董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
翌朝、女将は宿の裏へ回ると、壁際に積まれた薪をざっと見た。
昨日の午後、董白が運んだ分だ。
「よし。これで一つ分」
董白がすぐに顔を上げる。
「なら、残りは一つじゃな」
「割った椀はね」
女将はそれだけ言って、厨房の方へ戻っていった。
椀三つのうち、水場で一つ。昨日の薪で一つ。
あと一つ。
董白は袖の中で腕をさすっていた。昨日の薪運びで赤くなったところが、まだ痛むらしい。それでも、女将に見られた途端、何でもない顔に戻す。
「柳誠。今日は何をする」
「俺は荷札。白は女将さんに聞けよ」
「そなたは妾の仕事を決めぬのか」
「俺が決めたら、女将さんに怒られるだろ」
それは気に入らなかったらしい。董白は少しだけ眉を寄せたが、そのまま女将を追って厨房へ入った。
俺も書具箱を抱えて土間へ向かう。
その後ろを、阿慶がついてきた。
董白が足を止める。
「阿慶。そなたは何をしておる」
「白についてく」
阿慶は当たり前のように答えた。
「昨日もそうした」
董白の顔が、ほんの少し得意そうになる。
けれど、俺には阿慶の肩越しに、道の向こうが見えていた。
水場の脇に、濡れた縄の入った籠がある。昨日、阿慶が董白について回っていた間、そのままになっていた分だ。
董白も気づいた。
「……あれは、昨日の残りか」
「うん」
「今日も巻くのであろう」
「うん」
阿慶は頷いたあと、また董白の後ろへ立った。
董白はしばらく阿慶を見ていた。
「なら、そちらを先にせよ」
「白についてかなくていいの?」
「今日はよい。わたしは宿の仕事をする」
阿慶は少しだけ不満そうな顔をした。
「終わったら来ていい?」
「終わったらな」
それで納得したのか、阿慶は道を渡って水場へ戻っていった。
昨日なら、たぶんそのまま連れていた。
董白は阿慶の背中を少し見てから、自分も厨房へ向き直った。
~
女将が董白に任せたのは、また薪運びだった。
宿の裏にある薪を、竈の脇まで運ぶ。昨日と同じ仕事だ。
「残り一つ分、これで返していいんですか?」
俺が聞くと、女将は鍋の蓋をずらしながら董白を見た。
「朝の分を運び切ったらね。途中で放り出したら駄目だよ」
「放り出さぬ」
董白はすぐに薪置き場へ向かった。
今日は最初から三本だけ取った。
右腕に二本、左手に一本。
それを厨房脇へ置くと、すぐ次を取りに戻った。
俺は土間の端に座り、朝の荷札を書いた。
朝から持ち込まれる荷物の印と数を聞き、木札へ書く。書き終えたものから、下働きの男が荷物へ結びつけていった。
筆を走らせていると、道の向こうから水場番の声が聞こえた。
いつもの大きな声だ。
何を言っているかまでは聞き取れない。
董白も聞こえたらしい。
薪置き場から戻る途中で、一度だけ道の向こうを見た。
阿慶は井戸端に座ったまま、縄を巻いていた。
董白は足を止めなかった。
三本の薪を竈の脇へ置く。
「次」
女将に言われ、また宿の裏へ戻っていく。
しばらくして、今度は阿慶の声が道の向こうから聞こえた。
「それ、二回目だよ」
続いて、水場番の声が飛ぶ。
「なら後ろだよ!」
董白が薪を抱えたまま顔を上げた。
けれど、それだけだった。
ほどなく、また桶が石へ当たる音が続き始める。
董白は水場へ行かず、次の薪を取りに戻った。
朝の宿は、俺が思っていたより忙しい。
客が起きれば荷物を出す。馬へ水をやる。竈では粥が煮える。昨夜使った敷物も片づける。
俺は荷札を書き、数の合わない荷物があれば手を止める。董白はひたすら薪を運んだ。
一度、細い薪を四本持とうとして、その場でやめた。
三本に戻す。
「白。腕、大丈夫か?」
「これしきで騒ぐな」
「赤くなってるぞ」
董白は俺に見せないよう、薪を抱えた腕を少し下げた。
「見ておらずに、そなたは字を書け」
「はいはい」
「返事が軽い」
そんなことを言いながら、また宿の裏へ消える。
俺も荷札へ戻った。
今日は、水場へ行く暇がない。
いや、昨日だって本当はそうだったのだ。
俺には宿の仕事があった。董白にもあった。阿慶にもあった。
昨日は三人とも、水場に朝を使ってしまった。
今日は、それぞれ自分の仕事をしている。
~
昼前、女将が竈の火を弱めた頃には、薪置き場から運ぶ分がなくなっていた。
董白が最後の三本を厨房脇へ置く。
「これで全部じゃ」
女将は薪を見てから、宿の裏まで自分で見に行った。
戻ってくると、指を一本立てる。
「これで最後の一つも終わり」
董白が目を瞬いた。
「終わり?」
「割った椀三つ分だよ。全部返した」
董白は竈の横に積まれた薪を見た。
それから、自分の手を見る。
朝から何度も薪を抱えたせいで、指の付け根まで赤くなっていた。
「……そうか」
もっと何か言うと思った。
胸を張るとか、俺を見るとか。
でも董白は、少しだけ口元を緩めただけだった。
「柳誠。水場を見に行くぞ」
「今から?」
「阿慶の縄も、そろそろ終わる頃じゃ」
「気になるんだな」
董白は一瞬黙った。
「見に行くだけじゃ」
たぶん違う。
でも、そこを言うと面倒なので黙ってついていった。
道の向こうへ渡った。
朝に並んでいた桶は、もうほとんど残っていなかった。
水場番は井戸端に座っていた。阿慶はその少し横で、最後の縄を巻いていた。
昨日の籠は空になっていた。
「白」
阿慶が俺たちに気づき、巻いた縄を持ち上げた。
「終わった」
「うむ」
董白は縄を見て、それから水場を見た。
「今日は桶の順で揉めなんだか?」
「揉めそうだったけど、なんとかなったよ」
阿慶はそう言って、巻いた縄を籠へ入れた。
昨日は朝じゅう董白について桶を見ていた。
今日は二度だけ手を止めて、それでも水場の朝は終わっていた。
水場番が先に鼻を鳴らした。
「何だい。今日は見張りに来なかったね」
董白の眉が少し動く。
「わたしにも仕事があったのじゃ」
「そりゃ結構」
水場番はそれだけ言うと、井戸の方へ向き直った。
阿慶も立ち上がって董白についてくることはなかった。
それだけ確認して、俺たちは宿へ戻った。
~
昼の粥は、昨日と同じ椀に入って出てきた。
女将は俺と董白の前へ二つ並べた。
「椀の借りは、もうないよ」
董白は自分の椀を両手で持った。
「なら、これから食う分は、普通に働けばよいのじゃな」
「そうだよ。あんたはまだ、言われた仕事を覚えてる途中だけどね」
董白がむっとする。
女将は気にせず、自分の仕事へ戻っていった。
俺たちはこの宿に置いてもらっている。
二人とも働けば、飯と寝床も出る。
それは、この宿に置いてもらった朝から変わっていない。
ただ、今のところは、女将がその日に足りない仕事を見つけて俺たちへ回してくれているだけだった。
董白は粥を一口食べてから、椀の中を見た。
「柳誠」
「ん?」
「次は、毎日できる仕事を見つけるぞ」
「作るんじゃなかったのか?」
董白は俺を睨んだ。
「見つけて、なければ作らねばならんじゃろうな」
「はいはい」
「だから返事が軽いと言うておる!」
割った椀の借りは、これでなくなった。
次は、最低限冬まで続けられる仕事を一つ持たなければならない。