彼を壊しているのは仕事ではない。彼が帰りたいと願う場所、そのものなのだと。
ヤンデレをかきたかった
「アルトリア。そこを通してくれるかな」
医療区画の白い廊下に、ダ・ヴィンチの声が響いた。
普段の彼女ならば、どんな場面でも軽薄さを一枚噛ませる。天才らしい余裕。人を食ったような笑み。相手の緊張をほどく、あの柔らかな声色。
けれど今、その声には余裕がなかった。
アルトリア・ペンドラゴンは、扉の前に立ったまま動かなかった。
「できません」
短い返答だった。
剣は抜いていない。鎧もまとっていない。そこにいるのは、カルデアに召喚された一騎のサーヴァントであり、青いドレスを身につけた騎士王に過ぎない。
それでも、通路の空気は凍っていた。
ダ・ヴィンチは肩をすくめる。
「誠くんを返してもらえるかな。彼はうちの大事なスタッフなんだ」
その言葉に、アルトリアの眉がわずかに動いた。
「返す、という言葉は不適切です」
「へえ?」
「彼は貴女の所有物ではありません」
ダ・ヴィンチの目が細くなる。
「なら、君のものでもないよ」
沈黙が落ちた。
ほんの一瞬だった。けれど、アルトリアには十分すぎるほど長かった。
彼は私のものではない。
その通りだ。
早川誠は、アルトリアのマスターではない。主従の契約もない。彼女に命令権はなく、彼を守る義務もない。
ただのカルデア職員。
ダ・ヴィンチの直属補佐。
霊基調整、戦闘ログ解析、魔力炉の補助管理、シミュレーターの改修。誰もが見落とす細かな破綻を拾い、誰にも誇らず、誰にも責められず、ただ黙々とカルデアの底を支えている人間。
だからこそ。
だからこそ、許せなかった。
「少なくとも、私は彼を消耗品として扱ってはいません」
ダ・ヴィンチの表情から笑みが消えた。
「……それ、本気で言ってる?」
「はい」
アルトリアは一歩も引かなかった。
「過去三週間で、彼が日付を越えて工房に残った回数は十六回。食事を一食以上抜いた日は十一日。睡眠時間が三時間を下回った日は七日。右手の火傷を隠したのは四度。魔力酔いによる嘔吐は二度。左腕の痺れを報告しなかったのは、確認できるだけで三度」
「いつから記録してたんだい」
「彼が、私の前で初めて食事を残した日からです」
ダ・ヴィンチは言葉を失った。
アルトリアはそれを、責めるようには見なかった。責める必要などない。事実はただそこにある。事実は、剣よりも深く人を断つ。
「貴女は彼の帰る場所の顔をしている」
静かな声だった。
「その実、彼が最も逃げられない場所でもある」
「アルトリア」
「貴女が困れば、彼は眠らない。貴女が笑えば、彼は傷を隠す。貴女が褒めれば、彼は自分がまだ壊れていないと思い込む」
アルトリアの視線は、扉の向こうへ向いていた。
そこには早川誠が眠っている。
いや、眠らされている。
過労と魔力炉調整時の反動、軽度の魔力灼け。診断名だけを並べれば、どれも致命的ではない。数日休めば戻る。医療スタッフはそう言った。
数日休めば戻る。
それが、アルトリアには許せなかった。
戻る。
どこへ。
あの工房へ。
彼が笑って傷を隠す場所へ。
彼が疲れた顔をして、それでも「大丈夫です」と言う場所へ。
彼が、彼自身を使い潰すことを許されてしまう場所へ。
「それを知っていてなお、貴女は彼を呼ぶのですか」
ダ・ヴィンチはしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「誠くんは自分の意思でここにいる」
「その意思が、彼を殺すとしても?」
「それを決めるのは君じゃない」
「では、誰が決めるのです」
「彼自身だよ」
その言葉を聞いた瞬間、アルトリアの胸の奥に冷たいものが沈んだ。
彼自身。
それが一番信用ならないのだと、なぜ分からないのか。
彼は自分の痛みを軽く見る。自分の疲労を数に入れない。自分の命を、カルデアを動かすための小さな部品のように扱う。
そして、そういう人間ほど笑うのだ。
心配されることに困ったように。
迷惑をかけたことだけを恥じるように。
己が壊れかけていることなど、まるで些事だと言うように。
「……ダ・ヴィンチ、ちゃん?」
扉の内側から、掠れた声がした。
アルトリアの指先が、わずかに震えた。
最初に呼ぶ名は、それなのですね。
当然のことだ。彼にとってダ・ヴィンチは直属の上司であり、師であり、居場所なのだから。分かっている。理解している。何度も自分に言い聞かせてきた。
それでも、胸の奥に生まれた黒いものは消えなかった。
ダ・ヴィンチがすぐに扉へ近づく。
「誠くん、起きたのかい? 気分は?」
アルトリアは横に動かなかった。
ダ・ヴィンチの足が止まる。
「アルトリア」
「まだ安静が必要です」
「顔を見るだけだ」
「刺激になります」
「君の方がよほど刺激になってるよ」
その言葉を無視して、アルトリアは扉を開けた。
白いベッドの上で、早川誠が上体を起こそうとしていた。けれど、腕につけられた礼装が微かな光を放ち、彼の動きを抑えている。拘束具ではない。医療用の魔力制御礼装だ。魔術回路に余計な負荷をかけないための処置。
そう説明すれば、嘘ではない。
「……これ、なんですか」
誠が自分の手首を見た。
アルトリアは穏やかに答える。
「貴方の身体を守るためのものです」
「外してください。工房に戻らないと」
その言葉は、あまりにも早かった。
目覚めて、状況を理解する前に。
自分の身体を確かめる前に。
彼は戻ろうとした。
アルトリアの中で、何かが静かに軋んだ。
「戻る必要はありません」
「あります。昨日の調整、途中で止まってるんです。ダ・ヴィンチちゃんにも迷惑を――」
「謝る必要はありません」
声が、自分でも分かるほど硬くなった。
誠が驚いた顔をする。
アルトリアは一歩、ベッドへ近づいた。
「貴方が謝る相手など、ここにはいません」
「でも、僕が倒れたせいで」
「倒れたのは、貴方が休まなかったからです」
「それは……すみません」
「謝らないでください」
「いや、でも」
「謝らないでください」
同じ言葉を繰り返す。
誠の目に、わずかな戸惑いが浮かんだ。困惑。警戒。その奥に、ごく薄い恐怖。
それを見て、アルトリアは胸が痛んだ。
痛んだが、退こうとは思わなかった。
恐怖で止まるのなら、それでもいい。
彼がまた工房へ戻り、眠らず、食べず、傷を隠し、笑って壊れていくよりはずっといい。
「アルトリア、やりすぎだ」
ダ・ヴィンチの声がした。
アルトリアは振り返らない。
「やりすぎているのは貴女です」
「私は彼を閉じ込めたりしない」
「閉じ込めているではありませんか」
「何を」
「必要と、信頼と、称賛で」
空気が止まった。
「貴女が彼を頼る度に、彼は自分の価値をそこに見出す。貴女が彼を褒める度に、彼は傷を隠してでも応えようとする。貴女は鎖を使っていないだけです」
「……君は」
ダ・ヴィンチの声が低くなった。
「君は、誠くんを守りたいんじゃない。彼が私のところへ戻ってくるのが嫌なんだろう」
アルトリアは、ようやく振り返った。
その瞳は静かだった。
静かすぎた。
「違います」
即答だった。
だが、その先の言葉は続かなかった。
違う。
違うはずだ。
私は彼を守りたいだけだ。彼が倒れるのを見たくないだけだ。彼が自分を軽んじることが許せないだけだ。ダ・ヴィンチの工房が彼を壊す場所だから、そこから遠ざけたいだけだ。
そうだ。
そうでなければならない。
なのに、誠が最初にダ・ヴィンチの名を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが潰れた。
なのに、誠が工房へ戻ると言った瞬間、彼の身体を心配するより先に、また彼女の元へ行くのかと思った。
違う。
違う。
これは嫉妬ではない。
これは、守護だ。
「セイバーさん」
誠の声がした。
アルトリアは彼を見る。
彼は礼装に繋がれた手首を見下ろしながら、ゆっくりと言った。
「心配してくれたのは、分かります」
その言葉に、アルトリアの胸が少しだけ緩んだ。
分かってくれるのですか。
貴方は、私がどれほど貴方を見ていたか。
どれほど貴方の傷を数えていたか。
どれほど貴方が笑うたびに、苦しかったか。
「でも、僕は戻ります」
緩んだものが、音もなく砕けた。
「ダ・ヴィンチちゃんのところに。仕事が残っているので」
アルトリアは黙っていた。
ダ・ヴィンチも黙っていた。
誠だけが、申し訳なさそうな顔をしている。
その顔が、アルトリアにはたまらなく憎かった。
なぜ、そんな顔をするのです。
なぜ、貴方は自分が選んだ言葉で私を傷つけておきながら、私に許しを乞うような目をするのです。
なぜ。
なぜ、私では駄目なのです。
「……そうですか」
アルトリアは頷いた。
声は穏やかだった。
驚くほどに。
「貴方は、戻るのですね」
「はい」
「彼女の元へ」
誠は一瞬、言葉に詰まった。
「……工房に、です」
「同じことです」
アルトリアはそっと、誠の手首に触れた。
礼装の光が微かに揺れる。
誠の身体が強張った。彼女はそれに気づいていた。気づいていて、手を離さなかった。
「今日は休んでください」
「セイバーさん」
「今日だけで構いません」
優しい声だった。
祈るような声だった。
けれど、誠は首を横に振った。
「すみません」
また謝った。
アルトリアは、もう笑うしかなかった。
「貴方は、本当に残酷な人ですね」
誠が目を見開く。
アルトリアは手を離した。
そして、ダ・ヴィンチの方を向く。
「連れて行くのですか」
「彼がそう望むなら」
「貴女は、彼をまた壊します」
「そうならないようにする」
「できなかったから、今ここにいるのです」
ダ・ヴィンチは何も言わなかった。
アルトリアは扉の前から退いた。
それは譲歩ではない。
敗北でもない。
ただ、今日この場で剣を抜かないことを選んだだけだ。
ダ・ヴィンチが誠の礼装を解除し、肩を貸す。誠はまだ足元が覚束ない。それでも彼は、ダ・ヴィンチの手を取った。
アルトリアはそれを見ていた。
彼の指が、彼女の袖を掴むのを。
彼が、こちらを振り返りそうで振り返らないのを。
彼が、帰っていくのを。
自分ではない場所へ。
「誠」
初めて、呼び捨てにした。
誠が振り返る。
ダ・ヴィンチも足を止める。
アルトリアは微笑んでいた。
王として。騎士として。誰にも恥じることのない、穏やかな笑みだった。
「次は、貴方に選ばせません」
誠の顔から血の気が引いた。
ダ・ヴィンチの目が鋭くなる。
アルトリアは、それ以上何も言わなかった。
ただ、二人が廊下の向こうへ消えていくのを見送った。
やがて足音が聞こえなくなる。
白い廊下に、一人残される。
アルトリアは目を伏せた。
彼は戻った。
また、あの工房へ。
また、あの女の元へ。
ならば次は。
彼が戻れないようにすればいい。
彼が選べないようにすればいい。
彼が自分の価値を、仕事にも、彼女にも、傷にも見出せないようにすればいい。
それはきっと罪だ。
騎士のすることではない。
王のすることでもない。
けれど。
「貴方が生きているのなら」
アルトリアは、小さく呟いた。
「私は、その罪を負えます」