董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
董白は、働き始めて四つ目の椀を洗い終えたところで、一つ割った。
宿の裏庭には、朝の客が使った椀が山になっていた。桶の水へ浸し、灰を付けた布でこすり、もう一つの桶ですすぐ。それだけの仕事だ。
女将が一度やって見せた時、董白は横でじっと手元を見ていた。
最初の三つまでは、うまくいった。四つ目をすすぎ終えると、董白はそれを片手に持ち、その上へ、先に洗った椀を一つ重ねた。二つまとめて置き場へ運ぼうと立ち上がったところで、上の一つが横へ滑った。
固く踏まれた土へ落ち、乾いた音を立てて二つに割れる。董白は手を伸ばした姿勢のまま固まった。
荷札を書いていた俺も、思わず筆を止める。
「白、怪我は?」
「ない。今のは、椀が勝手に滑ったのじゃ」
「濡れた椀は滑るに決まってるだろ」
女将がすぐに裏庭へ出てきた。割れた椀と董白の手を見て、腰へ手を当てる。
「一つずつ持ちなと言っただろ。二つ重ねて持つからだよ」
「……二つくらい持てると思ったのじゃ」
「思っただけじゃ駄目だよ。落としたんだから」
董白の顎が上がった。だが、割れた椀を見て、それ以上は言い返さなかった。欠片を拾おうとした手を女将に止められ、代わりに箒を渡された。
「手で触るんじゃないよ。掃いて端へ寄せな」
董白は黙って箒を受け取った。割れた椀を片づけると、また水桶の前へ座る。今度は一つずつ両手で持ち、指に力を入れすぎるほど慎重に洗い始めた。
同じ失敗はしなかった。ただ、別の失敗をした。
灰を落とすため椀を水へ入れた時、桶の縁へ強くぶつけた。今度は真っ二つにはならなかったが、縁が大きく欠けた。董白は欠けた場所を指でなぞった。
「……これも使えぬのか?」
「客の口が切れたらどうするんだい」
女将の声が飛んでくる。
「水へ入れる時は、桶の縁を見な。力を入れるのは、こする時だけだよ」
董白は欠けた椀を、最初の欠片の横へ置いた。
俺は何も言わず、荷札へ筆を戻した。今は黙っていた方がいい。
董白は女将のやり方をもう一度見た。布を持つ指、椀を水へ入れる角度、洗った後に置く場所まで、さっきより長く見ている。その後は、洗っている間に椀を割らなかった。
昼前には、洗い終えた椀が十個以上並んだ。置き場所を空けようと、董白はそれを一つの山へ重ね始めた。
運ぶ時は一つずつを守っていた。ただ、置き場へ運んだ椀は、同じ山へ重ねていった。
五つ、六つと高くなり、最後の一つを一番上へ置くと、山が傾いた。董白と俺が同時に手を伸ばしたが、間に合わなかった。
一番上の椀が、二人の手の間を抜けて割れた。
「白!」
女将の怒鳴り声に、馬屋の馬まで首を上げた。俺が動くより先に、董白が割れた椀の前へ立った。
「今のは、洗い終わった後じゃ」
「割ったことは同じだよ! 朝だけで三つ。これ以上あんたに洗わせたら、客に出す椀がなくなるよ!」
「重ねただけじゃ。あのくらいで崩れるとは……」
女将が目を細める。董白も睨み返した。しばらくして、先に目を逸らしたのは董白だった。
「……三つとも、わたしが割りました」
「分かればいい。柳誠、箒を」
俺が箒を取ろうとすると、董白が先に奪った。
「妾が……わたしが、やる」
危ないところだった。
女将は聞き咎めた様子もなく、裏口の外にある桶を二つ指した。
「片づけたら、今度は水汲みだよ。水場は道の向こう。大甕が満ちるまで運びな。桶まで割るんじゃないよ」
董白は返事をしなかった。欠片を掃く箒だけが、さっきより強く土をこすっていた。
~
宿場の水場は、道を挟んだ向かいにあった。石を積んだ井戸の前に、十個以上の桶が並んでいる。水場番の婆さんが井戸端に座り、縄を下ろす人と、水を持ち帰る人を大声で急かしていた。
俺は空の桶を一つ持ち、もう一つを董白へ渡した。
「ここに並べればいいみたいだ」
「見れば分かる」
董白は一番後ろへ桶を置いた。俺はもう一つの桶を抱えたまま、列の外へ寄った。一度に並べていいのは、一つだけらしい。
列の前の方には、取っ手に赤い布を巻いた桶があった。しばらくして水が入り、持ち主の女が抱えて帰っていく。
ところが、その女はすぐに同じ桶を持って戻り、列の真ん中へ押し込んだ。
「うちは朝から待ってるんだよ」
「さっき一回持って帰っただろ!」
後ろにいた女が怒鳴る。押し込まれた桶を引き出そうとして、隣の桶まで倒れた。水場番の婆さんが杖で地面を叩く。
「倒すんじゃないよ! 来た順に置きな!」
「だから、朝から来てるって言ってるだろ!」
「一回持って帰ったら、次は後ろだよ!」
女は納得しなかったが、後ろからも文句が飛び、最後には桶を引きずって列の後ろへ回った。董白は、取っ手の赤い布を目で追っていた。
「柳誠。あの者、今ので二回目か?」
「そうみたいだな」
董白は何も言わず、列の後ろへ移った赤い布の桶を見ていた。
その後も、病人がいるから先に水を寄越せという女と、先に並んだのはこちらだという女が言い争い、列が止まった。病人がいると言った女の桶は、縁の一部が欠けていた。
ようやく董白の桶へ水が入った頃、宿の方から女将の声が飛んできた。
「まだかい! 水が来なきゃ次の粥が炊けないよ!」
桶を両手で持ち上げた董白の腕が下がる。
「二人で運ぶぞ。俺の桶はここに置いとく」
「要らぬ。持てる」
董白が持ち上げ直す前に、俺は桶の反対側へ手を掛けた。自分の空の桶は、井戸の脇へ置いていく。
二人で一つの桶を宿まで運ぶと、入口から男が二人出てきた。
「待ってられないよ。向こうで食う」
女将は呼び止めず、竈の空鍋を指した。
「水がなきゃ炊けないんだよ。早く大甕へ入れな」
水を移すと、俺たちは空の桶を持って水場へ戻った。
縁の欠けた桶は、まだ列の後ろにあった。
董白は何も言わなかった。ただ、並んでいる桶を一つずつ見た。取っ手の布、欠けた縁、縄の結び方。同じような木桶でも、違うところはいくらでもあった。
それから何回か往復し、大甕が満ちた頃には、昼を回っていた。
~
昼の粥を食べ終えると、董白が俺の前へ手を出した。
「柳誠。もう使わぬ荷札を一枚と、筆を貸せ」
「何を書くんだ?」
「よいから、寄越せ」
宿の隅に積まれた古い荷札から、裏が空いているものを選んだ。筆と墨も渡すと、董白は宿の土間へ座り込んだ。木札の裏へ、二、三文字ずつ書いていく。
「これ、桶の印か?」
「そうじゃ」
赤布。縁欠け。病人。
水場で見たものが、短く並んでいた。
「何に使うんだ?」
「明日の朝にな」
それだけ言うと、董白は木札を持って立ち上がり、女将の前へ行った。女将は夕餉の粟を量っているところだった。董白に気づいても、手を止めない。
「今度は何を割ったんだい」
「何も割っておらぬ」
「なら、仕事へ戻りな」
董白は退かず、木札を差し出した。
「割った椀の分は、わたしが返す」
その一言で、女将の手が止まった。
「何で返すんだい?」
「明日は今日より早く水汲みを終わらせる」
「どうやって?」
「これを使ってな」
女将は木札と董白の顔を見比べた。
「次の粥に間に合わせる。客を帰さずに済んだら、その分を椀代から引け」
「ずいぶん勝手な勘定だね。水場番には話したのかい?」
「これからじゃ」
女将は鼻を鳴らした。
「水場番がいいと言ったら、朝だけやってみな。それで客を帰さずに済んだら、その分は引いてやる」
「よい」
「できなかったら、薪運びだよ。返事は?」
董白の眉が動いた。
「……分かりました」
女将はまた粟を量り始めた。董白は木札を脇に抱え、土間を出た。
「柳誠、筆を持ってついてこい」
「俺もやるのか?」
「そなたは字が書けるであろう」
椀を割ったのは董白のはずだが、俺の仕事まで決まっていた。
~
日暮れ前、俺たちはもう一度水場へ向かった。
水場番の婆さんは、桶の数が減った井戸端に座っていた。その隣には、董白より少し背の低い娘がいる。婆さんの孫娘らしく、濡れた縄を巻いていた。
「婆よ。少し聞きたいことがある」
「誰が婆だい。水場番と呼びな」
董白は一度だけ口を結んだ。
「……水場番。赤い布を巻いた桶は、誰のものじゃ」
董白が木札を見せると、水場番より先に隣の娘が答えた。
「肉屋のおばさん」
「縁が欠けた桶は?」
「東の端の木こりの家。病人がいるところだよ」
董白が木札から顔を上げた。
「読めるのか?」
「桶を見れば分かる」
「字の方じゃ」
娘の口が止まった。巻き終えた縄を膝へ置き、木札をもう一度見る。
「……読めない」
「名は?」
「阿慶」
董白は木札の端へ、その名を書き足した。
「そうか」
それから水場番へ向き直った。
「明日の朝、ここで桶を見てよいか」
「何をする気だい?」
「今日より早く水汲みを終わらせる」
「勝手に桶を動かすんじゃないよ」
「動かさぬ。同じ桶がまた来たら、そなたに言う」
水場番は董白の木札へ目を落とした。
「朝だけだよ。余計に揉めたら、すぐやめてもらうからね」
董白の眉が動いた。
「……分かりました」
話が終わると、董白は阿慶を見た。
「阿慶。明日の朝は、わたしを手伝え」
「あたしが?」
「誰の桶か、教えよ」
「あたしに命令するの?」
「嫌ならよい」
阿慶は少し考え、董白を見上げた。
「やる」
「阿慶、縄の仕事を忘れるんじゃないよ」
水場番が釘を刺すと、阿慶は「分かってる」と返した。
宿へ戻ろうとすると、阿慶まで後ろからついてきた。
「なぜついてくる」
「木札、まだ書くんでしょ。ほかの桶も教える」
董白はしばらく阿慶を見た後、前へ向き直った。
「なら、遅れるな」
阿慶は駆け足で董白に追いついた。
~
翌朝、日が出る前に董白に起こされた。
水場へ行くと、阿慶はもう井戸端にいた。俺は筆と木札を持たされ、董白の横へ座らされた。
「柳誠。桶の印と持ち主を書け」
「全部か?」
「全部じゃ」
「それで何をするんだ?」
「手を動かせ。もう来ておる」
何をするつもりなのか、俺にはまだよく分からなかった。
最初に来たのは、取っ手に赤い布を巻いた桶だった。
「肉屋のおばさん」
阿慶が言う。
「赤布、肉屋」
董白が続け、俺は木札へ書いた。持ち主が水を汲んで帰ると、董白が木札を指した。
「横に一本引け」
言われた通り、肉屋の横へ線を引いた。
その後も、桶が来るたびに阿慶が持ち主を言い、董白が目印を決め、俺が木札へ書いた。水場番は何も言わず、その様子を見ている。
桶がいくつか入れ替わった頃、赤い布を巻いた桶が列の途中へ置かれた。
董白がすぐに指を差した。
「水場番。その桶は二回目じゃ」
「うちは朝から来てるんだよ」
昨日と同じ女だった。
「さっき一回持って帰ったであろう」
女が言い返そうとしたところで、水場番が杖を鳴らした。
「聞こえただろ。今度は後ろだよ」
女はしばらく文句を言っていたが、周りまで怒鳴り始める前に、桶を後ろへ動かした。
その次に、縁の欠けた桶が運ばれてきた。
阿慶が董白の袖を引いた。
「木こりの家。病人がいるところ」
董白は水場番を見た。
「水場番。あの桶は先に入れるのか?」
婆さんは少し考え、列の前を杖で叩いた。
「今日は先に入れな。昨日から待たせてる」
桶を持ってきた女は何度も頭を下げ、桶を列の前へ運んだ。後ろから不満の声は出たが、水場番がもう一度杖を鳴らすと、それ以上は続かなかった。
文句がなくなったわけではない。それでも、昨日のように列全体が止まることはなかった。
宿の桶に水が入るたび、董白と俺で大甕まで運んだ。水場へ戻るたび、阿慶が、その間に来た桶を教えた。
三回目に戻った時も、列は前へ進んでいた。
大甕が満ちる頃には、女将が次の鍋へ粟を入れていた。昨日なら客が帰り始めていた頃だが、今朝は湯気の上がる鍋を見て、みんな椀を持ったまま待っていた。
俺は空の桶を置き、ようやく董白へ聞いた。
「結局、何をしてたんだ?」
「見ておったであろう?」
「見てたけど、俺は言われた通り書いて、水を運んでただけだ」
董白は木札を俺から取り上げた。
「同じ桶がまた来たら、水場番に言っただけじゃ」
「阿慶は?」
「誰の桶か教えておった」
「病人の家を先にしたのも?」
「あれは水場番が決めた。わたしが勝手に決めたら、また揉める」
「それだけで、こんなに早く終わるんだな」
「昨日は、二回目かどうかで揉めておったからな」
「あたしがいなかったら、誰の桶か分からなかったでしょ」
横から阿慶が口を挟んだ。
董白は阿慶を見た。
「分かっておる」
阿慶は少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。
女将が鍋の向こうから声を飛ばした。
「白。今朝の働きで、椀一つ分は引いといてやるよ」
「一つだけか? 今日は誰も帰らなかったぞ」
「客が払った銭を、全部椀代にできると思ってるのかい。粟も薪もただじゃないんだよ」
董白は鍋と並んだ客を見比べた。
「……残り二つか」
「そういうことだよ。昼から薪運びだ」
「分かった」
「返事は?」
董白は一度だけ眉を寄せた。
「……分かりました」
横で阿慶が吹き出した。董白が睨むと、慌てて口を押さえた。
椀はまだ二つ分残っていた。それでも、椀を三つ割った董白の後ろには、一人増えていた。