董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
第6話 屋根と粥
翌朝、水を持って行くと董白はもう乾餅の包みを開いていた。
ゆうべ残した分を齧りながら、俺の差し出した椀を受け取った。その隣に腰を下ろし、荷隊の男に聞いてきたことを伝える。
「今日は山道を進んで、途中の宿場で休むって。武関を越えて南陽へ出るまでにはまだ何日かかかるそうだ」
「……まだ、そんなに歩くのか」
「俺も聞かなきゃよかったと思ったよ」
董白は乾餅へ目を戻した。俺も自分の分を食べながら続きの言葉を待ったが、昨日のことは訊かれなかった。
許してくれたのか、今は聞かずにおいてくれているだけなのか。それをこちらから確かめる勇気はなかった。
荷隊の出発に合わせ、俺たちも歩き出した。
それからは上り坂で車を押し、宿場では荷下ろしを手伝う日が続いた。董白は休み場所や水のことなら訊いてきたが、長安の話は一度もしなかった。俺もあの話を持ち出せずにいた。
武関を越えても、すぐに旅が終わるわけではない。下り坂を歩けば爪先が痛むし、平らな道へ出た頃には足の裏までひりひりしていた。
だから道の先に町が見えた時は、思わず声が出た。
「白、見えたぞ。あれだ!」
南陽の
夕方の通りにはまだ店が開いていた。煮炊きの匂いに空腹を募らせながらついて行くと、荷隊は一軒の宿の前で止まった。
「俺たちはここへ泊まる。お前らとは、ここまでだったな」
男に言われ、俺はうなずいた。二十銭で道中を同行させてもらう約束だ。この先の寝食まで世話になるわけにはいかない。
礼を言って見送ると、急に董白と二人きりになった気がした。
「妾たちもここへ泊まるのか?」
「値段を聞いてくる。少し座っててくれ」
道端の石に座った董白へ書具箱を預け、宿の戸口へ向かう。客を案内していた女を呼び止め、二人分の宿代を訊いた。
聞いた額と掌の銭を見比べる。
払えないことはなかった。だが、明日の飯も買わなければならない。
「寝るだけなら、もう少し安くなりませんか?」
宿の女にそう訊くと、返事の代わりに道の向こうを指された。
「そっちにも宿はあるよ。うちと大して変わらないと思うけどね」
怒らせたわけではなさそうだ。ただ、忙しいところへ来てしまったらしい。女は俺を残し、庭に入ってきた荷車の方へ急いだ。
(寝るだけで安くなるなら、皆そう言うか……)
銭を懐へ戻した。せっかく町まで来たのに、また道端で夜を明かすのは嫌だった。
「駄目じゃったか?」
戸口を離れると、董白が訊いた。書具箱を膝に抱えたままこちらを見上げている。
「普通に払うなら泊まれるが、安くはならないって」
「向こうへ行くか?」
「……ちょっと待て。考えるから」
董白は立とうとしていた腰を下ろした。ほっとしたように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
俺も隣に座りたい。けれど腰を下ろしてしまえば、もう立ち上がれなくなりそうだった。
あの屋根のどれかの下で眠りたい。それだけのことが今の俺たちには難しい。
「その箱は売らぬのであろう?」
董白が膝の上を見た。
「ああ。仕事を探すのに要るからな」
「では、ほかを考えねばな」
箱を差し出され、受け取った。少女の持ち物で金になりそうな物もあったが、それを人前へ出す相談はできない。
何か仕事があれば。書き写しでも、数合わせでも、一晩の寝場所になるなら喜んでやる。
宿の庭で、さっきの女が声を張り上げた。
「待ちな! その甕はどっちの荷だい?」
「こっちです。札に二つって……あれ?」
荷車のそばに麻布の包みと油の甕が下ろされていた。若い男が持っている札と目の前の荷物を見比べている。数が合わないらしい。
「二組一緒に下ろしたんだろ。印を見ておくれよ。丸と二本線が混ざってないかい?」
女はそこまで言ったところで、宿の奥から呼ばれた。返事をすると、今度は後ろの車からも、まだ入れないのか、と声が飛ぶ。
俺は書具箱を抱え直した。
「白、もう一度だけ聞いてくる」
「値は変わらぬと言うておったぞ」
「今度は働かせてもらえないかって」
女を追いかける前にひとつ息を吸った。断られたばかりの相手に話しかけるのは、やっぱり気が重い。
「すみません!」
振り向いた顔に、またあんたか、と書いてあった。
「荷札を見る仕事なら、私にもできます。今の荷物を確かめますから、代わりに寝場所を貸してもらえませんか?」
「あんた、字が読めるのかい?」
「はい。書き写すこともできます」
女の目が書具箱へ移った。そのまま少し考え、若い男から札を取って俺に渡す。
「じゃあ、これを読んでみておくれ」
丸印の荷は麻布が五つ、油の甕が二つ。書かれた通りに読むと、今度は二本線の札を渡された。そちらも読み上げてから顔を上げた。
「どうでしょう?」
「……馬屋の脇でよければね。屋根はあるけど、客の寝る部屋じゃないよ」
「そこを、二人で使わせてください」
急いで付け足し、董白の方を示す。女は一度そちらを見てからうなずいた。
「いいよ。間違いがないよう、頼むからね」
「はい!」
返事が大きすぎて、女が少し笑った。
恥ずかしいが、もう構わない。俺は董白に手を振り、荷物のそばへ向かった。
~
まず灯を借りて荷物のそばへ運んだ。
日が傾いた軒下では包みに書かれた印がよく見えない。灯を持つと札が扱いにくいし、置くと肝心の印まで明かりが届かなかった。
どこに置こうか迷っていると、董白が手を伸ばした。
「貸せ。わたしが照らせばよかろう」
「座ってなくて大丈夫か?」
「そなたが終わらねば、いつまでも寝られぬではないか」
それはそうだ。灯を任せ、俺は若い男に包みを動かしてもらった。
やってみれば、荷物が足りないわけではなかった。丸印の包みがもう一組の荷に混じり、甕も逆の方へ置かれている。
札を読み、印を確かめ、持ち主ごとに数え直す。慣れない字に迷うことはあっても、何をすればよいかは分かった。
ここまでの道中は分からないことばかりだった。どこなら安全なのか、董白に何と答えればいいのか。聞かれるたびに答えを探すので精いっぱいで。
今は、目の前の札にちゃんと答えが書いてあった。
「白、もう少しこっちへ――あ、ありがとう」
頼み終えるより先に灯が近づいた。
董白はもうどこに印があるか覚えている。次の包みを持ち上げてもらうと、言わずともそちらを照らしてくれた。俺が数え直す間は黙って待ち、終わると隣の甕へ移っていく。
さっきまではこちらから声をかけるのにも迷っていた。こうして一緒に手を動かしている方がよほど気が楽だった。
最後に数を確かめ、女を呼んだ。
「全部そろっています。混ざっていただけでした」
「よかった。なくしてたら、荷主に何と言えばいいかと思ったよ」
女が数を確かめる間に、擦れて読みにくくなっていた札を書き写しておく。元の札と並べて渡すと、女は新しい字を見て、こちらを見た。
「あんた、前はどこで働いてたんだい?」
「長安で、書き物を少し」
「長安……。ああ、そうかい」
それきり質問はなかった。女が男たちに運ぶよう言いつけると、入口を塞いでいた車もようやく奥へ進んだ。
俺は邪魔にならない所へ下がり、董白から灯を受け取った。
「助かった。これで今夜は――」
ぐう、と腹が鳴った。
董白が俺を見上げた。荷物が片づいて気が抜けた途端、これだ。
(最後まで言わせてくれよ……)
「あんたたち、飯は?」
女にも聞かれたらしい。
「これから何か買おうかと」
「だったら、残りの粥を食べておいき。あたしも今から鍋を空けるところだから」
寝場所だけでなく飯まで。すぐに返事をしようとして、董白が先に頭を下げた。
「ありがたい。遠慮なく貰おう」
俺も慌てて礼を言った。
~
粥を受け取ると、董白はさっそく匙ですくって口へ運んだ。熱かったらしく、少し顔をしかめ、今度は息を吹きかけている。
食べてくれと頼む前に、自分から。ほっとして見ていたら、董白がこちらを向いた。
「何じゃ?」
「いや。腹が減ってたんだなと思って」
「そなたほどの音はせぬがな」
「それは忘れてくれ」
言い返してから俺も粥をすくった。
水っぽくて、塩も薄い。腹いっぱいになれる量でもなかった。それでも、乾餅を水で流し込んでいた口には、温かいものがやたらとうまかった。
隣でも匙が止まらない。道中は半分食べれば安心していたのに、今夜は残すつもりもなさそうだった。
「……そなた、本当に書吏じゃったのだな」
今度はこちらの匙が止まった。
董白の目は俺の書具箱へ向いていた。
「嘘だと思ってたのか?」
「字は見ておった。働いておるところは初めて見たゆえ」
「ああ、そういうことか」
長安へ兵が戻ると知っていた理由を、俺はまだ話していない。あの時、今は言えないと謝ってから、何か訊かれると身構える癖がついていた。
けれど、董白が続けたのは別の話だった。
「あの擦れた札も書き直しておったな。そなたの字は読みやすかったぞ」
「……そうか? 急いで書いたから、ちょっと心配だったんだが」
「妾にはすぐ読めたぞ。急いでもあれだけ書けるのなら、立派なものじゃ」
そう言われると、少し嬉しかった。
間違えずに書き写せたところで、前の勤め先では褒められもしなかった。当たり前のことだったし、俺もそう思っていた。
「お前が灯を持ってくれた分もあるだろ。二人で働いたんだからさ」
「うむ。明日も粥がよいのう」
「俺も。乾餅ばかりは、もう勘弁してほしいよ」
董白は椀に残った粟をすくい、名残惜しそうに食べた。
馬屋へ案内されたのはそれからすぐのことだ。
脇に積まれた空の俵を使ってよいと言われ、二人分を壁際へ敷いた。庭に向いた方には壁がないし、馬の臭いもする。できれば部屋で寝たかったが、ここなら雨はしのげそうだ。
それでも、座って草鞋を脱いだ時にはもう立ちたくなかった。
「……ああ、痛え」
借りてきた水で足を洗うと、擦れたところがしみた。董白も黙って足を洗っている。指の付け根が赤く擦れていた。いかにも痛そうだった。道では何も言わなかったのに。
「痛かったら、途中で言えばよかったのに」
「言うたら、荷隊を止められたか?」
「……それは、無理だけど」
「そなたも言わなかったではないか」
まったく、その通りだった。疲れているのは皆同じなのだからと、俺も男たちの前では黙っていた。
「じゃあ、今は二人とも文句を言っていいってことで」
「足が痛い。眠い」
「早いな!」
「言ってよいと言うたであろう」
董白は足を拭くと、敷いた俵の上へ横になった。俺も水の器を返しに行き、戻って隣へ座る。
庭からはまだ人の声が聞こえた。明日には発つ荷隊の男が宿の者と何か話していた。
俺たちも、またどこかへ行かなければならないのだろうか。
「明日、ここで雇ってもらえないか聞いてみようと思う」
董白の目が開いた。
「ここに残るのか?」
「仕事がもらえたらな。しばらく歩かずに済むようにしたい」
一度くらい、明日の寝場所を心配せずに眠りたい。町にいれば必ず暮らせるとも思わないが、今夜は仕事になった。明日も頼んでみるだけのことはある。
「……そうか」
董白は粗布を引き上げ、目を閉じた。
嫌だとは言われなかった。それだけ確かめて俺も横になると、体がひどく重かった。女将には朝のうちに声をかけよう。どう頼もうか考えているうち、庭の話し声も遠くなった。
~
「昨日の二人、まだいるかい?」
女将の声で目が覚めた。
慌てて起きると、すでに董白は座っていた。まだ少し眠そうな顔で、庭を指してくれる。
「呼ばれておるぞ」
「ああ。待たせちゃまずいな」
草鞋を履こうとして、足の痛みに顔をしかめた。これは今日も歩けと言われたらつらい。
顔を洗って女将の所へ行くと、昨日の札を渡された。
「これ、あんたが書き直したんだったね。出す方も見てもらえないかい? 今、手が足りなくてね」
「はい。あの、そのことなんですが」
向こうから仕事の話をしてくれた。これは頼めるかもしれないと思った途端、緊張してきた。
(寝ぼけてる場合じゃないぞ)
「今日だけでなく、ここで働かせてもらえませんか? 二人で置いてもらえるなら、昨日の所で寝ますから」
女将はすぐには答えず、後ろから来た董白にも目を向けた。
「二人はどういう身内なんだい?」
「遠縁の姪です。私は柳誠、この子は――」
「柳白じゃ」
董白が自分で名乗った。
「そうかい。柳誠と、白ね。……書ける者に荷物の出入りを見ててほしいとは思ってたんだよ。うちにも読める者はいるけど、馬の世話までしながらじゃ追いつかなくてさ」
俺はうなずきながら女将の次の言葉を待った。
「朝晩の飯と、昨日の寝場所。それでよければ、やってみるかい? ただし白にも椀洗いや水運びをしてもらうよ」
「白にも、ですか」
思わず聞き返してしまった。
女将の眉が少し上がった。二人とも置いてほしいと頼んだのだから、董白にも仕事が回ってくるのは当然か。
董白が椀を洗うところなど、想像したこともなかった。いや、今まで誰かに洗ってもらっていたからといって、これからもそうできるわけではないが。
「慣れないうちは、私が手を貸しても――」
「わたしに訊いておるのじゃ」
袖を引かれた。
董白は俺から手を離し、女将に向き直った。
「やろう。やり方を教えて欲しい」
「ああ、初めはあたしが教えるよ。分からなかったら聞いておくれ」
女将は厨房を振り返り、俺には表の卓を使うように言った。荷を送り出したいらしく、さっそく男を呼んでいる。
俺は董白へ小声で訊いた。
「よかったのか?」
「そなた一人で二人分働くつもりじゃったか?」
「できるかどうか、聞こうとは思ってた」
「妾にもできるか、先に聞けばよかろう」
もっともだった。心配するあまり、本人に訊くより先に口を出してしまった。
「……悪かった。頼む」
「うむ」
女将に呼ばれ、董白は厨房へ向かった。入口で一度立ち止まり、重ねてある椀を眺めてから女将の隣に並んだ。
俺も表の卓へ書具箱を運んだ。一緒に旅をしてきた男たちが荷を載せた車を確かめている。ついそちらへ足を向けかけ、苦笑した。
今日は、ついて行かなくてよかったのだ。
昨日までの礼を言い、卓に戻る。厨房からは董白が何か訊ねる声がした。女将の返事も聞こえ、俺はようやく箱の蓋を開けた。