董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第7話 椀割姫

 

董白は、働き始めて四つ目の椀を洗い終えたところで、一つ割った。

 

宿の裏庭には、朝の客が使った椀が山になっていた。桶の水へ浸し、灰を付けた布でこすり、もう一つの桶ですすぐ。それだけの仕事だ。

 

女将が一度やって見せた時、董白は横でじっと手元を見ていた。

 

最初の三つまでは、うまくいった。四つ目をすすぎ終えると、董白はそれを片手に持ち、その上へ、先に洗った椀を一つ重ねた。二つまとめて置き場へ運ぼうと立ち上がったところで、上の一つが横へ滑った。

 

固く踏まれた土へ落ち、乾いた音を立てて二つに割れる。董白は手を伸ばした姿勢のまま固まった。

 

荷札を書いていた俺も、思わず筆を止める。

 

「白、怪我は?」

 

「ない。今のは、椀が勝手に滑ったのじゃ」

 

「濡れた椀は滑るに決まってるだろ」

 

女将がすぐに裏庭へ出てきた。割れた椀と董白の手を見て、腰へ手を当てる。

 

「一つずつ持ちなと言っただろ。二つ重ねて持つからだよ」

 

「……二つくらい持てると思ったのじゃ」

 

「思っただけじゃ駄目だよ。落としたんだから」

 

董白の顎が上がった。だが、割れた椀を見て、それ以上は言い返さなかった。欠片を拾おうとした手を女将に止められ、代わりに箒を渡された。

 

「手で触るんじゃないよ。掃いて端へ寄せな」

 

董白は黙って箒を受け取った。割れた椀を片づけると、また水桶の前へ座る。今度は一つずつ両手で持ち、指に力を入れすぎるほど慎重に洗い始めた。

 

同じ失敗はしなかった。ただ、別の失敗をした。

 

灰を落とすため椀を水へ入れた時、桶の縁へ強くぶつけた。今度は真っ二つにはならなかったが、縁が大きく欠けた。董白は欠けた場所を指でなぞった。

 

「……これも使えぬのか?」

 

「客の口が切れたらどうするんだい」

 

女将の声が飛んでくる。

 

「水へ入れる時は、桶の縁を見な。力を入れるのは、こする時だけだよ」

 

董白は欠けた椀を、最初の欠片の横へ置いた。

 

俺は何も言わず、荷札へ筆を戻した。今は黙っていた方がいい。

 

董白は女将のやり方をもう一度見た。布を持つ指、椀を水へ入れる角度、洗った後に置く場所まで、さっきより長く見ている。その後は、洗っている間に椀を割らなかった。

 

昼前には、洗い終えた椀が十個以上並んだ。置き場所を空けようと、董白はそれを一つの山へ重ね始めた。

 

運ぶ時は一つずつを守っていた。ただ、置き場へ運んだ椀は、同じ山へ重ねていった。

 

五つ、六つと高くなり、最後の一つを一番上へ置くと、山が傾いた。董白と俺が同時に手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 

一番上の椀が、二人の手の間を抜けて割れた。

 

「白!」

 

女将の怒鳴り声に、馬屋の馬まで首を上げた。俺が動くより先に、董白が割れた椀の前へ立った。

 

「今のは、洗い終わった後じゃ」

 

「割ったことは同じだよ! 朝だけで三つ。これ以上あんたに洗わせたら、客に出す椀がなくなるよ!」

 

「重ねただけじゃ。あのくらいで崩れるとは……」

 

女将が目を細める。董白も睨み返した。しばらくして、先に目を逸らしたのは董白だった。

 

「……三つとも、わたしが割りました」

 

「分かればいい。柳誠、箒を」

 

俺が箒を取ろうとすると、董白が先に奪った。

 

「妾が……わたしが、やる」

 

危ないところだった。

 

女将は聞き咎めた様子もなく、裏口の外にある桶を二つ指した。

 

「片づけたら、今度は水汲みだよ。水場は道の向こう。大甕が満ちるまで運びな。桶まで割るんじゃないよ」

 

董白は返事をしなかった。欠片を掃く箒だけが、さっきより強く土をこすっていた。

 

 

宿場の水場は、道を挟んだ向かいにあった。石を積んだ井戸の前に、十個以上の桶が並んでいる。水場番の婆さんが井戸端に座り、縄を下ろす人と、水を持ち帰る人を大声で急かしていた。

 

俺は空の桶を一つ持ち、もう一つを董白へ渡した。

 

「ここに並べればいいみたいだ」

 

「見れば分かる」

 

董白は一番後ろへ桶を置いた。俺はもう一つの桶を抱えたまま、列の外へ寄った。一度に並べていいのは、一つだけらしい。

 

列の前の方には、取っ手に赤い布を巻いた桶があった。しばらくして水が入り、持ち主の女が抱えて帰っていく。

 

ところが、その女はすぐに同じ桶を持って戻り、列の真ん中へ押し込んだ。

 

「うちは朝から待ってるんだよ」

 

「さっき一回持って帰っただろ!」

 

後ろにいた女が怒鳴る。押し込まれた桶を引き出そうとして、隣の桶まで倒れた。水場番の婆さんが杖で地面を叩く。

 

「倒すんじゃないよ! 来た順に置きな!」

 

「だから、朝から来てるって言ってるだろ!」

 

「一回持って帰ったら、次は後ろだよ!」

 

女は納得しなかったが、後ろからも文句が飛び、最後には桶を引きずって列の後ろへ回った。董白は、取っ手の赤い布を目で追っていた。

 

「柳誠。あの者、今ので二回目か?」

 

「そうみたいだな」

 

董白は何も言わず、列の後ろへ移った赤い布の桶を見ていた。

 

その後も、病人がいるから先に水を寄越せという女と、先に並んだのはこちらだという女が言い争い、列が止まった。病人がいると言った女の桶は、縁の一部が欠けていた。

 

ようやく董白の桶へ水が入った頃、宿の方から女将の声が飛んできた。

 

「まだかい! 水が来なきゃ次の粥が炊けないよ!」

 

桶を両手で持ち上げた董白の腕が下がる。

 

「二人で運ぶぞ。俺の桶はここに置いとく」

 

「要らぬ。持てる」

 

董白が持ち上げ直す前に、俺は桶の反対側へ手を掛けた。自分の空の桶は、井戸の脇へ置いていく。

 

二人で一つの桶を宿まで運ぶと、入口から男が二人出てきた。

 

「待ってられないよ。向こうで食う」

 

女将は呼び止めず、竈の空鍋を指した。

 

「水がなきゃ炊けないんだよ。早く大甕へ入れな」

 

水を移すと、俺たちは空の桶を持って水場へ戻った。

 

縁の欠けた桶は、まだ列の後ろにあった。

 

董白は何も言わなかった。ただ、並んでいる桶を一つずつ見た。取っ手の布、欠けた縁、縄の結び方。同じような木桶でも、違うところはいくらでもあった。

 

それから何回か往復し、大甕が満ちた頃には、昼を回っていた。

 

 

昼の粥を食べ終えると、董白が俺の前へ手を出した。

 

「柳誠。もう使わぬ荷札を一枚と、筆を貸せ」

 

「何を書くんだ?」

 

「よいから、寄越せ」

 

宿の隅に積まれた古い荷札から、裏が空いているものを選んだ。筆と墨も渡すと、董白は宿の土間へ座り込んだ。木札の裏へ、二、三文字ずつ書いていく。

 

「これ、桶の印か?」

 

「そうじゃ」

 

赤布。縁欠け。病人。

 

水場で見たものが、短く並んでいた。

 

「何に使うんだ?」

 

「明日の朝にな」

 

それだけ言うと、董白は木札を持って立ち上がり、女将の前へ行った。女将は夕餉の粟を量っているところだった。董白に気づいても、手を止めない。

 

「今度は何を割ったんだい」

 

「何も割っておらぬ」

 

「なら、仕事へ戻りな」

 

董白は退かず、木札を差し出した。

 

「割った椀の分は、わたしが返す」

 

その一言で、女将の手が止まった。

 

「何で返すんだい?」

 

「明日は今日より早く水汲みを終わらせる」

 

「どうやって?」

 

「これを使ってな」

 

女将は木札と董白の顔を見比べた。

 

「次の粥に間に合わせる。客を帰さずに済んだら、その分を椀代から引け」

 

「ずいぶん勝手な勘定だね。水場番には話したのかい?」

 

「これからじゃ」

 

女将は鼻を鳴らした。

 

「水場番がいいと言ったら、朝だけやってみな。それで客を帰さずに済んだら、その分は引いてやる」

 

「よい」

 

「できなかったら、薪運びだよ。返事は?」

 

董白の眉が動いた。

 

「……分かりました」

 

女将はまた粟を量り始めた。董白は木札を脇に抱え、土間を出た。

 

「柳誠、筆を持ってついてこい」

 

「俺もやるのか?」

 

「そなたは字が書けるであろう」

 

椀を割ったのは董白のはずだが、俺の仕事まで決まっていた。

 

 

日暮れ前、俺たちはもう一度水場へ向かった。

 

水場番の婆さんは、桶の数が減った井戸端に座っていた。その隣には、董白より少し背の低い娘がいる。婆さんの孫娘らしく、濡れた縄を巻いていた。

 

「婆よ。少し聞きたいことがある」

 

「誰が婆だい。水場番と呼びな」

 

董白は一度だけ口を結んだ。

 

「……水場番。赤い布を巻いた桶は、誰のものじゃ」

 

董白が木札を見せると、水場番より先に隣の娘が答えた。

 

「肉屋のおばさん」

 

「縁が欠けた桶は?」

 

「東の端の木こりの家。病人がいるところだよ」

 

董白が木札から顔を上げた。

 

「読めるのか?」

 

「桶を見れば分かる」

 

「字の方じゃ」

 

娘の口が止まった。巻き終えた縄を膝へ置き、木札をもう一度見る。

 

「……読めない」

 

「名は?」

 

「阿慶」

 

董白は木札の端へ、その名を書き足した。

 

「そうか」

 

それから水場番へ向き直った。

 

「明日の朝、ここで桶を見てよいか」

 

「何をする気だい?」

 

「今日より早く水汲みを終わらせる」

 

「勝手に桶を動かすんじゃないよ」

 

「動かさぬ。同じ桶がまた来たら、そなたに言う」

 

水場番は董白の木札へ目を落とした。

 

「朝だけだよ。余計に揉めたら、すぐやめてもらうからね」

 

董白の眉が動いた。

 

「……分かりました」

 

話が終わると、董白は阿慶を見た。

 

「阿慶。明日の朝は、わたしを手伝え」

 

「あたしが?」

 

「誰の桶か、教えよ」

 

「あたしに命令するの?」

 

「嫌ならよい」

 

阿慶は少し考え、董白を見上げた。

 

「やる」

 

「阿慶、縄の仕事を忘れるんじゃないよ」

 

水場番が釘を刺すと、阿慶は「分かってる」と返した。

 

宿へ戻ろうとすると、阿慶まで後ろからついてきた。

 

「なぜついてくる」

 

「木札、まだ書くんでしょ。ほかの桶も教える」

 

董白はしばらく阿慶を見た後、前へ向き直った。

 

「なら、遅れるな」

 

阿慶は駆け足で董白に追いついた。

 

 

翌朝、日が出る前に董白に起こされた。

 

水場へ行くと、阿慶はもう井戸端にいた。俺は筆と木札を持たされ、董白の横へ座らされた。

 

「柳誠。桶の印と持ち主を書け」

 

「全部か?」

 

「全部じゃ」

 

「それで何をするんだ?」

 

「手を動かせ。もう来ておる」

 

何をするつもりなのか、俺にはまだよく分からなかった。

 

最初に来たのは、取っ手に赤い布を巻いた桶だった。

 

「肉屋のおばさん」

 

阿慶が言う。

 

「赤布、肉屋」

 

董白が続け、俺は木札へ書いた。持ち主が水を汲んで帰ると、董白が木札を指した。

 

「横に一本引け」

 

言われた通り、肉屋の横へ線を引いた。

 

その後も、桶が来るたびに阿慶が持ち主を言い、董白が目印を決め、俺が木札へ書いた。水場番は何も言わず、その様子を見ている。

 

桶がいくつか入れ替わった頃、赤い布を巻いた桶が列の途中へ置かれた。

 

董白がすぐに指を差した。

 

「水場番。その桶は二回目じゃ」

 

「うちは朝から来てるんだよ」

 

昨日と同じ女だった。

 

「さっき一回持って帰ったであろう」

 

女が言い返そうとしたところで、水場番が杖を鳴らした。

 

「聞こえただろ。今度は後ろだよ」

 

女はしばらく文句を言っていたが、周りまで怒鳴り始める前に、桶を後ろへ動かした。

 

その次に、縁の欠けた桶が運ばれてきた。

 

阿慶が董白の袖を引いた。

 

「木こりの家。病人がいるところ」

 

董白は水場番を見た。

 

「水場番。あの桶は先に入れるのか?」

 

婆さんは少し考え、列の前を杖で叩いた。

 

「今日は先に入れな。昨日から待たせてる」

 

桶を持ってきた女は何度も頭を下げ、桶を列の前へ運んだ。後ろから不満の声は出たが、水場番がもう一度杖を鳴らすと、それ以上は続かなかった。

 

文句がなくなったわけではない。それでも、昨日のように列全体が止まることはなかった。

 

宿の桶に水が入るたび、董白と俺で大甕まで運んだ。水場へ戻るたび、阿慶が、その間に来た桶を教えた。

 

三回目に戻った時も、列は前へ進んでいた。

 

大甕が満ちる頃には、女将が次の鍋へ粟を入れていた。昨日なら客が帰り始めていた頃だが、今朝は湯気の上がる鍋を見て、みんな椀を持ったまま待っていた。

 

俺は空の桶を置き、ようやく董白へ聞いた。

 

「結局、何をしてたんだ?」

 

「見ておったであろう?」

 

「見てたけど、俺は言われた通り書いて、水を運んでただけだ」

 

董白は木札を俺から取り上げた。

 

「同じ桶がまた来たら、水場番に言っただけじゃ」

 

「阿慶は?」

 

「誰の桶か教えておった」

 

「病人の家を先にしたのも?」

 

「あれは水場番が決めた。わたしが勝手に決めたら、また揉める」

 

「それだけで、こんなに早く終わるんだな」

 

「昨日は、二回目かどうかで揉めておったからな」

 

「あたしがいなかったら、誰の桶か分からなかったでしょ」

 

横から阿慶が口を挟んだ。

 

董白は阿慶を見た。

 

「分かっておる」

 

阿慶は少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。

 

女将が鍋の向こうから声を飛ばした。

 

「白。今朝の働きで、椀一つ分は引いといてやるよ」

 

「一つだけか? 今日は誰も帰らなかったぞ」

 

「客が払った銭を、全部椀代にできると思ってるのかい。粟も薪もただじゃないんだよ」

 

董白は鍋と並んだ客を見比べた。

 

「……残り二つか」

 

「そういうことだよ。昼から薪運びだ」

 

「分かった」

 

「返事は?」

 

董白は一度だけ眉を寄せた。

 

「……分かりました」

 

横で阿慶が吹き出した。董白が睨むと、慌てて口を押さえた。

 

椀はまだ二つ分残っていた。それでも、椀を三つ割った董白の後ろには、一人増えていた。

 

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