関西大会へ進んだ北宇治高校吹奏楽部に、夏休みはあまり関係なかった。
夏休み前は日曜日にも休みがあったが、これから三日間のお盆休みを除けば、合宿とオーディションが待っている。
「関西吹奏楽コンクールのオーディションは合宿1日目、発表は2日目になります」
「ソリストもその日に決まります」
「オーディションによってメンバーの入れ替えも起こるかもしれませんが、それは北宇治の演奏が良くなってるんだと、私は思います。まずは関西大会に集中して頑張りましょう!」
「「「「はい!」」」」
そんな慌ただしい日々の中、俺は低音パートの練習の合間にサックスパートへ顔を出していた。
「それにしても、皆さん本当に上手くなりましたよね」
「そんな事ないよ。幸人君にはまだまだ及ばないし」
「いくらユーフォをメインに練習してると言っても、そんな簡単に追いつかせませんよ。そこはやっぱり年齢じゃなくて年季が違うんで」
「幸人に言われると事実過ぎてあんまり悔しくないんだよな」
「クソ生意気な後輩ですけど、可愛げありますもんね」
「ねーよ」
ちかお先輩がそう言い放った時、教室のドアが音を立てる。
「失礼します。おや、真島君でしたか」
「滝先生。何がですか?」
「いえ、聞いた事のない音だと思いまして。映像等は見た事が有りましたが、その時より随分と上手くなったみたいですね」
「もちろんですよ。練習は辞めてないので」
そう返す俺に、滝先生はしばらく口を開かなかった。誰も喋らないまま、しばらくの沈黙が流れた後、不意に滝先生が口を開く。
「真島君。編成について考えていたのですが、関西大会コンクールメンバーのオーディション、バリトンサックスで受けませんか」
「はい?」
誰も何も言葉が出なかった。そんな中で声を出せた自分を、少しくらい褒めてほしい。
「急な話だと思います。ですが考えてもらえませんか?」
考えるとは言っても、俺は低音パートの人間だ。それなのに、急にバリトンサックスのオーディションを受けるなんて本当に良いのか。
「バリサクを吹くのが嫌じゃないなら、受ければ良いじゃないか」
そう言ったのは遠藤先輩だった。府大会でコンクールメンバーに選ばれた唯一のバリサク奏者。
彼は、さも当然の様に言い切った。
「でも遠藤先輩、それだと」
「分かってるよ。分かった上で言ってる。それでも俺は真島に挑戦してみたい。こんなチャンス2度とないだろうから。それに、もし選ばれるのが真島1人でも俺には来年もある」
その言葉に、何人かが頷いた。そこまで言ってくれるなら、断るのも野暮だ。
「滝先生。俺はあくまでもユーフォニアム担当です。ユーフォのオーディションも受けても良いんですか」
「構いません」
「分かりました。では一度低音パートのみんなにも相談して来ても良いですか?」
「ええもちろん」
滝先生は踵を返し、教室を去っていく。俺もそれに続くように一言だけ別れを告げ、その場を後にした。
低音パートの教室に戻ると、部屋の中心では机を囲んで何やら難しい顔をしていた。そんな中周りがいつも通り雑談に興じていたのが少し珍しい。
「うーん男子は2人になったけど、あ」
中に入ってきた俺にいち早く気づいたのは、その机を囲んでいた黄前先輩だ。
「お疲れ様です。なんですか?あって」
「いやー…」
言葉を詰まらせた黄前先輩は向き合う様に座る奏先輩の方を見ている。
「私は良いですよ」
「そう?…じゃあ、あのさ幸人君。今度の盆休み、みんなでプールに行こうって話してたんだけど来る?」
プール…プール!?と言う事は奏先輩の水着!?いやでもこんな事を考えてる奴が一緒に行くっていうのは流石にじゃないか?いや逆に考えろ俺がプールに行かなかったらどうなる水着の奏先輩だ変な男にナンパされるかもしれないいやされるだとすれば俺が一緒に行って警戒をす――
「私の水着見たくないの?」
「見たいです」
「ですって久美子先輩」
「…ねぇ、奏ちゃん。本当にそれで良いの?」
「そうですね、流石に即答はキモ…ではなく引きましたけど、まぁいつもの事なので害はないと思います」
「害って…まあいいや」
――べきなんじゃないか。ん?なんか今気付かぬ内に行く事になってた気がする。だがまあ、ラッキーか。
「じゃあ、あとは求君か」
「求にはまだ言ってなかったんですか?」
「あぁ、うん。元々男子2人になったけど片方来れなかったら1人になっちゃうし、どうしようかって話をしてたんだよね。あっ、だからその〜」
「なるほど了解です。じゃあ求は俺から誘っておきますね」
「そうじゃないんだけどなぁ…まあ、じゃあお願い」
「任せて下さい」
それにしてもプールか。市民プール的なやつだろうか、流石にスクール水着はちょっとアレなのか?やっぱり水着を買いに行くべきか。いやそんなことより奏先輩はどんな水着を着てくるのだろうか。スクール水着か?それもいいが奏先輩はちゃんと用意しそうな気がする。だとすればビキニだろうか…じゃない。
そんな事、いや全然そんな事ではないが、そんな事より先に相談すべき事がある。
辺りを見渡すと、中心で固まっている黄前先輩達も雑談を始めていた。
「あのすみません。ちょっと相談があるんですけど、皆さんに聞いてもらってもいいですか?」
「みんなに?珍しいね、なんかあったの?」
加藤先輩の返事を皮切りに、教室内のすべての視線がこちらに向いた。とは言っても、求や黒江先輩の姿はないが。
「相談っていうのはオーディションの事なんです」
「オーディション?」
「さっき滝先生から言われたんですけど、今度のオーディション、バリトンサックスで受けないかって」
「…なんで?」
顔を少し歪ませた黄前先輩が当然の疑問を口にする。
「理由までは言われませんでした。ただサックスパートのみんなも受ければ良いじゃないかって言われて、受けようかなって思ってるんですよね」
「ユーフォはどうなるの?」
「ユーフォも受けますよ。滝先生にも聞きました。ただ、技術的に考えて受かるとしたらサックスでしょうね。でも辞めるつもりはないですよ。ユーフォ、気に入ってるんで」
「そっか…サックスパートのみんなも賛成してるなら私が反対する理由は無いかな」
「そうですね。向こうに顔を出す機会が多くなってちょっと寂しくなるかもしれませんけど、パートリーダーとしても、緑個人としてもいいと思います」
二人が頷くと、他の部員からも反対の声は出なかった。
それから数日は、関西大会に向けた練習とバリトンサックスの準備に追われ、気がつけばもう明日から盆休みだ。休みの前に済ませておくことといえば、やっぱり掃除。
俺たち低音パートが担当するのは、楽器や資料が詰め込まれた楽器室。物が多い分埃も多いが、高い物が多いので慎重に掃除しなければならない。
そんな部屋の隅から、チューバの形を模した白い、なんとも言えない被り物をした針谷が、おぼつかない足取りでゆらゆらと立ち上がった。
「みなさぁ〜ん。なんでこんな着ぐるみがあるんですか」
「ああっ久美子ちゃんが被ってたチューバ君じゃ無いですか!」
「ええっ部長が!」
「懐かしいですねっ久美子ちゃん!」
「まぁね」
目をキラキラと輝かせながら言う川島先輩は、懐かしいというのもあるのだろうが、本当にチューバ君が好きなのだろう。そういえば、カバンにもキーホルダーがついていた気がする。
掃除をしながら聞き流していると、知らない声が耳に届いた。
「あっれ〜」
「だから別の日にした方がいいって言ったのに」
「今日しか空いてないって言ったのはあんたでしょ」
「優子先輩。夏紀先輩」
知らない声の人と一緒に現れたのはもう随分と見慣れた人。ただいつもと違う場所で会うその人は、それだけで、いつもとは違って見える。
「おおっ黄前部長!ずいぶん部員増えたんだって?流石敏腕!」
「あっ、いや」
「しかし懐かしいね、こんな匂いしてたんだ。いた頃は全然気付かなかったけど」
そう言って大きく深呼吸をした中川さんは、埃まみれの空気を吸い込み、当然の様に咳き込んだ。
「掃除中なんだから当たり前でしょ」
「あっ、ヘアピン」
「ん?…こいつがあたしの真似してるだけだから」
「はぁ?先に買ったの私なんですけど!そんなに真似したい?」
「バッカじゃないの!バッカじゃないの!バッカじゃないの!」
「おーノンブレス」
「うるさい‼︎」
「少し抑えてもらっていいですか?一年生ドン引きなんで」
呆れた声で言う奏先輩の指摘は尤もで、中川さんの事は知っている俺でも口を挟む隙がなかった。という事は、他の一年組はもっとだろう。
慌てた様子で着ぐるみを外した針谷が頭を下げる。
「一年の針谷佳穂ですっユーフォ吹かささせてもらってますっ」
自分で何を言ったのかも分かっていなさそうな、早口だった。
「おおっ、ユーフォ」
「既に夏紀先輩より上手いです」
「それは良かった」
針谷のユーフォを見つめ優しく微笑む中川さん。その返事に少し顔を赤くする奏先輩。見慣れ始めたこの空間にも、俺の知らない時間があるらしい。
「2人とも優秀みたいで本当に良かったよ。ね、幸人先輩♪」
「ややこしくなるんでやめて下さいよ!それにシンプル嘘じゃないですか!」
「ごめんごめん。つい、ね」
全く、どうしてくれるんだこの空気。さっきまでは先輩達も見慣れた景色を楽しんでいた様だが、今は口をポカンとさせている。
「あなたがこいつが前に言ってたバ先にいる人?揶揄いがいがあるって聞いてたけど大変そうね」
「あっ、はい初めましてユーフォの真島幸人です。中川さんにはいつもお世話に…はなってます。一応」
「一応ってなにさ、私ちゃんと働いてるじゃん」
「その分が一応ですよ!」
ぶつくさと文句を言う中川さんが、隣にいる――確か優子さんと言ったか――その人に小突かれる。
「今日の本題はこっちでしょ。これ差し入れ、じゃじゃーん」
そう言って、肩から下げたクーラーボックスを開けると、中にはたくさんのアイスが詰まっていた。
「おお、これは…神ですね!」
「でっしょ〜?素晴らしいOGに感謝しなさ〜い」
「いや、これ割り勘ですけど。なんならあんた私に借りてたじゃん」
「それはアイスの分じゃないでしょ!それに返したじゃない!」
「まあまあ、落ち着いて下さい」
この人達はずっとこうだったのだろう。この短い時間でもそれは伝わってきた。
そういえば先月は中川さんのシフトが多かった気がする。そう考えると、なんだかありがたい。
「とりあえず20分くらい休憩にしようか。せっかくのアイスが溶けちゃうし。みんなごめんけど音楽室集合って声かけてきてくれない?」
低音パートの面々が手分けして声をかけると、アイスと聞きつけた部員たちが次々に音楽室へ集まってくる。クーラーボックスの中身も、みるみる減っていった。
そんな中でも休憩する気が無いのか荷物を持っている人が1人。
「奏先輩アイス食べないんですか?」
「私はダイエット中だから大丈夫」
「…そうですか」
なんでも無い様に言った奏先輩はそのまま音楽室の外に出て行ってしまう。
その背中を見送ることしかできないまま、俺はアイスの山を漁る。だが、目当てのものは見当たらない。元々無かったのか、それとも先に取られてしまったのか。
諦めかけたその時、背後から声がした。振り向くと、剣崎先輩が目当てのアイスを掲げて笑っている。
「真島君の探し物はこれかな〜?」
「それです!なんでわかったんですか?」
「多分同じ事考えてたからね〜」
「そうなんですか?…あのぉ、それ…」
「しょうがないなぁ〜可愛い後輩に花を持たせてあげよう」
「ありがとうございます!」
「じゃあ任せたよ〜」
ひらひらと手を振りながら言う剣崎先輩には、全て見透かされてる気がした。
少し時間が掛かってしまったが、荷物を持っている奏先輩に追いつくのは苦では無い。
「奏先輩」
「何?」
「あの、俺も今減量期なんですけど、半分だったらご褒美に丁度いいかなって思うんですよね」
「なんの話?」
足を止めて疑問を浮かべる奏先輩の前に俺はアイスを掲げてみせた。
「良かったらシェアハピしてくれませんか」
「…しょうがないですね」
そう言った奏先輩の口元が、ほんの少し緩んだ。俺がそんな顔を引き出せたのかと思うとパピコを割る手も軽くなる。
「奏先輩、半分どうぞ。手塞がってますし、荷物貰いますよ」
「あっ…うん。ありがとう」
パピコを口に咥えながら荷物を受け取る。そのせいで歩き始めても会話は無かったが、それで良かった。
ふと空を見上げると、音楽室の窓辺が視界に入った。満面の笑みでこちらを見ている中川さんも。
……見なかったことにしよう。
そう思ったところで、もう遅かった。
アイスを食べ終わる頃、不意に奏先輩が口を開いた。
「そういえば、夏紀先輩と随分仲が良さそうでしたね」
「えっ…いやいや、中川さんは家にバイトで来てるからよく話すだけで何でもないですよ!」
「へーそうなんだ。まぁ、でも私には何の関係もない話だけど。そっか、真島君は軽い人だったんだね」
「あっ、ちょっと。違いますよー!」
奏先輩が早足で離れて行く。慌てて追いかける俺の目には、少し緩んだ口元がちらりと映った。