董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
武関を越え、それから何日か歩いた日の夕方、荷隊は南陽西部の宿場へ入った。析という小さな宿場だった。
土の道の両側に宿と店が並び、軒下には旅人の荷物が積まれている。長安から一緒だった荷車も、宿の前で一台ずつ止まり始めた。
山道へ入ってからも、董白は荷隊に遅れなかった。朝に残しておいた乾餅を食べ、俺が足を止めるまで歩き続けた。
それでも、宿場へ着く頃には、歩幅がずいぶん狭くなっていた。
先頭にいた男が、俺たちに顎をしゃくる。
「お前たちはここまでだ。南陽には入ったぞ」
「ありがとうございました」
俺が頭を下げても、男はもう次の荷車へ声を飛ばしていた。荷隊はこの先も南へ進む。
二十銭で連れてきてもらう約束は、南陽へ入るまでだった。
董白は宿場を見回し、最後に俺を見た。
「それで、今夜はどこに泊まる。もう決めておるのじゃろうな?」
「いや、今から探す。どこが空いてるかなんて、着いてみないと分からないだろ」
董白の目が細くなる。そう答えながら、腰の銭袋に手を入れた。
残っている銭は、もう数えるまでもない。ここまでの乾餅と、荷隊に払った分でほとんど使ってしまった。二人分の寝床を取れば、明日の飯が買えない。飯を買えば、今夜は道端で寝ることになる。
書具箱を売れば、今夜くらいは部屋へ入れるかもしれない。けれど、箱も筆もなくしたら、字を書く仕事はできなくなる。董白に残った簪は形見で、印は人に見せられない。
持っている物はあるのに、今手放せる物は一つもなかった。董白は俺の手元を見たが、何も聞かなかった。
荷隊の人たちは、泊まる宿を知っていた。顔なじみの店へ入り、荷物を下ろし、馬に水を飲ませている。
俺たちだけが、道の真ん中に残った。
ひときわ大きな宿の庭先で、女の怒鳴り声がした。
「見つからないなら、もう一度見な! 荷札だけじゃなく、荷物の印までだよ!」
庭には、麻布で包んだ荷物と油の甕がいくつも置かれていた。下働きらしい男が二人、木札を片手に荷物の間を行き来している。その真ん中に、太い腕を腰に当てた女が立っていた。
「丸印の荷物は、麻布が一つ足りなくて甕が一つ多い。二本線は逆だ。誰が入れ替えたんだい」
「札の通りに分けました」
「だから、その札と荷物が合ってないんだよ!」
女の後ろには、宿の入口がある。屋根も、火の入った竈も見えた。俺は少し迷ってから、庭へ入った。
「すみません。その荷札、見せてもらえませんか」
女がこちらを向いた。俺の書具箱と、粗布を被った董白を順に見る。
「何だい、あんた。泊まりなら銭が先だよ」
「すみません、銭は足りないんです。でも、字と数なら分かります。あれを分け直すんで、今夜だけ泊めてもらえませんか」
女が片方の眉を上げた。
「ずいぶん勝手な頼み方だね」
追い返されるかと思った。
女はもう一度、庭に散らばった荷物を見た。空は暗くなり始めている。このままでは、客が戻る前に分け終わらない。
「本当に読めるのかい?」
「はい。前は書吏をしてました」
女は俺の書具箱をもう一度見た。
「なら、やってみな。荷物と札が全部合ったら、馬屋の脇を貸す。屋根はあるよ」
女は董白に目を移した。
「娘にも灯を持たせな。二人でやるなら、残り粥も二人分出すよ」
董白の顎が上がりかけた。俺は先に、下働きの男が持っていた灯を受け取る。
「白、灯を頼む」
「……持てばよいのじゃな」
董白は灯を俺から取り上げた。言い方は気に入らないらしい。
それでも、灯はちゃんと持った。
俺は地面に置かれた二枚の荷札を拾った。
木札には客の名前がなく、丸か二本線の印と、麻布と甕の数だけが書かれていた。丸印は麻布が五つと甕が二つ。二本線は麻布が四つと甕が三つ。
麻布も甕も、庭にある数そのものは合っていた。なくなった荷物はない。
丸印の山に混じった甕と、二本線の山に混じった麻布を見つければいい。
俺は二枚の荷札を、それぞれの山の前に置いた。そのうち一枚が、庭を抜けた風に煽られた。
「柳誠、札が飛ぶぞ」
董白が足を伸ばし、車輪の下へ入る前に木札を押さえた。
「悪い。助かった」
「先に石を置け。また車輪の下へ入るぞ」
近くに落ちていた小石を二つ拾い、二枚の札の端に一つずつ載せる。董白は、石を置き終えるまで灯を動かさなかった。
「白、灯をこっちへ」
董白が俺の横へ来た。
「もう少し下。包みの端を見たい」
「なら、先に申せ。何度も灯を動かすのは面倒じゃ」
文句を言いながらも、灯は下がった。
麻布の包みには、荷札と同じ印が墨で付けられていた。
上から見える場所にはない。地面に近い角に、小さく書かれている。
次の荷物へ移ると、董白は何も言われる前に灯を下げた。俺が包みの裏へ回ると、影にならない側へ回り込む。
それからは、一度も同じことを言わせなかった。
一つずつ見ていくと、二本線の山に丸印の麻布が混じっていた。
「この包み、丸印の方です」
下働きの男が、言われた包みを持ち上げる。下になっていた面に、丸い墨の跡があった。
「丸印の山にある甕も、一つずつ見せてください」
甕の首には細い縄が巻かれ、その結び目の下に小さな木片が挟まっていた。灯を近づけると、二本の線が見える。
下働きの男たちが、麻布と甕を一つずつ入れ替える。
俺はもう一度、数を確認した。今度は、二枚の荷札と実物が合った。
「荷物はなくなってません。この包みと甕が、逆の山に入ってただけです」
女将は自分でも荷物を数え、包みと甕の印を見た。
「まったく。札だけ見て、荷物の印を見てなかったのかい」
下働きの二人が揃って頭を下げる。女将は二人に、客が戻る前に運び直せと命じた。
二枚とも擦れて読みにくかったので、下働きの男から新しい木札をもらい、俺が同じ内容を書き直した。
元の札は新しい札の裏に一枚ずつ重ね、縄で留めた。女将が、丸印の新しい札を拾った。
「札まで書き直したのかい」
「はい。古い札も、それぞれ後ろに付けてあります」
女将は束ねた二枚を裏返した。
「古いのまで残して、どうするんだい」
「あとで違うと言われても、元の札と比べられますから」
女将は新しい札と古い札を見比べ、短く頷いた。
「字も読めるし、数も合う。口だけじゃなかったね」
その言葉を聞いて、ようやく肩から力が抜けた。
これで、今夜は道で寝ずに済む。
李傕と郭汜が戻ると知っていても、それだけでは飯を買えない。今夜の屋根を手に入れたのは、荷札を読んで数を確認したからだ。
俺が太師府でやっていたのと、変わらない仕事だった。
「馬屋の右脇を使いな。空の俵が積んである。客の荷物には触るんじゃないよ」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、女将は片手を振った。
「礼より先に、何か腹に入れな。二人とも倒れそうな顔だよ」
女将は俺たちを竈のある土間へ連れていった。鍋の底には、夕飯で残った粥があった。女将は水を少し足して温め直し、二つの椀に同じくらいずつ注ぐ。
「残り物だけど、あんたたちが働いた分だ。冷めないうちに食べな」
椀を渡されると、董白は両手で受け取った。灯を持っていた指には、油の煤が薄く付いている。
董白はそれを一度見てから、粥に目を戻した。
太師府にいた頃は、董白が何も言わなくても飯が運ばれてきたはずだ。今夜の粥は違う。
俺が荷札を読み、董白が灯を持ったから、椀が二つ出てきた。
荷隊の道中では、乾餅を渡しても口を付けるまで時間がかかった。今度は俺が何も言わなくても、自分から木匙を取った。一口目は、匙をゆっくり口へ運んだ。
温かい粥を飲み込み、もう一口すくう。三口目からは、匙が止まらなくなった。
俺も自分の分を食べた。粟が少なく、水の多い粥だった。
それでも、温かいだけで乾餅よりずっと食べやすかった。
女将は鍋を片づけると、客のいる表へ戻っていった。土間には、俺たち二人だけが残った。
董白は粥を最後まで食べると、空になった椀を抱えたまま馬屋へ向かった。俺も自分の椀を持ち、後を追う。
馬屋の脇には、女将の言った通り屋根があった。壁はなく、風は入る。
それでも、空の俵を重ねた上なら、土の上よりは眠れそうだった。
董白は俵の上に座り、空の椀を膝へ載せた。
「椀は置いとけよ。明日、洗って返せばいい」
「あとで返す」
董白は椀の底を見たまま、動かなかった。馬が身じろぎするたび、乾いた藁が鳴る。宿の方からは、人の話し声と、椀を片づける音が聞こえていた。
「……柳誠。妾があのまま太師府に残っておれば、どうなっておったのじゃろうな」
董白は俺を見ていなかった。太師府に残れば、兵に捕まっていた。
もし外へ出られても、あの男のように董白の名前を使おうとする人間がいた。
どちらも、董白に言える答えじゃなかった。俺が黙っていると、董白はようやく顔を上げた。
目が合った途端、椀を抱く腕に力が入る。
「……今のは忘れよ」
董白は椀を抱えたまま俵に体を預け、すぐに寝息を立て始めた。
俺は両手から椀を抜き取り、脇へ置いた。自分の上着を脱いで董白に掛けても、起きなかった。
董白は一度も肩を強張らせず、俵の上で小さく息を繰り返していた。
長安を出てから、こんなに深く眠っているところを見るのは初めてだった。
~
翌朝、馬の鼻息と、椀が重なる音で目が覚めた。董白は俺の上着を肩に掛けたまま、先に起きていた。
俺が目を開けると、上着を外して押し返してくる。
「勝手に掛けるでない」
「寒かっただろ」
「寒くなどない」
声が少しかすれていた。宿の庭では、昨日より多くの人が動いている。
井戸から水が運ばれ、土間の前には汚れた椀が積まれていた。
馬屋の前には、昨夜分け直した荷物が並んでいる。新しく書いた札は、丸印と二本線の山の前に一枚ずつ吊られていた。
客は荷札と数を見比べ、何も言わずに荷物を受け取っていく。
下働きの男も、今度は包みの印まで見ていた。女将が、その山の向こうから俺たちを呼んだ。
「起きたなら、こっちへ来な」
俺は昨日借りた椀を二つ持っていった。
「洗って返そうと思ってたんですが」
「なら、そのまま娘へ渡しな。ちょうど椀洗いの手が足りないんだ」
女将は俺たちを順に見た。
「そうだ、名前くらい聞こうか。あんたたちは?」
「柳誠です」
女将の目が董白に移った。董白は一拍遅れて、女将に小さく頭を下げた。
「……柳白です。柳誠の遠縁の姪です」
「柳誠と白だね。呼んだら返事くらいしな」
女将は俺の書具箱と、積まれた椀を順に指した。
「字の読める人が足りないんだ。柳誠は宿の荷札を書きな。白は椀を洗って、水を運ぶ。朝と夜の飯、それに寝場所は出すよ」
「住み込みですか?」
「そう言ってるんだよ。二人とも働くなら、二人とも置く」
俺は董白を見た。
董白は椀の山を見ていた。椀なんて、一度も洗ったことがないはずだ。
それでも、女将の前で一度だけ頷く。
「……分かりました」
「よし。なら、まず顔を洗っておいで」
女将はそう言い残し、竈の方へ戻っていった。
朝になれば失うはずだった屋根の下に、俺たちがいてもいい理由ができた。