ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
28話(終)
朝、寮のエレベーターの扉が開くと、中には先客が一人だけ乗っていた。
「あ……おはよう、軽井沢さん」
「……ん、おはよう」
髪を綺麗に整えた軽井沢恵さんは、鏡越しにチラリと私を見ると、短い返事を返した。扉が閉まり、静かに下降を始める箱の中で、二人の間に少しだけ気まずい沈黙が流れる。
私はいつものように目立たないよう壁際に身を寄せていたのだが、ふと軽井沢さんが姿見から視線を外し、振り返って私をじっと覗き込んできた。
「ねえ、露草さん」
「え、なに……?」
「露草さんと綾小路くんって……もしかして、付き合ってたりするの?」
「――へ?」
唐突に投げかけられた単語に、私は素で間抜けな声を漏らしてしまった。
付き合っている? 私と、あの綾小路清隆が?
軽井沢さんの真意がどこにあるのか、私にはまったく読み取れなかった。なぜそんな突飛な疑問が彼女の口から飛び出してきたのか、理解が追いつかない。
「ち、違うよ……! なんでそんな風に思うの? 私と綾小路くんは、ただのクラスメイトだし……」
戸惑いを隠せないまま必死に否定すると、軽井沢さんは「ふーん……まあ、そうよね」と、どこか探るような、けれど少しだけ安堵したような複雑な表情で視線を外した。
「別に変な意味じゃないんだけどね。たまに二人で話してたりするの見かけるから、ちょっと気になっただけ」
「そう、なんだ……本当に何もないよ。私なんかが彼と付き合うなんて、あり得ないから」
表面上は苦笑いを浮かべながら、私は心の中で冷ややかに溜め息をつく。
恋人、なんて甘美で平穏な関係が、私と彼の間にあるはずもない。
私とあの『怪物』を繋いでいるのは、ホワイトルームという地獄の記憶と、抗うことの許されない支配と服従の呪縛だけだ。
『チーン』という電子音とともにエレベーターが1階に到着し、軽井沢さんは「じゃあね」と短く言い残して先に降りて行った。私は彼女の後ろ姿を見送りながら、ひとつ深呼吸をしてから歩き出した。
教室に到着すると、朝の賑やかな雰囲気が広がっていた。
軽井沢さんのように恋愛や友人関係の話題で笑い合う生徒たちがいる一方で、私の足取りは教室の後ろへ向かうにつれて重くなっていく。
自分の席に着く前、私はちらりと隣の席――堀北さんの姿に目を向けた。
(……挨拶、したいな)
止まったままの私たちの時間を動かしたくて、少しでも打ち解けたいという思いはあった。けれど、私にはその一歩を踏み出す勇気が出ない。
堀北さんはと言えば、私が視線を向けていることすら気づいていないかのように、目線をずっと手元の本に落としたままだった。一度として私の方を見ようとせず、周囲を頑なに拒絶するような冷たい壁を纏っている。
話しかけるな、という無言の圧力がそこにはあった。
私は喉まで出かかった言葉を飲み込み、胸の奥に冷たい塊が落ちていくのを感じながら、静かに自分の席に腰を下ろした。
やがてチャイムが鳴り、担任の茶柱先生が教室に入ってきた。
「ホームルームを始める。静かにしろ」
教壇に立った茶柱先生は、黒板に一枚の用紙を貼り付けると、一切の無駄を省いた口調で告げた。
「これより、特別試験『ペーパーシャッフル』の概要を説明する」
茶柱先生からルールの説明がされる。
今回の試験は他クラスとテスト問題を作成し合って競うこと。そして、「二人一組のペア」が組まれること。ペアの組み分けは後日行われる小テストの結果で組まれること。そのペアの合計点で合否が決まるということだけが簡潔に伝えられた。
説明の後、不安で頭を抱える周りの狂騒が、どこか遠い世界の出来事のように思える。
私はテストの心配も、ペアの懸念もない。
けれど、だからこそ――堀北さんの冷ややかな無視と、クラスの中で浮いているような孤立感が、より鮮明に胸を刺す。
そして何より、この教室で無表情を保ったままのこの男の存在が、不気味な影となって私の心を押し潰そうとしていた。
図書室の静謐な空気の中、私はスマートフォンの画面に表示された短い返信をじっと見つめていた。
『特にない』
綾小路くんからの返信は、相変わらず素っ気なく、淡白なものだった。指示を仰ごうと送った問いに対する、あまりにも気のない一言。きっと、今後も彼から具体的な指示が下りることはないのだろう。私を嵌め、堀北さんとの仲を苛烈に裂いた彼の真意――私に自立を促そうとしているのか、それともこのまま破滅させたいのか。相変わらず私は描き手が描く絵図の真意までは読み取れずにいる。
溜め息を殺し、別の誰かに助けを求めようと伊吹さんの連絡先を開く。けれど、画面に並ぶ送信履歴と未読の文字を見て指が止まった。ここ最近、不安のあまりメッセージを送りすぎてしまい、現在は絶賛未読スルー状態だったことを思い出したのだ。これ以上送れば、本当に絶交されてしまうかもしれない。
途方に暮れた私の最後の頼みの綱は――彼女だけだった。
「露草さん」
静かな図書室内に、凛とした、けれど柔らかい声が響く。振り返ると、本を抱えた椎名さんがそこに立っていた。事前連絡をしていたため、わざわざ時間を割いて声をかけてくれたのだ。
「椎名さん。こんにちは」
「こんにちは。今日はどういった御用で?」
「実は……伊吹さんに無視されちゃってて。今度謝りに行こうと思ってるんだけど、何か伊吹さんの好きなものとか、知らないかなって」
私の問いに、椎名さんは少しだけ首をかしげ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「伊吹さんの好みですか? 申し訳ありませんが、あまり力になれそうにありません」
「そっか……」
「ただ、食べるものに特別こだわりはないように思います。食堂でお見掛けするときも、日によっていろんなものを召し上がっていたようですし」
なるほど、と心の中で呟く。特定の好物がないのなら、謝罪の品を買うより、胃袋を掴むような手料理でも作って持っていってあげる方がいいのかもしれない。思考を巡らせる私に、椎名さんはふと思い出したように言葉を繋いだ。
「そういえば、体育祭での活躍は目覚ましいものでしたね。クラスではかなり注目を集めているのではありませんか?」
「……っ」
痛いところを突かれ、胸の奥がキュッと竦んだ。思わず顔を暗くして視線を落とすと、椎名さんは自分の予想が外れたことに気づき、意外そうに目を丸くする。
「あまりクラスになじめていないのですか?」
「実は……友達、いなくって……」
絞り出すような私の言葉に、椎名さんは不思議そうに小さく首を傾げた。
「そうでしたか。ですが……この間の無人島試験の時、私たちの拠点にどなたかといらしてませんでしたか?」
「あの人たちとは、その……今、すごく気まずい状態でして……」
ぽつりと漏らした私の言葉に、図書室の静寂がしんと重く覆いかぶさる。堀北さんたちの冷ややかな顔が脳裏をよぎり、視界がじんわりと滲んだ。椎名さんは私を責めるでも哀れむでもなく、ただ静かに、私の言葉を温かな眼差しで受け止めてくれていた。
「おもしろいですね。この学校でクラスが違うなら敵同士のはずなのに、露草さんはクラス内にお仲間がおらず、他クラスにしかご友人がいらっしゃらないなんて」
本を抱えたまま、椎名さんはふふっと愛らしく首を傾げてそんなことを言った。
声のトーンはどこまでも穏やかで、害意など欠片もないような清々しい笑顔。けれど、口から飛び出した言葉は私の傷口にあまりにも的確に突き刺さっていた。
「……え? 私、いま煽られてる……?」
思わず顔をひきつらせて聞き返すと、椎名さんは「あら」と小さく口元に手を当てた。
「ごめんなさい。煽ったわけではなく、純粋に客観的な意見を述べただけのつもりでした」
悪びれる様子もなく、くすくすと鈴を転がすように笑う椎名さん。
天然なのか、それとも独特な毒なのか判断がつかないけれど、彼女のその無邪気な笑顔を見ていると、怒る気すら失せてしまう。
「……うう、否定できないのが一番つらい……」
私ももう、苦笑いするしかなかった。
クラス内では裏切り者の疑いを掛けられて堀北さんから拒絶され、完全に孤立している。それなのに、他クラス――しかも龍園くん率いるCクラスの椎名さんや伊吹さんにしか、こうしてまともに話をしてくれる相手がいないなんて。
冷静に事実を突きつけられると、自分の置かれた状況の奇妙さと情けなさに、乾いた笑いしか湧いてこなかった。
「ですが、そうやって他クラスの私にも変わらず声をかけてくださる露草さんのこと、私は嫌いではありませんよ」
図書室の静寂の中で、椎名さんは嬉しそうに目を細めた。そのささやかな温もりだけが、今の私にとって唯一の救いのように感じられた。
10月19日。
パレットのレジ列で伊吹さんと並んで順番を待っていた、その時だった。
「なんとかなんねーのかよ!」
突如として店内に響き渡った叫び声に、それまで溢れていたざわめきが一瞬でしんと静まり返っていく。
声のした方へ視線を向けると、石崎くんが困惑しきった表情の店員さんに詰め寄っているのが見えた。
「そう仰られましても……そういった特注のケーキは、一週間ほどお早めにご注文いただかないと対応が難しく……」
「あいつ……ちょっと行ってくる」
伊吹さんは呆れたように呟くと、列を離れて石崎くんのもとへ歩いて行った。
声をかけた伊吹さんが何か説明するものの、石崎くんは必死に取り合う様子を見せず、逆に何か言い返している。だが結局、伊吹さんの鋭い一言に肩を落とすと、トボトボと出入口の方へ歩き出した。――つまり、私の立っている方角へ。
「あっ、お前……! この間はお前のせいで龍園さんに怒られたんだぞ!」
私の存在に気づくや否や、石崎くんは今度は私に向かって絡んできた。完全なる言いがかりだ。
「あんたが勝手に口を滑らせたからでしょ。迷惑だからさっさとどっか行きなさいよ」
追いついてきた伊吹さんが、石崎くんのお尻を軽く蹴っ飛ばして退去を促す。
「伊吹、お前こんな奴かばうのかよ。こいつはDクラスで、今度の試験の相手だぞ!」
「誰とつるもうが私の勝手でしょ。それに今度の試験の相手とか関係無く、他クラスのやつらは皆敵でしょ」
「じゃあ、なんでこいつとつるんでんだよ!」
「はあ? あんたに関係ないでしょ」
二人の声が次第に大きくなり、パレット内の客からジロジロと注目を集め始めてしまった。
「ふ、二人とも……周囲の迷惑になっているから、一回外に出よ? ね?」
「私たちまで出ることないでしょ。石崎だけ出ればいいじゃない」
「すごい迷惑かけてるから……! だから、ね?」
「あーもう、わかったわよ!」
伊吹さんは苛立ち混じりに息を吐き、三人でパレットの外へと出た。
「……結局、石崎くんは何を揉めていたの?」
「なんでお前に教えなくちゃ――」
「このバカ、誕生日ケーキを用意しようとしたんだって」
石崎くんの言葉を遮り、伊吹さんが呆れたように種明かしをする。
「えっ……もしかして、龍園くんの?」
石崎くんがここまで必死になって用意しようとする相手なんて、彼が心底慕っている龍園くんくらいだろう。あ、もしかしたら彼女がいる可能性もゼロではないけれど。
「……そうだよ。クソッ、明日なのにどうすりゃいいんだ……!」
悔しそうに拳を握りしめる石崎くん。
それにしても、明日が誕生日だなんて、妙な偶然もあるものだ。
「あの……他にケーキを売ってるところ、知ってるけど……」
「……なに!?」
「千歳、別に助けてやる必要なんてないって」
伊吹さんの制止を余所に、私は言葉を続ける。
「……私も、ケーキを買って帰ろうと思ってたから。あのお店なら、ホールで誕生日用のデコレーションがいくつか作り置きしてあったはず。まだ売れてなければ、だけど」
「ほ、本当か!?」
石崎くんが勢いよく私の両肩を掴んで詰め寄ってきたが、すぐさま伊吹さんがその手を強引に引っぺがしてくれた。
「急ぐぞ! 売れちまう前に買わねえと!」
焦った石崎くんに背中を押される形で、私たちは目的のケーキ屋へと向かうことになった。
――明日、10月20日。
実は、明日のためにケーキを買うべきかどうか、私はずっと一人で悩んでいたのだ。
ホワイトルームで育った私や彼にとって、「誕生日を祝う」なんて文化は存在しなかった。当然、誰かに祝われたことなんて生まれてこの方一度もない。
以前、彼の部屋に行った時にたまたま学生証を盗み見て、彼の誕生日を知った時のことを思い出す。当時は「どうやって祝ってあげようかな」なんて、甘く呑気な妄想を抱いたりもした。
けれど……最近の私には、そんな浮ついた気分になどとてもなれなかった。
(……本当は迷ってたんだけど、とりあえず買うだけ買っておこう)
私は静かに心の中でそう呟きながら、石崎くんたちと共にケヤキモールへ急いだ。
10月20日。
『どうしても伝えておきたいことがあるから、部屋に帰ったら教えてほしい』
そうメッセージを送ってからしばらくして、彼から短い返答が届いた。私は小さな箱を抱え、静まり返った廊下を渡って彼の部屋の前に立ち、ドアを叩いた。
「おじゃまします」
ドアが開き、促されるまま部屋の奥へと足を踏み入れる。
以前ここを訪れた時は、必要最低限の家具すら怪しい殺風景な空間だった。けれど今は、床に落ち着いた色のカーペットが敷かれ、小さなテーブルと座布団が整えられている。この学校での「普通の生活」に彼が少しずつ馴染もうとしている痕跡のようにも見えて、胸の奥が少しだけ蠢いた。
座布団に腰を下ろして待っていると、彼が湯気を立てるマグカップを二つ、テーブルに運んできてくれた。香ばしいコーヒーの香りが部屋を満たす。
私は抱えていた箱を、そっと彼の方へ差し出した。
「……誕生日おめでとう」
差し出された箱を見つめ、彼は一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。けれどすぐにいつもの無表情に戻ると、「ありがとう」と短く言って受け取ってくれた。
「受け取ってもらえないかと思った」
「まあ、わざわざ用意してくれたものを突き返すのもな。……けど、なんで知ってたんだ?」
(しまっ――言い訳を考えてなかった)
一瞬、思考がフリーズしそうになるのを必死で耐え、私は咄嗟に言葉を紡いだ。
「た、たまたま学生証が目に入ったから……それで覚えてて」
我ながらあまりにも苦しい言い訳だと思った。けれど、彼はそれ以上追及してくることはなく、静かに箱のテープを剥がすと、中から小ぶりなホールケーキを取り出した。
「だとしても、祝ってくれるとはな。……オレがしたこと、気づいてないわけじゃないだろ?」
低く落ちついた声が、部屋の静寂に溶け込む。
私を嵌め、堀北さんとの仲を壊し、クラスで孤立させた張本人。彼が裏で何を仕掛けたのか、私が感づいていないはずがない。それでもなお、私は目の前でケーキを見つめる彼に向かって、絞り出すように言葉を重ねた。
「……みんながお互いの誕生日を祝ってるところ。この学校にいると、普通の学校にいるより目につきやすくて……すごく、眩しく感じたの」
多くの生徒たちにとっては当たり前の日常であり、当たり前の光景。けれど、私には一度として与えられなかったもの。
「あそこじゃそんなものを祝う習慣は無かったし、私は外に出てからも誰にも祝ってもらえなかった。……たぶん、あなたもそうなんじゃないかと思って」
もし、私が知らないだけで彼が誰かに祝われていたのだとしたら、それはそれでいい。彼がこの世界で何かを得られている証拠なら、どこかで少しだけ救われる気がするから。
それに――私がこうして彼を祝いに来た最大の理由は、純粋な善意などではない。いつか私も誰かに祝ってもらえるかもしれないという、浅ましい下心があるからだ。
「今年も、私の誕生日は寂しい日だったから……せめてあなたの日は、少しは楽しめる日になればいいと思ったの」
そうすれば、過去の自分も、今の報われない自分も、ほんの少しだけ救われた気になれる気がしたから。
私の言葉を静かに聞いていた彼は、しばらく無言のままケーキを見つめていたが、やがて「……ちょっと待ってろ」と言い、ケーキの乗った皿を持ち上げて立ち上がった。台所に向かおうとする彼の背中に、私は慌てて声をかける。
「あ、その……半分にしてくれようとしてるんだったら、しなくていいからね。私、昨日同じの食べちゃったから」
彼の足が止まる。
静かに振り返った彼は、私をじっと見つめたあと、短く呟いた。
「……そうか」
コーヒーの温かい湯気だけが、二人の間の冷たい空気にゆらゆらと立ち上っていた。
「露草の誕生日はいつだったんだ?」
ケーキにフォークを伸ばしながら、彼が不意に尋ねてきた。
「8月22日だよ」
「今日の礼という訳じゃないが、来年は祝わせてもらう」
その淡々とした言葉に、私は静かに首を振った。
「いいよ。綾小路くんの誕生日は、多分もう祝わないから。……だから、来年は誰かに祝われるように、お互いがんばろうね」
「どうがんばればいいのやら」
彼はそれ以上追求することもなく、小さくカットしたケーキを口に運んだ。私はマグカップを両手で包み込み、冷めかけたコーヒーをすする。苦い液体が喉を通る音だけが、部屋の沈黙に溶けていく。
「うまかった」
彼が皿を置き、ごちそうさまの意を示すタイミングを見計らって、私は立ち上がった。
玄関に向かい、屈んで靴を履く。後ろで見送るために立っている彼の気配を感じながら、私はずっと胸の奥に支えていた問いを口にした。
「ねえ、綾小路くん」
靴紐を結び終え、振り返る。
「綾小路くんは……私をどうしたいの?」
「どうもしない。言ったろ? お前の行動を見ている、と」
「じゃあ、どうして堀北さんにあの画像を送ったの?」
責めるような声にはならなかった。ただ、純粋な疑問だった。私に何らかの試練を与えようとしているのか、それとも単なる嫌がらせなのか。
「堀北の成長のために、お前は邪魔だと思ったからだ」
返ってきたのは、あまりにも予想外の理由だった。
「私が……どう邪魔になるの?」
「堀北はすべて、お前を言い訳にして行動しようとしていた」
彼の淡々とした揺らぎのない声が、私の思考を凍りつかせる。すぐには意味が分からなかった。あるいは、分かりたくなかったのかもしれない。
「部屋に引きこもった堀北が部屋から出てきた理由は、お前の『友達』という言葉に胸を打たれたからじゃない。プライドの高い堀北は、その言葉を格好の言い訳にして出てきただけだ」
「あ、あの後……堀北さん、胸の内を、あ、明かしてくれたよ……?」
動揺のあまり、声が情けなく裏返る。噂の件が済んだ後、二人で話したあの会話はすべて本物だったはずだ。私たちはあそこで、確かに心を通わせたはずだったのに。
「お前程度になら、本音を曝け出したところでプライドに傷はつかない。今後、人形として可愛がるために『餌』を与えたにすぎない」
感情の一片すら籠もっていないその瞳が、私を見下ろしている。
私が必死で守ろうとした温かな絆は、彼によって完璧に解剖され、惨めな自我の自己満足に過ぎなかったのだと突きつけられた。胸の奥が、冷たく砕け散りそうになる。
それじゃだめだ。このままじゃいけない。だってーー
「ーーち、違うよ」
これ以上、何も失いたくないから。
絞り出した声はあまりにも弱く、情けなく震えていた。
目の前に立つこの『怪物』に勝てるわけがない。反抗なんて無意味だと、私の中に刻まれた記憶と本能が激しい警鐘を鳴らし続ける。乱れる息、激しい動悸、止まらない身体の震え。あの日と同じように恐怖から逃げ出せと、脳が必死に指示を送っていた。
けれど――ここで逃げるわけにはいかない。これ以上、残されたわずかな自分を否定されるわけにはいかないから。
「堀北、さんが……ハァ、ハァ……綾小路くん……に、直接、言ったの……?」
彼女の成長のためだと言っていたけれど、本当にそうなのかはわからない。私を絶望させるための、彼の計算された嘘かもしれないのだ。
「さあ、どうだろうな」
「言って……ないんだよね……。全部、あなたの……想像でしか、ない……」
「お前はオレの言葉を鵜呑みにして、オレに付き従うんじゃないのか?」
「そんな約束……して、ない……っ」
ついに限界が訪れ、私は立っていられずにその場へ倒れ込むようにへたり込んだ。玄関の冷たい床の感触が伝わってくるけれど、焦点が定まらず、視界が歪んでいく。
「オレに退学届けを握らせ、自分の責任を放棄しようとしていただろう。そんなお前が、これから自分の足で立っていられるのか?」
頭上から降ってくる冷徹な問いかけが、遠のいていく意識の中で冷たく響く。
「……立って、見せる……。だって、もう、私は……」
最後の言葉を吐き出す前に、視界がぐにゃりと大きく歪んだ。暗闇が急速に押し寄せ、意識が深い底へと沈んでいく。
倒れ伏す私の耳元で、彼の感情のない声が、静かに落ちてきた。
「命拾いしたな、千歳」
――『命拾いしたな、千歳』
薄れゆく意識の暗闇の中で、その声が記憶の底から蘇ってくる。
今日が初めてではなかった。
あの冷たい声で、その言葉を私に投げかけてきたのは。
あれは、私がまだホワイトルームの「四期生」として、あの部屋の住人でいることが決まってすぐのことだった。
連日の過酷なルームのテスト。自分の限界を感じ、今回こそは脱落すると誰もが――私自身すらも諦め、死を覚悟するように結果を待っていた。だが、弾き出された合格ラインは、予想よりも遥かに低い位置に設定されていた。
滑り込みで生存が決まり、荒い息をついていた私の横を通り過ぎざま、あの男――清隆くんが、初めて私に声をかけてきたのだ。
『命拾いしたな、千歳』
当時の私は、愚かにも胸の奥に小さな温もりを感じていた。
会話すら許されないあの地獄で、あの圧倒的な存在である彼が、私のことを見ていてくれた。気にかけてくれたのかもしれない、と。
けれど、その甘い錯覚はすぐに打ち砕かれた。
指導者である彼のお父さんが、部屋の隅で彼に向かって冷徹に言い放った言葉。
『清隆、よく聞け。力を持っていながらそれを使わないのは、愚か者のすることだ』
その言葉を聞いた瞬間、頭の中でバラバラだったピースが恐ろしい精度で噛み合っていった。
……彼は、わざとテストの点数を減らしていたのだ。
でも、なんのために?
その答えは、彼が私に言い残したあのセリフの中にあった。
『命拾いしたな』
生徒たちには一切明かされていない、ルームのテストのボーダーライン算出のからくり。清隆はその
彼が私を救ったのではない。
「その気になれば、いつでもお前を
私を生かすも殺すも、すべてはあの怪物の胸三寸。
それに気づいた瞬間から、全身の震えが止まらなくなった。
ここにいちゃいけない。今すぐにでも、この怪物から、この部屋から逃げ出さなきゃ殺される。
恐怖に耐えかねた私は――次のテストで、意図的に「0点」を取った。
それが、私がホワイトルームを脱落し、あそこから逃げ出す唯一の方法だったから。
(……そうか……)
玄関の冷たい床の上、完全に遠のいていく意識の中で、私は静かに理解した。
私はあの時からずっと、何ひとつ変わっていなかったのだ。
自力で生き残った気になって、自分の足で立っている気になっていたけれど……私はあの日からずっと、ただ彼の気まぐれによって『命拾いさせてもらっていた』だけに過ぎなかった。
ホワイトルームを逃げ出した日も。
この高度育成高等学校で再会したあとも。
そして、今夜も。
冷たい闇が私の意識を完全に飲み込んでいく直前、私の頬を伝った一筋の涙は、床に届く前に冷たく乾いて消えた。
……でも、もう大丈夫。
これからはきっと。
自分の足で立っていけるから。
了
とりあえず終わりです。ここまで読んでいただきありがとうございました。
次回からは別ルート、千歳の逃げ癖が治らなかったとして続きを書きます。