鏡の中に微笑むのは、あなた自身か、それともあなたの望む化け物か。
――星欧の古いことわざ
――首都ヴィルトシュヴァイン シュタッフェン街の裏手
4階の最奥、湿気でぶよぶよに膨らんだ安い木製の扉の前に、二つの大きな影が静止していた。
一頭は、ハインリヒのよく知る実直な憲兵曹長。もう一頭は、降り続く細雨に濡れた外套を重そうに垂らした、首都警察のベテラン警部であった。
グロッセ大尉の「鉄の針金」のような痩躯が闇から滑り出てくると、二つの巨躯は弾かれたように直立し、国軍式の挙手敬礼を送った。
警察警部の階級は軍の中尉相当に過ぎず、何より国軍憲兵隊は内務省に対して絶対的な優位にあった。まして、今回は軍人同士のいざこざである。階級でも組織の格でも、ハインリヒがこの場を支配する絶対の権限を持っている。
「大尉……お待ちしておりましたよ」
曹長の声は、オーク族特有の野太さを失い、まるで凍土を踏みしめるかのように硬かった。
「挨拶はいいよ。警部、状況を」
グロッセ大尉は答礼を最小限の所作で済ませると、すぐに猛禽の眼窩を警部へと向けた。
「はっ……。参謀長閣下からの厳命通り、我々もまだ部屋の外から確認しただけで、中は見ておりません。現場は完全に保存してあります」
警部はそこまで言うと一瞬だけ顔をしかめる。
「……それと、大尉。これは極めて悪い知らせなのですが」
警部がひび割れた牙の隙間から、重苦しい息を漏らした。
「この部屋の住人は……忽然と姿を消しました」
グロッセ大尉の鋭い眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「……逃がしたのかい。警察の包囲網はどうなっていた」
警部は冷静に首を振り、帽子の庇から滴る雨水を拭った。
「いえ……どうも、管理人が通報し、我々がここに到着するより一足早く、計画的に逃走したようです。それが、どうにも妙なんですよ……」
警部はそこで不自然に言葉を濁し、アパートの不潔な天井へと視線を泳がせた。宿老の不名誉な死、その現場を取り巻く『禁忌の匂い』に、ベテランの警部ですら生理的な恐怖を抱いているのが見て取れた。
その動揺の仕方は、単に容疑者を取り逃したという失態への恐怖ではなかった。
「なんなんだ、ハッキリ言ってくれ。日の出までに時間がないのだ」
グロッセ大尉の声に、剃刀のような鋭利な苛立ちが混じる。
警部は周囲の部下たちを気にするように首をすくめると、グロッセの耳元へ顔を寄せ、血の気の引いた声で囁いた。
「……では、包み隠さず。管理人や近隣住民の聞き込みを徹底させましたが、どうも、ここの住人は――
「
グロッセ大尉は思わず、その言葉を反芻した。
星欧の古い言い伝えが、再び脳裏で烈しい警報を鳴らす。
……隣国エルフィンドから亡命し、今日まさに軍用兜の件で王と宿老を決裂させる原因となったのは、ディネルース・アンダリエル少将率いる『闇のエルフ(ダークエルフ)』だ。
(白エルフによる虐殺という苦難の末にオルクセンの鋼鉄と契約した黒エルフ。その二つが、よりによって首都の最底辺で交差するなど……)
この殺人を仕組んだ犯人は、この国の「身内」の事情を完全に把握している。グロッセの胃が、警告するように刺すような痛みを放った。
しかし、ここはオルクセン王国の首都の最底辺、私娼窟「豚の寝床」に潜み、東方軍の中将をその寝室で血祭りにあげたのは、現在オルクセンがもっとも警戒している隣国そのものの眷属――『
(亡命の聴取でダークエルフの面々には顔を合わせたが……あの一線級の元軍人たちが、これほど不用意な足跡を残すだろうか?)
「証言では部屋が常にカーテンで閉ざされ、住人にはほとんど姿を見せず、夜中に、黒いヴェールを被った姿が一度か二度確認されただけです。白エルフがいるなどという通報も一度もありません。それと、どうも食料などは部屋の住人とは別人のオーク族が世話をしていたようです。この人物については現在調査中です」
「だが、警部。参謀長から聞いた目撃証言は、
「ええ、通報したのはアパートの管理人で、悲鳴を聞いて廊下に出たところ、目の前を『黒エルフが逃げるように走り去った』と。参謀長閣下へ届いた一報とも、見事に符合します。……ですが、この管理人の身柄だけは厳重に拘束しています。………大尉。あとは、見ての通りです」
警部は困惑しきった様子で、自身の大きな耳の裏を神経質に掻いた。
(……管理人は『黒エルフ』を見たと言い、警部は『住人は白エルフ』と疑っている。もしこれが事実なら、つまり、目撃者は「見るべきもの」を最初から指定されていた――つまり、完璧に仕組まれた舞台装置だ)
横でじっと控えていた憲兵曹長が、たまらずといった風に低い声で会話に割り込んできた。
「大尉。私は長く憲兵をしていますが、エルフが関わった事件など初めてです。ましてや、同じ国軍の身内であるはずの『
「……あぁ。不自然極まりない。これは単なる殺人ではない。国家の基底を焼き尽くすための、周到な陰謀だよ」
数時間前、国王官邸の待合室でレーヴェルン中将の傍らにいたヴランゲル上級大将が吐き捨てたというあの呪詛の言葉が、あまりにも不吉な符合となってハインリヒの脳裏に突き刺さった。
(
「……面白い」
グロッセ大尉はあまりの衝撃に銀のケースに入ったゲッティンゲン No.4を引き抜きかけたが、やはり、現場の空気を汚さないよう指先でケースの蓋をパチンと冷たく鳴らして、ポケットにねじ込んだ。
白エルフの私娼が住む部屋で、東方軍の中将が殺され、その部屋からダークエルフの軍人が走り去る。
(偶然、宿老が白エルフの女に溺れ、それを亡命してきた黒エルフが見つけて私的に処刑した――? 否だ。そんな安い三流劇場の演目を、私の知性が容認するはずもない)
――外からやってくるのではない。邪悪は常に、背後にへばりついている。
何者かが、意図的にこの二つの色を衝突させようとしている。本日断行された「軍用兜の着用禁止」という近代化の決定打。その夜に起きる、あまりにも完璧なタイミングでの、種族間の憎悪を煽る凄惨な舞台装置。
「よし。十分な材料もないうちから予断を持つことほど、知性を曇らせる罪はない。……警部、扉を開けろ」
グロッセ大尉は音もなく外套を脱いだ。
濡れた生地から滴るわずかな雨水すら、これから解剖すべき現場の足跡や血痕を汚すノイズになり得るからだ。それを曹長へと預けると、漆黒の闇に隠されていた特注の細身の軍服と、薄明かりに冷たく照らされた矢車菊青色の襟章がその姿を現した。
ここからは、この部屋が語る『死の前後』を読み解く時間だ
ノブが回り、建付けの悪い扉がギィと不快な悲鳴を上げて開いた。
一歩中へ踏み出す。
部屋の奥からグロッセ大尉の鼻腔を突いたのは、濃厚なオークの脂臭、頽廃的な香水の残り香――そして、この部屋の住人が纏っていたはずの、針葉樹の森を思わせる微かな冷たい香り――。
だが、それらすべてを無慈悲に塗り潰すのは、溢れ出たばかりの……鉄錆の匂い。凄惨な『血の死臭』に他ならなかった。
「……さて」
彼は中将の遺体には目もくれず、まず部屋の隅、床に落ちたわずかな埃の形、カーテンのひだの寄り方、そして部屋の窓から入り込む風の通り道を、獲物を狙う猛禽の眼光で部屋を見まわした。
私娼など縁遠い生涯を送ってきたが、これがその『部屋』というものか、という空虚な感慨がよぎったが……現場はあまりに整いすぎている。
死臭を嗅ぐ前の、その微かな人工的な『静けさ』に、ハインリヒの神経が警告を発していた。
その鉄の檻のような部屋の中央で、ロザリンドの地獄を生き延びた猛き猪は、今やただの肉塊と化していた。
かつての栄光を物語る軍用勲章がはだけた胸元は無防備に晒され、その口は、最期の言葉すら許されなかったかのように大きく歪んで開かれていた。……無数の敵兵を屠ったその手は、今や見知らぬ娼婦の夜着を掴むことしか叶わなかったのか。
グロッセ大尉は中将の歪んだ口元を冷徹に凝視し、かつての英雄を失ったオークとしての敬意を一瞬だけ抱いた。
だが、その誇り高い戦傷を晒した胸元へ視線を移した瞬間、彼の眼窩の奥に宿る知性の火は、驚愕で一瞬にして白く凍り付いた。
英雄の軍服の縫い目、勲章の配置……すべてが完璧なオークの誇りを象徴するはずのそこに、あまりに場違いな銀色の光が、異物のように鎮座していたからだ。
切り取られた舌。そして、本来はダークエルフの軍服の襟元にあるはずの、銀狼の徽章。
「舌を切り取るは『口を割った者』あるいは『裏切り者』への通告か……しかし――これは。……アンファングリア騎兵旅団の、銀狼徽章」
それはあまりに露骨で、見事なまでに悪意に満ちた『署名』だった。いや、むしろ犯人がこの死体という舞台で、私という観客に対して差し出した『招待状』だ。
胸の上に置かれた銀狼の徽章。それは、彼が理性の檻の中に閉じ込め、生涯渇望し続けてきた「気高き知性と情動」の象徴だった。それが今、オークの濁った血液で汚濁にまみれ、死肉の上に鎮座している。
「……あぁ。愛とは、知性とは、こうまで無残に冒涜されうるものなのか」
彼は自らの胸の奥で、嫌悪とは裏腹に、犯人の「周到な悪意」に対する底知れぬ敬意にも似た熱が宿っていることに気づき、戦慄した。この美しき冒涜を、自分以外の何者かが、これほどまでに鮮烈に、かつ嘲笑的に演出したという事実に。
これは、自分のような『混沌を愛し、秩序を弄ぶ者』に対して、犯人が差し出した――あまりにも甘美で、不吉な『招待状』なのだ。
もしこれがダークエルフの仕業なら、彼女たちは自分たちの誇りに二度と癒すことができない傷をつけることになる。だが、もしこれが誰かの偽装なら――。
彼は血に塗れた銀狼の徽章に、犯人の傲慢な知性の輪郭を見た。自分と同じく、混沌を愛し、秩序を弄ぶ、この国の裏側に潜む「親しげに微笑む者」の輪郭を。
――名を呼べば、親しげに微笑みを返す者よ。
(……美しい。だが、これほどまでに醜悪な冒涜が他にあるか)
彼は自らの渇望と嫌悪が、血の海の中で分かち難く絡み合っていることに気づき、奥歯を鳴らした。これはただの死体ではない。自分のような『混沌を愛し、知性を弄ぶ者』に対して、犯人が差し出した――あまりにも不吉な『招待状』なのだ。
「興味深い……実に興味深い……」
誰がこの死体という舞台で、微笑んでいるのか。グロッセ大尉はその黒幕の顔を想像し、冷たく唇を噛み締めた。
その時、何人かがブーツで階段を上がってくる音が廊下から響き、警察と曹長が警告する声が響いた。
※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。