白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~ 作:月城 友麻
いやいやいやいや、まさか。世間は狭いけれど、そこまで狭くはない。
私は自分にそう言い聞かせて、机に向かった。三年間、季節のご挨拶とご武運のお祈りしか書いてこなかった便箋である。書き出しの決まり文句に伸びかけた手を、一度だけ止めて、書き直す。
『芋のスープが好きです。子どもの頃、母がよく作ってくれました』
三年目にして初めて、決まり文句ではないことを書いた。ペンは、驚くほど軽い。決まり文句というものは、書くたびに指が重くなるものだったのだと、初めて知った。
返事が北へ着くまで、また十日あまり。文通というのは、気の長い営みである。
その晩のこと――。
「女将。芋のスープはあるか」
「……本日、たまたまございます」
「そうか。実はな、妻から文が来た。芋のスープが好きだそうだ」
「へえー。奇遇ですねー。芋のスープ私も大好きなんです」
私は湯気の向こうで、頬が引きつるのを必死で抑えた。落ち着け。さっき書いた手紙などまだ届くわけはないのだ。それに芋のスープなんて、この国の家庭料理の定番中の定番だ。三軒隣の奥さんも好きだし、荷運びのおじさんも好物である。かぶる。それはもう、かぶる。
「妻はな、思い出の味だと書いてきた」
「……思い出の、味?」
「ああ。どんな味だったのかは知らんが……いつか、聞けたらと思う」
ヴェスさんはそう言って、器に目を落とした。
その晩の芋のスープは、我ながら上出来である。角の崩れた芋が、金色の澄まし汁の底でほろりとほどける。生姜と香草の、母さんの割合。この人は、それを器の底の方から、ゆっくり味わって食べる。急がず、残さず、最後にほんの少し寂しそうな顔をする。その食べ方を見るのが、最近ちょっと、好きになってきている。……客としての話である。念のため。
◇
それから、妙な日々が始まった――。
夜、店でヴェスさんの「妻への手紙」の相談に乗る。翌朝、離宮に似たニュアンスの手紙が届く。妻として返事を書けばその晩、店でその返事に近い話を聞く。別の夫妻のやり取りがなぜか自分のやり取りとオーバーラップしている。
さすがに一度だけ、変な想像が頭をよぎった。まさか、ね。
けれど、手紙の日付と道のりが、その想像を笑い飛ばしてくれる。北の砦までは、軍の早馬でも片道十日。私に届く手紙はきっちり十日前の日付なのだ。ヴェスさんにアドバイスした九日前にはもう北の砦を出ているのだ。
うん、別人だ。当たり前である。世間の偶然とは、こういうものだ。
「妻から返事が来た。香草は入れる派だそうだ」
「奇遇ですね。私も入れる派です」
「あんたと妻は、話が合いそうだな」
「そうかもしれませんね。ふふっ」
私の旦那様は北の砦。この人は王都の訳あり。同じ境遇にある訳ありさんの奥さんとは確かに話が合いそうだ。まだ見ぬ旦那様への愚痴で盛り上がれそうだ。
それにしても、と思う。
届く手紙の中の旦那様は、思ったより不器用で、思ったより律儀で、少しだけ面白い人だった。『雑炊に入れる芋は、角が崩れている方がうまいと思う。異論は認める』。なんですか、その軍議みたいな食レポは。認められた異論はどこに提出すればいいんですか。
私が『崩れた角にこそ味が染みるので、異論ではなく賛成です』と返せば、次の手紙には『賛成多数につき可決とする』と来た。可決である。我が家の雑炊の芋は、以後、角が崩れていることに正式決定したらしい。
笑って、返事を書いて、ふと手が止まる。
私はいま、どっちに笑ったんだろう。便箋の中の旦那様にか、カウンターの端のヴェスさんにか。
……どっちでもいい、ことにした。どうせ、交わらない二人である。
◇
数日前、大公家の執務室では――。
大公アレクシスが、届いたばかりの返信を三度読み返し、余白に何やら書き付けていた。
「閣下。それは軍議の議事録ですか」
「妻への文だ。……ギデオン。『賛成多数につき可決』は、浮かれていると思うか?」
「いったいどういったお話で……? 他人にはわからぬようなやり取りは浮かれておられるかと」
「そうか」
主君は咳払いをひとつして、けれど手紙を畳む手つきは、勲章を扱うより丁寧だった。
◇
その週の終わりから、店の外に、見慣れない男たちが立つようになる。
客ではない。食べに来ない。路地の角から店を眺めては、手帳に何かを書き留めていく。常連の荷運びさんたちが「感じ悪いね」と眉をひそめ、マレン伯母さんは無言で塩の壺を撫でた(撒く気である)。
――何かを、嗅ぎ回られている。
湯気の向こうの平和に、初めて、細いヒビの入る音がした。