董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第7話 椀割姫

 

「じゃあな。姪御にもよろしく言っといてくれ」

 

最後の荷札を受け取ると、男は荷車を押して通りへ出た。

 

俺は宿の戸口で頭を下げた。山道では何度も押した車だ。遠ざかる車輪を見ていると、置いていかれるような気もする。

 

いや、ここへ残ると頼んだのは俺だった。

 

(今日からは、こっちが仕事場か)

 

朝に出す荷はこれで終わりだ。昼に渡す分の札を揃えようと卓へ戻ると、厨房から董白の声が聞こえた。

 

「これでよいか?」

 

「ああ、きれいになったね。そこへ伏せときな」

 

褒められた董白がこちらを見たので、俺もうなずいておいた。何じゃ、とでも言いたげに目を細められる。

 

余計だったらしい。仕事へ戻ろう。

 

筆を取ったところで、がしゃんと音がした。

 

振り向けば董白が立ち尽くしている。足元に散らばっているのは、今しがた洗い終えた椀だった。

 

「白、待て! 手で拾うな」

 

屈みかけた董白を止め、そばへ駆け寄る。本人の手に傷はなかったが、椀は三つとも割れていた。

 

女将が箒を持ってくる。

 

「一度に運ぼうとしたんだね?」

 

「……うむ」

 

さっき椀を運んでいた男は五つも重ねていた。董白がそちらを見ると、男は気の毒そうに言った。

 

「慣れるまでは一つずつがいいよ。洗ったばかりだと滑るから」

 

董白は唇を結んだ。俺が手を出していいものか迷っている間に、自分から女将へ向き直る。

 

「代わりの椀を買えばよいのか?」

 

「買う銭はあるのかい?」

 

董白が黙り込む。

 

俺も椀の値段までは知らない。懐には旅の残りが少しあるだけだ。昨日ようやく寝場所を得たところなのに、今度は弁償か。

 

「あの、代金は少し待っていただけませんか」

 

「柳誠。わたしが割ったのじゃ」

 

董白が俺の言葉を遮った。

 

「それは分かってる。今払えるかどうかの話だ」

 

「二人で揉めなくていいよ。働いて返してくれればね」

 

女将は董白に塵取りを渡した。

 

「まずこっちを片づけよう。踏んだら怪我するよ」

 

俺が箒を受け取り、董白が塵取りを構える。欠片を掃き入れていると、ひびの入った椀が真っ二つになった。

 

董白の肩が小さく動く。

 

(……慰めたら、かえって怒るだろうな)

 

よく洗えていたのは見ている。だが今それを言っても、割れた椀が戻るわけではなかった。

 

片づけを終えた董白は、自分から次の仕事を訊いた。

 

「なら、水を頼もうか。向かいの井戸へ行った子が戻ってこないんだ。馬の世話も残ってるのに」

 

女将が小ぶりの桶を差し出す。俺の方は朝に出す荷が済んでいた。

 

「私が行って、その人を呼び戻します。水は白と二人で運んできますから」

 

「頼むよ。水の入ったのは重いからね」

 

董白は無言で桶を受け取った。

 

庭を出ると、俺を見ずに言う。

 

「桶まで割ると思うておるのか?」

 

「思ってない。水が入ったら重いだろ。一緒に運ぼうと思ってな」

 

「……そうか」

 

納得したのかどうか。その足は少し速くなった。

 

 

井戸は通りを渡った先にある。宿からこんなに近いのに、どうして戻れないのか。着いてみればすぐ分かった。

 

「うちはまだ一度も汲んでないんだよ!」

 

「こっちは店を開けなきゃならないんだ。一桶で足りるもんか!」

 

桶を抱えた女が二人、井戸の前から動こうとしない。釣瓶を引き上げた男まで水を空けられずに待っている。

 

(水はあるのに……)

 

宿の若い男は後ろの方にいた。女将の用を伝えると、助かった、とすぐに桶を指す。

 

「黒い縄のがうちのだ。やっとここまで来たんだから、場所を取られないように頼むぞ」

 

男を送り出し、俺たちが代わりに立った。董白の持ってきた桶は脇へ置く。並べてよい桶は一軒に一つだと、井戸番の婆さんに言われたからだ。

 

その婆さんも今は怒鳴っていた。

 

「肉屋! あんたは一度持って帰っただろう。譲りな!」

 

「だから、足りないんだってば!」

 

押し問答を聞いているだけで腹が減ってくる。朝飯にもありついていないのに、いつまでかかるのだろう。

 

不意に横から娘の声が飛んだ。

 

「おじさん、その桶も肉屋のでしょ?」

 

井戸へ近づきかけた男が止まる。

 

婆さんのそばに座っている娘だった。董白より少し年下だろうか。膝の上で縄を巻きながら、桶を指している。

 

「取っ手、片方だけ新しいやつ。この前直してもらってたよね」

 

「……頼まれたんだよ」

 

「そっちにも肉屋の桶があるよ。一軒に二つは駄目でしょ」

 

男が肉屋の女を見る。女は大きくため息をつき、こっちへ置いといて、と手を振った。

 

董白はその桶を見てから娘へ訊いた。

 

「そなた、よその家の桶まで覚えておるのか?」

 

「毎朝見てるもの。そっちは宿の子だよね?」

 

「白じゃ。今朝から働いておる」

 

「私は阿慶(あけい)。お婆ちゃんの手伝い。……白も、しばらく待つと思うよ」

 

阿慶は井戸へ目をやって苦笑した。

 

ようやく一桶分の水が渡ったが、次の釣瓶が上がるとまた声が重なる。肉屋の女はまだ諦めていない。

 

董白が俺の袖を引いた。

 

「柳誠。もう汲んだ家と、まだの家を書き分けられるか?」

 

「聞けば書ける。ただ、俺には誰がどこの人か分からないぞ」

 

「それは、あの子に訊く。今並んでおる者だけなら大した数でもなかろう」

 

確かに宿の前で見るほどの大人数ではない。声が大きいから余計に混んでいる気がしたのだ。

 

「順番を決めておくのか?」

 

「水が上がるたびに揉めておったら、いつまでも帰れぬ。わたしは腹が減った」

 

最後だけ声が低かった。

 

それには全面的に賛成だ。ただ、新参の俺たちが勝手に仕切って通る話でもない。まず婆さんに相談すると、途中まで聞いたところで阿慶を呼んだ。

 

「桶の持ち主を教えてやれるかい? 縄は間に合うんだろうね」

 

「うん。喋りながらでも巻けるよ」

 

「じゃあ頼もうか。あたしも朝から同じことばかり言って、喉が痛いよ」

 

俺は宿へ筆を取りに戻った。女将に事情を話すと、井戸の方を見て顔をしかめる。

 

「またかい。うちを先にして揉めるのだけはやめておくれよ。明日も使うんだから」

 

「それはしません。今いる人の順を確かめるだけです」

 

戻ると董白が肉屋の女に話しかけていた。

 

「まだ汲んでおらぬ家を先にして、その次ならよいか?」

 

「後から来たのが、うちもまだだって言ったら? それでまた待たされるんだろう」

 

「今、ここにおる者だけじゃ。後から来た者はそなたの後ろへ並ぶ。それなら、あとどれだけ待てばよいか分かるであろう?」

 

女の目が並んだ桶を数える。

 

「……本当に、その次だね?」

 

「ああ。あたしが見てるよ」

 

婆さんが引き受けると、女はやっと桶を下ろした。

 

董白はこちらを振り返った。得意げになるかと思えば、早う書け、と口だけ動かす。

 

(はいはい。働きますよ)

 

俺は待っている人に順を訊き、木片へ控えた。阿慶が桶を見て口を添えてくれるので、聞き違いもその場で直せる。

 

「それは向かいの家。こっちのおばさんは今朝まだ来てないよ」

 

「朝から畑にいたんだ。やっと戻ってきたらこれさ」

 

女がぼやくと阿慶が笑う。その気安さは俺たちにはないものだった。知らない娘に問い詰められたら腹も立つだろうが、阿慶には皆、普通に答えている。

 

決まった順を読み上げ、最初の桶を出してもらった。

 

「次の人も用意してください。そこへ置けば大丈夫です」

 

釣瓶から水が注がれる。いっぱいになった桶が退けば、董白が次の持ち主を呼ぶ。待たされずに済んだ男は、黙々と縄を引き始めた。

 

揉める声が減ると、水の音がよく聞こえた。

 

「それを先に決めときゃよかったんだな」

 

隣の男が言う。

 

俺もうなずいた。誰もが早く汲みたかったのだから、順番の話だけでも水を待つ間に済ませればよかったのだ。

 

宿の桶が満ちる頃には、次の人が自分から前へ出るようになっていた。残った順を婆さんと皆に伝え、ようやく帰れる。

 

董白が桶を持ち上げかけて止まった。

 

「……片方を持ってくれ」

 

「ああ。せーので上げるぞ」

 

二人なら何とか持ち上がる。脇へ置いた小桶は俺の空いた手で持ち、董白の歩調に合わせて運び始めた。

 

「白、そこ段差!」

 

阿慶の声に董白が足を止めた。

 

「見えておる!」

 

言い返したくせに、越える時はずいぶんゆっくりだった。俺も歩調を合わせ、通りへ出た。

 

 

水を甕へ移し終えると、董白はすぐに女将を呼んだ。

 

「椀三つのことじゃが、相談したい」

 

俺は空桶を下ろした。

 

(今? 少し休んでからでも……)

 

「井戸の揉め事を収めてきた。あの分も、椀の弁償に数えてもらえぬか?」

 

「水汲みは、もともと頼んだ仕事だよ」

 

「水を汲むだけなら、わたしたちも黙って並んでおった。揉め事を収めた分だけでも、考えてほしい」

 

女将は井戸を見た。さっきまでの騒ぎは聞こえない。馬の世話を終えた男も戻ってきて、次の用を訊いていた。

 

「……そうだね。助かったのは確かだ。じゃあ一つ分は、それでいいよ」

 

「残りは二つじゃな?」

 

「裏の薪を厨房へ運んでくれれば、それで帳消しにしようか。今朝やるはずだった分が残ってるんだ」

 

「分かった!」

 

すぐに向かいかけた董白を女将が止める。

 

「待ちな。朝飯がまだだろう?」

 

董白が戻ってきた。俺の腹も同時に鳴りそうになった。

 

厨房の脇で粥を食べる間、二人ともほとんど喋らなかった。食べ終わりかけてから俺はようやく訊いた。

 

「椀のこと、ずっと考えてたのか?」

 

「うむ。いつまでも弁償を待ってもらうのは嫌じゃからな」

 

「井戸では助かった。俺一人なら黙って待ってたと思う」

 

董白は匙を止め、俺の顔を見た。

 

「慰めておるのか?」

 

「いや、本当に助かった。お前が話をつけなきゃ、もっと時間がかかってたはずだ」

 

「ふふん、感謝せよ」

 

董白が得意げに胸を張った。俺も笑ってうなずく。

 

「おう。次は椀は一つずつ持つんだぞ」

 

「もうせんわ!」

 

 

昼前、俺が客から頼まれた荷札を書いていると、阿慶が縄の束を抱えてやって来た。

 

「女将さん、できたよ。長い方の端も直しといたから」

 

宿で使う縄だったらしい。女将に渡すなり、阿慶は庭へ顔を向けた。

 

「白はいる?」

 

「裏だ。薪を運んでる」

 

俺が答えると、ちょうど董白が薪を抱えて出てきた。阿慶はそばへ駆け寄る。

 

「お婆ちゃんが助かったって。今日は怒鳴らずに済んだってさ」

 

「あれだけ怒鳴っておったのにか?」

 

「いつもは、もっとだもの」

 

二人が笑った。董白が薪を下ろすのを待ち、阿慶がその袖の木屑を払ってやる。董白は一瞬戸惑った顔をしたが、そのままもう片方の袖を自分で払った。

 

「もう少しで終わる?」

 

「あと一度運べばな。椀を割った分の働きじゃ」

 

「え、割っちゃったの?」

 

「……三つ」

 

声が小さくなる。

 

俺は筆を動かしながら聞いていた。さすがに三つは驚くよな、と思ったが、阿慶は自分の手を広げた。

 

「重ねて持った?」

 

「なぜ分かる?」

 

「私も落としかけたことある。こっちへ傾くと、直そうとして今度は向こうへ行くんだよね」

 

董白が何度もうなずいた。

 

「そうじゃ! 持ち直せば間に合うと思うたのに、下のまで滑って――」

 

そこで口を閉じた。阿慶は笑わずに、分かる分かる、と答えている。

 

「私は桶の取っ手を抜いた時の方がひどかったな。水が全部足にかかってさ」

 

「抜けた?」

 

「古いやつ。替えろって言われてたのに、まだ使えると思って。汲み直しに戻ったら列が伸びてるし、お婆ちゃんには叱られるし……」

 

阿慶が顔をしかめる。董白も井戸の方を見て、うわ、という顔になった。

 

少し前まで俺にはあんなに硬い返事をしていたのに、今は椀がどう滑ったかまで喋っている。こちらが口を挟むような話ではなさそうだ。

 

俺は書き終えた札を客へ渡した。

 

その間に阿慶は帰り支度をしていた。

 

「明日も来る? 水汲み」

 

「仕事を言いつけられればな」

 

「来たら声かけてよ。今度は私が運ぶの手伝うから」

 

董白はすぐには答えなかった。俺の方をちらりと見たので、聞こえていないふりで次の札を取る。

 

「……うむ。では、明日」

 

「またね!」

 

阿慶が通りを渡っていく。董白はしばらく見送ってから、残りの薪を取りに戻った。

 

昼の客が来る前に仕事は終わったらしい。女将に確かめてもらった董白が、今度は椀を両手で持ってきた。

 

「水じゃ。飲むか?」

 

「もらう。お前は?」

 

「飲んだ。そなたも井戸で喋り通しであったろう」

 

受け取った椀の水がうまかった。朝から忙しくて、喉の渇きまで後回しになっていたのだ。

 

「ありがとな。薪は済んだのか?」

 

「うむ。椀の分も、これで終わりじゃ」

 

やっと胸を張った。その顔を見て俺も笑う。

 

「それなら、これは大事に返さないとな」

 

「そなたが割ったら、そなたが薪を運べ」

 

「分かってる。手伝えとは言わない」

 

「灯くらいは持ってやるぞ」

 

夕方までかかるつもりはない、と返すと董白が笑った。

 

厨房から昼の支度をする音が聞こえてきた。董白も呼ばれるかと思ったが、まだ俺のそばで水を飲み終えるのを待っている。

 

今朝、椀を割った時の顔を思い出す。少なくとも、あのまま一日が終わらずに済んでよかった。

 

俺は残りの水を飲み干し、礼を言って椀を返した。

 

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