董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
第54話 初荷
「いつ宛へ行かれますか」
「それを相談しに来たのじゃ。売る先に心当たりはあるか?」
「ございます。粟を買いたいという者はおりましたので。ただ、宛の倉がいつ開くか分からず、待たせておりました」
鄧遷は奥へ声を掛け、別の書付を持ってこさせた。宛から荷車で二日ほど東へ行った町に蔵を持つ商人だという。道が落ち着いたら買い付けに来るつもりだったらしい。
董白が俺の脇を肘でつついた。
「何台出せる?」
「三台なら、いつもの人に頼める。向こうへ運ぶ道は訊いておかないと。俺も行ったことがないからな」
「では、まず三台じゃ。待たせておる者に、まだ欲しいか確かめてほしい」
「分かりました。先に知らせを出しましょう」
話が早かった。
俺が三台分の俵数を書いている横で、鄧遷はもう人を呼んでいた。車を出す日が決まれば、こちらで御者を集められる。宿と道の様子は、行き来している者に訊けばいい。
宛へ行く話が、遂に仕事に繋がった。
ただ、粟を買う銭は要る。
前の取引の払いを受けても、材料代や工賃を払えば、そのまま全部が残るわけではない。車と人を雇う銭を残しながら二十四俵を買うとなると、楽な額ではなかった。
その話をすると、鄧遷は俺の書いた俵数を見た。
「初めの粟代は、私が出しましょう。柳白様には宛の倉との商いと、買い手への受け渡しをお願いしたい。それぞれ掛かった銭を戻して、今回の儲けを半分ずつ。それでいかがですか」
董白は少し考え、頷いた。
「よかろう。帰りにも何か積みたいが、それは買い手の話を聞いてからじゃな」
「そちらで損をされては困りますぞ」
「損をするつもりで買いに行く者がおるか」
「そのつもりはなくとも、空車で帰るのが惜しくて、売る当てのない物まで積んでしまうのです」
鄧遷が苦笑した。
董白も口元を緩めた。
「そなたもやったのか」
「若い頃に、少々」
何を積んできたのか訊きたかったが、鄧遷は書付を俺へ寄せてきた。
「ですから、こちらでも売る先を探しておきましょう。何が欲しいか聞いてから買えば、帰りの道でもよく眠れます」
それには俺も賛成だった。
~
買い手から返事をもらい、張繡にも日取りを知らせてから宛へ向かった。
連れてきたのは御者三人と、道中の護衛を頼んだ男が二人。俺と董白も合わせて七人になる。宿で七人分の飯を頼むだけで、思っていたより銭が出ていく。
翌朝、車を倉の前へ回すと、張繡が蔵番と話していた。赤茶けた外套を肩に掛け、腰には剣を帯びている。
その隣に、見覚えのない男が立っていた。顎の髭に白いものが交じった、細身の男だ。灰色の長衣を着て、両手を袖へ入れている。
「柳白。来たか」
張繡に呼ばれ、俺は董白と一緒に進み出た。
「お待たせしました。車も連れて参りました」
「見れば分かる。こちらは
俺は、思わず男の顔を見直した。
前に杜恪から名前を聞いた時は、会わずに済んでほっとした。その男が、今日は目の前にいる。
後には曹操の所にいる、有名な軍師。それしか思い出せないが、それだけで余計なことを喋りたくなくなる。
「柳白殿ですね。お連れの方は?」
「……姪です。倉の仕事を手伝ってもらっています」
「そうでしたか。では、お二人とも中へどうぞ」
賈詡は戸口を空けた。
董白はいつもの顔で礼を言い、俺より先に入っていった。賈詡について覚えていることは、董白には話していない。緊張しているのは俺だけらしかった。
倉の中には、俵が積んであった。
町の倉でも見慣れているはずなのに、奥まで続く列を見て、足が止まった。戸口から差す光の中に、舞い上がった埃が浮いている。蔵番が呼ぶと、人足たちが俵の間から出てきた。
「今回、売りに回すのはこの列だ」
張繡が示したのは、手前の一列だった。
「奥は兵と城の者へ配る分だから、残す。売り物の方は、約定どおりお前たちの札と値で扱え。蔵番にも言ってある」
「ありがとうございます。今日は二十四俵、お願いしたいと思っています」
「三台か。お前たちなら、もっと欲しがると思っていたがな」
「買い手が決まっているのが、その分です。まず届けて、次も買ってもらえるか話してきます」
張繡は車の方を見てから、蔵番に俵を開けさせた。
俺たちも粟を確かめる。濡れた臭いはしない。手に取ってこぼすと、粒の間に少しだけ殻が残った。
「次はどれほど売りに出せそうか?」
董白が訊くと、蔵番は首を傾けた。
「どれだけ売りに回せるかは、その時にならんと分からん。今回の分なら、ここで間違いない」
「では、次に出せる数が決まりましたら、先にお知らせいただけませぬか。買い手と車を揃えて参ります」
董白が張繡へ顔を向けた。
「よかろう。次からは、こいつと直接話せ。いちいち俺が来るのを待たんでいい」
張繡に顎で示され、蔵番が頷く。董白は礼を言うと、町のどこへ知らせを寄越してほしいか、その場で伝えた。
俺は控えを出し、蔵番に俵の数をもう一度確かめた。こちらの札と合わせ、値を確認する。二十四俵なら、持ってきた銭で払える。
「よく出来た姪御さんですねえ」
すぐ横から声がして、顔を上げた。
賈詡は、蔵番と話し終えた董白を見ていた。
「商いの話も任せられるとは。助かるでしょう」
「ええ。ずいぶん助けてもらっています」
そこは、嘘をつかずに答えられた。董白はすました顔で、軽く頭を下げる。
「では、あとは頼むぞ」
張繡は蔵番へ言い置き、賈詡と一緒に倉を出ていった。
俺は二人を見送ってから、粟代の袋を開いた。蔵番へ銭を渡し、数えてもらう。
話したのは荷と商いのことだけだった。それでも、二人が帰った途端、いつもの支払いの方がずっと気楽に思えた。
俺が控えを受け取っている間に、董白はもう車の所へ行っていた。
「八俵ずつじゃ。上へ積む前に、下のものを寄せてくれ」
人足が俵を担ぎ、荷台へ下ろした。御者が膝で押して隙間を詰める。次の俵が来るまでに縄を脇へ避けると、董白も反対側から端を引いた。
俺は二台目の車へ回り、渡された縄を受け取った。
縄を掛け終わる頃には、上着を脱ぎたくなっていた。冷たい風は吹いているのに、背中が汗ばんでいる。
三台とも粟が積まれていた。
行きは軽くてよく揺れた荷台が、今は押してもびくともしない。
「ずいぶん嬉しそうじゃな」
声を掛けられて振り向くと、董白も笑っていた。風に流れる藍紫の長い髪を片手で押さえ、積み上がった俵を見上げている。
「そっちだって、さっきからずっと見てるだろ」
「当たり前じゃ。ようやく運べるようになったのだからな」
董白は一台目から三台目まで歩き、最後の車の横で足を止めた。
「次は、もう少し増やしたいのう」
「まずこれを売ってからな。鄧遷に返す銭もあるんだから」
「分かっておる。そなたこそ、同じ顔をしておったぞ」
否定はできなかった。
帰りにもう一度、この倉へ寄って積めないだろうか、と俺も考えたのだ。
出発の声が掛かり、先頭の御者が手を上げた。車がゆっくり動きだす。俺は荷台の端へ掴まり、歩幅を合わせた。
まだ売れてもいないのに、荷を満載した車と歩くのは気分がよかった。
~
東の町へ着くと、
「二十四俵、全部来たんですね」
車を覗く顔に、あからさまに喜びが出た。俺もつられて笑ってしまった。
「ええ。どちらへ下ろしますか」
「中へお願いします。場所は空けてありますから」
梁温が戸を大きく開けた。蔵の隅には荷があったが、真ん中は広く空いていた。粟が来るのを待っていたという話は、本当だったらしい。
俵を開けて中を見せ、量を確かめてから下ろした。梁温は家の者を呼び、約束の銭を運ばせる。
値を下げろとも、払いを待てとも言われなかった。
数え終わった銭を前にして、俺はもう一度、自分の控えを見た。出した粟の数も、受け取った額も合っている。
終わった。
「また来てもらえますか。これで足りるのは当座だけなんです」
董白は俺の手元を見てから答えた。
「宛で次に売る分が決まれば、お知らせします。欲しい数を先に聞いておければ、こちらも車を集めやすい」
「それなら助かります。鄧遷殿にも何度か頼んだんですが、倉の話が決まらないと言われましてね」
「今回からは、わたしたちが伺えます」
董白はそう言って、次の注文を聞き始めた。
俺は新しい控えを出した。今日の分が売れれば上出来と思っていたのに、もう次の仕事の話になっている。
帰りに積む麻布も、梁温の所で買えた。
町で頼まれた数と使い道を伝え、麻布を広げてもらった。同じ麻布でも随分違う。目の粗いものと詰んだものがあり、触ると硬さも違った。
俺が一枚の端を摘んでいると、梁温が裏返して見せてくれた。
「荷を包むならそちらで十分です。着るものなら、こっちの方が肌に当たりません」
「丈夫な上着にしたい、という注文もありました。そうなると、こちらですか」
「そうですね。よく洗ってから仕立てれば、今より柔らかくなりますよ」
董白が隣で布を握り、放してから指で撫でた。
「上着に使う布はこちらにしよう。頼まれた分は揃えられるか?」
梁温が奥から一巻き持ってきた。俺たちは注文の分を揃え、銭を出す。
粟を売った銭のうち、鄧遷へ戻す分と道中の払いは使わずに取っておいた。麻布を買えたのは多くなかったが、帰りの荷台を全部埋める必要もない。
「これなら皆、帰りは荷台で休めるな」
御者の一人が、布を積みながら言った。
「乗せてもらうぞ。ここまで歩いてきたのじゃ」
董白がすぐに答えた。
「どうぞ。ただ、寝ちまって落ちないでくださいよ」
「落ちぬように運んでくれ」
「その分、ゆっくりになりますねえ」
結局、急がなくていいということになった。俺も帰りは乗りたかった。
その晩は梁温が飯を出してくれた。
以前はもっと東、徐州まで荷を送っていたという。俺がどれほど遠いのか訊くと、梁温は箸を持ったまま笑った。
「今の道ですからね。何日で着くと言い切ると、後で嘘つきになります。去年もひどい目に遭いましたよ。呂布が劉備から下邳を奪ったでしょう」
董白の箸が止まった。
「荷を送った先で主が変わりまして。払ってくれる相手は残っていたんですが、会いに行くまでが大変で。いくら取れるかより、ちゃんと帰ってこられるかを先に考えるようになりました」
「それで今は、こちらで?」
「ええ。東の知り合いとは、まだ商いもしてますけどね。向こうへ送る荷があれば、声を掛けてください。いきなり車だけ出すよりは、お役に立てると思います」
「その時は、お願いします」
俺が礼を言う間に、董白は箸を置いていた。
料理はまだ残っていたが、次を取ろうとはしない。俺が顔を向けると、こちらを見て、椀を持ち上げた。
梁温は別の道の話を始めた。俺は宿の名を聞き、覚えておこうと何度か口の中で繰り返した。
~
町へ戻ると、御者たちは車を止めるなり荷台の縄を解き始めた。
俺も腰を伸ばしてから手を貸した。乗せてもらって楽になるはずだったが、今度は尻が痛かった。途中から歩いたことを言うと、御者に笑われた。
麻布は買う人ごとに分けてあったので、渡すのは早かった。知らせを聞いた店の者が受け取りに来て、頼んだ布の端を広げて見る。
「ああ、これだ。こういうのが欲しかったんだよ」
荷を包む布を頼んだ男が、両手で引いて強さを確かめた。上着にすると言っていた女は、日に透かしてから自分の腕へ当てていた。
銭を受け取り、名の横へ払い済みと書いた。
最後の一人へ渡し終えた頃、鄧遷が来た。
「帰られたと聞きまして。どうでしたか」
「梁温さんが、次も欲しいそうです。こちらが注文の数で、これが今回の売り上げです」
並べた控えを、鄧遷が順に見ていった。
その間に御者と護衛へ残りの賃を払った。受け取った男の一人が、掌へ広げて数えた。
「合ってるよ。また出すなら呼んでくれ」
「次も同じ道になると思います。日が決まったら、早めに声を掛けますね」
「頼む。こっちも仕事を入れちまうからな」
皆が銭をしまうのを見届けて、俺も席へ戻った。
粟と麻布の売り上げを合わせ、仕入れ代と車代、人の賃、宿と飯の代を差し引いた。鄧遷と俺たちが出した銭をそれぞれ戻しても、帳簿で確かめたとおりの儲けが残った。
それを二つに分けた。
俺は自分たちの方へ寄せた銭を眺めた。帳簿で確かめた額なのに、こうして手元へ来ると、少し多く見える。
「帰りの布も、ちゃんと儲かったぞ」
「うむ。あれを買っておいてよかったな」
「これなら次の車代は出せる。前の銭を崩さなくても」
言ってから、頬が緩んだ。
飯も食った。宿にも泊まった。手伝ってくれた人へ賃を払い、鄧遷が出した銭も戻した。
その後に、これだけ残ったのだ。
董白が片手を出してきたので、俺は銭を少し載せた。重さを確かめるように持ち上げ、それから、にやりと笑う。
「もう一度、行けるのう」
「ああ。行けるな」
鄧遷も自分の分をしまいながら笑っていた。
「次の仕入れにも、声を掛けていただきたいものです」
「もちろんじゃ。まだ、そなたの銭にも働いてもらわねばならぬ」
「お二人だけで始められると、寂しいですからな」
「よく言う。寂しいのは懐であろう」
俺は笑いながら、董白から銭を受け取った。
そのうちから、今夜の飯の分を取っておく。御者たちがまだ表で喋っていたので、一緒に食べないかと声を掛けた。女将へ頼みに行くと、もう人数を数えていた。
「肉も入れておくれ」
後ろから来た董白が言った。
「そんなに奮発して大丈夫かい?」
女将が俺の顔を見た。
「今日は大丈夫。皆の分を頼むよ」
董白が満足そうに頷いた。俺も肉を食べたかった。
~
皆で食うと、飯はすぐになくなった。
護衛の男たちは酒も欲しがったが、それは自分で払ってもらった。御者が帰り道の話をして、俺と董白のどちらが先に車から下りたかで笑った。
先に下りたのは俺だ。
董白は最後まで乗ると言い張っていたのに、俺が歩き始めると、少ししてから下りてきた。そのことを言おうとすると、下から膝を小突かれた。
「道を見ておきたかったのじゃ」
「俺、まだ何も言ってないぞ」
「顔を見ればわかるわ」
そこまで言われては、もう言えなかった。
部屋へ戻ってからも、董白は機嫌がよかった。上着を脱いで掛けると、次に宛へ行く時には帰りの麻布を増やそうと言った。
「今日の布を見て、欲しくなった者もおるであろう。出るまでに、もう一度聞いて回ろうぞ」
「そうだな。俺は車の方を訊いてくる。今度は待ち時間も少し減らせると思う」
明日の仕事を書き留めて、筆を置いた。
まだ少し、浮かれていた。
「梁温さんの所で話が決まってよかったな。次も来てくれって、何度も言ってたし」
「うむ。……聞きたくもない名まで聞いたがな」
声が変わって、俺は顔を上げた。
董白は上着の袖を直していた。掛けたばかりなのに、同じ所をもう一度撫でている。
「呂布の話か」
「お祖父様を殺しておいて、まだ他人の土地で威張っておるのじゃな、あやつは」
袖から手が離れた。
「いったい、いつまで……」
「ずっとそのままじゃないよ。
しまった。慌てて口を閉じた。
曹操に殺される。そう続けるところだった。
まだ起きてもいないことだ。いつのことなのか、俺にも分からないのに。
董白がこちらを向いた。
しばらく俺の顔を見ていたが、やがて、ゆっくりと目を伏せた。
「……そうか」
さっきまでの怒りを抑えたような、静かな声だった。
死ぬとは言わなかった。けれど、あんな慰め方をしてから黙ってしまえば、続きを察するくらい、董白にはできる。
「白、俺は……」
「もう寝ようぞ。明日も早い」
董白は机の銭袋を俺の方へ寄せた。
「それ、しまっておくれ」
「ああ」
袋の口を結ぶ間も、董白は続きを求めなかった。俺も、言いかけたことを取り繕えずにいた。
銭をしまって振り返ると、もう横になっていた。
「灯りを消してよいぞ」
俺は返事をして、灯りを消した。