白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~ 作:月城 友麻
その晩、こまどり亭に新しいお客さんが来た。
茶色の髪をきっちり撫でつけて、書類鞄を抱えた、生真面目そうな男の人である。入口で店内をぐるりと見回し、カウンターの端のヴェスさんを見つけて、あからさまに安堵の息を吐き、それから慌てて素知らぬ顔を作った。……作れていない。全然作れていないわよ?
「お一人様? 空いてるお席へどうぞ」
「あ、はい。その……こちらのお店は、いつから……?」
「先週からです。夜だけの営業で」
鞄の人は私の顔を見て、なぜか二度見をした。眉間に皺を寄せ、記憶を探るような目をして、「いや……まさか、な」と小首をかしげて卓に着く。失礼な。そんなに女将が若くて悪かったですね。
鞄の人——連れに「ギデオン」と呼ばれていた——は、煮込みを一口食べて動きを止めた。それから鞄から手帳を出し、何かを書き留めようとして、二口目を食べ、手帳を持ったまま三口目を食べ、結局何も書かずに完食して、おかわりを頼んでいる。お仕事熱心なのが煮込みに負けている。ふふっ。
やがて彼は席を移してヴェスさんの隣に座り、何やらぼそぼそ言い合っている。
「……閣下、これは」
「うまいだろう」
「うまいですが、閣下」
「閣下と呼ぶな。ヴェスだ」
閣下。聞かなかったことにしよう。うちは詮索しない店である。詮索しないったら、しない。
ただ、その晩の「閣下」の器には、こっそり芋をひと切れ多く入れておいた。呼び名が何であれ、顔色の悪いお客さんには、よく食べてもらう主義なので。
◇
それからの一週間で、店の客は倍になった――。
厳つい体格のわりに雀の涙ほどしか食べない「文官風の人」。毎回違う帽子でやってくる「明らかに同じ人」。隅の席から全員を静かに監視している「目つきの鋭い人」。割り勘の計算が異様に速くて正確な「そろばんの人」。
共通点は、全員がヴェスさんの入店と同時にそわそわし、ヴェスさんの退店と同時に会計を頼むことである。あと、全員よく食べる。最初は義務の顔で匙を取り、二口目から目の色が変わり、三日目には黙っておかわりを頼むようになる。つけ札の釘は、あっという間に足りなくなる始末である。
ちなみに「毎回違う帽子の人」は、五日目に帽子を忘れて帰り、翌日いつもの顔で「帽子の落とし物はないか」と聞きに来て、自分から正体を明かしてしまった。以来、彼のつけ札には「帽子様」と書いてある。本人は気に入っている様子である。
それと、この店は退役の兵隊さんが多い。「班長」だの「軍曹」だの、除隊して何年も経つのに、互いを昔の階級で呼び合って麦酒を酌み交わしている。「ルナさん、班長にもう一杯!」——だから隅の卓で誰かが「閣下」と呼ばれていたところで、下町の夜には、そう珍しい響きでもないのである。
「ねえ伯母さん。あの人たち、ヴェスさんの見張りですよね」
「お付きの衆だろうね。よっぽど心配されてるんだよ、あの兄さん」
まあ、詮索はしない。食べてくれる人は、みんなお客さんだ。それに——見張られながら毎晩通ってくるヴェスさんも、見張りながらおかわりするお付きの皆さんも、なんだか欠かせない常連さんに思えてくるのである。
◇
その夜も、ヴェスさんは定位置で豆の煮込みを食べている。お付きの皆さんも、それぞれの持ち場(という名の食卓)に着いている。
そこへ、荷運びさんたちの卓から世間話が流れてきたのである。
「そういや、氷の大公サマの奥方な。病弱で、離宮から一歩も出られねえらしいぜ」
「気の毒になあ。嫁いで三年、旦那の顔も見てねえって話だ」
「あれだろ、月の光にしか当たれねえとか、儚げな美人だとか」
「見た奴いるのかよ、それ」
「いねえから儚げなんだろ」
なるほど、うまいことを言う。私は感心しながら、豆の煮込みの鍋をかき回している。
――ぶふっ、と誰かが煮込みを噴いた。
ヴェスさんではない。お付きの皆さんが、全員同時に、である。帽子様は帽子を落とし、目つきの鋭い人は心配になるほどむせていた。厨房の奥では、マレン伯母さんが盆で顔を隠して肩を震わせている。伯母さん、笑うなら奥で笑ってください。
私は少しだけ口を尖らせると、素知らぬ顔で、布巾を配って回る。
伯母さんが笑うのは分かるけど、なぜお付きの皆さんまで?
ちょっと首を捻ったが――――。まぁいい。誰も見たことない儚げな美人……なんだかちょっと面白いじゃない。ふふっ。
その病弱で儚げな奥方、今、お玉を持って鍋をかき混ぜてますよ? 月の光どころか、竈の火で頬がほてっています。