董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
雨の音を聞いて、俺はもう一度目を閉じた。
屋根がある。今日は歩かなくてもいい。そう思って脚を伸ばした途端、足先が冷たい物に触れた。
「うわっ!」
起き上がると、敷いた俵が濡れていた。庭から吹き込む雨がじわじわ広がり、俺の寝ている所まで来ている。
壁際には董白が膝を抱えていた。
「よう寝ておったな。起こそうか迷うたぞ」
「そこは起こしてくれよ! ほら、上着までびしょ濡れだぞ」
「……すまぬ。気持ちよさそうに寝ておったから、もう少し寝かせてやろうと思うたのじゃ」
そう言われると文句も続かない。俺は濡れた袖を絞った。
董白が俺の書具箱を差し出した。こちらは先に避難させてくれたらしい。礼を言って受け取り、乾いた所を探す。
二人で座るなら何とかなる。横になれば脚が雨に当たる。
(屋根があるだけじゃ駄目なのか……)
ここへ着いた晩は馬屋の脇でもありがたかった。二晩目も疲れて寝てしまったが、さすがに今夜までこれでは困る。
「女将に相談するか。どこか空いていればいいんだが」
「妾もそう思うておった。今夜こそ中で寝たいのう」
董白の袖も湿っている。俺たちは俵を壁へ寄せ、荷物をまとめてから宿へ入った。
ところが、寝場所の相談をするどころではなかった。
雨が止むまで出られない客で広間が埋まっている。入口には雨宿りの客まで来て、女将は粥を運ぶ途中で何度も呼び止められていた。
「女将、こいつを置いといていいか?」
「ああ、ちょっと待っておくれ。湯を下ろしてから――そっちは今行くよ!」
女将が通るたびに誰かが声をかける。空いた場所へ置けば済みそうな包みも、返事を待つ客の腕に抱えられたままだ。
俺は書具箱を卓へ置いた。
「荷物を預ける方はこちらへどうぞ」
包みを持った男がすぐにやって来た。名前を聞いて札を書き、柱の脇を空けてもらう。女将も横を通りながらそこを見てうなずいた。
「助かるよ。厨房からの通り道だけは空けといておくれ」
「分かりました」
董白は厨房へ呼ばれ、足りない薪を運びに行った。俺も預けられた包みを並べていく。
昨日は女将が引き受けた荷物を確かめ、札を書いていた。今朝は俺の返事で客が荷を下ろしていく。忙しくはあるが、女将を呼ばずに済むたび少し得意になる。
寝床の話は、朝の客が落ち着いてからでいい。
その頃には女将も、少しくらい俺たちの頼みを聞こうと思ってくれるかもしれない。
「おい、預かってもらえるか!」
戸口から男が駆け込んできた。濡れた外套のまま、背後の荷車を指す。
「覆いが裂けたんだ。袋で八つ。向こうの宿には断られた!」
雨の中で二人の運び手が荷を押さえている。俺は奥の空き場所を見た。朝から預かっている包みをもう少し寄せれば入りそうだ。
「分かりました。先に中へ入れてください」
男は外へ声を張った。
一つ目の袋を下ろされて、俺は思わず立ち上がった。
大きい。
俺がさっきまで受け取っていた手荷物とは違う。二人がかりで下ろした袋は、奥へ入れるだけでも周りの荷を動かさなければならなかった。
(これが、八つ?)
置く所を探しているうちに二つ目が来る。慌てて先の袋へ寄せてもらったが、今度は厨房から出てきた女が鍋を抱えて止まった。
通り道を塞いでいた。
「すみません、すぐ空けます!」
「兄ちゃん、これはどこだ?」
三つ目を抱えた運び手が戸口で待っている。その後ろから商人が、早くしてくれ、と声をかけた。
前からも後ろからも呼ばれる。頭の中では動かせるつもりだった荷物が、目の前ではどうにもならない。
女将が広間へ戻ってきた。
「柳誠、どうしたんだい?」
俺は答えようとして口を閉じた。見込み違いだったと言えば済む。けれど自分から引き受けたばかりで、それを口にするのがひどく怖かった。
「雨に当たってるんだよ! 入れていいって言っただろう!」
商人の声に腹が縮む。
「……すみません。八つなら奥に入ると思ったんです。もっと小さい荷だとばかり……」
「数だけ聞いて返事しちゃ駄目だよ。現物を見なくちゃ」
女将の言う通りだった。
「まず鍋を通して。話はそれからだよ」
運び手に頼んで袋を持ち上げ直してもらう。俺も端を抱えたが、思うほど動かせない。焦って引っ張り、商人に擦るなと止められた。
顔が熱い。雨で冷えていたはずなのに、もう汗が出ていた。
~
ようやく鍋が通ったところへ、董白が戻ってきた。
「柳誠、どうした? 向こうまで声が聞こえておったぞ」
「俺が入れていいと言ったんだが、置ききれなくてな……。悪い、手を貸してくれ」
「何が入っておる?」
俺は商人を見た。中身さえ聞いていないと気づき、ますます恥ずかしくなる。
「布が三つ。あとは粟と乾物だ」
商人が早口で答えた。
「頼む、布だけでも先に入れてくれ。濡れたら売り物にならんのだ」
女将が奥の荷を見回す。今ある物も客から預かった物だ。外へ出してしまうわけにはいかない。
俺は庭の向こうへ目をやった。
馬屋の脇に寄せた俵が見える。雨が届くのは手前までで、壁際はまだ乾いていた。寝転ぶには狭くても、袋を重ねるなら使えるのではないか。
「私たちの寝ている所も使えませんか? 寝具なら片づけます」
「馬屋か? 布に匂いがついたら困るぞ」
即座に返され、言葉に詰まる。
あれも駄目、これも駄目。だったらどうすればいいんだと言いたくなったが、引き受けたのは俺だ。
董白が女将へ訊いた。
「布の三つだけなら、奥に置けぬか? 馬屋へは残りを運ぼう」
女将は入りかけの袋を見た。
「三つなら何とかなるね。そっちの荷主がよければ」
「板を敷いてくれるならいい。濡れない所か見せてくれ」
話が進んだ。それだけで少し息がしやすくなる。
商人と女将が馬屋へ向かい、俺も俵を片づけようとした。その袖を董白が引く。
「待て。そこへ荷を置いたら、妾たちはどこで寝るのじゃ?」
「……あ」
「あ、ではないわ。二人分じゃぞ」
小声だった。それでかえって、自分一人の寝場所ではなかったと思い出す。
「悪かった。女将に頼んでくる」
「妾も一緒に頼もう」
女将はもう乾いた所を指して、ここへ板を並べればいいと商人に話していた。俺はその話が切れるのを待って声をかける。
「それなら、今夜は広間で寝かせてもらえませんか? 客が帰ってからで構いません」
女将が俺たちの俵へ目を落とした。
「ここまで吹き込んだのかい?」
「うむ。朝には二人とも濡れておった。今夜は中で寝かせてほしいのじゃ」
董白が言うと、女将は少し考えてからうなずいた。
「分かった。広間の壁際を空けよう。ただし朝飯の支度までには起きてもらうよ」
「はい! ありがとうございます。支度の邪魔になる前に片づけます」
「起きぬようなら、今度こそ叩き起こすぞ」
董白が横から俺を見た。
「ああ、今度は頼むぞ」
商人にも場所を確かめてもらい、ようやく預け先が決まった。俵を運び出して板を敷くと、残りの袋は借りた覆いをかけて馬屋へ運ばれていく。
屋内の三つは布だ。商人が外袋を開き、中を確かめる間、俺はそばを離れられなかった。
もし濡れていたら。
袋を下ろす場所も決めずに、入れていいなどと言うべきではなかった。今ならいくらでも分かる。
男が布を戻して口を結んだ。
「大丈夫だ。助かったよ」
膝から力が抜けそうになった。
「……よかった」
商人も大きく息を吐く。
「こっちも怒鳴って悪かったな。ほかを断られて、もう行く所がなくてさ」
「いえ。先に荷物を見せてもらうべきでした」
今は素直に言えた。俺だって寝る場所を断られた時は気が気でなかったのだから、荷を濡らしている人が落ち着いて待てるわけがない。
男はこれから町の売り先を回り、売れ残った荷は明朝引き取るという。預かり代は女将が決め、俺は荷物の控えを書いた。男はそれを確かめると、ようやく朝飯を食べに広間へ入っていった。
~
「今日は、そなたの方が叱られておったな」
卓へ戻ってきた董白が言った。
「……昨日の仕返しか?」
「そなたも昨日は笑うておったであろう?」
言いながら口元が緩んでいる。俺は濡れた上着の袖を引っ張った。
「さっきは悪かった。お前の寝場所でもあるのに、勝手に決めて」
「助けるなとは言うておらぬ。わたしにも訊いてほしかったのじゃ」
「ああ。次は先に相談する」
「うむ。今夜は中で寝られるのじゃ。ひとまず、それでよいわ」
董白は卓の控えを覗き込み、荷の置き場所を確かめた。
「荷主が戻ったら、この控えを見て渡せばよいのじゃな?」
「ああ。別の人が来る分は、受け取る人の名前も書いてある」
「ならば、しばらくわたしが見ておこう。そなたは服を乾かしてこい。袖からまだ水が垂れておるぞ」
「……まだ客が来るぞ。一人で平気か?」
「困れば呼ぶ。そこの火に当たっておれば、聞こえるであろう?」
(せっかく任されたのに、もう交代か)
少し悔しい。朝から失敗したせいで、なおさらそう思う。だがこの格好で座っていても挽回にはならない。
「……じゃあ、少し頼む。すぐ戻る」
「うむ。だが、ちゃんと乾かしてくるのじゃぞ」
俺は女将に断り、火の近くで上着を乾かした。借りた布で頭も拭くと、ようやく寒かったのだと分かる。
入口から客の声がした。
振り向くと董白が客の相手をしていた。指された包みと控えを見比べ、名前を聞いてから渡している。
俺が書いた物を使ってくれている。
それを見て少し気が晴れたところで、すぐに声が飛んできた。
「柳誠! 新しく荷を預けたいそうじゃ。置き場を一緒に見てほしい」
休めたのは短かった。
卓へ戻ると、男が二人待っていた。一人は受け取り、もう一人はこれから預けたいらしい。
「分かった。こっちは俺が聞く。そっちの包みを頼む」
「こちらの包みでよかったか? 帰る前に中も確かめてほしい」
董白が受け取りの客へ言う。その横で俺は新しい札を書いた。
俺が預かる話を聞いている間に、董白が返す荷を確かめる。客に呼ばれても、先の話を途中で切り上げずに済んだ。
昼前には上着も乾き、広間の客も少しずつ減っていった。
董白と遅い朝飯を食べたのは、それからだ。
「明日の朝も、荷物は二人で見ないか? さっきみたいに手分けすれば、俺も助かる」
椀を置いて訊くと董白が顔を上げた。
「妾はよいが、薪も水汲みも頼まれておるぞ。女将は何と言うかのう」
「朝の間だけ、誰かに代わってもらえないか聞いてみる。荷が済んだら俺も運ぶから」
董白は少し考えてうなずいた。
「それなら頼んでみようか。さっきも厨房へ呼ばれたが、待っておる客を置いて行くわけにもいかなんだ」
「それと、銭も少しもらえないかと思ってる。……今日言うのは図々しいかな」
「今まで女将がしておった仕事も引き受けるのであろう? ならば、銭の話をしてもよいではないか」
すぐ返ってきて、俺の方が黙った。
朝からあれだけ迷惑をかけたのに、金をくれとは言いにくい。だが飯と寝場所をもらうだけでは、擦り切れた草鞋も買い直せない。
「……頼んでみるか」
「今度は、引き受ける前に条件を確かめておくのじゃぞ」
「分かってる。八袋の話はもう勘弁してくれ」
董白は笑って残りの粥を食べた。
女将に話しかけたのは、厨房の片づけが一段落してからだった。
「明日からも朝の荷物は二人に任せてもらえませんか? 預かるところから返すところまで、こちらでやりますから」
女将はまず董白を見た。
「椀洗いと水汲みは?」
「朝の忙しい間だけ、ほかの者に頼みたい。その後の仕事は二人でやろうと思うておる」
「じゃあ、荷をどこへ置くかも二人で決められるんだね?」
「はい。判断に迷う時だけ相談させてください」
女将がうなずく。俺は続けようとして、一度唾を飲んだ。
「それで、その分いくらか銭も頂けませんか?」
言えた。
女将が考えている間、余計なことを言わずに待つのがつらかった。駄目なら今までどおりでも、と付け足したくなる。
隣の董白は平気な顔だ。こちらから引っ込めるつもりなどないらしい。
「二人で十枚。それなら出せるよ」
十枚も。
うっかり聞き返しそうになったが、女将はそのまま話を続けた。
「朝の荷が片づいたら渡そう。あんたたちに任せて、あたしも飯の客にかかりきりになれるんだろう? それなら助かるよ。ただし入らない物は断っておくれ」
「はい。次はちゃんと確かめます」
「銭とは別に、飯と寝場所もあると思うてよいか?」
董白が訊いた。銭のことばかり考えていた俺も女将を見る。
「もちろん。それまで取り上げやしないよ。今夜は広間で寝ていいからね」
「うむ。それなら、よろしく頼む」
俺も頭を下げた。女将は腰の袋を開き、今日の分だと銭を出してくれる。
「今日からでいいんですか?」
「朝はもう働いたじゃないか。最後はちゃんと収まったしね」
卓に並べられた十枚を見て、胸の中がむずむずした。
今までは減っていく一方だった。粥を買うにも道を進むにも銭が要り、残りを確かめるたび嫌な気分になった。
今日は増えた。
食う物も今夜の寝床も、もうある。これをすぐ誰かに払わなくていいのだ。
「ありがとうございます。明日もよろしくお願いします」
顔を上げると女将が笑っていた。
「二人とも、まずは昼の支度を頼むよ。あたしは少し座ってから行くからね」
~
夕方、商人は運び手を連れて戻ってきた。
売れたのは布が二袋と粟が一袋。董白が出す物を確かめ、俺が控えを書き直した。残りは布一袋と、馬屋の脇の四袋。明朝渡す約束だ。
朝、俺を怒鳴った男が帰り際に訊いた。
「明日も、あんたに言えばいいか?」
「はい。出発前に声をかけてください」
男が手を上げて去っていく。
俺は卓へ戻りながら、つい笑ってしまった。朝はあれだけ怒らせたのに、明日も任せると言ってくれた。それが嬉しい。
「機嫌がよいのう」
董白に言われ、否定せずにうなずいた。
「十枚も貰ったからな。明日、少し買い物しないか?」
「もう使うつもりか?」
「全部じゃない。お前も要る物があるだろ」
董白は袖口を見た。薪を運んでほつれた所を、昼に女将から借りた針で縫っていた。
「針と糸が欲しいのう。いつまでも女将に借りておるわけにもいかぬ」
「じゃあ、それを見に行こう」
「そなたは?」
俺は少し迷った。敷物も着替えも欲しいが、十枚を手にした途端あれこれ考えても仕方がない。
「甘い物が食いたい」
董白の顔がこちらを向いた。
「どこに売っておる?」
「それを探すんだよ。まだ店も知らない」
「阿慶なら知っておろう。明日、訊いてみるとしよう」
話が早い。俺が笑うと董白は眉を寄せた。
「何じゃ?」
「いや。お前も食いたかったんだなと思って」
「悪いか?」
「悪くない。一緒に行こう」
董白もうなずいた。朝の仕事を終えたら、二人で町へ出る。女将にはその時に断りを入れればいい。
それだけの約束で、明日が少し楽しみになった。
夜には広間の壁際を空けてもらえた。乾いた俵に粗布を敷き、借りた衝立を立てる。隙間から厨房の灯が見えたが、風も雨も入ってこない。
「ああ……これはいいな」
横になると声が出た。董白は壁側へ座り、俺の書具箱を枕元へ寄せている。
「今日の銭も入れたな?」
「入れた。お前も見てただろ」
「うむ」
それでも蓋に手をかけたので、今度は俺が笑ってしまった。
「十枚とも逃げてないぞ」
「……確かめただけじゃ」
董白は箱を置いて横になった。言い返した割に、顔は少し緩んでいる。
外ではまだ雨が降っていた。だが足を伸ばしても、今夜は冷たい物に触れなかった。
明日はあの五袋を送り出して、それから買い物だ。
甘い物などずっと食べていない。どんな物があるのか考えていると、隣から董白の声がした。
「寝過ごすでないぞ」
「お前こそな」
小さく笑う声がして、それきり静かになった。