お前を支配するのは、理知か、それとも――獣か。
――星欧の古いことわざ
――オルクセン王国 国軍憲兵隊本部の建物
首都ヴィルトシュヴァイン(野猪の意)。
その街を覆う夜の帳は深く、国軍憲兵隊本部の2階にある本部将校用当直室だけが、近代の象徴たる電灯の光の中に浮かび上がっていた。
「――ふぅ」
重苦しい静寂の中、ハインリヒ・グロッセ憲兵大尉は、神経質に、しかしどこか優雅に指先を動かす。
机上の銀のケースから、細い一本……ゲッティンゲン No.4を無造作ながらも正確な所作で引き抜き、マッチを擦った。焔を煙草の先端へ移し、じっと赤い火を見つめる。
彼の眼窩の奥に、一瞬だけ異様な光が宿った。
それを深く吸い込み、重い紫煙を吐き出した。
鉄と規律に縛られた軍隊生活の中で身につけてしまった、数少ない悪癖の一つ。
それも、慢性胃潰瘍を患う身でありながら、だ。煙を吸い込むことが、空腹の胃壁に酸の刃を突き立て、激痛をもたらすことなど百も承知だ。
だが、今夜の当直勤務を覆う妙な圧迫感と、腹の底をチリチリと妬くようなストレス……酒も女も遠ざけて生きるこのオークには、この安価な煙の慰めが必要だった。
彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
無駄な肉のない肉体は、肥大した巨躯の群れとは一線を画し、剃刀の刃を思わせる正確さと奇妙な俊敏さをその挙動に宿していた。
漆黒に染まった窓ガラスに、夜景を背景にして一頭のオークの輪郭が映り込む。だが、その姿は、このオルクセンという国において徹底的に「異質」だった。
オルクセンのオークといえば、誰もがはちきれんばかりの筋肉を鎧のように纏い、あるいは威風堂々とした巨躯と肥満体を誇るものだ。それこそが強さの象徴であり、種の本能が求める正しい姿だった。
しかし、ガラスに映る男は、オーク族特有の鼻を除けば、人間族の貴公子すら思わせる、すらりとした立ち姿であった。その顔立ちは、あまりに鋭敏な知性がもたらす憂いを帯びてスマートだが、光と影の加減一つで、肉のそげた頬のラインが、病的なまでの痩躯を冷酷に際立たせていた。
特にその、獲物を冷徹に見定める猛禽類を思わせる深い眼窩の奥には、同族の誰とも違う、神経質なまでの知性の光がギラついている。
身にまとう黒色の常装に襟と袖口に矢車菊青<コーンフラワーブルー>を配した憲兵士官の軍服も、官給品の規格サイズなど合うはずもなかった。
今着ているのは、士官学校時代から仕立てを任せている馴染みの仕立屋による特注品である。初めて依頼した際、老練な職人が目を丸くしていった言葉が今も耳に残っている。
『失礼ながら……このような体型のオーク様は初めてです。型紙から起こさなければ、とても服の形になりませんよ』
周囲の同僚たちが、この特異な長身を『痩せっぽち』『鉄の針金』と呼び、そして何よりも残酷な皮肉を込めて、彼をこう称した。
『名ばかりグロッセ』
王を、支配者を意味する『ハインリヒ』に、大いなる巨躯を意味する『グロッセ』。その高慢な姓名のどちらをも裏切るかのような、独身を通すその痩躯。
オークとして正しく肥大した巨躯に育った弟たちと比較され、両親からは「どうして長男だけが、これほど肉がつかないのか」と病気でも疑うように心底心配されながら育った――それが、彼のこれまでの半生であった。
「……名ばかり、か」
己のガラス越しの姿に、苦い自嘲を漏らす。
旺盛な繁殖本能を持つオークとして生まれながら、この年まで異性の手すら握ったこともない。だがそれは、彼に性的な情動が欠落していることを意味しなかった。
ただ、ハインリヒにとって、知性も情緒もなく、ただ脳を獣の狂騒で支配しようとする同族たちのあまりに即物的な肉欲の本能の在り方こそが、何よりも忌むべきノイズでしかなかったのだ。
彼が求めるのは、脳を灼くような、気高き知性と理性を伴う情動――それによって初めて極限まで引き絞られる、真の愛だけであった。
先月までは、慢性胃潰瘍を理由に……実際は、現場の無神経に大量配食される兵食に胃が拒絶反応を起こしたのが原因だったが――憲兵学校の教官職として、静穏な生活を送ってきた。
だが、隣国エルフィンドで始まったダークエルフの虐殺から、シルヴァン川を越えて亡命してきた一万二千の女たち。
グスタフ王が彼女らを臣民として迎え、国軍への編入を断行したことで、北方軍への増備が重なって後方の憲兵隊にも無慈悲な人材不足の波をもたらした。元軍人が大半を占めていた彼女らの組織化は急速に進み、ついに「アンファングリア騎兵旅団」として結成にまで至っていた。
北方の国境周辺に走る軍事的な緊張により、同じ頃にハインリヒはいよいよ本格的な実務の激流の中へ、憲兵隊本部参謀長専属の特別任務将校として引き摺り出されることになった。
「亡命してきた彼女らを……聴取したときは、あまりの痛々しさに胃が焼けるような思いをした……」
その時、憲兵隊本部の正門を走ってくる一台の馬車があった。こんな時間に急いで駆けつける馬車など尋常ではない。
建物のエントランスから慌ただしい声と足音が響いている。廊下を誰かが駆けてくる音が近づいてくる。静寂を破るようにドアを激しくノックする音が響いた。
……平時の規律を忘れて本部将校用当直室の扉を叩くなど、事態は緊急を要する。ノックの荒さから、扉の向こうに立つ者の焦燥が伝わってきた。
「大尉!参謀長閣下が、閣下が今、将校クラブから戻られました……!至急、参謀長室へお越しください!」
参謀長付きの同僚である、若いオーク族少尉だった。声を裏返らせて飛び込んできた。
「どうした、落ち着け。何が起きた」
「私からは何も申し上げられません……とにかく、今すぐ……!」
少尉は尋常ならざる様子で懇願する。
「すぐに行くと伝えてくれ」
ハインリヒの視線は窓の夜闇に向けたままで、極めて平穏に応じた。少尉があわただしく足音を響かせて去っていくのを見送りながら、ハインリヒ・グロッセは手元の灰皿に視線を落とす。
「やれやれ……」
自分の体を気遣ってくれる数少ない良き理解者が、この深夜に『至急』か。嫌な予感しかしない。あの温厚で合理的な参謀長が、当直の大尉を名指しで呼び出すなど、尋常ならざる事態が勃発した証左にほかならなかった。
だが、その嫌な予感とは裏腹に、彼の唇の端はごく微かに吊り上がっていた。
この退屈な雑務と本部将校用当直室の静寂で脳を腐らせるよりは、胃を焼くような難題の方が、彼の飢えた知性にとっては極上の劇薬だったからだ。
すぐに動くべきなのはわかっていたが、せめてこの一本が燃え尽きるまでは、これから始まるであろう嵐の前の、静かな首都の夜の闇を網膜に焼き付けておきたかった。
口の中で、ゆっくりと最後の煙を転がしてから吐き出す。
紫煙の向こうで、ヴィルトシュヴァインの街並みが静まり返っている。
先の演習結果を受け、全軍に「軍用兜の着用禁止」と「略帽への完全移行」の命令が下ってから数か月。
その猶予期間を経て、まさに本日、グスタフ王が東方軍司令官らの抗議を真っ向から退け、完全移行を断行したという不穏な報は、すでに憲兵の耳にも届いていた。
ハインリヒ自身、あの重くて堅苦しい軍用兜が心底嫌いだったので、この迅速な近代化にはせいせいしていた。
だが、真の問題は兜そのものではない。東方の宿老たちが直々に官邸へ赴き、王へ抗議書を叩きつけたにも関わらず、それをグスタフ王が真っ向から拒絶したという事実――それこそが実質的な決裂の通告を意味しているはずだ。
(参謀長の呼び出しは、その件か……あるいは……)
やがて、短くなった熱を指先に感じると、彼は吸い殻を灰皿に押しつぶした。迷いを振り払うように机の上にある矢車菊青色の布地が巻かれ、赤いパイピングがされた憲兵科の略帽を取り、深くかぶり直す。
特注の細身の軍服の襟を正し、ハインリヒ・グロッセは、冷徹な法を司る憲兵大尉の顔になった。略帽の鍔を微かに傾け、重い当直室の扉を開けて、薄暗い廊下へと歩み出した。
※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。