我々は、正しくあろうとするほどに、自らの醜さを赦せなくなるのだ。
――星欧の古いことわざ
――首都ヴィルトシュヴァイン 国軍憲兵隊本部
国軍憲兵隊本部の長い廊下は、冷え冷えとした白い光によって、不自然なほど鮮明に浮かび上がっていた。
かつてのガス灯が落としていた煤けた影、あの人間味のある曖昧さはどこにもない。隅々まで均一に、残酷に照らされた空間は、かえって冷徹な、逃げ場のない拒絶の気配を漂わせている。
特注の細身の軍服に身を包んだハインリヒ・グロッセ憲兵大尉は、硬い軍靴の音をリズミカルに響かせながら……その光の廊下を、無駄のない足取りで歩いていた。
(――当直将校である自分を飛び越えた、か)
歩を進めながら、グロッセの鋭敏な頭脳は、すでに状況の異常性を容赦なく解読し始めていた。
深夜の軍部において、何らかの事件や不測の事態が発生した場合、その第一報は組織の末端たる地方憲兵隊から当直将校のデスクへ持ち込まれるのが絶対の鉄則だ。
当直が事態の軽重を判断し、しかる後に上層部に諮るか、あるいは直接報告に走る。それが規律というものであり、近代のシステムというものだ。
しかし今夜、情報の歯車は逆流した。
事態は当直室のグロッセの頭上を完全に素通りし、あろうことか将校クラブで束の間の休息をとっていたはずの参謀長へ、直接届けられていたのだった。
現場が、当直如きの裁量では触れることすら許されない、あるいは――「表沙汰にすることが国家の破滅を招きかねない」と判断したのだ。
情報の逆流。その事実そのものが、これから対峙する暗黒の巨大さを雄弁に語っている。
脳裏をよぎるのは、夕刻に同僚の若い少尉から聞いた噂話だ。国中の情報が澱のように沈殿する憲兵隊本部において、国王官邸の秘書官や副官たちの間で飛び交った動揺は、瞬く間に「噂」という名の情報になってグロッセの耳にも届いていた。
――東方軍の宿老たち、あのヴランゲル上級大将を筆頭とする古き猪たちが直々に乗り込み、グスタフ王への激しい抗議書を叩きつけたこと。そして王がそれを真っ向から撥ね退け、完全なる近代化の法を突きつけたという決裂の全貌であった。
(あの件が、ついに火を噴いたか……)
慢性胃潰瘍を抱えるハインリヒの胃壁が、緊張でチリチリと鋭い痛みを訴え始める。
だが、彼の唇の端は狂おしいほどの知的好奇心によって吊り上がっていた。
この事件は、自分が当初考えていたような、単なる頑迷な老人たちの政治的な反発などという生易しいレベルを、はるかに超越しているのだろう。
やがて、目的の扉が行く手に現れた。重厚な、職人の手による彫刻が施された樫の木のドア。その前で足を止め、グロッセは自身の呼吸を完璧に整えた。
コン、コン、と硬質なノックの音が二度、静まり返った廊下に響く。
「はいれ」
中から響いたのは、聞きなれた、だが今夜はいつになく押し殺された低い声だった。
「失礼します」
グロッセは無駄のない洗練された所作でドアノブを回し、部屋へと足を踏み入れた。重い扉が閉まると同時に、彼はすぐさま直立不動の姿勢を取り、右手を矢車菊青色の略帽の鍔へと跳ね上げる。
伝統的なオークの、誇示するような大げさな礼式ではない。それはオルクセン国軍が近代になって導入した合理的かつ無駄のない挙手の敬礼であった。
仕立て屋が彼の骨格に合わせて完璧に仕立て上げた軍服が、その張りつめた挙動に合わせて、一寸の狂いもなく美しく追随した。
「当直将校、グロッセ大尉、参りました」
主人の気性を反映して、参謀長室はそれなりに整えられていた。壁際の書棚には整然と並ぶ軍事書と法学の書籍。だが、今夜の部屋に満ちている空気は、平時のそれとは明らかに異質だった。
将校クラブから急遽馬車を飛ばして戻ってきたのであろう、デスクの上には投げ出された高級な外套、そして微かに漂う、酒と上質な煙草の残り香。
デスクの向こうに座る参謀長は、ハインリヒが憲兵学校時代に教官として彼を厳しく、しかし誰よりも深く見出してくれた恩師その人であった。
オークとしては異端であるグロッセの鋭すぎる知性を「病」と断ぜず、むしろ憲兵が持つべき最高の武器であると評価し、今日まで目をかけ、引き上げてくれた唯一無二の理解者だった。
かつて、参謀長から「私の妹と結婚する気はないか」と、極めて真摯な縁談を持ちかけられたことすらある。一般的なオークの基準からすれば、憲兵隊上層部との血縁を結ぶなど、出世街道の極みを約束されたも同然の栄誉であった。だが、グロッセはそれを物静かに、しかし断固として断った。
グロッセが求めるのは、閨閥の拡大でも、獣の狂騒に身を任せる即物的な繁殖でもなかったからだ。
彼の飢えた魂が求めるのは、ただ一つ――脳を根底から焼き尽くすような、気高き知性と理性を伴う情動、それによって得られる真の「愛」の形。
参謀長は、そんなグロッセの「狂気」に近い潔癖さを責めることもなく、ただ苦笑して、その後も変わらず彼を腹心として重用し続けていた。
だからこそ、その参謀長が今、デスクの上で両手を組み、信じがたいほどに暗い眼光をグロッセに向けている事実が、事態の深刻さを何よりも雄弁に物語っていた。
参謀長は組み合わされた指に視線を落としたまま、重く口を開いた。
「大尉、急に呼び出して済まない。実は重大な事案が発生した……東方軍の将軍たちが首都に来ているのは知っているな?」
グロッセは視線を微塵も動かさず、明晰な声で応じた。
「はっ、存じております」
「そのうちの中将がだ……亡くなった……いや、殺されたのだ」
一瞬、参謀長室の時間が完全に止まった。
東方の宿老、あの恐るべき「古き猛き猪」の象徴たる将帥の一頭が、この首都の夜の闇の中で殺害された。
それは単なる殺人事件ではない。
近代化のゆがみの中で、国家の『血と肉』である軍の最高幹部が、何者かによって物理的に切り落とされたのだった。
グロッセの眼窩の奥で、猛禽類のような知性の光が、ギラリと音を立てて燃え上がった。
「閣下……それは重大事、ですな」
「そうだ。だが、それだけではないのだ……」
そう言うと、参謀長は椅子を回して立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
「中将は私娼の部屋で死んでいた」
「……私娼の部屋、ですか」
(あれほど伝統の教えと一族の誇りを声高に叫んでいた宿老が、夜の帳の裏では私娼に溺れていたというわけか)
「そして、これが最も重大な問題だが……」
そこまで言って、参謀長は言葉を切った。
窓ガラスに映る彼の顔が、苦渋に歪んでいる。
「犯人がアンファングリア騎兵旅団のダークエルフの可能性がある」
その一言がグロッセの全身を震わせた。
「――全権を与える。ただし、日の出までに輪郭を掴め。全軍に知れ渡る前にな」
参謀長の言葉は、事実上の『死刑宣告』にも等しい極限のタイムリミットだった。夜明けまで――残りあと数時間。
この巨大な首都の闇に隠された真実の片鱗を、軍全体の耳目に触れて暴動や政治的な決裂が起きる前に、文字通り単独で引きずり出せと言うのだ。
「閣下、この件はすでに陛下やアンファングリア騎兵旅団のダークエルフたちに報告を?」
グロッセは冷徹な光を放つ瞳で恩師を見つめた。情報の伝播速度こそが、この戦いの勝敗を分ける。
「陛下へはゼーベック参謀総長を通じて連絡が入るはずだが、官邸には国王警護隊のダークエルフたちもいる。じきに彼女らの耳にも入るはずだ」
参謀長は苦渋をにじませ、デスクの上の灰皿へ視線を落とした。中央軍と東方軍の均衡、そして新参のダークエルフたち。
この三者の火薬庫に火が点くのは、時間の問題でしかなかった。
「状況は理解しました。日の出まで、ですね」
「馬車は待たせてある。すぐに事件現場に出向いてくれ……時間が惜しい」
疲弊しきった目でグロッセを見る。
「もし、下手をすれば明日の朝には、ヴィルトシュヴァイン中の恰好の噂話になるぞ。それが東方軍の耳に入れば……日の出を待たずに、宿老どもが『エルフの仕返しだ』と色めき立ち、憲兵隊の本部へ怒鳴り込んでくる。最悪の場合、東方の氏族を巻き込んだ暴動になりかねん」
参謀長はデスクの上の引き出しから、紙片を取り出すと現場の住所を走り書きしてグロッセに渡した。
「現場には、すでに首都警察が入って封鎖をしている。一報を入れてきた地方憲兵隊の、口の堅い曹長をそのまま現場の抑えに回してある。野次馬は遠ざけた……お前ひとりで行け。外套で憲兵の徽章を隠せ」
「御意」
グロッセは紙片の文字を素早く記憶に刻むと、マッチを擦ってそれを燃やし尽くし、残った灰を灰皿へと落とした。その手元を見つめる切れ長の目元には、すでに一切の迷いはない。
「閣下、最後の一つだけ。……被害者である中将の、お名前は?」
一瞬の、沈黙。
「レーヴェルン中将だ。ロザリンド会戦からずっと、ヴランゲルの側近だった方だよ」
(レーヴェルン……夕刻、官邸の秘書官たちの間で囁かれていた、あの例の将官か。ダークエルフの旅団長を睨みつけ、頬に大きな戦傷を負っていたという、怨念の塊のような宿老――)
数時間前、国王官邸の待合室でディネルース・アンダリエル少将に向かって軽口を叩いた少将らに『ロザリンドを知らぬ若造どもが』と牙をきしませていた、まさにあの中将だった。
「承知いたしました。では、これにて」
グロッセは完璧な挙手敬礼を再度捧げ、即座に反転して部屋を出た。
当直室に戻った彼は、夜の闇に溶け込むような漆黒の軍用外套を深く羽織った。襟を立て、漆黒の闇に鮮やかに浮かぶ矢車菊青色の襟章と袖章を、外套の陰へと完全に覆い隠す。
万が一の事態に備え、回転式拳銃を収めたホルスター付きの革ベルトを腰に回した。
それは洗練された鉄の針金が、夜の街に潜む怪物へと姿を変える瞬間のようでもあった。
憲兵隊本部に横付けされて待っていた馬車に飛び乗った。
「出せ。場所は東部第四区、シュタッフェン街の裏手だ」
御者を務める憲兵隊員に短く告げると、馬車は急激に加速し、濡れた石畳を鋭く滑り出した。
細雨が降っていた。
ガタゴトと激しく揺れる車内で、グロッセは座席に深く身体を沈め、痛む胃を宥めるように上着の上から腹を押さえた。
(東方軍の中将が、私娼窟で不名誉な死を遂げた。そして容疑者は、編成されたばかりのダークエルフ……。出来過ぎている)
偶然にしては、あまりにも政治的なタイミングがよすぎる。本日断行された命令に対する宿老たちの怒りと怨嗟。その熱が冷めやらぬうちに、反発の中核にいた将帥の一頭が殺されたのだ。
これがもし、ダークエルフによるロザリンド会戦での旧怨を晴らすための私刑(リンチ)だとしたら、東方に控える無数の「猪」の氏族たちは黙っていない。近代化の法など踏み潰し、中央への武力叛乱すら辞さないだろう。
逆に、もしこれが宿老たちの自作自演、あるいは旅団長を侮辱されたことに対する「
(どちらに転んでも、この国は血の海に沈む)
グロッセは窓のカーテンを僅かに引き、外の闇を凝視した。
馬車がアルブレヒト大通りを外れ、東部の旧市街へと滑り込むにつれ、車窓の光景は露骨に変貌していった。
さきほどまで街を均一に照らしていた近代の電灯は姿を消し、ここでは旧時代の煤けたガス灯が、申し訳程度に湿った闇を穿っているに過ぎない。
官邸や憲兵本部が誇る「近代的なオルクセン」のハリボテは剝ぎ取られ、そこには、王国が謳歌する近代化の光が届かない街の裂け目――何千年も変わらない、真の『
石畳は割れ、馬のフンと腐った臭いが鼻を突く。建物の壁は煤け、窓からは下卑た笑い声や、安酒に溺れる者たちの濁った怒号が漏れていた。
ここは、近代化の恩恵から見捨てられ、あるいはそれを拒絶した、古きオークたちの強欲と暴食、そして淫靡な本能がそのままドロドロと沈殿している場所だった。
中央のオークたちが光ならば、この路地裏の『猪』たちは、前王の時代以前からの暗黒の森の因習を、そのまま夜の皮膚として生きている街だ。
(これこそが、我が国の真の『肉体』の断面か……)
グロッセの胃が、夜の悪臭と緊張でチリチリと焼けるように痛む。彼は銀のケースからゲッティンゲン No.4を取り出そうとしたが、思い直して指を引っ込めた。
これから向かう現場に遺されているであろう、微かな「匂いの手がかり」を、紫煙で汚すわけにはいかなかった。
(日の出までに、か……)
……グロッセの喉の奥に、酸っぱい胃酸の苦みが込み上げる。
やがて、馬車は急激に速度を落とし、湿った泥の匂いが立ち込める狭い路地の奥で停止した。
「大尉、到着しました。その……この先は馬車が入れません」
御者が緊張した声を出す。
グロッセは無言で略帽を目深にかぶると、ドアを開け、雨で塗れた石畳に軍靴を突き下ろした。
シュタッフェン街の裏手――通称「豚の寝床」と呼ばれる私娼窟。
ひび割れたレンガ造りの古びたアパートメントが歪に立ち並び、軒先からは絶えず雨水がしたたり落ちている。
そこは鼻を突くような安酒の臭い、雨に濡れて饐えたゴミの臭気、オークたちの濃厚な獣の体臭――それらが渾然一体となった生の執着と頽廃が混ざり合った『獣の街』であった。
現場となったアパート周辺は、不自然なほど静まり返っていた。首都警察の警察官たちがこの雨の中で規制をしている。
憲兵の徽章こそ外套で隠していたが、このヴィルトシュヴァインの軍・警察関係者で、あの「針金のような特異な痩躯」を知らぬ者はいない。
闇の中から現れたその影を見るや否や、巡査たちはまるで見えない刃物を突き付けられたかのように身を硬くし、慌てて挙手敬礼を送った。
「憲兵隊のグロッセ大尉だ。状況は」
グロッセは答礼もそこそこに、低い、だが徹る声で尋ねた。
「は、はい!4階の奥の部屋です。現場の保存は完璧です。上層部からの厳命通り、まだ誰も遺体には触れておりません。部屋の外では警部と憲兵曹長がお待ちしております」
オーク族の巡査が、恐怖に牙を震わせながら答えた。
「……ありがとう」
短く言葉を返すと、外套の裾を翻し、その暗黒の森の中へと、ゆっくりと歩みを進めた。
グロッセは略帽の鍔をわずかに直し、すでにそこにあるすべてを解剖せんとする冷徹な眼差しで……地獄の口を開けたような建物の階段へと足を踏み入れた。
頽廃と悪臭がこびりついた木製の階段を、軋ませることなく一歩ずつ上っていった。
軽く上着の合わせを正し、迫り来る胃の痛みを冷徹な思考の裏へと押しやった。
4階の廊下の最奥、不自然に静まり返った空間の前に、直立不動の姿勢をとる憲兵曹長と、外套を雨で濡らした警部らしき私服警官の姿が見えた。
彼らの顔は一様に土気色で、これから覗き見る地獄の凄惨さを無言で物語っていた。
※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。