白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~ 作:月城 友麻
男たちの正体は、三日と経たずに割れた。
「ロディガー侯爵家の手の者だよ」
かぼちゃを積み上げながら、事情通の八百屋のおかみさんが声を落とす。市場の朝は、王宮より情報が速い。
「中央のお偉いさんさ。北の大公サマの縁談に、娘をねじ込みたいらしいって噂だ」
「縁談も何も、大公様はご結婚されてるのでは?」
「それがあんた——あの白い結婚に、王室法廷から『無効』の申し立てが出たんだとさ」
「ほへぇっ!?」
マレン伯母さんは手にしていトマトを、危うく取り落としかけた。
◇
(婚姻の、無効ですって!?)
夜の店では、お付きの皆さんの会話の断片が、嫌でも耳に入ってくる。申し立てたのはロディガー侯爵。根拠は「三年間、同居も交流もなく、婚姻の実態がない」こと。認められれば大公は独り身に戻り、後妻の座には侯爵の娘が滑り込む——。
実態が、ない。その通りである。同居していない。顔も知らない。手紙はついこの間まで決まり文句だけ。法廷に並べられたら、ぐうの音も出ない白さだ。
……あれ。おかしいな。
「上等です」と言って始めた結婚のはずなのに、胸の奥が、すうすうする。三行の通達をもらった日には何ともなかった場所が、今になって、隙間風の音を立てている。
寝る前に、文箱を開けてみた。『好きな食べ物は、何か』から始まった、まだ数えるほどしかない手紙の束である。可決された芋の角。入れる派の香草。片道十日の道のりを、何往復もしてくれた紙たち。……この束も、法廷では「実態」には数えてもらえないのだろうか。たった数通で、三年より重いのに。
◇
同じ頃、ロディガー侯爵邸――。
重厚な書斎で、侯爵は地図を眺めていた。北部一帯、ヴィンター大公領。戦後の再編で動く軍費と利権の、なんと肥えた土地であることか。
「イザベラ。支度をしておけ。近く、北の大公が空く」
「……はい、お父様」
娘は完璧な淑女の礼をして、扉を閉めてから、誰にも見えない場所で思いきり顔をしかめた。空く、とはなんだ。椅子か何かか。
私を駒とする……。いいわ、それなら喉笛食いちぎってでも力を得て、いつかは逆にあなたたちを駒にしてやるんだから! ははっ!
イザベラの不敵な笑いが廊下に響いた。
窓の外では、同じ月が、誰の上にも同じ顔で昇っている。
◇
「女将。手が止まってるぞ」
「……失礼しました。お騒がせな世間話ですよねぇ。大公様はどうされるんでしょうかねぇ? まっ、まぁ私には関係ない話……ですが……」
「ああ。大公殿は困られているだろうな……。今度の観月の仮面夜会に妻と出席しろという王命が下っている……」
ヴェスさんが、ため息交じりに器を置いた。今夜は甘い焼き粥。験直しに、と思って出した一品である。
「え……? そんな命令が?」
私の心臓がドクンと鳴った。
「その会で大公夫妻と同様、私も夫婦の体裁とやらを検分される……らしい」
「え……? では……?」
彼は深いため息をつき、フードの奥の灰色の顔を、さらに灰色にした。
「……そう。妻と、初めて会うことになった」
「それは」
おめでとうございます、と言いかけて、言葉が喉の途中で凍った。
観月の仮面夜会。大公夫妻は、揃って出席。
思い出せば今朝、離宮にも月と葡萄の透かしの入った上等な招待状が届いていたような……。宛名は、ヴィンター大公夫人。つまり、私。
あれが観月の仮面舞踏会の招待状に違いない。
思わず宙を仰いでしまう。
「……緊張、しますね。初対面」
「ああ。三年も放っておいた妻だ。恨まれていて当然でな。……何を話せばいいのか、見当もつかん」
「だ、大丈夫ですよ。案外、奥様も同じことを考えてるんじゃないでしょうか。ほら、食事の話もできますし」
「そうか。……あんたに聞いてもらうと、少し落ち着くな」
やめてほしい。こっちは全然落ち着かないというのに。
厨房の奥から、マレン伯母さんがこちらを見ている。何か言いたげな、それでいてすべて分かっていそうな顔で。……伯母さん。最近あなたの、私とこの人を見る目が生温かいの、気のせいですか。
私もです、私も同じ夜会に出るんです、とは口が裂けても言えないまま、私は焼き粥のおかわりをよそった。匙が小さく震えて、器の縁で、かちりと鳴る。験直しの甘い粥は、鍋の底が見えても、胸のすうすうまでは直してくれないままである。
のれんの向こう、屋根の上に月が出ていた。観月の夜会まで、あと十日――。
互いの顔を知らない夫婦が、それぞれの秘密を抱えて、同じ夜会に向かう。
月がとても綺麗な季節である。