白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~ 作:月城 友麻
翌日の晩も、その男の人は来た。
のれんをくぐるなり無言でカウンターの端に座り、無言で出されたものを食べ、静かに器を置く。フードは深いままで、顔はよく見えない。見えるのは、アゴの線と、
「お口に合いました?」
「……ああ」
会話は、それだけ。なのに翌日も来る。その翌日も来た。
夜のこまどり亭は、油ランプの色をしている。荷運びさんたちの笑い声、鍋の湯気、
面白いのは、食べ方である。この人は、ひと匙ごとに小さく止まる。まるで、口の中の味を疑って、確かめて、それからやっと飲み込むみたいに。そして食べ終わると、空の器を少しの間だけ見つめる。何かを考えているような、拝んでいるような――不思議な間だった。
「ねえ伯母さん。あの人、月末にちゃんと払えるのかなぁ?」
「ふっ、あんた、まだまだだね。フードの下を見てごらんよ。あの外套、くたびれちゃいるが仕立ては上物……。どっかのお屋敷の、訳あり坊ちゃんだろうさ」
訳あり。まあ、下町の夜に来る一見さんは、だいたい訳ありである。うちだって、女将が訳ありなのだから、お互い様だ。
四日目の晩、事件が起きる。男の人が帰り際、カウンターに銀貨を三枚置いたのである。
「お客さん。うちの定食は銅貨六枚です」
「足りないか」
「多すぎます。五十食分です」
「……では、五十食分だ」
「困ります。帳簿が壊れるので」
押し問答の末、見かねたマレン伯母さんが奥から木札の束を持ってきた。
「あんた、そんなに通う気なら、つけ札にしな。月末にまとめて払うんだよ。ほら、名前」
「な、名乗るのか?」
「ははっ。あんたにも名前くらいあるだろう?」
「そ、それは……あるが……。ふぅ……ヴェ……ヴェスだ」
たっぷり十秒考えてから名乗るあたり、絶対に偽名である。でも、うちは詮索しない店だ。木札に「ヴェス様」と書いて、壁の釘に掛けた。空っぽだった釘に、木札がひとつ。それだけで店が息を吹き返した気がして、私はこっそり木札の傾きを三回直した。記念すべき、つけ札の一号さんである。
「じゃあヴェスさん。明日は芋の重ね焼きですけど、来ます?」
「も、もちろん……」
即答だった。フードの奥で、目が真剣である。この人、たぶん見た目より若い。
◇
夜も更けた大公家の執務室で、副官ギデオンは頭を抱えていた――。
主君が、消えるのである。それも四晩連続で。
北の英雄、氷の大公アレクシス・ヴィンター。戦場では三日眠らずに指揮を執った鉄人が、終戦からこちら、まともに食えず、まともに眠れずにいる。膳のものはどれも「砂の味がする」と言い、白湯と乾パンだけを義務のように腹へ入れる主君を、ギデオンは三年間見てきた。軍医は最後にこう言った——心の傷に巻ける包帯は、ございません。
このままでは公務の執行どころか命に関わる。急遽前線から帰還したわけだが、公務を投げ出したと取られてはまずいので城に居るのは極秘事項である。
その主君が、日没とともに古外套を引っかけて、ふらりと城を出ていく。
そして戻ってくると——溜まった決裁書類を、片付けるのだ。鼻歌まじりに。なんと、三年ぶりの鼻歌である。
「閣下。恐れながら、夜分どちらへ」
「散歩だ」
「散歩で顔色が治りますか」
「治ったが?」
治ってしまっているから、問答はそこで終わりである。ギデオンは胃のあたりを押さえた。喜ばしい。喜ばしいが、行き先が分からないのが恐ろしい。主君に何かあってからでは遅いのだ。よし——明日は、尾行しよう。
◇
「はい、芋の重ね焼き。熱いですよ」
約束どおり現れたヴェスさんは、湯気の立つ皿をしばらく眺め、匙を入れ、止まり、それからその晩、初めて言った。
「……うまい」
小さな、掠れた声である。でも、確かに言った。
私は思わず鍋の陰でこぶしを握る。女将冥利という言葉の意味を、この日、体で覚えた。母さん、聞きました? お客さんが、うまいって。あなたの重ね焼き、ちゃんと生きてますよ。
その晩の帰り道は、月が出ていた。離宮への抜け道、二十分の夜歩き。前掛けのポケットには今日の売上げ、胸の内には「うまい」がひとつ。売上げより、そっちのほうがあたたかいのだから、女将というのは安上がりな生き物である。
――なお、翌日から店の周りに、微妙に隠れきれていない人影が増えることになる。