最近、ご主人様からの視線を感じる。やたら見つめてきては、私が振り返るたびに目をそらされる。最初は髪に埃でもついているのかと思ったが、鏡で確認しても特に乱れはなかった。メイド服の襟元、袖口、エプロンの結び目、どこにも異常はない。ならば何を見ているのだろうかと考えていたのだが、数日も続けばさすがに察しはつく。視線はいつも、私の背後へ流れていた。腰のあたりで揺れる、狐の尻尾へ。
「ご主人様」
「ん、な、なにかな?」
昼下がりの執務室で声をかけると、ご主人様は書類を持ったまま背筋を伸ばした。机の上には未処理の文書が積まれたまま、筆だけが止まっている。視線は相変わらず、机の向こうに立つ私の背後をちらちらと追っていた。
「……何か、私に気になる点がございますか?」
「えっ、いや、ないよ。ないない。全然ない」
「左様でございますか」
「うん。いつも通り完璧です」
答えを聞くまでもなかった。私は茶器を盆に載せたまま、一呼吸置いた。
「では、私の尻尾に何か?」
ご主人様の手から書類が一枚滑り落ちた。
窓の外で風が庭木を揺らし、室内には茶葉の香りだけが静かに漂う。ご主人様は落ちた書類を拾うでもなく、私と視線を合わせないまま口元を引き結んでいたが、やがて観念したように息を吐いた。
「……ミナカさんの尻尾って、大きいよね」
「もうっ……やはりそのことでしたか……」
「だってしょうがないじゃない!ふわふわのおおきな尻尾……魅力的で、素敵なんだもん!」
まるで子供に戻ったかのような様子のご主人様に、私は静かにため息をついた。呆れていないと言えば嘘になるが、叱るほどのことでもない。ここ数日、目を逸らす理由が病や悩みではなかったことに、むしろ少し安心してしまったくらいだった。
「ご主人様。素直でいらっしゃることは美徳ですが、何事にも限度というものがあるんですよ?」
「ごめん……」
「謝罪を求めているわけではございません。ただ、あまり熱心に見つめられますと……その、さすがに恥ずかしく……」
「だって、動くし……」
「当たり前です、尻尾なんですから」
「ふわってなるし」
「それは……手入れをかかしたことはありませんから」
「たまに感情が出てる気がするし」
「そっ……それは、見なかったことにしていただけると助かります」
私がそう告げると、ご主人様は一拍置いてから、何かに気づいたように目を丸くした。
「やっぱり出てるんだ」
「……ご主人様」
「ごめん。今のは聞かなかったことにする」
そう言いながら、聞いてしまったものは仕方がないという顔をしている。まったく、この方は時折妙なところで鋭い。私は落ちた書類を拾い、角を揃えて机の上へ戻した。ご主人様はそれを受け取りながらも、視線の端でまだ私の背後を気にしている。
「それほど気になりますか?」
「うん」
迷いのない返事だった。
「ミナカさんの尻尾だから、余計に気になるんだと思う」
「私の、だからですか?」
「うん。普段のミナカさんって、すごく整ってるでしょ。立ち方も綺麗だし、言葉遣いも丁寧だし、何をしても落ち着いてるし。でも尻尾だけは、少し自由っていうか」
自由──その言葉に、私は背後の尾へ意識を向けた。
「つまり、ご主人様は私の未熟な部分を見て楽しんでいらっしゃったと」
「違う違う違う! そうじゃなくて!」
慌てて両手を振る姿がおかしくて、私はあえて表情を崩さずに続けた。
「では、私の尻尾を眺めて執務を滞らせていた理由を、改めてお聞かせ願えますか?」
「う……」
「まさか、仕事よりも尻尾の観察を優先なさっていたわけではございませんよね」
ご主人様の視線が机上の書類へ逃げる。積み上がった文書の山は、何も言わずとも答えを示していた。私は茶器を整え、一拍置いた。
「ご主人様」
「はい」
「休憩になさいますか」
「……いいの?」
「そのままでは、筆が進まないでしょうから」
ご主人様の表情が分かりやすく明るくなる。本当に正直な方だ。私は少し身を引き、尻尾を腕で軽く抱えるようにして毛並みを整えた。乱れがないことを確かめてから、改めてご主人様へ向き直る。
「ただし、触れるのは少しだけです」
「触っていいの!?」
「見つめ続けられるよりは、その方が早く落ち着かれるかと思いまして」
「ミナカさん、優しい……」
「ご主人様が仕事へ戻ってくださるなら、私はいくらでも優しくいたします」
「現実的な優しさだ」
そう言いながらも、ご主人様は椅子から立ち上がった。先ほどまでの勢いは影を潜め、いざ触れる段になると、ひどく慎重になる。その手つきは、壊れ物へ触れるようですらあった。
「あ、あの、そこまで構えられると、こちらも緊張するのですが……!」
「いや、だって……失礼だったらどうしようと思って」
「今さらじゃないですか」
「返す言葉もない」
ご主人様は気まずそうに笑い、それからようやく指先を伸ばした。毛並みに触れた瞬間、息を呑む気配が伝わってくる。私は平静を装っていたが、普段あまり触れられることのない箇所へ意識が集まるせいで、自然と背筋が伸びた。
「……すごい」
「……そ、そうでしょうか」
「想像よりずっとふわふわしてる。見た目からして柔らかそうだとは思ってたけど、触ると全然違う」
「まぁ、毎日手入れをしておりますので」
「これ乾かすの大変じゃない?」
「雨の日は、少々」
「少々で済むんだ……」
感心したように呟くご主人様の手つきは、思っていたよりも丁寧だった。毛並みに逆らわず、強く掴むこともなく、確かめるように撫でていく。そのたびに尾の先がかすかに揺れ、ご主人様が「あ」と声を漏らした。
「今、動いた」
「動きますと先ほど申し上げました」
「嬉しい時も動く?」
「さて、どうでしょう」
「今のは?」
「……ご想像にお任せいたします」
ご主人様は納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。その代わり、撫でる手を止めずに、妙に真面目な声で言う。
「ミナカさんって、ちゃんと自分のことも手入れしてるんだね」
「身だしなみですので」
「そうじゃなくて。いつもわたしのこととか屋敷のことばっかり気にしてるから、自分のことは後回しにしてるのかなって思ってた」
返す言葉を選ぶ間、室内の空気が少しだけ静まった。ご主人様の指は変わらず穏やかに毛並みを撫でている。先ほどまでの子供じみた好奇心とは違う、こちらを気遣うような手つきだった。
「ご心配には及びません。私も、自分の身を整える程度の余裕はございます」
「本当に?」
「はい。ですが、ありがとうございます」
そう申し上げると、ご主人様は少し照れたように視線を落とした。
その視線の先で、また尻尾が揺れる。ご主人様は何かを言いたげに口を開いたが、私が先に茶杯を差し出した。
「休憩はここまでです。お茶を召し上がったら、書類へお戻りくださいませ」
「もう?」
「十分に触れられたかと」
「名残惜しい……」
「また執務を終えられた時にでも」
その一言で、ご主人様の顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「はい。ただし、お仕事を終えられた場合に限ります」
「分かった。頑張る」
ご主人様は茶杯を受け取ると、先ほどまでとは見違えるほど真剣な表情で書類へ向き直った。現金なお方だ──そう思いながらも、その横顔はどこか楽しげで、私はそれ以上何も言わなかった。
窓の外では、庭木の葉が柔らかく揺れている。私は盆を抱え直し、執務室を出る前に一度だけ背後へ意識を向けた。尻尾は、先ほどより少しだけ機嫌よく揺れていた。
見なかったことにしていただけると助かる。
そう思いながら、ご主人様に気づかれる前に私は静かに一礼した。
「では、また後ほど」
「うん。後でね、ミナカさん」
その声があまりにも嬉しそうだったものだから、扉を閉める直前、私の尻尾はもう一度だけゆるりと揺れてしまった。