読み飛ばしにご注意ください
合宿一日目の夜。
風呂を済ませた俺は、ユーフォニアムとバリトンサックスを両手に、オーディション会場へ向かっていた。
左右の手に伝わる、違う重さ。それを感じながら廊下を進んでいくと、前方に一つの人影が見えた。
「黄前先輩」
「ん、ああ、幸人君か。もうオーディション始まるよ」
「あっ、はい。すみません」
黄前先輩の歩く速さが、いつもより少しだけ早い。オーディションまで時間が無いから特段おかしな事では無い、のだが…
「あのー…黄前先輩、怒ってます?」
「別に、怒ってないよ。なんで?」
「えっ、あー…いや、なんかそんな気がして…」
「気のせいだよ。ほら、早くいくよ」
「はい」
黄前先輩と早足で歩いていくその間に会話はなかった。
「ああ、久美子先輩。心配しましたよトップバッターなのに。真島君も遅過ぎ」
「ごめーん、ごめーん」
「すみません奏先輩」
ユーフォを取り出し最後の確認を行なっていく。もうすぐオーディションが始まろうかとする頃、最後の1人が現れた。
「ごめんねー」
「黒江先輩もギリギリですよ」
「お風呂に時間かかっちゃって」
ユーフォパート全員で並んで座ると、緊張からか、別の理由からか、誰も口を開かない。時間になり席をたった黄前先輩は振り返る事なく呟いた。
「真由ちゃん。お互い頑張ろうね」
その言葉に、食堂での会話が頭をよぎる。けれど、今はそんな場合では無い。もう時間が無い。
「真島君、頑張ってね」
「うん。ありがとう、針谷」
室内から出てきた針谷と入れ替わる様に中に入る。前のオーディションとは違う場所。でも、先生達の配置は変わらない。
「ユーフォニアム一年、真島幸人です」
「真島君は今回特殊ですが、ユーフォの演奏の後、バリトンサックスをお願いします」
「はい」
そして、失敗なんて一切無く俺のオーディションは終わった。
部屋に戻ってきた俺を出迎えたのは求の姿。コンバス組はユーフォの前にオーディションを終えていたから、もう行ってるかと思っていた。
「求、まだいたのかよ」
「ああ、うん。まだ時間じゃないから」
「そうなんだ。あと、どのくらいあるの?」
「…15分」
「結構ギリギリじゃん」
こちらに背を向けたまま動かない求の、その背中を力強く叩く。
「早く行ってこいよ。待たせる気もないんだろ」
「いったいな、分かってるよ。...じゃあ行ってくる」
「ああ、いってら」
俺は背筋の伸びた背中を見送った。少し時間が経った頃、求の背中を思い出し飲み物くらい買っておいてやるかと思い、自販機へと向かう。
明かりの消えた暗い廊下の先、自販機の小さな光は2人の人影を照らしていた。
「消灯後は禁止だよ〜」
「バレなきゃいいんですよ」
「悪い子〜」
そんな会話が聞こえ、俺はついイタズラしたくなった。
「何をしているんですか。規則違反ですよ」
「「はい!すみません!」」
「ぷっ、あははっ!すみません。俺です」
「真島君、悪趣味だよ」
「こっちも随分悪い子だねぇ〜」
「いや〜すみません2人が見えたので、つい」
「つい、じゃない。それで、こんな時間にどうしたの?」
「目的は同じですよ、俺も飲み物を買いに来たんです」
そんな話をしていたら、背後から物音が聞こえてきた。
「誰か来たよ」
剣崎先輩のその声で俺たちは駆け出す。曲がり角を曲がって振り返ると、奏先輩は来ていなかった。
「奏、こないね」
「もしかして、捕まりましたかね」
「どうだろう。少し探してみよっか」
「ですね」
剣崎先輩と2人、足音を殺しながら辺りを探していく。曲がり角から少し顔を出して見てみると、出ていく時とはまるで違う背中と、それを追いかけていく奏先輩が見えた。
「あの物音、求だったみたいですね」
「そうみたいだね」
「それにしても、奏先輩行っちゃいましたね。いつも求に突っかかってるのに、なんだかんだ優しいですよね。奏先輩」
「...真島君はそれしか思わないの?」
「まぁ、そうですね。何でですか?」
「嫉妬とかしないのかな〜って」
「嫉妬...。嫉妬ですか」
確かに、奏先輩は今、傷ついているように見える求のところへ行った。俺以外の男のところへ。普通なら、嫌だと思うものなのだろうか。
でも、俺は今何とも思わなかった。
じゃあ、俺は何で嫉妬しないのだろう。
奏先輩の事が実は好きではないのか。いや、違う...と思う。じゃあ、何で…
その時頭に浮かんだのは、奏先輩が誰かに見せる笑顔だった。
少し緩んだ口元は見た事がある。楽しげに話す姿も知っている。でも黄前先輩や、他の人に見せる笑顔を正面から見た事は無かった。
ああ、そうか。
「多分…奏先輩が幸せだったら、それでいいんだと思います」
「へぇ、そうなんだ」
そう。奏先輩が幸せそうだったらそれでいい。
思えば奏先輩に一目惚れしてから、こんな事を深く考えた事は無かった。
俺は、奏先輩と付き合いたいのか?
そもそも、付き合うって何だ?
俺は奏先輩の事が、好きなのか?
「剣崎先輩。好きって、何なんですかね」
「どうして?」
「俺、奏先輩の事…本当に好きなのかなって」
その言葉は棘となり、俺の胸に引っ掛かる。そんな俺の意識を引き戻したのは、隣から聞こえてくるクスクスという笑い声。
「剣崎先輩。どうして笑うんですか?」
「ごめんね〜。なんかさ、この間真島君の事大人っぽいな〜って思ったんだけど、全然そんな事なかったな〜って」
「なんですか、それ。俺別に大人なんかじゃ無いですよ」
「うん、ごめんね〜。確かにそうだった。なんか年下の男の子だな〜って感じ」
「なんか、そう言われるのはちょっと違うんですけど。じゃなくて、俺の相談答えてくれてないじゃないですか」
「あ〜相談だったんだ、これ。えっと好きって何かだっけ?まぁ、大丈夫だと思うよ」
「何がですか?」
「奏はね〜可愛くて、いい子で、優しいから」
「答えになってなくないですか?それ」
「そうかな〜」
「2人ともこんな所で何話してるの?」
いつの間にか、目の前には奏先輩が戻ってきていた。さっきよりも少しだけ柔らかな顔。その顔を見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
「なんでもないよ〜。ちょっとした人生相談的な?」
「まあ、そんな所です」
「そっか。じゃあ梨々花戻ろう?真島君も早く戻らないと先生に見つかるよ」
「あっ、はい。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「おやすみ〜」
去っていく2人を見送ると、俺はふと求への飲み物を買っていないことに気がついた。だが、もう必要無いだろう。そう思い、部屋へと戻った。
「はぁ、幸人、お前もかよ」
「秀一先輩」
「別にガミガミ言うつもりはないけどさ、明日も早くから練習あるし、早めに寝ろよ」
「はい、すみません」
それだけ言うと、本当に何も言うつもりはない様で、秀一先輩は自分の布団へと入っていった。
「どこ行ってたんだよ」
「いや、ちょっと飲み物でも買おうかなって思ったんだけど、やめた」
「なんで?」
「必要無いかなって思ってさ」
「ふーん」
そんな興味なさそうな返事を残し、求は布団に潜り込んでいく。俺も隣の布団に入ったが、どうにも寝つけなかった。
「寝れないのか?」
「求こそ」
「まあ、僕は...ほら」
「まあ、そうだよな」
「...幸人も聞かないんだな」
「聞いて欲しいのかよ」
「絶対に話さない」
「じゃあ、なんで聞いたんだよ」
「...なんとなく」
「...なんとなくじゃ、しょうがないよな」
返事は返ってこなかった。寝息は聞こえない。そんな静かな暗闇の中、俺は目を瞑った。
朝、俺は音楽と共に目を覚ました。遠くから聞こえるユーフォの音。それはきっと黄前先輩。寝起きに聞くには心地良いその旋律にスッキリと目が覚める。
まだ誰も起きていない部屋で、俺は静かに着替えていく。合宿中は走るつもりなんてなかったが、なんとなく走りたくなり、気がつけば知らない道を、気の向くままに三十分ほど走っていた。
部屋に戻ると、もう誰もいない。シャワーが使えないのが誤算だったが、念のため持っていた汗拭きシートで簡単に汗を拭く。そうこうしていたら、朝飯の時間も残り少なくなってくる。
朝食を受け取り、食堂内を見渡すと、窓際の端の方で見慣れた人達が集まっていた。
「おはよーございます。ご一緒しても良いですか」
「私はもういくんだよね。幸人君はなんかタイミング悪いね」
「あっ、そうなんですか?なんかすみません」
「全然いいよ。じゃあ、また後で」
黄前先輩が去っていき、俺は椅子が引かれたままのその席へと座る。
「オーディションの発表の準備とかですかね。部長は本当に忙しいですね、こんな朝早くから」
「大変だよね、発表8時だし。みんな一緒に吹けるといいね。コンクールで」
その言葉に、俺は目を丸くした。A編成は55人。黒江先輩のみんなでがどこまでを指すのかわからないが、その言葉はあまりにも非現実的だった。
「本心で言ってます?」
俺の感想は、隣にいる奏先輩と同じだった。
「もちろん!どうして?」
「黒江先輩、そのみんなって俺も入れてもらえてますか?」
「もちろんだよ。本当はユーフォで吹ければ良かったけど、サックスで吹くかもしれないでしょ」
「...ま、そうなんですけど」
なんと言うか、何も言う気が起きなくなった。俺が黒江先輩の事を理解できてないだけなのか、黒江先輩に話が通じないのかは、分からない。奏先輩も、それ以上は何も言わなかった。
「それにしても、真島君は随分遅かったですね」
「実は、ちょっと走りたくなって走ってたんですけど、シャワーが使えなくて」
「えぇ、朝から何してるの。ちゃんと汗拭いた?臭くしないでね」
「ちゃんと、汗拭きシート使いましたよ!えっ、匂ってないですよね!大丈夫ですよね」
「なんか少し臭いかも」
「えっ、嘘」
「大丈夫。臭くないよ」
「ええ、冗談なので」
「ちょっと、奏先輩!やめて下さいよ」
「早く食べないともうすぐ時間ですよ。じゃあ私はもう行くので」
「私もそろそろ準備しようかな」
「あっ、はい。じゃあまた後で」
静かになったその席で、1人手早く食事を済ませる。食事を終えた俺が集合場所に着いた頃、ほとんどの人がすでに集まっていた。
俺自身結構ギリギリだった事もあり、残りの人もすぐに集まり、この場の緊張感も高まっていく。
「ではこれより、オーディションの結果発表を行います。大会毎にメンバーを変えるのは北宇治にとって初の試みです。苦労することもあるかもしれませんが、これが最良だったと思える様にしたいと考えています。では、発表します。トランペットから、3年、高坂麗奈さん」
次々にメンバーが呼ばれていく。思えば滝先生がメンバーを発表するのは初めてだ。
「続いて、テナーサックス、3年、瀧川ちかお君」
「はい」
「2年、内田ベイブさん」
「はい」
「以上2名。続いてバリトンサックス、一年、真島幸人君」
「はい」
俺の名前だった。関西大会のメンバーには選ばれた。バリトンサックスで。これで、ユーフォで呼ばれる事は無い。席だって奏先輩の隣ではなくなる。
そんな事を考えながら意識の端で、周りの少しのざわめきと、滝先生の声を聞き続ける。
「続いてユーフォニアム、3年、黄前久美子さん」
「はい」
「3年、黒江真由さん」
「はい」
「以上2名。続いてチューバ、3年、加藤葉月さん」
「はい」
以上、2名。
その一言の意味を理解するのに、一拍かかった。ユーフォは、2人。奏先輩の名前は、呼ばれなかった。
それは、この部屋に再度ざわめきをもたらした。声が大きくなったわけでは無い。でも、思わず振り返る人もいる。俺も思わず奏先輩を見ていた。
名前を呼ばれた時、奏先輩と吹けると思っていた。なのに……
そんな動揺なんてお構い無しに、メンバーはどんどん呼ばれていく。
「2年、鈴木さつきさん」
「はい」
「1年、釜谷すずめさん」
「はい」
みっちゃん先輩は当然として、さっちゃん先輩が選ばれた、釜谷も。チューバのメンバーは合計4人。府大会よりも1人多い。本当に、編成自体が大きく変わっていた。
そして、残すはソロパート。
「ユーフォニアム、3年、黒江真由さん」
「はい」
その瞬間、部屋の空気が変わる。
それは今日一番のざわめきだった。