オルクセンズ・グローリア   作:榎本氏

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 この世で最も邪悪な存在は、外からやってくるのではない。

 それは常にあなたの背後にへばりつき、

 名を呼べば、親しげに微笑みを返す者である。

                  ――星欧の古い言い伝え



(0)――プロローグ

 

 我らは、猛き者       汝の名は猪

 

 我らは、古強者       汝の名は猪

 

 伝統の教えに従いたい    だめだ

 

 古き猛き猪だ        だめだ

 

 汚れても気にしない     だめだ

 

 窮屈な服など着たくない   だめだ

 

 慣れ親しんだ皮鎧を着たい  だめだ

 

 身綺麗になどしたくもない  だめだ

 

 ならば戦をしたい      勝手にするな

 

 魔種族を討ちたい      私が判断する

 

 人間族を討ちたい      私が判断する

 

 エルフを討ちたい      気持ちは同じだ

 

 エルフと再戦を       今はだめだ。ロザリンドの戦いを忘れるな

 

 戦利品を獲るのは      法の範囲内ならよい

 

 戦利品の女を犯すのは    だめだ

 

 戦利品の敵を喰うのは    だめだ

 

 飢えて同族を喰らうのは   ……だめだ。()()()()()()()

 

 軍用兜を被るのは      だめだ。過日の演習で、狙撃の的になると判断した。

 

 あの(シュヴァルツ)の提案か     ……そうだ

 

 ……            わかってくれ

 

 我が王よ……        ……

 

 我らは何者だ……      古き猛き猪だ

 

 (後世の歴史書『オルクセン王国――近代化の光と影』 第4章より引用)

 


 

 ―――はぁぁぁ……。

 

 重苦しい静寂を破り、老将は深い、深いため息を吐き出した。

 

「お前が、ゼーベックやシュヴェーリンらに担がれて国王に推挙されたとき、我らもお前を信じて賛同した」

 

「……」

 

「だが、その結果が、これか?」

 

「……」

 

「我ら一族の誇りをどうするのだ。我が王(マイン・ケーニッヒ)よ……」

 

 グスタフは答えない。いや、答える言葉を持たなかった。ただ、握りしめた拳の震えを隠すように、机の上の書類を凝視し続けていた。彼らが連名で提出した「軍用兜の着用禁止」に対する抗議書だった。

 

 ヴランゲル上級大将は静かに背を向け、歩き出した。

 

「グスタフ……子倅(こぞう)……偉くなったな……」

 

 重厚な扉が閉まる音が、静まり返った執務室にむなしく響いた。

 

「ヴランゲル……わかってくれ……」

 

 その独り言を聞く者は、もう誰もいなかった。

 

 一人残されたグスタフは、組んだ両手に顔を埋めた。その肩が、微かに震えていた。 

 


 

 上級大将を先頭に、その後ろではちきれんばかりの巨躯を揺らす大将が一人、中将が二人、少将が三人……と、オルクセン国軍の歴史を文字通り血で作り上げてきた七頭の将軍が、執務室を辞して国王官邸の秘書の後ろに続き、重い足音を響かせて歩いていた。

 

 だが、前室である待合室へと差し掛かった時、不意にその歩みが止まった。

 

 そこにはオーク族の伝統的な諸々の武具などが展示されていた。最も目を引いたのは、壁に掛けられた巨大な戦斧――伝説によればオーク族の英雄が敵将を討ち取り、裏切り者の首も刎ねたとされる“断頭の大斧”であった。その重々しい空間に、一人の女が腰掛けていた。

 

 それは、漆黒の肋骨服――騎兵科の軍服にしなやかな肢体を収めた、ダークエルフの女性だった。新たにグスタフ王直属として編成された『アンファングリア騎兵旅団』の旅団長ディネルース・アンダリエル少将、その人であった。

 

 将帥たちの眼光と、彼女の視線が正面から衝突した。

 

 ディネルースは即座に背筋を正して立ち上がり、先任であるオーク族の老将軍たちへエルフィンド式の二指の敬礼を捧げた。アンファングリア騎兵旅団がオルクセン国軍式の挙手の敬礼を拒み、かつての祖国の礼式を貫くこと――それこそが、彼女たちダークエルフがオルクセンに魂まで売ったわけではないという、無言の矜持であった。

 

 当然、それは屈辱の歴史を背負うオークの将帥たちに対する、静かな挑発に他ならなかった。

 

 若輩の少将たちが、値踏みするような目を向けながら声を潜めて囁き合った。

 

「あれが、軍用兜禁止の…… 張本人か……」

 

「エルフ…… 黒いほう(デックアールヴ)か……」

 

「ふん、陛下が自ら掟をお破りになるとは。よりによって、前王を討ち取り、我が国を存亡の危機に追いやった宿敵の眷属を、中央へ招き入れるなど――」

 

「黙れ!」

 

 中将の一人が雷鳴のような怒号を放ち、待合室の空気を震わせた。

 

 軽口を叩いた少将たちが、その気迫に圧倒されたように身を硬くした。

 

「……ロザリンドを知らぬ若造どもが、気安く口にするな」

 

 頬に大きな戦傷を負った中将が、牙を軋ませ、周囲が凍り付くような低い声で吐き捨てた。

 

 若輩の少将たちが抱くのは、ただの傲慢な侮蔑だった。だが、この中将の胸にあるのは、かつて無敵を誇った密集陣形――オークの津波(オルクス・ラヴィーネ)が完膚なきまでに粉砕された恐怖と、底なしの怨嗟だった。

 

 一二〇年前のあの日、前王が戦死し、オークの誇りが文字通り血の海に沈んだロザリンド会戦。その地獄を前線指揮官として生き延びた彼にとって、ダークエルフという存在はただの生意気な新参者ではない――悪夢そのものであり、決して赦してはならぬ不倶戴天の敵だった。

 

 ヴランゲルの背後に控える大将や中将ら――六〇年前のデュートネ戦争をも戦い抜いた怪物たちの視線が、ディネルースの細い身体に突き刺さった。彼らは近代の平穏に甘んじ、軍服の縫い目が悲鳴を上げるほどに肉体を肥大化させた醜悪な巨躯の群れであった。だが、先頭の老将だけは違った。従う牡たちのように醜く太ることなく、ただ純粋な怨念だけを纏って、その場に留まっていた。

 

 大将が先頭の最高齢の老将へと恭しく身を屈めた。

 

「閣下。あれがアンファングリア騎兵旅団長、ディネルース・アンダリエル少将です」

 

 低い耳打ちを受け、上級大将はゆっくりと彼女に向き直った。

 

 先頭に立つ四〇〇歳を超える老将――その濁った瞳と、ディネルースの切れ上がった赤い瞳が、一瞬だけ鋭く噛み合った。

 

 最高齢の老猪。オーク族としての全盛期をとうに過ぎ、永い星霜の限界を迎えつつあるその肉体は、かつて前王の盾として戦場に君臨した頃の輝きを失い、軍服の上からでもわかるほどに衰え、萎んでいた。

 

 勲章の重みに耐えるようにわずかに前傾したその肩は、かつての猛威が嘘のように瘦せ細り、骨と皮ばかりの鋭利な刃物のような凄みを放っていた。

 

 老将は、衰え、白濁しかけた瞳で、じっと目の前のダークエルフを見つめた。

 

 漆黒の肋骨服。隙のない肢体。真っ赤な燃える瞳。

 

 グスタフ王が「近代化」と「エルフィンド対策」のために招き入れた、闇のエルフ(デックアールヴ)族の眷属。

 

「――ほう、ほう」

 

 老将の口元が微かに歪んだ。

 

 だがそれは、笑みですらなかった。

 

(ヴァイス)(シュヴァルツ)も、皆敵よ」

 

 その低く、呟くような一言に込められた怨念の質量に、背後に控える大将や中将たちさえもが息をのんだ。

 

 ディネルースの強靭な背筋に、冷たい戦慄が走った。数々の死線を潜り抜けてきた彼女の野生が、目の前の老猪を底知れない怪物だと告げていた。捧げた二本の指先が、自身の意志に反して微かに震えそうになるのを、彼女は奥歯をかみしめて理性的に抑え込んだ。

 

 国際政治の趨勢も、グスタフ王の合理的な戦略も、この四〇〇歳の生ける伝説にとっては塵芥に等しいのだろう――彼にとって、ロザリンドで前王を討ち取り、オークの誇りを傷つけたエルフという種族は、肌の色が白だろうが黒だろうが、そのすべてが絶滅させるべき敵に他ならなかった。

 

 七頭の猛き猪は、ダークエルフの少将をただの路傍の石のように無視して、すれ違い、答礼せずに去っていった。

 

 はちきれんばかりの肉体が放つ濃厚な獣臭と、老将の纏う死臭に似た圧迫感。それらが重い足音と共に、嵐のように彼女の脇を通り過ぎていった。

 

 彼女は無言で上げていた手を静かに下ろした。だが、その手は小刻みに震えていた。

 


 

 遠ざかる重い足音とその気配を見送った後、官邸の副官に促されて目の前の扉をノックすると、中から聞き慣れた、だがどこか疲弊した低い声が答えた。

 

 許しを得て、ディネルースは無言で国王の執務室の奥にある私室へ足を踏み入れた。重い扉が閉まると同時に、先ほどまで廊下に漂っていた獣の濃厚な体臭や、ねっとりとした敵意の残滓が、完全に絶たれた。

 

 部屋の奥には、いつもと変わらぬ、だがどこか背負った荷の重さに耐えるようなグスタフ王の姿があった。その傍らには、巨狼族の警護役アドヴィンが物静かに横たわっていた。

 

「陛下……」

 

 ディネルースは音もなく彼に近づいた。軍人としての張りつめた硬質な気配が、彼の前でだけは、しなやかな一人の牝のものへと融けていくようだった。

 

「まあ、座れ……」

 

 グスタフが促すと、彼女はその隣の椅子に、静かに腰を下ろした。

 

「ふぅ……」

 

 グスタフは深く、深く椅子の背にもたれかかり、重いため息を吐き出した。先ほどまで老将たちを冷徹に突き放した「近代国家の君主」の仮面はそこにはなく、一頭の牡として苦渋がその顔に深く滲んでいる。執務机の上には、先ほどヴランゲルらが残していった「軍用兜の着用禁止」に対する抗議書が、乱れたまま置かれていた。

 

「何か言われたな? 間が悪かった。急に彼らが訪れてな……断り切れなかったのだ」

 

 その言葉に、ディネルースは小さく首を振った。

 

「老いた猪が鳴いていたにすぎません、陛下。私の心を騒がせるほどの言葉ではございません」

 

 毅然と答えたものの、ディネルースの赤い瞳は、微かに翳るグスタフの横顔をじっと見ていた。

 

 前王の時代を築いた老兵たちを、法の下に切り捨てねばならないグスタフの胸を掻き毟るような葛藤。それを最も近くで見届け、痛感しているのは、オーク族の誰でもない。かつて彼らと血で血を洗う戦いを繰り広げ、その因縁のすべてを引き受けた、このダークエルフの女だった。

 

「陛下。彼の者たちは、ゼーベック上級大将やシュヴェーリン上級大将とは違いますね?」

 

 ディネルースの、静かだが本質を穿つ問いが、静まり返った部屋に響いた。中央の洗練された近代軍人たちと、先ほどすれ違った老人たちの間に漂う、決定的な「質の差」を、彼女の鋭い野生は見抜いていた。

 

 グスタフは巨躯を椅子の背に預けたまま、天井を見上げるようにして、重く頷いた。

 

「ああ。東方の猛き猪……最も古いオークの一族たちだ。いまだロヴァルナやオスタリッチなどの人間族の圧力を東部軍で抑え込んでいる、我が国の精鋭でもある。無下にはできん」

 

 王の言葉には、単なる古い将官への情だけでなく、国家の防衛を彼らの武力に依存しているという冷徹な政治的現実が滲んでいた。彼らが辺境の国境線で牙をむき続けているからこそ、中央のオークたちは近代化の果実を享受できる。だが、その強大すぎる牙は今や、内なる法と秩序にすら牙を剥こうとしていた。

 

「最古の、猛き猪……」

 

 ディネルースは唇の内でその不穏な響きを繰り返す。

 

「しかし、明らかな敵意を向けられました。この国は陛下の近代化が行われ、もっと開明的な軍人によって占められているものと思っていましたが?」

 

 ディネルースの声は静かだったが、そこには明らかな、新時代を生きる者としての冷ややかな困惑が混じっていた。彼女がこれまで見てきたゼーベックやシュヴェーリン、実直な兵隊たち、実務官僚たちの姿――すなわちグスタフが目指す理想の軍隊のあり方からすれば、先ほどの老人たちが放った濃厚な獣の気配と下卑た嘲笑は、あまりにもかけ離れていたからだ。

 

 グスタフは自嘲気味に、低く笑った。だが、その瞳に光はない。

 

「……そう見えていたなら、我が国の歪な表皮が、うまく欺き通せているということだな」

 

 グスタフは組んだ指に視線を落とし、胸の底から絞り出すように言葉を続けた。

 

「ディネルース。百年そこらの法や教育で、何千年も血に染み付いた『猪』の本能がすべて洗い流せるわけではないのだ。中央がどれほど輝かしい近代の光に浴していようと、東方の地には、いまだに前王の時代の……いや、それ以前の、暗黒の森(シュヴァルツヴァルト)の伝統がそのまま息づいている」

 

 一拍の、押しつぶされるような重苦しい沈黙。

 

「彼らは一二〇年前のロザリンドで、一兵卒にすぎなかった私を次期国王へと推挙してくれた恩人だ。二〇年後の正式な即位から今日に至るまでの百年間、彼らが私の統治に表立って異を唱えたことは一度もなかった。……だが、半年ほど前にお前たちダークエルフが国軍に組み込まれてからというもの、彼らの中に眠っていた獰猛な不満が、急速に鎌首をもたげ始めている」

 

「陛下……。もし彼らが、陛下に仇なす存在となるならば……」

 

「……ディネルース、私がいくら魔力量に優れているからといって、それだけで国王の座に就けるほど、この国の力関係は単純ではないのだ」

 

 グスタフは静かに首を振る。

 

「ゼーベックやシュヴェーリンが近代化の頭脳なら、彼らはこのオルクセンという国の、文字通り『血』であり『肉体』なのだ。彼らの背後には東方の無数の『猪』の氏族たちが控えている。私が王冠を戴けたのは、彼らがその強大な牙を以て、私を担ぎ上げてくれたからにほかならない。私はこの百年間、彼らの誇りを尊重し、一度としてその顔に泥を塗るような真似はしてこなかった。だが……」

 

「なればこそ……陛下」

 

「……私がなぜ、あえて激しい反発を招くことを承知で、ダークエルフの精鋭であるアンファングリア騎兵旅団を組織したか。これでわかっただろう?」

 

 王の視線が真っ直ぐにディネルースの赤い瞳を射抜いた。

 

 己を縛る古い「肉体」を牽制し、真の近代法治国家へと脱皮するための、鋭利な楔。それこそが自分たちなのだと。

 

 彼女の胸に、王の孤独な策略のすべてが、影を抱えた国家の真実が、そして自分たちに向けられた本当の「期待」の重さが津波のように流れ込んできた。

 

 そう悟った刹那、彼女の誇り高い神経は歓喜と熱情で烈しく昂り、抗う術もなく魂のすべてがその孤独な君主に奪われていくのを確かに感じた。

 

 ただの、故郷(エルフィンド)から逃れてきた惨めな存在ではない。自分たちは、この王の未来そのものを託されたのだ――。

 

 それは五感を支配する圧倒的な衝撃だった。

 

 視界が白むほどの衝撃。胸の鼓動が狂ったように跳ね上がり、全身の血が沸騰していく。かつて戦場で死線を潜り抜けた時すら味わったことのない、甘美で、苛烈な神経の奔流。

 

「陛下……、私は――」

 

 ディネルースは椅子から滑り落ちるように片膝を突き、その場に崩れるように跪いた。

 

「御意のままに、我が王(マイン・ケーニッヒ)よ。このアンファングリアの刃、陛下の敷かれる法と秩序の、最後の盾となりましょう」

 

「……いや、焦ることはない」

 

 グスタフはふっと表情を和らげ、跪く彼女の肩に優しく手を置いた。

 

「今はエルフィンドの白エルフを倒すことだけを考えておけばいい。今すぐ彼らと事を構えることもあるまい……」

 

 そう言って微笑むグスタフの視線は、ディネルースの向こう側にある、冷酷な白エルフの国を見つめているようでもあった。

 

「……左様でございますね、陛下」

 

 ディネルースは恭しく頭を垂れた。

 

 (いいえ、陛下……。それは叶いません)

 

 うつむいた彼女の脳裏に、さきほどすれ違ったヴランゲル上級大将の、あの白濁した瞳と、骨と皮ばかりのすさまじい怨念の姿が鮮烈に蘇る。

 

 近代の法を嘲笑うかのように、強欲と、淫靡と、暴食の本能を煮詰めた、あの古き猪たちの悍ましい気配。

 

 ――穏便に済むはずがない。

 

 あの老猪が放っていた匂いは、政治的な妥協や時間の解決などを拒絶する、純然たる『破滅』のそれだった。

 

 遠からず、血の嵐が吹き荒れる。

 

 主君の優しさゆえの見通しの甘さを、しかしディネルースは否定しなかった。ただ、己の指先に残るかすかな戦慄を消し去るように、そっと胸元で拳を握りしめるのだった。

 

 ――だが、この時、王も、そして誇り高きダークエルフの女もまだ知らなかった。

 

 近づきつつある未曾有の闇に対して立ち向かう、一つの「牙」――憲兵隊本部に異端のオーク、ハインリヒ・グロッセ憲兵大尉が存在することを。




※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。


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