毒の盃は、最も美しき彫金が施されたものに盛られる。
――星欧の古いことわざ
――首都ヴィルトシュヴァイン シュタッフェン街の裏手「豚の寝床」4階
「大尉、これは……一体……」
横に立つ警察警部が、物言わぬ遺体の胸の上に鎮座する銀色の光と、根元から無残に切り取られた肉塊を目にして、絶句したまま喉を鳴らした。
ベテランの彼でさえ、あまりの凄惨な、そして不吉な光景に顔面を蒼白に染めている。
だが、ハインリヒ・グロッセ大尉の眼光は、極冷の刃のごとく冴え渡っていた。
彼は視線を落としたまま、遺体に一切触れることなく徽章の角度、血痕の跳ね方、そして空気中に漂う微かな違和感を網膜に焼き付けていた。
まさにその時――。
「止まれ! ここは軍の捜査現場だぞ!」
「立ち入り禁止だ! 引け、引くんだ!」
古い木製のドアの向こう、廊下から怒号と激しい押し問答の足音が響いた。
首都警察の私服刑事たちの制止する声、そして憲兵曹長の野太い叫びが、木製の階段と廊下を揺らしている。
(なんだ、この騒がしさは……)
グロッセがわずかに眉をひそめ、思考を途切れさせた次の瞬間――。
バンッ!と、建付けの悪い扉が乱暴に叩き開けられた。
湿った夜気と共に部屋へ雪崩れ込んできたのは、五つの影。
それは、巨大なオークたちの世界にあって、不自然なほどにしなやかで、引き締まった小柄な肉体――漆黒の国軍騎兵科軍服を纏った、ダークエルフの女たちの一群であった。
「大尉! こいつら、アンファングリア旅団のやつらです!」
ドアの外で私服刑事たちと押し合いになりながら、憲兵曹長が悲痛な声を張り上げた。
五つの影は、慌てふためく警察官たちなど意にも介さず、室内へ滑り込むように足を踏み入れる。
その無駄のない洗練された挙動と、研ぎ澄まされた刃物を思わせる気配は、ただの兵士のそれではない。
グロッセの凍てついた硝子のごとき鋭い眼光が、先頭に立つ人物へと向けられた。
彼女たち専用に作られた漆黒の肋骨服。
その胸元を隙なく締め上げ、左腕には――鮮烈な矢車菊青色の生地に、低地オルクセン語で『内務調査』と刺繍された腕章が巻き付けられていた。
そして、全員が顔の上半を覆う黒い眼鏡を着用していた。
その奥から覗く燃えるような赤き瞳が、部屋の中の凄惨な死体、そしてグロッセの痩躯を冷徹に見定めている。
(――噂には聞いていたが、これがあの連中か)
グロッセの明晰な頭脳が、即座に相手の正体を弾き出す。
グスタフ王によって国軍に編入された亡命ダークエルフたち――その『アンファングリア騎兵旅団』内部において、同族の規律維持と謀略の芽を摘むために組織された独自の憲兵組織、通称『内務調査班』。
オーク主体の国軍憲兵隊の手が及びにくい彼女たちの聖域を守り、同時に王への絶対の忠誠を担保するための、いわば「軍の中の影」であった。
先頭に立つダークエルフの女性将校は、目の前の凄惨な死体と血の海を一度だけ一瞥すると、一歩前へ踏み出した。
「グロッセ大尉だな」
その声は、冷たく透き通っていたが、相手を圧するような高圧的な響きを隠そうともしていなかった。
「アンファングリア騎兵旅団・内務調査班班長、ルネーア・オルトリンデ少佐だ」
彼女の冷ややかな視線がグロッセを射抜き、そして何より彼が凝視していた――いま現場の物言わぬ将軍の胸元に鎮座する『銀狼徽章』へと注がれる。
傍らに立つ警察警部は、突如として現れたダークエルフの女将校たちの気迫と、その左腕の腕章に気圧されながら、いぶかしげに視線を往復させていた。
(内務調査班……。この早さで踏み込んできただと? 参謀長が官邸へ連絡を入れてから、まだ小一時間も経っていないはずだが……そうか、首都にあるダークエルフの衛戍地からか……)
激しい胃の痛みがグロッセの腹の底を刺す。
だが、彼の表面は氷のように平穏であった。
「――これは重畳。アンファングリアの『影』が、このような私娼窟の穢れの中にまで足を運ばれるとは」
グロッセは動じることなく略帽の鍔へと指をやり、極めて洗練された、無駄のない挙手の敬礼を捧げた。
「国軍憲兵隊本部参謀長専属特別任務将校、ハインリヒ・グロッセ大尉であります。オルトリンデ少佐……ようこそ、この見事な『舞台』へ」
黒い眼鏡の奥で、ルネーア・オルトリンデ少佐の細い眉が、ピクリと跳ね上がった。
「……見覚えのある顔だな、大尉」
燃えるような赤い瞳が細められた。彼女はグロッセ大尉の顔をじっと注視する。
その合間にも、彼女の引き連れてきた四人の部下たちは、一切の無駄な発声なしに室内での配置を完了させていた。
二人は不快な音を立てる木製のドアの両脇を固め、背後の廊下にいる警察官たちや憲兵曹長を完全に牽制する位置を占める。
一人はいまだに動揺する警察警部に対し、その僅かな挙動も見逃さないと言わんばかりの刺すように冷たい視線でマークしていた。
そして残る一人は、少佐の右斜め後ろ半歩という、即座に護衛と補佐へ回れる絶妙な位置に控えている――おそらく副官だろう。
部屋の空気は一瞬にして支配され、無駄な動きは一つとしてなかった。
(――見事な連携だな)
グロッセは内心で、その隙のない洗練に惜しみない賛辞を贈った。
オークの軍隊にありがちな、体躯の圧迫感や怒号で相手を威圧する大雑把な制圧術ではない。
相手の退路と視線を寸分違わず限定し、空間の主導権を静かに削ぎ落としていく――それこそが、洗練された「軍隊の中の影」の手段であった。
グロッセは動じず、特注の軍服の袖口をわずかに整えながら、薄い唇を和らげた。
「痩せっぽちなオークが珍しいですかな、少佐?」
「いえ……」
ルネーアは眼鏡のフレームを細い指先でわずかに押し上げ、記憶の糸を手繰り寄せるように言葉を紡いだ。
「どこかで会っている……そう、シルヴァン川を越えた後の調査で……私の調査を受け持ったのが、細身のオーク族の憲兵大尉だった……」
「……ええ。あの極寒の最前線で、我々憲兵隊が亡命してきた大勢のエルフたちの身元を調査しました。あなたもその一人でしたね」
グロッセの記憶にも、半年前の過酷な光景が鮮明に蘇っていた。
星歴八七六年一月。凍てつくシルヴァン川を渡り、地獄のエルフィンドから命からがら逃げ延びてきた一万二千のダークエルフたち。
あの日、絶望と飢え、そして白エルフからの凄惨な虐殺の傷跡を背負って逃げ込んできたダークエルフの群れ。
その調査幕舎の最前線で、グロッセは慢性胃潰瘍の激痛に耐えながら、幾千もの書類と向き合っていた。
他者に対して冷酷なまでに合理的でありながら、痛々しい被害者たちの調書を取るたびに、彼の胃は焼けつくような苦痛を訴えた。
その中で、ただ一人――目の前で引き締まった眉ひとつ動かさず、凄絶な軍歴と冷徹なまでの知性を以て自身の身元を証言した女がいた。
多くの亡命者が感情を摩耗させ、あるいは憎悪に瞳を濁らせていた中で、彼女だけは冷たい炎のような理性と研ぎ澄まされた知性を維持し、淡々と、しかし完璧な論理で自身の身元を説明してみせたのだ。
――君の名は?
――汚らわしいオークめ……
――……強がりはもうやめ給え。君は陛下の慈悲で、これから我が国の臣民となるのだ。私はその調査を陛下から任されている。名を言い給え、針葉樹の冷たい匂いがする人よ……我々はもう敵ではない。百二十年前とは違うんだ
――私の名をその痩せた身に刻め、この栄養失調のオークめ……
――ルネーア・オルトリンデだ
かつて、凍てつく調査用に建てられた幕舎で交わした殺伐としたやり取り。
オークの同僚たちが「気味の悪い女だ」「エルフの亡霊か」と吐き捨てる中で、グロッセの飢えた知性だけが、彼女の内に秘められた「気高き理性と感情」の存在を鋭く察知していたのだった。
当時の彼女の眼光は、過酷な虐殺と逃亡劇を生き延びた者特有の、研ぎ澄まされた刃の輝きを放っていた。
そして今、国軍の漆黒の軍服を纏った彼女は、より強固な規律と権限という鞘を得て、さらに恐ろしい切れ味を増している。
「あの時の痩せた憲兵が、まさか参謀長直属の特務将校になっていようとは……」
ルネーアの唇から、かすかな溜息のような息が漏れた。
しかし、彼女の瞳から警戒の光が消えることはなかった。
「まあ、いい……今は事件の調査が先です」
彼女は思い出話に浸るような情緒を即座に削ぎ落とすと、視線を部屋の中央、血の海に倒れるレーヴェルン中将の遺体へと向けた。
だが、グロッセはそのまま引き下がる男ではなかった。
「待ってください、少佐」
グロッセの声が、廊下まで聞こえるほどに冴え返り、部屋の空気をぴんと張り詰めさせた。
彼は右手の指先で、自身の漆黒の軍服の襟元――そこに刺繍された矢車菊青色の国軍憲兵隊の章を、見せつけるようにゆっくりと直した。
「あなたたちは何の権利があってこの場に来られた。軍令および法規において、首都における軍人関与の事件事故は、国軍憲兵隊が優先して調査する規定になっております」
グロッセの眼光が、剃刀のように冷徹さを増した。
彼は一歩前へ踏み出し、痩せた長身から放たれる冷徹な威圧感を以て、ルネーアへと詰め寄った。
「それに、内務調査班はアンファングリア騎兵旅団内にその権限が限定されているはずですぞ。国軍中央の管轄であるこの首都の、しかも私娼窟という一般捜査区域に、他部隊の『内務調査』が何ゆえ土足で踏み込んできたのか。明確な理由をお聞かせ願いたい」
正論であった。
グスタフ王が断行した近代化において、軍の組織規定と管轄権の厳守は絶対の鉄則である。
たとえ国王直属の騎兵旅団であろうと、勝手に首都の現場を抑え、国軍憲兵隊の捜査に介入することは法規上の越権行為に他ならなかった。
傍らで息を潜めていた警察警部すらも、グロッセの冷徹な法理の一撃に思わず息をのんだ。
しかし、ルネーア・オルトリンデ少佐の黒い眼鏡の奥の眼光は、微塵も揺らがなかった。
「理由、ですか?」
ルネーアは静かに、だが恐ろしいほどの冷徹さを孕んだ声で問い返した。
「では、私からもお尋ねしましょう。その死体の胸の上に置かれているものは何ですか?」
ルネーアは細い指先で、死体の胸元、血の海に浮かぶ銀色の光を指し示した。
「被害者の胸の上に置かれた、あの銀色の輝き……。あれが何であるか、国軍憲兵隊の優秀な将校ならお分かりでしょう。我がアンファングリア騎兵旅団の全将校・下士官・兵に与えられた、固有の『銀狼徽章』です」
彼女はさらに言葉を続けた。
「我が部隊の象徴たる徽章、または装備が犯罪行為に使用、あるいは現場に遺留されていた場合、内務調査班は『部隊の安全保障と名誉防衛』のため、即座に現場の確認および同等の捜査権を暫定的に行使できる……。違いましたかしら?」
グロッセの胃が、キリキリと痛んだ。
(――そう来たか)
彼女は、犯人が意図的に遺したあの「署名」そのものを、自らの介入権限の正当化として利用したのだ。この迅速さ、そして軍規の穴を完璧に突いてくる明晰さ。
「しかし……だからこそ、管轄は憲兵隊にある」
グロッセは引き下がらない。
「自部隊の徽章が事件現場に存在するというだけで、内務調査班に捜査の全権が委ねられる道理はない。それは事件の『証拠』であって、あなた方の『管轄権の根拠』ではないはずだ」
「いいえ。証拠だからこそ、です」
ルネーアは踏み込み、グロッセとの距離をわずか一歩にまで詰めた。
彼女から漂うのは、雨の濡れた臭いでも、私娼窟の頽廃的な悪臭でもない。
針葉樹の深い森を思わせる、澄み切った、しかし冷酷な冬の風の匂いだった。
――あの聴取の時と同じ匂いがした。
「もし、あの徽章が本物であり、我が旅団の兵士、あるいは将校がこの凄惨な殺害に関与しているとすれば――それは単なる刑事事件ではありません。我が旅団に対する政治的なテロル、あるいは我が旅団内部における重大な背任・叛乱の疑いが生じます」
彼女は言葉を一つひとつ噛み締めるように続けた。
「アンファングリア騎兵旅団の軍紀と、グスタフ陛下に対する絶対の忠誠を担保すること――それこそが、『我ら内務調査班に与えられた唯一絶対の命題』。旅団の存亡に関わる疑惑が生じた以上、本国のいかなる法規を以てしても、私たちの調査を拒絶することは不可能です」
「……見事な論理のすり替えだな、少佐」
グロッセは自嘲気味に口元を歪めた。
だが、その胃の底は痛みの激痛と共に、奇怪な歓喜に打ち震えていた。
「それに……」
ルネーアは声をさらに低くし、グロッセだけに聞こえるような密やかなトーンで囁いた。
「日の出までに事態の輪郭を掴めと……参謀長から『全権』を任されたのでしょう? 大尉。ならば、私と不毛な縄張り争いをしている時間など、あなたには一秒たりとも残されていないはずですが?」
(――参謀長の極秘命令とタイムリミットまで把握しているのか……!)
激しい胃の痛みが跳ね上がると同時に、グロッセの薄い唇の端が、耐えかねたように吊り上がった。
(国王官邸とアンファングリア騎兵旅団……いや、陛下とディネルース少将の太いパイプか。ならば納得がいく)
情報戦においても一歩も譲らず、組織の法規の隙間を完璧に突いてくる。
咆哮と体躯の圧力で力押ししようとする同族のオークたちとは異なり、彼女は冷徹な「規律と忠誠」という大義名分を盾にして、完璧にこちらの主張を言い負かしにきているのだ。
この女の頭脳は、やはり只者ではない。グロッセの胸の奥で、胃の激痛を忘れさせるほどのゾクゾクとした歓喜が込み上げていた。
「……フッ。なるほど」
グロッセは手袋を嵌めた手で、そっと自らの額を押さえた。
「相変わらず、可愛げのない知性をお持ちだ、オルトリンデ少佐」
「褒め言葉として受け取っておきます、グロッセ大尉」
二人の視線が、部屋の中央で火花を散らすように激しく交錯した。
近代の法と秩序を守ろうとする二つの知性。
オークとダークエルフという、かつては仇敵同士であったはずの種族。
しかし今、彼らはこの惨劇の「舞台」の上で、お互いを自分と同等以上の知性を備えた『唯一の対話者』として強く認識し合っていた。
「だが……」
グロッセは眼鏡の奥の赤き瞳を真っ直ぐに見返した。
「この部屋の管理人は、逃げ去った人物を『
「……
ルネーアの表情が、初めて微かに凍りついた。
黒い眼鏡の奥で、彼女の細い眉が厳しく寄せられる。
「
「そうだ。現場の状況は、あまりにも完璧すぎる『舞台装置』なのだよ」
グロッセは自らの外套の陰から、冷徹な捜査官の顔を覗かせた。
「誰かが、あなた方ダークエルフと、東方軍の宿老たちを衝突させようとしている。本日断行された『軍用兜禁止』の決定を受け、東方の猛き猪たちの怨嗟が最高潮に達したこの夜に……完璧なタイミングで、この殺人は演出された。もしあなた方が焦って『自部隊の潔白』だけを証明しようと暴走すれば、まさに犯人の思惑通りに国家は引き裂かれる」
ルネーアは静かに息を飲んだ。
彼女の鋭敏な知性が、グロッセの提示した「暗黒の構図」を一瞬にして理解したのが見て取れた。
「……つまり、あなたはこの現場が、我が旅団を陥れるための罠であるとおっしゃりたいのですか?」
「罠か、あるいは本当の私刑か……それを日の出までに解き明かすのが、私の任務だ」
グロッセは懐から銀の懐中時計を取り出し、カチリと冷たい金属音を鳴らして蓋を開ける。
――現在、午前二時十分。夜明けまでは三時間弱。
「参謀長から全権を与えられたタイムリミットは、日の出まで。全軍にこの報が駆け巡り、暴動が起きる前にな。……少佐。あなた方の力を借りるのに不都合はない。だが、指揮権は国軍憲兵隊――このハインリヒ・グロッセにある。それに異論はおありか?」
ルネーアは一瞬だけ無言でグロッセの痩躯を見つめた。
病的なまでに肉のそげた頬、慢性胃潰瘍を抱えながらも鋭敏すぎる知性を光らせるその眼窩。
かつてシルヴァン川のほとりで、傷ついた自分たちの身元を一切の偏見なく、ただ冷徹な事実としてのみ解剖してみせたあの男。
この男なら――この異端のオークなら、この仕組まれた暗黒の迷宮を解き明かすことができるかもしれない。
「……いいでしょう」
ルネーア・オルトリンデ少佐は、ゆっくりと、しかし確かな意志を込めて頷いた。
「合同捜査とします、グロッセ大尉。ただし、我が内務調査班は独自の報告ルートを保持します。そして……もし犯人が我が旅団の裏切り者であった場合、その処断は私に任せていただきます」
「交渉成立だ、少佐」
グロッセは銀の懐中時計をポケットへねじ込み、手袋を嵌めた手を冷たく差し出した。
「では、現場を調査するとしよう。犯人が残した……あからさますぎる『招待状』の真意をな」
ルネーアはその細い、だが強靭な指先で、グロッセの手を握り返した。
二人の知性と理性が、血の海と頽廃の充満する私娼窟の部屋で、火花を散らすように激しく噛み合った一瞬であった。
夜明けまで、残り数時間。
オルクセンの未来を賭けた、密室の闘いがここに幕を開けた。
グロッセは静かに振り返り、足元の凄惨な肉塊――ロザリンドの地獄を生き延び、今や不名誉な死体となったレーヴェルン中将へと視線を向けた。
(第5話に続く)
※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。