董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
お手数をお掛けします。
董白は、俺が持つ銭袋を見た。
申達が口を開く前に、俺は言った。
「これを軍へ持っていったって、買ってもらえないだろ。俺たちが腐った粟を売りに来たと思われるだけだ」
「全部が傷んでいるわけではありませんよ」
申達は、最初に開けた俵を示した。
そこから貰った粟は、まだ卓の上にあった。色も臭いも、俺が奥から出したものとは違っていた。
「それなら、初めから両方見せてくれればよかったじゃないですか」
申達は答えなかった。
この男の話を断れば、軍へ近づける機会を逃すのかもしれない。
それが怖かった。
董白が望んでいることを、俺が邪魔しているようにも思えた。それでも、ここで袋を渡すことはできなかった。
董白が、手にしていた粟を俵へ戻した。
「柳誠。銭をしまっておくれ」
俺は、董白を見た。
「もう、買わぬ」
はっきり言ってから、申達へ向き直った。
「紹介も結構です」
「お急ぎではなかったのですか」
「急いでおります。食えぬ粟を売りつけられている暇もないほどに」
董白は、袖についた殻を払った。
俺は袋をしまい、戸口にいる護衛へ声を掛けた。
「帰ろう」
申達が後ろから呼び止めた。
「待ってください。傷んでいる分は、もう少し引きますから」
「要りません」
今度は、俺が答えた。
董白も振り返らなかった。
~
宿へ戻る道で、杜恪と会った。
「どうだった。買えそうなものはあったか」
「腐った粟を売られそうになったよ」
俺が答えると、杜恪は足を止めた。
申達との話を聞き終える頃には、顔をしかめていた。
「宿の主人にも言っておく。ああいう売り方をする奴だと、知ってて客に紹介したわけじゃねえだろうしな」
「頼む。俺たちは何も買ってない」
「そりゃよかった」
杜恪は先に宿へ入っていった。
董白は庭に置いた俺たちの車の前で、足を止めた。積んであるのは、持ってきた麻布の包みだ。
俺もその隣に立った。
何も買わずに済んだのだから、ほっとしていいはずだった。けれど、董白が黙っていると、余計なことを言ったような気になってしまった。
「……悪かったな」
先に口を開いたのは董白だった。
「そなたが止めてくれねば、買っておったかもしれぬ」
「まだ全部見てなかったんだから、どのみち気づいただろ」
「その前に、払わせるつもりじゃったのかもしれぬぞ」
董白は車へ手を置いた。
「三日後なら間に合うか、そればかり考えておった。あやつに訊きたいことが、次から次へ出てきてな」
俺は、すぐには返せなかった。
さっきの董白は、普段ならしないほど熱心に、知らない男へ話しかけていた。
「怖かったのじゃ」
董白が小さく言った。
「こんな所で待っておる間に、何もかも終わってしまうのではないかと思うと……。どこかの宿で、呂布は死んだそうだと聞かされて、それで終わりになるのは嫌じゃ」
俺は董白の顔を見た。
呂布のことなら腹を立てていると思っていた。けれど、今はそれ以上に、間に合わないことが怖いのだ。
ずっと探してきた相手だった。
「早く行きたいよな」
「うむ」
「俺も、あの話が本当ならよかったのにって思ったよ」
董白がこちらを向いた。
「だから、断ったらがっかりするんじゃないかと思って、ちょっと怖かった」
「そんなことで、そなたを責めたりせぬ」
返事は強かった。
「止めてくれて、よかった。そなたまで、妾の機嫌を気にして黙るでないぞ」
少し叱るような口ぶりだった。それがかえって嬉しくて、俺は頷いた。さっきまで言いそびれていたことも、今なら話せそうだった。
「なら、よかった。……またほかを探そう。梁温さんの取引先までは、あと少しなんだから」
「うむ」
董白は車から手を離した。
「そなたが一緒で、助かった」
嬉しかった。
特別なことをしたわけではない。いつもどおりに粟を確かめただけだ。それでも、ここまで来た甲斐があったと思えた。
宿の中から、杜恪が俺たちを呼んだ。
「明日は朝から渡しへ行こう。軍の車が通った後なら、ほかの荷も渡してるそうだ」
董白が顔を上げた。
俺も杜恪の方へ歩いた。
まだ、先へ進める。
~
翌朝、渡し場にはもう車が並んでいた。
俺たちは最後尾へついた。申達の姿は見えなかったが、探す気にはならなかった。
軍の糧を運ぶ車が、先に船へ載せられていた。
俺は一台が渡るたびに、次こそこちらかと御者の方を見た。ところが別の荷が呼ばれ、俺たちは動けないままだった。
またか、と腹が立ったが、俺たちの番を早める方法はなかった。
董白は荷台に腰を掛け、上着の中へ手を入れていた。川風が冷たく、膝へ掛けた布の端が揺れていた。
「寒いか?」
「そなたこそ、座ればよい。立っておっても、順は早まらぬぞ」
言われて、隣へ腰を下ろした。
「早く行きたいんだよ」
「妾もじゃ」
顔を見合わせると、董白が少し笑った。
俺ばかり落ち着いて待てと言うのも無理な話だった。さっきから俺も何度となく、あと何台なのか数えていた。
董白が膝の布を少し広げたので、端を借りた。二人で掛けるには狭かったが、風を避けるくらいには役立った。隣に座っていれば、無理に何か言ってやろうと考えずに済んだ。
昼を過ぎ、ようやく俺たちが呼ばれた。
杜恪が立ち上がり、御者へ手を振った。俺と董白も荷台から下りた。
兵に行き先を告げ、麻布を見せると、船へ進むように言われた。
それだけだった。
軍の車を先に渡す間、待たなければならなかった。けれど、俺たちが通れないわけではなかったのだ。
車を船へ載せるのを手伝い、向こう岸へ渡った時には、腕も脚も疲れていた。
それでも、動けるのが嬉しかった。
御者が、日のあるうちに少しでも進もうと言った。俺たちは頷き、車と一緒に歩きだした。
~
梁温の取引先へ着いたのは、翌日の夕方だった。
蔵の前で名を告げると、奥から背の低い男が出てきた。肩幅が広く、袖を肘までまくっていた。
俺の差し出した紹介の書付を読むと、すぐに人足を呼んだ。
「待っていましたよ。道は大変だったでしょう」
「渡し場で、少し。麻布は頼まれた分を持ってきました」
「助かります。こちらへ入れてください」
御者が車を回した。
荷台の縄を解きながら、俺はほっとしていた。ようやく、届けると決めていた相手へ荷を渡せる。
男が麻布を確かめている間に、董白が訊いた。
「下邳では、まだ戦が続いておりますか」
「ええ。呂布を捕らえたとは、まだ聞いていません」
董白は、ゆっくり頷いた。
「そうですか」
俺も安心した。
まだ間に合うかもしれない。それだけで、ここまでの疲れが少し軽くなった。
董白は続けて、軍の者に会いたいと頼んだ。
男は頷いた。
「その話は、梁温殿から聞いております。私が糧を納めている相手に、お二人が着いたと知らせましょう。いつ会えるかは、返事をもらってからになりますが」
「お願いします」
董白が頭を下げた。
それからは、荷を下ろすのも早かった。俺たちも手を貸し、空になった車を庭の隅へ寄せた。
宿へ案内してもらう頃には、暗くなっていた。
その晩、飯を食っていると、蔵へ戻っていた使いが返事を持ってきた。
軍で糧の買い付けをしている者が、明日の朝なら会うという。
俺が読み終える前に、董白は隣から文面を覗いていた。
「明日の朝じゃな」
「ああ。会って話を聞いてくれるって」
董白は、ようやく笑った。
俺も嬉しくて、もう一度書付を読んだ。まず、どんな荷を扱えるか聞きたいという返事だった。
書付を渡すと、董白は読み終えてからも、しばらく目を離さなかった。俺も急かさずに待った。ここまで一緒に来てよかった。
「今夜は、ちゃんと寝ないとな」
「そなたこそ、寝坊するでないぞ」
「起こしてくれよ」
「起こす。起きるまで、何度でもな」
それなら大丈夫そうだった。
俺は書付をしまい、冷めかけた飯へ箸を伸ばした。