董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
荷車が止まると、董白も止まった。
歩き出せば、またついてくる。城門を出る前のように、俺を追い越そうとはしなかった。頭からかぶった粗布の下で、足元を見て歩いている。
「白、少し離れてもいいからな。車輪のすぐ後ろだと、石が飛んでくる」
董白が顔を上げた。
呼び慣れない名だった。俺が門で勝手に付けた名を、自分で呼んでいる。董白も何か言いたそうに俺を見たが、結局、車から半歩だけ離れた。
昼を過ぎた頃、前の荷車が傾いた。
車輪が深い轍にはまったらしい。前から順に人が降りてきて、荷台の後ろと車輪の脇に手をかけた。俺も書具箱を道端へ置き、空いた所へ入った。
「そっちの娘にも押させろ。止まったら手を貸す約束だぞ」
男が董白を指した。
董白は車の脇に立ったままだった。指を向けられて、ゆっくり顔を上げる。
俺は先に口を開いた。
「病み上がりなんです。その分、私が押します。まだ歩くのもやっとなので」
「なら、遅れんように見ておけ。ここで置いていくわけにもいかんが、ずっと待ってはやれんぞ」
男はそれだけ言って、車輪の下へ平たい石を差し込んだ。
「白、そこは危ない! 箱のそばへ寄っててくれ」
董白は車輪を見た。男が石を押し込み、車体がまた傾くと、道の端へ退いた。
掛け声に合わせて押す。
手を貸しますと言った時には、もう少し動くつもりだった。だが、荷車は重い。足が土を滑り、腕より先に腰が痛くなった。ほかの男たちが声を合わせ直し、俺も歯を食いしばった。
車輪が石へ乗り、轍から抜けた。
荷隊はすぐに動き始めた。俺が息を整えている間に、前の車はもう進んでいる。
書具箱を拾いに戻ると、董白が脇へ避けた。
「行こう」
少女は黙って、俺についてきた。
怒鳴られない方が楽なはずなのに、何も言われないまま歩くのは、気が重かった。
~
その晩は、道沿いの村の外で休んだ。
荷車を半円に並べ、間で火を焚く。護衛の男が干し肉を炙り、別の男が乾餅を割った。火が起きると、昼の間は厳しい顔をしていた者まで、足を投げ出して話し始めた。
俺は村で買った乾餅を持って、董白の所へ戻った。
車輪のそばに座り、膝を抱えている。粗布の端へ手をかけたが、人の話し声がすると、そのまま顔を伏せた。
「飯を買ってきた。硬いけど、火で少し温めてもらったから」
差し出すと、董白は受け取った。
俺も自分の分を齧った。固くて、口の中の水気がなくなる。それでも、噛んでいるうちに腹が減っていたことを思い出して、次の一口を急いだ。
董白の手は動かなかった。
「少しでいいから食えよ。昨日から、まともに食ってないだろ」
「要らぬ」
昼の間、ほとんど聞かなかった声だった。
「水もある。飲みながらなら、少しは食いやすいと思う」
「要らぬと言うておる。今は食べたくないのじゃ。何度も勧めるな」
乾餅を押し返された。
俺は受け取り、布へ包んだ。腹が減っていないはずはないと思う。だが、だから食えるとは限らないのかもしれなかった。
董白は火の方を見ていた。
男たちが乾餅を分け、空になった水袋を次の者へ渡している。誰と一緒に食い、誰の隣で眠るか、もう決まっている人たちだった。
俺は水を入れた小さな椀を持ってきた。
「じゃあ、水だけでも。乾餅は取っておくから、後で食いたくなったら言ってくれ」
しばらく待つと、董白の手が伸びた。
両手で受け取り、一口飲む。そのまま膝の上へ椀を置いた。
俺は少し離れて座った。
火の向こうで、長安の話が始まっていた。南門の列が長かった。屋敷の物を兵が運んでいた。王允が董氏の一族を探させている。
「李傕や郭汜は、西へ退いたそうだな」
一人が言うと、別の男が火へ枝を足した。
「残ってりゃ、そいつらも捕まるだろうよ。これで少しは静かになるかね」
俺は董白を見た。
顔は上がらなかった。
彼らにとっては、逃げてきた城の噂だった。これから道が通れるか、荷が売れるか、そんな話の一つなのだろう。
だが、俺のそばには、その屋敷から逃げてきた娘がいる。
俺は書具箱を開けた。
筆と木簡の下からノートを抜き、ほかの者へ背を向けて開いた。忘れないようにと書いたものなのに、読むまで落ち着かないことがある。
董卓は呂布に殺される。
李傕と郭汜が長安へ戻る。
同じ頁に書いてあった。
一つ目は、もう起きた。二つ目は、まだだ。あの二人が西へ退いたのなら、戻ってくるのはこれからだった。
いつなのかは、分からない。
董卓が殺された日も知らなかった。知っているつもりで、俺はその屋敷へ仕事に行っていたのだ。次も、気がついた時には始まっているかもしれない。
「何を見ておる?」
顔を上げると、董白がこちらを見ていた。
俺はノートを閉じた。
「自分で書いたものだよ」
「ならば、なぜ閉じる。妾には見せられぬことが書いてあるのか?」
声に、少し力が戻っていた。
俺は冊子を箱へしまった。
「悪いけど、これは見せられない。ただ、聞いてほしいことがある。長安のことだ」
董白の指が椀から離れた。
言わない方が、今夜は静かに済むだろう。あの娘は疲れているし、俺もこれ以上揉めたくなかった。
けれど、また祖父の兵に呼び止められたらどうする。郿塢へ行ける、長安へ戻れると言われた時に、俺が知っていたと話しても遅い。
「長安は、また荒れる。李傕と郭汜が兵を連れて戻ってくるんだ。いつになるかは分からないけど、今の騒ぎで終わりじゃない」
董白は俺を見ていた。
「あの者たちは、西へ退いたと今も話しておったではないか。長安には王允も呂布もおる。戻ったところで、散った兵で何ができると言うのじゃ?」
そこは、俺には説明できなかった。
どうやって集め、誰が門を破るのか。その辺りを覚えていれば、もう少し信じてもらえる言い方ができたかもしれない。
「それでも戻ってくる。兵が城へ入って、また戦になる。だから、長安へ帰れるって言う人に会っても、すぐについていかないでほしい」
「祖父様の兵が戻るなら、王允らに奪われた城を取り返すのであろう。妾には、その方がよい。そなたはなぜ、あの者たちが戻ることまで止めようとする?」
董白の声が強くなった。
「城を取り返しても、お前を守ってくれるとは限らない。兵が家に入って、物を奪って――」
「祖父様の兵を、賊のように申すな!」
火のそばの男が振り向いた。
俺は口を閉じた。董白も、すぐに粗布を引き下げた。
男は俺たちを見ていたが、やがて隣の者に話しかけられ、火へ向き直った。
「……声を落としてくれ。今のを聞かれたら、まずい」
「そなたが言わせたのじゃ。妾の家の者を、何も知らずに悪しざまに申すから」
その言葉に、返事ができなかった。
俺は李傕にも郭汜にも会ったことがない。董白にとっては、名前だけの人間ではないのだろう。
だが、知っていることを黙っていたくもなかった。
「分かった。今は、これ以上言わない」
「今だけではない。二度と申すな」
董白は顔を背けた。
俺は乾餅の包みを置き、少し離れた所へ移った。
俺は、董白が太師府でどんなふうに暮らしていたかを、ほとんど知らない。俺にとっては木簡を抱えて仕事に通い、夕方になれば出ていく屋敷だった。
祖父がいて、家があって、人が待っていた場所へ帰るなと言われても、簡単にうなずけるはずがなかった。
火を囲む声が、夜遅くまで続いていた。
~
翌朝、乾餅は少しだけ減っていた。
食べ残した分を返され、俺は何も言わずに包んだ。食えと言うたび、食わないと言わせている気がした。
董白は荷隊の誰とも話さなかった。俺にも、必要なことしか言わない。
水を置くと、そこは傾いておると言う。では箱の上へ置くと答えると、足を少しずらして場所を空ける。それくらいだった。
夜中に目が覚めると、董白は膝を抱えていた。眠っているのかと思っていると、見張りの足音に顔を上げた。
俺は寝直したが、朝、あの娘がいつ横になったのかは分からなかった。
それでも、長安へ戻るとは言わなかった。
城を出て三日目の昼。
荷隊が、道沿いの井戸で止まった。
水を汲む順番を待っていると、来た道から馬が二頭近づいてきた。荷はほとんどない。乗っている男の一人が、肩へ布を巻いていた。布には血が染みている。
荷隊の男が道を空けながら声をかけた。
「長安からか? ひどい格好だな」
「水を分けてくれ。頼む」
男は馬から降りなかった。差し出された革袋を受け取り、口からこぼれるのも構わず飲んだ。
「戻るつもりなら、やめておけ。涼州の兵が入った。李傕と郭汜だ。西から兵を連れてきて、門を破ったんだ」
桶を持っていた男が、手を止めた。
俺も動けなかった。
もう、来たのか。
覚えていることと、それを聞いて平気でいられることは、別だった。
「城の中まで入ったのか? どの辺りだ?」
荷隊の男が、馬のそばへ寄った。
「北の通りで見た。戸を壊して、家へ入っていった。蔵も開けられていた。止めようとした者が斬られて……俺たちは、それを見て逃げた」
男は肩の布を押さえた。もう一人が、その横で馬の手綱を握り直す。
「火も出ていた。まだ向こうに家族がいるなら、しばらく帰れんぞ」
「王允や呂布は、何をしてたんだ?」
護衛が訊いた。
「知らん。そんな所まで見に行けるか! 自分の家へ戻ることもできなかったんだぞ」
男の声が荒くなった。
井戸の周りで、幾人もが一度に話し始めた。家を残してきた者が通りの名を訊き、商人は武関まで閉じられないかと護衛へ詰め寄った。
俺は董白を捜した。
最後尾の荷車のそばにいた。粗布の端に手をかけたまま、馬上の男を見ている。
俺が言った時には、祖父の兵を賊のように言うなと怒った。
今、話している男は董白を知らない。李傕も郭汜も、あの娘の祖父に仕えた者だとは考えず、家へ押し入った兵の名として口にしていた。
董白がこちらを向いた。
俺は何も言わなかった。
だから言っただろう、とは思えなかった。俺たちが逃げてこられたことと、あそこに残った人が助かったかどうかは、別の話だった。
「水を汲んだ者は戻れ。先へ進むぞ!」
荷隊の男が声を張った。
桶が運ばれ、人が車へ戻っていく。馬の二人も革袋を返し、先を急いだ。
俺は水を持ち、董白の所へ戻った。
「行こう。すぐに出るって」
返事がなかったので、書具箱を拾い上げた。
その袖を、強く掴まれた。
「……そなた、何者じゃ?」
董白が俺を見ていた。
怒鳴る声ではなかった。だからかえって、ただの書吏だと答えるのをためらった。
「李傕と郭汜が長安へ戻ると、なぜ分かった?」
「戻ると思ったんだよ。太師が死んで、長安の倉も財も王允たちに取られた。散った兵がまた集まっても、飯と銭がなければ養えないだろ。だったら、長安を取り返すしかないんじゃないかって」
言いながら、俺は自分でも納得しかけていた。兵を動かすには飯が要る。その勘定なら、書吏が考えたことにしてもおかしくない。
董白は最後まで聞いていた。
「郿塢がある」
俺は口を閉じた。
「兵も、祖父様の蓄えも残っておると、あの者は申した。そなたも聞いておったであろう」
「……でも、王允たちに追われてるなら、いつまでも逃げてはいられない。どこかで戦わないと」
「それなら、郿塢に籠って迎え撃つこともできる。あそこに兵と財があると見回りへ教え、あの者を捕まえさせたのは、そなたじゃぞ。飯と銭がないから長安へ戻るしかないなどと、なぜ今になって申す?」
胸の辺りが冷たくなった。
忘れていた、と言えば済むだろうか。だが、あの男を捕まえさせた時、俺はその話を聞き逃すどころか、兵に聞こえるよう言い直していた。
「戻ってくるかもしれないだけでも、お前を帰らせたくはなかった。だから、強く言ったんだ」
「帰るのが危ない、それはいいじゃろう。しかしあの二人が長安を攻めると知っていることは別じゃ」
袖を掴む手は、離れなかった。
「今の説明では、郿塢へ逃げるとも言える。長安へ攻め戻るとも言える。それなのに、あの夜は戻ると言い切った。本当は、何を知っておった?」
俺は書具箱へ目を落とした。
すぐに顔を上げたが、董白はその動きを見ていた。
もう、別の理由を探せなかった。言葉を重ねるほど、この娘に隠したいことがあると教えている。
「……今は言えないんだ。ごめん」
董白は俺を見ていた。
怒鳴られる方が、まだ楽だった。
前の車が動き始めた。
「そこの二人、遅れるな!」
呼ばれて、董白が手を離した。
「行こう。ここで離れたら、追いつけない」
董白は俺をもう一度見て、それから歩き出した。
~
その夜、俺は董白の分の乾餅を二つに割った。
荷車の陰へ行くと、董白が顔を上げる。差し出したものを見て、また目を伏せた。
「今は要らぬ」
「明日から山道に入るって。今日も朝に少し齧っただけだろ。全部じゃなくていいから、半分だけでも食ってほしい」
言ってから、また同じことを言わせるのかと思った。
董白は黙っていた。
断られたら置いていこうと、布を広げかけた時、小さい方の欠片を取られた。
俺は手を止めた。
董白は乾餅の端を齧り、時間をかけて噛んだ。飲み込むと、水の椀へ手を伸ばす。
「明日は、どこまで行く?」
「次の宿場まで。今日は水場があったから早く止まれたけど、明日はもう少し歩くってさ」
「山を越えるのか?」
「明日だけで越えられるかは聞いてない。朝、出る前に確かめるよ」
董白はうなずき、もう一口齧った。
俺もそばへ座った。昼に訊かれたことを、また訊かれるだろうかと思いながら、自分の乾餅を出す。
董白は、俺が話せないと言ったことには触れなかった。
小さい方を食べ終えると、布の上に残った欠片へ目を落とした。
「そちらは朝に食う。包んでおけ。歩き出してからでは、落としそうじゃ」
「分かった。朝、水と一緒に渡す」
俺は残りを布へ包み、董白の膝へ置いた。
少女は包みを自分の脇へ寄せた。
今夜は、俺へ返さなかった。