董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「じゃあな。姪御にもよろしく言っといてくれ」
最後の荷札を受け取ると、男は荷車を押して通りへ出た。
俺は宿の戸口で頭を下げた。山道では何度も押した車だ。遠ざかる車輪を見ていると、置いていかれるような気もする。
いや、ここへ残ると頼んだのは俺だった。
(今日からは、こっちが仕事場か)
朝に出す荷はこれで終わりだ。昼に渡す分の札を揃えようと卓へ戻ると、厨房から董白の声が聞こえた。
「これでよいか?」
「ああ、きれいになったね。そこへ伏せときな」
褒められた董白がこちらを見たので、俺もうなずいておいた。何じゃ、とでも言いたげに目を細められる。
余計だったらしい。仕事へ戻ろう。
筆を取ったところで、がしゃんと音がした。
振り向けば董白が立ち尽くしている。足元に散らばっているのは、今しがた洗い終えた椀だった。
「白、待て! 手で拾うな」
屈みかけた董白を止め、そばへ駆け寄る。本人の手に傷はなかったが、椀は三つとも割れていた。
女将が箒を持ってくる。
「一度に運ぼうとしたんだね?」
「……うむ」
さっき椀を運んでいた男は五つも重ねていた。董白がそちらを見ると、男は気の毒そうに言った。
「慣れるまでは一つずつがいいよ。洗ったばかりだと滑るから」
董白は唇を結んだ。俺が手を出していいものか迷っている間に、自分から女将へ向き直る。
「代わりの椀を買えばよいのか?」
「買う銭はあるのかい?」
董白が黙り込む。
俺も椀の値段までは知らない。懐には旅の残りが少しあるだけだ。昨日ようやく寝場所を得たところなのに、今度は弁償か。
「あの、代金は少し待っていただけませんか」
「柳誠。わたしが割ったのじゃ」
董白が俺の言葉を遮った。
「それは分かってる。今払えるかどうかの話だ」
「二人で揉めなくていいよ。働いて返してくれればね」
女将は董白に塵取りを渡した。
「まずこっちを片づけよう。踏んだら怪我するよ」
俺が箒を受け取り、董白が塵取りを構える。欠片を掃き入れていると、ひびの入った椀が真っ二つになった。
董白の肩が小さく動く。
(……慰めたら、かえって怒るだろうな)
よく洗えていたのは見ている。だが今それを言っても、割れた椀が戻るわけではなかった。
片づけを終えた董白は、自分から次の仕事を訊いた。
「なら、水を頼もうか。向かいの井戸へ行った子が戻ってこないんだ。馬の世話も残ってるのに」
女将が小ぶりの桶を差し出す。俺の方は朝に出す荷が済んでいた。
「私が行って、その人を呼び戻します。水は白と二人で運んできますから」
「頼むよ。水の入ったのは重いからね」
董白は無言で桶を受け取った。
庭を出ると、俺を見ずに言う。
「桶まで割ると思うておるのか?」
「思ってない。水が入ったら重いだろ。一緒に運ぼうと思ってな」
「……そうか」
納得したのかどうか。その足は少し速くなった。
~
井戸は通りを渡った先にある。宿からこんなに近いのに、どうして戻れないのか。着いてみればすぐ分かった。
「うちはまだ一度も汲んでないんだよ!」
「こっちは店を開けなきゃならないんだ。一桶で足りるもんか!」
桶を抱えた女が二人、井戸の前から動こうとしない。釣瓶を引き上げた男まで水を空けられずに待っている。
(水はあるのに……)
宿の若い男は後ろの方にいた。女将の用を伝えると、助かった、とすぐに桶を指す。
「黒い縄のがうちのだ。やっとここまで来たんだから、場所を取られないように頼むぞ」
男を送り出し、俺たちが代わりに立った。董白の持ってきた桶は脇へ置く。並べてよい桶は一軒に一つだと、井戸番の婆さんに言われたからだ。
その婆さんも今は怒鳴っていた。
「肉屋! あんたは一度持って帰っただろう。譲りな!」
「だから、足りないんだってば!」
押し問答を聞いているだけで腹が減ってくる。朝飯にもありついていないのに、いつまでかかるのだろう。
不意に横から娘の声が飛んだ。
「おじさん、その桶も肉屋のでしょ?」
井戸へ近づきかけた男が止まる。
婆さんのそばに座っている娘だった。董白より少し年下だろうか。膝の上で縄を巻きながら、桶を指している。
「取っ手、片方だけ新しいやつ。この前直してもらってたよね」
「……頼まれたんだよ」
「そっちにも肉屋の桶があるよ。一軒に二つは駄目でしょ」
男が肉屋の女を見る。女は大きくため息をつき、こっちへ置いといて、と手を振った。
董白はその桶を見てから娘へ訊いた。
「そなた、よその家の桶まで覚えておるのか?」
「毎朝見てるもの。そっちは宿の子だよね?」
「白じゃ。今朝から働いておる」
「私は
阿慶は井戸へ目をやって苦笑した。
ようやく一桶分の水が渡ったが、次の釣瓶が上がるとまた声が重なる。肉屋の女はまだ諦めていない。
董白が俺の袖を引いた。
「柳誠。もう汲んだ家と、まだの家を書き分けられるか?」
「聞けば書ける。ただ、俺には誰がどこの人か分からないぞ」
「それは、あの子に訊く。今並んでおる者だけなら大した数でもなかろう」
確かに宿の前で見るほどの大人数ではない。声が大きいから余計に混んでいる気がしたのだ。
「順番を決めておくのか?」
「水が上がるたびに揉めておったら、いつまでも帰れぬ。わたしは腹が減った」
最後だけ声が低かった。
それには全面的に賛成だ。ただ、新参の俺たちが勝手に仕切って通る話でもない。まず婆さんに相談すると、途中まで聞いたところで阿慶を呼んだ。
「桶の持ち主を教えてやれるかい? 縄は間に合うんだろうね」
「うん。喋りながらでも巻けるよ」
「じゃあ頼もうか。あたしも朝から同じことばかり言って、喉が痛いよ」
俺は宿へ筆を取りに戻った。女将に事情を話すと、井戸の方を見て顔をしかめる。
「またかい。うちを先にして揉めるのだけはやめておくれよ。明日も使うんだから」
「それはしません。今いる人の順を確かめるだけです」
戻ると董白が肉屋の女に話しかけていた。
「まだ汲んでおらぬ家を先にして、その次ならよいか?」
「後から来たのが、うちもまだだって言ったら? それでまた待たされるんだろう」
「今、ここにおる者だけじゃ。後から来た者はそなたの後ろへ並ぶ。それなら、あとどれだけ待てばよいか分かるであろう?」
女の目が並んだ桶を数える。
「……本当に、その次だね?」
「ああ。あたしが見てるよ」
婆さんが引き受けると、女はやっと桶を下ろした。
董白はこちらを振り返った。得意げになるかと思えば、早う書け、と口だけ動かす。
(はいはい。働きますよ)
俺は待っている人に順を訊き、木片へ控えた。阿慶が桶を見て口を添えてくれるので、聞き違いもその場で直せる。
「それは向かいの家。こっちのおばさんは今朝まだ来てないよ」
「朝から畑にいたんだ。やっと戻ってきたらこれさ」
女がぼやくと阿慶が笑う。その気安さは俺たちにはないものだった。知らない娘に問い詰められたら腹も立つだろうが、阿慶には皆、普通に答えている。
決まった順を読み上げ、最初の桶を出してもらった。
「次の人も用意してください。そこへ置けば大丈夫です」
釣瓶から水が注がれる。いっぱいになった桶が退けば、董白が次の持ち主を呼ぶ。待たされずに済んだ男は、黙々と縄を引き始めた。
揉める声が減ると、水の音がよく聞こえた。
「それを先に決めときゃよかったんだな」
隣の男が言う。
俺もうなずいた。誰もが早く汲みたかったのだから、順番の話だけでも水を待つ間に済ませればよかったのだ。
宿の桶が満ちる頃には、次の人が自分から前へ出るようになっていた。残った順を婆さんと皆に伝え、ようやく帰れる。
董白が桶を持ち上げかけて止まった。
「……片方を持ってくれ」
「ああ。せーので上げるぞ」
二人なら何とか持ち上がる。脇へ置いた小桶は俺の空いた手で持ち、董白の歩調に合わせて運び始めた。
「白、そこ段差!」
阿慶の声に董白が足を止めた。
「見えておる!」
言い返したくせに、越える時はずいぶんゆっくりだった。俺も歩調を合わせ、通りへ出た。
~
水を甕へ移し終えると、董白はすぐに女将を呼んだ。
「椀三つのことじゃが、相談したい」
俺は空桶を下ろした。
(今? 少し休んでからでも……)
「井戸の揉め事を収めてきた。あの分も、椀の弁償に数えてもらえぬか?」
「水汲みは、もともと頼んだ仕事だよ」
「水を汲むだけなら、わたしたちも黙って並んでおった。揉め事を収めた分だけでも、考えてほしい」
女将は井戸を見た。さっきまでの騒ぎは聞こえない。馬の世話を終えた男も戻ってきて、次の用を訊いていた。
「……そうだね。助かったのは確かだ。じゃあ一つ分は、それでいいよ」
「残りは二つじゃな?」
「裏の薪を厨房へ運んでくれれば、それで帳消しにしようか。今朝やるはずだった分が残ってるんだ」
「分かった!」
すぐに向かいかけた董白を女将が止める。
「待ちな。朝飯がまだだろう?」
董白が戻ってきた。俺の腹も同時に鳴りそうになった。
厨房の脇で粥を食べる間、二人ともほとんど喋らなかった。食べ終わりかけてから俺はようやく訊いた。
「椀のこと、ずっと考えてたのか?」
「うむ。いつまでも弁償を待ってもらうのは嫌じゃからな」
「井戸では助かった。俺一人なら黙って待ってたと思う」
董白は匙を止め、俺の顔を見た。
「慰めておるのか?」
「いや、本当に助かった。お前が話をつけなきゃ、もっと時間がかかってたはずだ」
「ふふん、感謝せよ」
董白が得意げに胸を張った。俺も笑ってうなずく。
「おう。次は椀は一つずつ持つんだぞ」
「もうせんわ!」
~
昼前、俺が客から頼まれた荷札を書いていると、阿慶が縄の束を抱えてやって来た。
「女将さん、できたよ。長い方の端も直しといたから」
宿で使う縄だったらしい。女将に渡すなり、阿慶は庭へ顔を向けた。
「白はいる?」
「裏だ。薪を運んでる」
俺が答えると、ちょうど董白が薪を抱えて出てきた。阿慶はそばへ駆け寄る。
「お婆ちゃんが助かったって。今日は怒鳴らずに済んだってさ」
「あれだけ怒鳴っておったのにか?」
「いつもは、もっとだもの」
二人が笑った。董白が薪を下ろすのを待ち、阿慶がその袖の木屑を払ってやる。董白は一瞬戸惑った顔をしたが、そのままもう片方の袖を自分で払った。
「もう少しで終わる?」
「あと一度運べばな。椀を割った分の働きじゃ」
「え、割っちゃったの?」
「……三つ」
声が小さくなる。
俺は筆を動かしながら聞いていた。さすがに三つは驚くよな、と思ったが、阿慶は自分の手を広げた。
「重ねて持った?」
「なぜ分かる?」
「私も落としかけたことある。こっちへ傾くと、直そうとして今度は向こうへ行くんだよね」
董白が何度もうなずいた。
「そうじゃ! 持ち直せば間に合うと思うたのに、下のまで滑って――」
そこで口を閉じた。阿慶は笑わずに、分かる分かる、と答えている。
「私は桶の取っ手を抜いた時の方がひどかったな。水が全部足にかかってさ」
「抜けた?」
「古いやつ。替えろって言われてたのに、まだ使えると思って。汲み直しに戻ったら列が伸びてるし、お婆ちゃんには叱られるし……」
阿慶が顔をしかめる。董白も井戸の方を見て、うわ、という顔になった。
少し前まで俺にはあんなに硬い返事をしていたのに、今は椀がどう滑ったかまで喋っている。こちらが口を挟むような話ではなさそうだ。
俺は書き終えた札を客へ渡した。
その間に阿慶は帰り支度をしていた。
「明日も来る? 水汲み」
「仕事を言いつけられればな」
「来たら声かけてよ。今度は私が運ぶの手伝うから」
董白はすぐには答えなかった。俺の方をちらりと見たので、聞こえていないふりで次の札を取る。
「……うむ。では、明日」
「またね!」
阿慶が通りを渡っていく。董白はしばらく見送ってから、残りの薪を取りに戻った。
昼の客が来る前に仕事は終わったらしい。女将に確かめてもらった董白が、今度は椀を両手で持ってきた。
「水じゃ。飲むか?」
「もらう。お前は?」
「飲んだ。そなたも井戸で喋り通しであったろう」
受け取った椀の水がうまかった。朝から忙しくて、喉の渇きまで後回しになっていたのだ。
「ありがとな。薪は済んだのか?」
「うむ。椀の分も、これで終わりじゃ」
やっと胸を張った。その顔を見て俺も笑う。
「それなら、これは大事に返さないとな」
「そなたが割ったら、そなたが薪を運べ」
「分かってる。手伝えとは言わない」
「灯くらいは持ってやるぞ」
夕方までかかるつもりはない、と返すと董白が笑った。
厨房から昼の支度をする音が聞こえてきた。董白も呼ばれるかと思ったが、まだ俺のそばで水を飲み終えるのを待っている。
今朝、椀を割った時の顔を思い出す。少なくとも、あのまま一日が終わらずに済んでよかった。
俺は残りの水を飲み干し、礼を言って椀を返した。