめてリライトしました。
18話が変なところに投稿されていたのを修正しました(11:42)


第53話 湯

 

宿の戸を押すと、下の板が地面を擦った。

 

もう少し力を入れてみたが動かない。女将が横から覗き込み、割れた所へ手を掛けた。

 

「持ち上げておくれ。……ああ、そこでいい」

 

二人で浮かせるとようやく開いた。女将は先に土間へ入り、俺は戸を壁に寄せた。閉める時にも手が要りそうだ。

 

町を見に下りた杜恪(とかく)が戻ってきたのは、夜が明けた頃だった。街道を逃げていく人は減り、家の裏からなら戻れそうだという。歩ける者から丘を下り、俺たちは三台の車で年寄りや子供を送ってきた。

 

婆さんは家へ着くと、もう下ろすのかい、と文句を言った。行きにはあんなに痛がっていたのに、帰りは車の上で眠っていたらしい。嫁が笑いながら布団を直すのを見て、俺もようやく安心した。

 

けれど、その隣の家では戸が蹴破られていた。

 

店先に掛けた縄を持っていかれた男もいた。残った短い縄を手に、これでどうやって商売をしろと言うんだ、と怒鳴っていた。

 

火は出なかった。粟の倉も開けられていない。それだけ確かめた時にはよかったと思ったが、壊れた戸の前で同じことを言う気にはなれなかった。

 

「鍋はあるね」

 

竈を覗いた女将の声が、少し明るくなった。

 

「柳誠、水を頼めるかい。飯にしよう」

 

「ああ。桶はいつもの所?」

 

「裏だよ。白は薪を持ってきておくれ。乾いてるのが奥にあるから」

 

董白は袖の中から手を出し、指を握り直した。

 

「湯も沸かしてほしい。もう指の先が冷たくてかなわぬ」

 

「火がついたら傍へおいで。二人とも、昨夜からろくに寝てないだろう」

 

眠かった。水を運ぶ足も重い。それでも戻ってきた時に火がついていると、それだけで少し元気が出た。

 

董白は竈の前にしゃがんでいた。俺が桶を置くと腰をずらし、隣を空けてくれる。

 

「お前、そこから動く気がないだろ」

 

「今、ようやく温まってきたのじゃ」

 

そう言われては、俺も座るしかなかった。

 

湯をもらい、二人で飲んだ。女将が粟を鍋へ入れると、董白が顔を上げた。さっきから薪が鳴っても振り向かなかったのに、飯の音は聞き逃さないらしい。

 

俺も腹が減っていた。もう一度湯を飲んで気を紛らわせていると、戸口で声がした。

 

「水を分けてもらえんか」

 

鎧を着た男が柱を掴んでいた。

 

俺は立ち上がりかけ、腰にある刀を見て止まった。男の頬には泥が乾いて貼りつき、片足を引きずっている。疲れているのは分かった。だが、昨夜はこういう兵が来る前にと、皆を連れて町を離れたのだ。

 

「……湯ならあります。そこへ座ってください」

 

男は戸口の腰掛けへ崩れるように座った。

 

椀を持っていく間も刀が気になった。少し離れて差し出したせいで、男が身を乗り出して受け取ることになってしまう。

 

「斬りゃしねえよ」

 

「すみません」

 

男は疲れた顔で笑い、湯を飲んだ。熱かったらしく、すぐに口を離す。今度は息を吹きかけてから飲み、肩を落として長く息を吐いた。

 

「ああ……」

 

それきりしばらく喋らなかった。

 

俺は竈へ戻ろうとして、女将と目が合った。こちらを見ていた女将は何も言わず、鍋を混ぜ始めた。

 

「連れを見なかったか。俺より若くて、前歯が一本ねえ奴なんだが」

 

男に呼び止められ、俺は首を振った。

 

「朝に戻ってきたばかりで。宛からですか?」

 

「ああ。途中までは一緒だったんだよ。こっちへ来たと聞いたんだがな」

 

男は通りを見た。人影が通ると少し顔を上げ、違うと分かるとまた椀へ目を戻した。

 

その腹が鳴った。

 

俺まで腹に力を入れてしまった。男も気まずかったのか、空になった椀を差し出した。

 

「助かった。これで、もう少し探せる」

 

「飯も食っていきませんか。もうすぐ炊けますけど」

 

言ってから、勝手に勧めてよかったかと思った。男は鍋の方を見たが、すぐに顔を戻した。

 

「食いてえけどな。銭も置いて逃げちまった」

 

俺は受け取った椀を持ち直した。

 

「ちょっと待っててください」

 

~

 

女将へ頼みに行くと、話し終える前に外を指された。

 

「あの二人も欲しそうに見てるよ」

 

通りの端に兵が二人立っていた。俺と目が合うと、一人が口を開きかけた。けれど声は掛けてこなかった。

 

「一人分なら、あたしもどうにかしてやるけどね。どこまで出すつもりだい?」

 

答えに詰まった。

 

目の前の男に飯を食べてほしかった。それだけで勧めたのだ。外の二人が来たら、もう駄目だと言えるだろうか。その後にも誰かが来たら。

 

董白が立ち上がって鍋を覗いた。

 

「宿の者の分を残すと、どれほど出せる?」

 

「別に炊くなら大鍋二つだね。それより出すと明日に響く」

 

粟と薪の代を聞き、俺は懐の銭を出した。

 

工賃を払った後だから、余裕はあまりない。それでも二鍋分なら出せる。董白にも残りを見せると、俺の顔を見て頷いた。

 

「なくなったら湯だけじゃ。それでもよいな?」

 

「ああ。二鍋、頼もう」

 

銭を渡すと、女将は棚から椀を下ろした。董白は人足の頭を呼び、外へ台を出してほしいと頼みに行った。

 

俺も腰掛けを運び出した。通りで待っていた兵が手を伸ばしてきたので、一瞬身構える。

 

「そっち、持つよ」

 

「ああ……お願いします」

 

二人で置いてから、手伝ってくれた礼を言った。兵は笑わず、ここで待っていていいか、と訊いた。

 

「ええ。炊けたら声を掛けます」

 

粥が炊けると、最初の男から順に運んだ。

 

「銭はねえって言っただろ」

 

「代は済んでます。食べてから探してください」

 

男は椀と俺の顔を見比べた。まだ何か言いたそうだったが、湯気の立つ粥を前にしては長く迷えなかったらしい。

 

匙を取ると、まずひと口。熱そうに息を吸い、それでもすぐ次をすくった。

 

「昨日から、ろくに食ってなくてな」

 

「ゆっくりでいいですよ。まだ炊いてますから」

 

男が頷いたところで、俺の腹も鳴った。

 

よりによって、今か。

 

「お前も食ってねえのかよ」

 

「これからです」

 

笑われた。だが、湯を渡す時よりは、ずっと近くに立っていられた。

 

~

 

粥を炊く匂いにつられたのか、台の前へ人が集まり始めた。

 

兵だけではなかった。子供を背負った女も、杖をついた老人もいた。人足の頭が腰掛けを詰めてもらい、女将は鍋から粥をよそった。俺は椀を運び、食べ終えた人から受け取って洗いに戻った。

 

「俺も、銭がないんだが……」

 

後から来た男が、小さな声で訊いた。

 

腰に刀があっても、飯をもらう時にはこんな顔をするのかと思った。俺は先に待っていた女を示した。

 

「銭は要りません。あの人の次でお願いします」

 

男は頷き、女の後ろへ座った。

 

向かいの店では、持ち去られた縄の代わりに何を掛けるか、店主が家の者と言い合っていた。その声が途中で止まった。こちらに並ぶ鎧姿を見ている。

 

目が合いかけて、俺は先に逸らした。

 

この兵たちが盗んだとは限らない。けれど、縄を持っていかれた男にしてみれば、同じような格好の連中へ粥を出すのは面白くないだろう。

 

「柳誠、椀が足りぬ」

 

董白に呼ばれ、手元を見た。洗いかけの椀を抱えたまま立っていた。

 

「悪い。すぐ持っていく」

 

水へ戻すと指が痛かった。今朝、火の前で温めたのに、もうすっかり冷えている。董白が横から洗った椀を取り、布で拭き始めた。

 

「配る方は?」

 

「今は足りておる。そなたが洗わねば、次の者へ渡せぬぞ」

 

俺は頷いて手を動かした。

 

初めは椀を差し出すたびに刀を見ていた。何度も行き来するうち、空になった椀の方が先に目へ入るようになった。

 

子供が匙を落とした。母親が拾おうとすると、隣の兵が自分の椀を膝へ挟んで取ってやった。土がついたので、俺が洗った物と取り替える。母親が礼を言うと、兵はもう粥を食べていた。

 

昼近くには二つ目の鍋も空になった。

 

後から来た者には湯しか出せなかった。鍋を覗いて残念そうにする人もいたが、湯だけでも欲しいと椀を受け取っていった。

 

最初の男は、戸口で人の顔を確かめていた。連れはまだ見つからないらしい。

 

「そろそろ行くよ」

 

立ち上がった足は、来た時ほど頼りなくは見えなかった。

 

「連れが見つかるといいですね」

 

「ああ。あいつにも食わせてやりたかったな」

 

「もう湯しか残ってませんよ」

 

「じゃあ、俺だけ食ってきたって言ってやる」

 

男は少し笑い、空の鍋へも顔を向けた。

 

「ごちそうさん。うまかったよ」

 

女将が鍋の底をさらいながら手を振った。男は今度こそ街道へ出ていき、通りかかった者へ連れを見なかったかと訊き始めた。

 

~

 

人が途切れた頃、杜恪が戻ってきた。

 

曹操は逃れたらしい。だが、息子の曹昂(そうこう)と甥の曹安民(そうあんみん)が死んだという。護衛の典韋(てんい)も帰ってこなかった。

 

「何人かに聞いたんだが、みんな同じ名前を言うんだよ」

 

典韋。

 

その名前だけは、すぐに顔が浮かんだ。

 

昔遊んだゲームで何度も使った。大きな武器を振り回す姿を覚えている。宛で死ぬのは、あの男だったのか。

 

俺は椀を洗う手を止めた。

 

顔が浮かんだと思ったが、それもゲームの顔だ。本当の典韋がどんな男だったか、俺は知らない。さっき粥を渡した兵のことの方が、まだ少しは知っている。

 

それでも、その名前を聞いた途端に驚いた。

 

ほかにも大勢死んでいるはずなのに。

 

「柳誠、聞いてるか?」

 

「……ああ。悪い、聞いてる」

 

杜恪は俺を見てから、通りへ顎を向けた。

 

「まだ街道で休んでる奴がいるんだ。湯はもらえるか?」

 

「あるよ。こっちへ来てもらってくれ」

 

「分かった」

 

杜恪が出ていっても、俺はしばらく同じ椀を擦っていた。董白に手を出されて、ようやく渡す。

 

「それはもう洗えておるぞ」

 

「そうだったな」

 

「知っておる者の話だったか?」

 

俺は顔を上げた。

 

董白は椀を拭きながら待っていた。何でもないと言って済ませる気にはなれなかった。

 

「名前はな。会ったことはない」

 

「そうか」

 

続きを訊かれなかった。俺は桶へ手を戻しかけ、冷たさに一度引っ込めた。

 

宛で戦がある。それしか覚えていなかった。

 

もっと知っていればと思う。けれど、典韋が死ぬと覚えていたところで、俺はあの時、張繡に何を言えただろう。

 

「張繡に飯を売ったのが俺たちだって、あの人が知ったらどう思うかな」

 

董白の手が止まった。

 

「……怒るかもしれぬな」

 

うまかったよ、と言って出ていった男の顔が浮かんだ。

 

飯を売らなければよかったと言いたいのではない。あの約束がなければ、昨夜は婆さんたちを車から下ろし、布団ごと担いでいたかもしれないのだ。

 

董白は拭いた椀を置き、俺の隣へ腰を下ろした。

 

「妾は、売ってよかったと思うておる」

 

俺が黙っていると、こちらへ顔を向けた。

 

「そなたも、皆も帰ってこられた。今朝、婆さんを家へ送った時は嬉しかったぞ」

 

「ああ。俺もだよ」

 

戸は壊れたままだし、盗まれた縄も戻っていない。書付が一枚あれば、何もかも守れるわけではなかった。それでも、あの布団を運ぶ時に嫁が笑っていたことまで嘘になるわけではない。

 

「ただ、あんなに礼を言われるとな……」

 

董白はすぐには答えなかった。

 

「あの者がどう思うかは、訊かねば分からぬ。妾が気にするなと言うても、そなたはまた考えるのであろう?」

 

「……まあな」

 

言い当てられて、少し笑ってしまった。

 

董白は俺の手から布を取り、桶の縁へ掛けた。

 

「少し休め。ずっと水へ手を入れておったぞ」

 

指を曲げると節が痛んだ。両手を擦り合わせ、通りを見た。

 

あの兵は、連れを見つけただろうか。見つけたら本当に自慢するのかもしれない。それで怒られて、また二人でここへ来たら。

 

やはり、何か食べていってほしいと思うだろう。

 

「連れ、見つかるといいな」

 

「うむ。腹を立てるのも、会ってからでなければできぬしな」

 

董白も街道を見た。

 

杜恪が連れてきた兵たちへ湯を渡してから、俺たちも飯にした。女将が残しておいてくれた粥は、すっかり冷めていた。

 

「食べたら、台を戻すのを手伝っておくれよ」

 

「ああ。その後で戸も見よう。閉めるたびに持ち上げるのは大変だろ」

 

「本当だよ。逃げるついでに、人んちの戸まで壊していくんだからねえ」

 

女将の愚痴を聞きながら、粥を口へ運んだ。冷えていてもうまかった。隣では董白も黙って食べていた。

 

~

 

三日後、張繡から使いが来た。

 

宿の戸には新しい板が当ててあった。男はそこへ目を留め、ほかにも被害があったかと訊いた。

 

俺は戸を破られた家と、盗まれた品の話をした。男は名前と品物を書き留めたが、弁償するとは言わなかった。こちらも、店の者に戻ってくると約束するわけにはいかない。

 

書き終えると、男は別の書付を出した。

 

「将軍からだ。宛へ来られる日を知らせてほしい」

 

張繡は宛へ戻り、倉も取り戻したという。売りに出す粟の商いを、約定どおりこちらへ任せると書いてあった。

 

俺はもう一度、初めから読んだ。

 

宛の主でいる間、倉から出す粟をこちらの札と値で扱う。三つ目の約束だった。

 

「少し待っていただけますか。相談してきます」

 

董白の所へ持っていくと、読み終えるより先に口元が緩んだ。

 

「ちゃんと覚えておったか」

 

「こっちから言いに行くつもりだったのか?」

 

「当然じゃ。町の車を通したから終わりなどと言われては困る」

 

董白は書付を俺へ返した。

 

「鄧遷にも知らせよう。宛へ行くなら、先に相談しておきたい」

 

「ああ。今度は喜んでくれそうだな」

 

まだ一粒も運んでいないし、どれほど売れるのかも分からない。それでも、話を聞きに行くための支度ならできる。車を出すことを考えて、久しぶりに先が楽しみになった。

 

女将が奥から声を掛けた。

 

「二人とも、飯は?」

 

「食べるよ。使いの人に返事をしたら戻る」

 

「じゃあ早くおいで。今日は温かいうちに食べてもらうからね」

 

董白が先に立った。

 

「日取りは鄧遷と話してから知らせればよかろう。そう伝えてくるぞ」

 

俺も書付を畳んで後を追った。男へ返事をすると、帰る前に湯を一杯もらえないかと頼まれた。

 

女将に声を掛けて椀を借りた。湯を注いで持っていくと、男は礼を言い、両手で受け取った。

 

今度は俺も、自分の粥が冷める前に席へ戻った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。