白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~   作:月城 友麻

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1. 三行の通達

「旦那様よりのお言葉を、読み上げます。『一、愛さない。二、干渉しない。三、好きに暮らせ』——以上でございます」

 

 白髪の家令さんが、巻紙を恭しく掲げたまま、私の返事を待っている。

 

 嫁ぎ先の離宮に到着して、まだ荷ほどきも終わっていない昼下がりのことである。窓の外にはスズカケの並木、磨き上げられた床には私と家令さんの影がふたつきり。広い。とにかく広い。そして、誰もいない。

 

 私、エルナ・クローネ、二十一歳。肩書きだけなら、ヴィンター大公夫人。三年前、王命の政略で「氷の大公」に嫁いだ——といっても、式は剣を置いた代理婚で、旦那様は北の戦場。以来三年、実家の子爵家の隅で、針仕事と縁側と居心地の悪い沈黙だけの飼い殺しをされていた妻である。夫の顔は、知らない。見合い用の肖像画は軍装に髭のいかめしい御方だったけれど、あれは十年は前の絵らしい。

 

 その三年目にようやく届いた夫の言葉が、この三行だった。

 

「……確認ですが、三番は『好きに暮らせ』で間違いありませんか?」

 

「は。『離宮の采配は夫人に一任する』と」

 

「上等です」

 

 家令のバルツァーさんが、ほんの一瞬、巻紙の陰で目を丸くした。泣くとでも思われていたのだろうか。

 

 悪いけれど、これは朗報である。愛されないのは三年前から知っていた。干渉されないのは、願ってもない。そして好きに暮らしていいのなら——私には、行きたい場所があるのだ。

 

 トランクの底から、一冊の古びた帳面を取り出す。角の擦り切れた、母さんのレシピ帳。かつて「台所の子」と呼ばれた私に残された、世界でいちばん大事な形見である。

 

       ◇

 

 離宮の裏木戸から市場筋まで、歩いて二十分――。

 

 夕暮れの下町は、油と香草と、焼けたパンの匂いがした。荷車の軋み、呼び込みの声、路地を駆け抜ける子どもの足音。三年ぶりに吸う「生きている街」の空気に、胸の奥のこわばりが少しずつほどけていく。

 

 市場筋の角、看板の色褪せた小さな食堂の前で、私は足を止めた。『こまどり亭』。母さんの姉——マレン伯母さんの店だ。母さんが嫁ぐ前まで、姉妹で鍋を振っていた店である。

 

「……あんた、まさか」

 

 店先を掃いていた伯母さんは、私の顔を見るなり目を剥き、素早く往来を見回して、私の腕を掴んで店の奥へ引っ張り込んだ。それから、声を殺して叫ぶという器用なことをした。

 

「エルナかい!? あんた、大公夫人サマがこんなとこで何して……いたたた」

 

「伯母さんこそ、その腰で何してるんですか」

 

 三年ぶりの再会の抱擁は、伯母さんの腰の悲鳴で中断された。聞けば、店は休業寸前。竈の火は細り、常連は離れ、母さんとの思い出の店が消えかけている。

 

 私は前掛けを借りて、袖をまくった。

 

「夜だけ、私にやらせてください。母さんのレシピ帳、持ってきたので」

 

「それは願ったりだけど……あんた、貴族の奥方が――」

 

「旦那様のお許しは出てます。『好きに暮らせ』と、書面で」

 

「……物好きな旦那もいたもんだね。いいかい、なら店では名前を伏せな。あんたは今日から——そうだね、夜の女将『ルナ』だ。妹があんたを呼んでた、あの呼び方だよ」

 

 ルナ。母さんの声で呼ばれていた音を思い出して、少しだけ喉の奥が熱くなる。大公夫人の名前は、のれんの外に置いていこう。この店にいる間、私はただの女将の「ルナ」である。

 

       ◇

 

 開店初夜。客は市場の荷運びさんが二人きり、というささやかな船出である。それでも、鍋から立つ湯気を見ていると、目の奥が熱くなった。台所は、母さんと私の国だった場所だ。三年ぶりに、帰ってきた。

 

 のれんを仕舞いかけた閉店間際——勝手口の戸が、軋んだ。

 

 立っていたのは、背の高い黒ずくめの男の人である。目深のフードに、幽霊のような顔色。一瞬、取り立て屋かと身構えたけれど、その人は掠れた声でぽつりと言った。

 

「……まだ、やっているか?」

 

「一杯だけなら」

 

 カウンターの端に座った彼に、鍋の残りを出す。麦と芋の、母さんのスープ。

 

 男の人は、義理のように匙を口に運んで——止まった。

 

 フードの奥の目が、ゆっくり見開かれていく。

 

「……味が、する」

 

「そりゃ、しますよ。スープなので」

 

 変な人である。けれどその人は、両手で器を包むように持ち上げ、一滴も残さず飲み干した。まるで、何年も水にありつけなかった人みたいに。空になった器を、彼は長いこと見つめていた。

 

       ◇

 

 ――男の名を、アレクシス・ヴィンターという。

 

 北の英雄。二つの戦役を勝ち抜いた「氷の大公」。そして三年前の終戦からこちら、何を食べても砂の味しかせず、夜も眠れずにいる人である。

 

 つまり――なんというめぐりあわせか、この店の女将の、自分の夫である。

 

 もっとも、当の夫婦は、互いの顔を知らない。

 

 

 

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