白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~   作:月城 友麻

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7. 副官の沈黙

 その晩のギデオンさんは、様子がおかしかった。

 

 いつもは煮込みと帳面をきっちり半々に平らげる几帳面な人が、今夜は箸が止まっている。顔色は青いを通り越して白い。何かを言いたげにこちらをチラチラ見てくるが、見返すとヴェスさんの方を向いてため息をこぼすのだ。

 

 見かねたそろばんの人が、自分の胃薬を半分分けようとして、断られていた。帽子様が「そういう日もある」と肩を叩き、目つきの鋭い人が無言で水を注ぎ足す。お付きの皆さんは、いつの間にか、ずいぶん仲のいい常連になった。

 

 カウンターの端では、ヴェスさんが平常運転で重ね焼きを味わっている。片や毎晩通う健啖の常連、片や胃痛の書類鞄。同じお屋敷の方々だろうに、健康がバラバラである。

 

「ギデオンさん。今日は煮込みじゃなくて、こっちです」

 

 私は注文を聞かずに、白湯粥を出した。生姜も香草も控えめの、胃にいちばん優しいやつである。

 

「……いえ、私は煮込みを」

 

「胃を押さえてる人には出せません。文句は治ってからどうぞ」

 

 ギデオンさんは観念したように匙を取り、一口すすって、なぜか泣きそうな顔をした。胃が痛いのに優しくされると、人は泣きそうになるものらしい。

 

       ◇

 

 ギデオンはたまたま離宮を用事で訪れた時に見てしまっていたのだ。いそいそと離宮を抜け出す健康的な奥様を。

 

 だが、主君の健康につながっているのは事実であり、温かく見守ればいいと思っていた。お互い知らなくても夫婦仲が良くなっていくのは良い事である。

 

 ところがそれが公衆の面前で試されるとなると――話が変わってくる。

 

 お互いにバラしてしまえば――。

 

 そう思ってギデオンは首をブンブンと振った。

 

 今の関係性はデリケートなバランスで成り立っている。相手が結婚相手だと知れば――今のあの温かい料理店はもう維持できない。あの食卓は消え、主君には白湯と乾パンの三年間が戻ってくる。

 

 余計なことを言ったばかりに夫婦関係が崩壊してしまったら副官として腹を切る以外道がない。誰も悪くないのに、全員が損をする未来しか見えない。

 

「くぅぅぅ……」

 

 ギデオンは胃を押さえた。食事は白湯しか喉を通らなかった。決裁書類の隅に品書きの字がちらつき、軍議の最中に芋の重ね焼きの匂いの記憶が漂う。言うべきか。言わざるべきか。閣下は騙されているのか。いや、騙しているのはどちらかといえば両方で、被害者はどちらかといえば胃である。私の胃である。

 

 ギデオンは窓の外の月に向かって、結論を出した。

 

 ——閣下が今、生きて飯を食っている。三年ぶりに眠り、三年ぶりに鼻歌を歌っている。それを、壊せるか。

 

 壊せるわけがなかった。墓場行きの荷物が、副官の背にひとつ増えるだけである。

 

       ◇

 

 白湯粥の器は、綺麗に空になった。

 

「……女将さん。いつも、ありがとうございます」

 

 帰り際、ギデオンさんは私に深々と頭を下げた。粥一杯には重すぎるお辞儀である。この店のお客さんは、時々こういう、妙に真心のこもったお辞儀をする。

 

「おかわりも、できますので」

 

「はい。……はい」

 

 二回目の「はい」が湿っていた気がするのは、湯気のせいだと思うことにする。

 

 席に戻ったギデオンさんは、隣のヴェスさんに、しみじみとした声で聞いていた。

 

「……ヴェス様。その、お幸せですか」

 

「? 飯は、うまいが」

 

「それは、何よりです。本当に、何よりです……」

 

 白湯粥のおかわりを装いながら、私は首をかしげる。今夜のこの卓は、どうも湿度が高い。

 

 その隣で——マレン伯母さんが、ヴェスさんの手元をじっと見ていた。

 

 匙を、右手から左手に持ち替える、あの癖。古傷のある人の、あの持ち替えを。

 

 伯母さんは何も言わなかった。ただその晩、明日の仕込みの豆を、ひと掴みだけ多く水に浸けたのである。……何かが起きる前の晩、伯母さんは決まって、豆を増やす。

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