董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第8話 雨の日

 

雨の音を聞いて、俺はもう一度目を閉じた。

 

屋根がある。今日は歩かなくてもいい。そう思って脚を伸ばした途端、足先が冷たい物に触れた。

 

「うわっ!」

 

起き上がると、敷いた俵が濡れていた。庭から吹き込む雨がじわじわ広がり、俺の寝ている所まで来ている。

 

壁際には董白が膝を抱えていた。

 

「よう寝ておったな。起こそうか迷うたぞ」

 

「そこは起こしてくれよ! ほら、上着までびしょ濡れだぞ」

 

「……すまぬ。気持ちよさそうに寝ておったから、もう少し寝かせてやろうと思うたのじゃ」

 

そう言われると文句も続かない。俺は濡れた袖を絞った。

 

董白が俺の書具箱を差し出した。こちらは先に避難させてくれたらしい。礼を言って受け取り、乾いた所を探す。

 

二人で座るなら何とかなる。横になれば脚が雨に当たる。

 

(屋根があるだけじゃ駄目なのか……)

 

ここへ着いた晩は馬屋の脇でもありがたかった。二晩目も疲れて寝てしまったが、さすがに今夜までこれでは困る。

 

「女将に相談するか。どこか空いていればいいんだが」

 

「妾もそう思うておった。今夜こそ中で寝たいのう」

 

董白の袖も湿っている。俺たちは俵を壁へ寄せ、荷物をまとめてから宿へ入った。

 

ところが、寝場所の相談をするどころではなかった。

 

雨が止むまで出られない客で広間が埋まっている。入口には雨宿りの客まで来て、女将は粥を運ぶ途中で何度も呼び止められていた。

 

「女将、こいつを置いといていいか?」

 

「ああ、ちょっと待っておくれ。湯を下ろしてから――そっちは今行くよ!」

 

女将が通るたびに誰かが声をかける。空いた場所へ置けば済みそうな包みも、返事を待つ客の腕に抱えられたままだ。

 

俺は書具箱を卓へ置いた。

 

「荷物を預ける方はこちらへどうぞ」

 

包みを持った男がすぐにやって来た。名前を聞いて札を書き、柱の脇を空けてもらう。女将も横を通りながらそこを見てうなずいた。

 

「助かるよ。厨房からの通り道だけは空けといておくれ」

 

「分かりました」

 

董白は厨房へ呼ばれ、足りない薪を運びに行った。俺も預けられた包みを並べていく。

 

昨日は女将が引き受けた荷物を確かめ、札を書いていた。今朝は俺の返事で客が荷を下ろしていく。忙しくはあるが、女将を呼ばずに済むたび少し得意になる。

 

寝床の話は、朝の客が落ち着いてからでいい。

 

その頃には女将も、少しくらい俺たちの頼みを聞こうと思ってくれるかもしれない。

 

「おい、預かってもらえるか!」

 

戸口から男が駆け込んできた。濡れた外套のまま、背後の荷車を指す。

 

「覆いが裂けたんだ。袋で八つ。向こうの宿には断られた!」

 

雨の中で二人の運び手が荷を押さえている。俺は奥の空き場所を見た。朝から預かっている包みをもう少し寄せれば入りそうだ。

 

「分かりました。先に中へ入れてください」

 

男は外へ声を張った。

 

一つ目の袋を下ろされて、俺は思わず立ち上がった。

 

大きい。

 

俺がさっきまで受け取っていた手荷物とは違う。二人がかりで下ろした袋は、奥へ入れるだけでも周りの荷を動かさなければならなかった。

 

(これが、八つ?)

 

置く所を探しているうちに二つ目が来る。慌てて先の袋へ寄せてもらったが、今度は厨房から出てきた女が鍋を抱えて止まった。

 

通り道を塞いでいた。

 

「すみません、すぐ空けます!」

 

「兄ちゃん、これはどこだ?」

 

三つ目を抱えた運び手が戸口で待っている。その後ろから商人が、早くしてくれ、と声をかけた。

 

前からも後ろからも呼ばれる。頭の中では動かせるつもりだった荷物が、目の前ではどうにもならない。

 

女将が広間へ戻ってきた。

 

「柳誠、どうしたんだい?」

 

俺は答えようとして口を閉じた。見込み違いだったと言えば済む。けれど自分から引き受けたばかりで、それを口にするのがひどく怖かった。

 

「雨に当たってるんだよ! 入れていいって言っただろう!」

 

商人の声に腹が縮む。

 

「……すみません。八つなら奥に入ると思ったんです。もっと小さい荷だとばかり……」

 

「数だけ聞いて返事しちゃ駄目だよ。現物を見なくちゃ」

 

女将の言う通りだった。

 

「まず鍋を通して。話はそれからだよ」

 

運び手に頼んで袋を持ち上げ直してもらう。俺も端を抱えたが、思うほど動かせない。焦って引っ張り、商人に擦るなと止められた。

 

顔が熱い。雨で冷えていたはずなのに、もう汗が出ていた。

 

 

ようやく鍋が通ったところへ、董白が戻ってきた。

 

「柳誠、どうした? 向こうまで声が聞こえておったぞ」

 

「俺が入れていいと言ったんだが、置ききれなくてな……。悪い、手を貸してくれ」

 

「何が入っておる?」

 

俺は商人を見た。中身さえ聞いていないと気づき、ますます恥ずかしくなる。

 

「布が三つ。あとは粟と乾物だ」

 

商人が早口で答えた。

 

「頼む、布だけでも先に入れてくれ。濡れたら売り物にならんのだ」

 

女将が奥の荷を見回す。今ある物も客から預かった物だ。外へ出してしまうわけにはいかない。

 

俺は庭の向こうへ目をやった。

 

馬屋の脇に寄せた俵が見える。雨が届くのは手前までで、壁際はまだ乾いていた。寝転ぶには狭くても、袋を重ねるなら使えるのではないか。

 

「私たちの寝ている所も使えませんか? 寝具なら片づけます」

 

「馬屋か? 布に匂いがついたら困るぞ」

 

即座に返され、言葉に詰まる。

 

あれも駄目、これも駄目。だったらどうすればいいんだと言いたくなったが、引き受けたのは俺だ。

 

董白が女将へ訊いた。

 

「布の三つだけなら、奥に置けぬか? 馬屋へは残りを運ぼう」

 

女将は入りかけの袋を見た。

 

「三つなら何とかなるね。そっちの荷主がよければ」

 

「板を敷いてくれるならいい。濡れない所か見せてくれ」

 

話が進んだ。それだけで少し息がしやすくなる。

 

商人と女将が馬屋へ向かい、俺も俵を片づけようとした。その袖を董白が引く。

 

「待て。そこへ荷を置いたら、妾たちはどこで寝るのじゃ?」

 

「……あ」

 

「あ、ではないわ。二人分じゃぞ」

 

小声だった。それでかえって、自分一人の寝場所ではなかったと思い出す。

 

「悪かった。女将に頼んでくる」

 

「妾も一緒に頼もう」

 

女将はもう乾いた所を指して、ここへ板を並べればいいと商人に話していた。俺はその話が切れるのを待って声をかける。

 

「それなら、今夜は広間で寝かせてもらえませんか? 客が帰ってからで構いません」

 

女将が俺たちの俵へ目を落とした。

 

「ここまで吹き込んだのかい?」

 

「うむ。朝には二人とも濡れておった。今夜は中で寝かせてほしいのじゃ」

 

董白が言うと、女将は少し考えてからうなずいた。

 

「分かった。広間の壁際を空けよう。ただし朝飯の支度までには起きてもらうよ」

 

「はい! ありがとうございます。支度の邪魔になる前に片づけます」

 

「起きぬようなら、今度こそ叩き起こすぞ」

 

董白が横から俺を見た。

 

「ああ、今度は頼むぞ」

 

商人にも場所を確かめてもらい、ようやく預け先が決まった。俵を運び出して板を敷くと、残りの袋は借りた覆いをかけて馬屋へ運ばれていく。

 

屋内の三つは布だ。商人が外袋を開き、中を確かめる間、俺はそばを離れられなかった。

 

もし濡れていたら。

 

袋を下ろす場所も決めずに、入れていいなどと言うべきではなかった。今ならいくらでも分かる。

 

男が布を戻して口を結んだ。

 

「大丈夫だ。助かったよ」

 

膝から力が抜けそうになった。

 

「……よかった」

 

商人も大きく息を吐く。

 

「こっちも怒鳴って悪かったな。ほかを断られて、もう行く所がなくてさ」

 

「いえ。先に荷物を見せてもらうべきでした」

 

今は素直に言えた。俺だって寝る場所を断られた時は気が気でなかったのだから、荷を濡らしている人が落ち着いて待てるわけがない。

 

男はこれから町の売り先を回り、売れ残った荷は明朝引き取るという。預かり代は女将が決め、俺は荷物の控えを書いた。男はそれを確かめると、ようやく朝飯を食べに広間へ入っていった。

 

 

「今日は、そなたの方が叱られておったな」

 

卓へ戻ってきた董白が言った。

 

「……昨日の仕返しか?」

 

「そなたも昨日は笑うておったであろう?」

 

言いながら口元が緩んでいる。俺は濡れた上着の袖を引っ張った。

 

「さっきは悪かった。お前の寝場所でもあるのに、勝手に決めて」

 

「助けるなとは言うておらぬ。わたしにも訊いてほしかったのじゃ」

 

「ああ。次は先に相談する」

 

「うむ。今夜は中で寝られるのじゃ。ひとまず、それでよいわ」

 

董白は卓の控えを覗き込み、荷の置き場所を確かめた。

 

「荷主が戻ったら、この控えを見て渡せばよいのじゃな?」

 

「ああ。別の人が来る分は、受け取る人の名前も書いてある」

 

「ならば、しばらくわたしが見ておこう。そなたは服を乾かしてこい。袖からまだ水が垂れておるぞ」

 

「……まだ客が来るぞ。一人で平気か?」

 

「困れば呼ぶ。そこの火に当たっておれば、聞こえるであろう?」

 

(せっかく任されたのに、もう交代か)

 

少し悔しい。朝から失敗したせいで、なおさらそう思う。だがこの格好で座っていても挽回にはならない。

 

「……じゃあ、少し頼む。すぐ戻る」

 

「うむ。だが、ちゃんと乾かしてくるのじゃぞ」

 

俺は女将に断り、火の近くで上着を乾かした。借りた布で頭も拭くと、ようやく寒かったのだと分かる。

 

入口から客の声がした。

 

振り向くと董白が客の相手をしていた。指された包みと控えを見比べ、名前を聞いてから渡している。

 

俺が書いた物を使ってくれている。

 

それを見て少し気が晴れたところで、すぐに声が飛んできた。

 

「柳誠! 新しく荷を預けたいそうじゃ。置き場を一緒に見てほしい」

 

休めたのは短かった。

 

卓へ戻ると、男が二人待っていた。一人は受け取り、もう一人はこれから預けたいらしい。

 

「分かった。こっちは俺が聞く。そっちの包みを頼む」

 

「こちらの包みでよかったか? 帰る前に中も確かめてほしい」

 

董白が受け取りの客へ言う。その横で俺は新しい札を書いた。

 

俺が預かる話を聞いている間に、董白が返す荷を確かめる。客に呼ばれても、先の話を途中で切り上げずに済んだ。

 

昼前には上着も乾き、広間の客も少しずつ減っていった。

 

董白と遅い朝飯を食べたのは、それからだ。

 

「明日の朝も、荷物は二人で見ないか? さっきみたいに手分けすれば、俺も助かる」

 

椀を置いて訊くと董白が顔を上げた。

 

「妾はよいが、薪も水汲みも頼まれておるぞ。女将は何と言うかのう」

 

「朝の間だけ、誰かに代わってもらえないか聞いてみる。荷が済んだら俺も運ぶから」

 

董白は少し考えてうなずいた。

 

「それなら頼んでみようか。さっきも厨房へ呼ばれたが、待っておる客を置いて行くわけにもいかなんだ」

 

「それと、銭も少しもらえないかと思ってる。……今日言うのは図々しいかな」

 

「今まで女将がしておった仕事も引き受けるのであろう? ならば、銭の話をしてもよいではないか」

 

すぐ返ってきて、俺の方が黙った。

 

朝からあれだけ迷惑をかけたのに、金をくれとは言いにくい。だが飯と寝場所をもらうだけでは、擦り切れた草鞋も買い直せない。

 

「……頼んでみるか」

 

「今度は、引き受ける前に条件を確かめておくのじゃぞ」

 

「分かってる。八袋の話はもう勘弁してくれ」

 

董白は笑って残りの粥を食べた。

 

女将に話しかけたのは、厨房の片づけが一段落してからだった。

 

「明日からも朝の荷物は二人に任せてもらえませんか? 預かるところから返すところまで、こちらでやりますから」

 

女将はまず董白を見た。

 

「椀洗いと水汲みは?」

 

「朝の忙しい間だけ、ほかの者に頼みたい。その後の仕事は二人でやろうと思うておる」

 

「じゃあ、荷をどこへ置くかも二人で決められるんだね?」

 

「はい。判断に迷う時だけ相談させてください」

 

女将がうなずく。俺は続けようとして、一度唾を飲んだ。

 

「それで、その分いくらか銭も頂けませんか?」

 

言えた。

 

女将が考えている間、余計なことを言わずに待つのがつらかった。駄目なら今までどおりでも、と付け足したくなる。

 

隣の董白は平気な顔だ。こちらから引っ込めるつもりなどないらしい。

 

「二人で十枚。それなら出せるよ」

 

十枚も。

 

うっかり聞き返しそうになったが、女将はそのまま話を続けた。

 

「朝の荷が片づいたら渡そう。あんたたちに任せて、あたしも飯の客にかかりきりになれるんだろう? それなら助かるよ。ただし入らない物は断っておくれ」

 

「はい。次はちゃんと確かめます」

 

「銭とは別に、飯と寝場所もあると思うてよいか?」

 

董白が訊いた。銭のことばかり考えていた俺も女将を見る。

 

「もちろん。それまで取り上げやしないよ。今夜は広間で寝ていいからね」

 

「うむ。それなら、よろしく頼む」

 

俺も頭を下げた。女将は腰の袋を開き、今日の分だと銭を出してくれる。

 

「今日からでいいんですか?」

 

「朝はもう働いたじゃないか。最後はちゃんと収まったしね」

 

卓に並べられた十枚を見て、胸の中がむずむずした。

 

今までは減っていく一方だった。粥を買うにも道を進むにも銭が要り、残りを確かめるたび嫌な気分になった。

 

今日は増えた。

 

食う物も今夜の寝床も、もうある。これをすぐ誰かに払わなくていいのだ。

 

「ありがとうございます。明日もよろしくお願いします」

 

顔を上げると女将が笑っていた。

 

「二人とも、まずは昼の支度を頼むよ。あたしは少し座ってから行くからね」

 

 

夕方、商人は運び手を連れて戻ってきた。

 

売れたのは布が二袋と粟が一袋。董白が出す物を確かめ、俺が控えを書き直した。残りは布一袋と、馬屋の脇の四袋。明朝渡す約束だ。

 

朝、俺を怒鳴った男が帰り際に訊いた。

 

「明日も、あんたに言えばいいか?」

 

「はい。出発前に声をかけてください」

 

男が手を上げて去っていく。

 

俺は卓へ戻りながら、つい笑ってしまった。朝はあれだけ怒らせたのに、明日も任せると言ってくれた。それが嬉しい。

 

「機嫌がよいのう」

 

董白に言われ、否定せずにうなずいた。

 

「十枚も貰ったからな。明日、少し買い物しないか?」

 

「もう使うつもりか?」

 

「全部じゃない。お前も要る物があるだろ」

 

董白は袖口を見た。薪を運んでほつれた所を、昼に女将から借りた針で縫っていた。

 

「針と糸が欲しいのう。いつまでも女将に借りておるわけにもいかぬ」

 

「じゃあ、それを見に行こう」

 

「そなたは?」

 

俺は少し迷った。敷物も着替えも欲しいが、十枚を手にした途端あれこれ考えても仕方がない。

 

「甘い物が食いたい」

 

董白の顔がこちらを向いた。

 

「どこに売っておる?」

 

「それを探すんだよ。まだ店も知らない」

 

「阿慶なら知っておろう。明日、訊いてみるとしよう」

 

話が早い。俺が笑うと董白は眉を寄せた。

 

「何じゃ?」

 

「いや。お前も食いたかったんだなと思って」

 

「悪いか?」

 

「悪くない。一緒に行こう」

 

董白もうなずいた。朝の仕事を終えたら、二人で町へ出る。女将にはその時に断りを入れればいい。

 

それだけの約束で、明日が少し楽しみになった。

 

夜には広間の壁際を空けてもらえた。乾いた俵に粗布を敷き、借りた衝立を立てる。隙間から厨房の灯が見えたが、風も雨も入ってこない。

 

「ああ……これはいいな」

 

横になると声が出た。董白は壁側へ座り、俺の書具箱を枕元へ寄せている。

 

「今日の銭も入れたな?」

 

「入れた。お前も見てただろ」

 

「うむ」

 

それでも蓋に手をかけたので、今度は俺が笑ってしまった。

 

「十枚とも逃げてないぞ」

 

「……確かめただけじゃ」

 

董白は箱を置いて横になった。言い返した割に、顔は少し緩んでいる。

 

外ではまだ雨が降っていた。だが足を伸ばしても、今夜は冷たい物に触れなかった。

 

明日はあの五袋を送り出して、それから買い物だ。

 

甘い物などずっと食べていない。どんな物があるのか考えていると、隣から董白の声がした。

 

「寝過ごすでないぞ」

 

「お前こそな」

 

小さく笑う声がして、それきり静かになった。

 

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