オルクセンズ・グローリア   作:榎本氏

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 あまりに親切な道しるべは、決まって底なし沼へと続いている。

                  ――星欧の古いことわざ



(5)――ズボンの赤いパイピング

 

――首都ヴィルトシュヴァイン シュタッフェン街の裏手 「豚の寝床」 4階

 

 部屋の中に漂うのは、凄惨な死の臭気だけではなかった。

 

 ひび割れた壁紙から滲み出る湿ったカビの匂い、古びた寝具に染み付いたオークたちの体臭、退廃的な安い香水の香り、そして、それらのすべてを強圧的に塗りつぶす、溢れ出たばかりの鉄錆の匂い――血の死臭だ。

 

 ハインリヒ・グロッセ憲兵大尉と、アンファングリア騎兵旅団内務調査班長のルネーア・オルトリンデ少佐は、足元を汚す血の海を避けながら、ゆっくりと部屋の中央へ歩みを進めた。

 

 オルクセン国軍の英雄であり、東方軍の宿老であったレーヴェルン中将は、安っぽい木製のベッドの脇で、激しく苦痛に身をよじらせた姿のまま絶命していた。

 

 かつてロザリンドの地獄で敵の砲火をくぐり抜けた巨躯は、今や冷たくなりつつある巨大な肉の塊と化している。

 

 はだけた軍服の胸元からは、無数の古い戦傷が露わになっていたが、その首元に刻まれた新たな「傷」こそが、この男の命を理不尽に刈り取ったものであった。

 

 中将の顔面は苦悶に歪み、見開かれた大きな眼球は光を失い、虚無の天井を射抜いていた。

 

「致命傷は……首だ。横一文字に、躊躇なく一閃のもとに切り裂かれている。素人には……無理だな」

 

 グロッセは低くかがみ、手袋を嵌めた指先を傷口の数ミリ手前まで近づけた。

 

「頸動脈と気管が完全に切断されている。即死、あるいは数秒のうちに意識を失ったな……見事な手際だ。創口が極めて滑らかだ。相当な刃渡りと厚みのある刃物……」

 

 グロッセの鋭い眼光が、傷口の肉の割れ目と、血の噴き出し方をつぶさに観察した。

 

 横に寄り添っていたルネーア・オルトリンデ少佐が、黒い眼鏡の奥の赤い瞳を凝らしながら、静かに推測を口にした。

 

「包丁……あるいは、大型のナイフか――いや、身幅の広い山刀か」

 

「そうだ」と、グロッセは短く頷いた。

 

「刀身の幅は少なくとも四センチ、長さは二十センチ以上ある獲物だ。肉厚で、相応の重量と切れ味を持った刃物でなければ、これほど分厚いオークの首筋の肉と軟骨を一撃で断ち切ることはできない」

 

 グロッセは立ち上がり、視線を部屋の床へと巡らせた。

 

 床に敷かれた安物の絨毯は吐き出された大量の血液を吸って黒ずんでいたが、そこにあるべき凶器が存在しなかった。

 

「周辺に該当する刃物は見当たらんな……警部、現場の捜査で凶器の類は発見されたか?」

 

「いえ、大尉」

 

 入口付近で控えていた警察警部が、緊張で引きつった顔で首を振った。

 

「室内、および階段やゴミ箱からも、それらしき刃物は出ておりません」

 

「当然でしょう」

 

 ルネーアが冷たい声を落とした。

 

 彼女は黒い眼鏡の縁を細い指先で僅かに押し上げ、冷酷な眼光で部屋の隅を見つめている。

 

「返り血を浴びた刃物を現場に遺すような愚者はいない。手慣れた者の仕業だ」

 

「……フム」

 

 グロッセの鋭い視線が、ふとルネーアの細い腰元へ移動した。

 

 漆黒の騎兵科軍服の帯革。

 

 そこに吊るされているのは、彼女らが白兵戦用の装備として携行している湾曲した柄を持つ、ダークエルフ独特の大型近接刃物――特殊な山刀であった。

 

「……そう言えば」

 

 グロッセは顎で彼女の腰元を指した。

 

「オルトリンデ少佐。ダークエルフは全員、私物として山刀を携行しているな?」

 

 一瞬の沈黙――直後、ルネーアの全身から名誉を傷つけられて殺気立つような冷気が弾けた。

 

「……戯言を、大尉」

 

 ルネーアの薄い唇から、氷の結晶が砕け散るような鋭利な声が室内に響いた。

 

 黒い眼鏡の奥の赤い瞳が、燃え上がる怒りの炎を宿してグロッセを射抜く。

 

「いい加減にしろ。我らはグスタフ陛下に絶対の忠誠を誓い、国軍の正式な一員としてここにいる。この期に及んで、我が同胞がこのような頽廃した穴ぐらで将軍を後ろから屠るために山刀を抜いたとでも言いたいのか!」

 

 グロッセは激昂するルネーアの威圧に欠片も動じることなく、淡々と両手を少しだけ掲げて見せた。

 

 その顔には、嘲笑も怒りもなく、ただ冷徹な『捜査官の理性』だけが宿っていた。

 

「落ち着き給え、少佐」

 

 グロッセは静かに視線を合わせ、言葉を続けた。

 

「私は憲兵として、目の前にある客観的事実と可能性を並べているに過ぎない。第一、階下の管理人は、逃げ去る『黒エルフ』を目撃しているのだ。凶器が現場にない以上、常用している刃物を帯びた者が容疑者の頭数に入るのは、論理的な帰結だろう?」

 

「……くっ」

 

 ルネーアは歯噛みし、抑えきれない怒りを込めて不快そうに視線を逸らした。

 

 彼女の知性は、グロッセの言い分が完璧な論理に基づいていることを理解していた。

 

 だが、亡命以来、オークたちの偏見と戦い続けてきた同族の矜持が、その言葉を素直に受け入れることを拒んでいた。

 

「論理だと……? 貴公の論理とやらは、我が同胞の血と名誉をあまりにも軽視している。私たちの名誉を不当に汚す言動には相応の報いがあると思え」

 

「警告として受け取っておこう。だが、感情を差し挟むな、少佐。君たちの潔白を証明するためにも、現場の事実を一つずつ解剖していく必要があるのだ」

 

 グロッセはルネーアを見下ろし、静かに言葉を重ねた。

 

「現に、事前の一報ではこのアパートの管理人や階下の住人から『黒エルフ(シュヴァルツ・エルフ)を見た』という目撃情報が上がっている。もし犯人がダークエルフであり、使い慣れた山刀で首筋を断ち切ったとすれば……創口の深さと刃幅は、見事に合致してしまう。候補から排除しきることは、今の時点では不可能なのだよ」

 

 ルネーアは屈辱に唇を強く噛み締めた。

 

「……無礼な男だ。だが……論理としては理解する。捜査が進めば、その無礼な疑心が自らの知性を曇らせていたことを証明してみせよう」

 

「期待しているよ」

 

 グロッセは短く答えると、再び遺体へと膝を折った。

 

「……しかし、不自然な点は遺体の傷だけではない」

 

 グロッセは視線を落とし、中将の胸の上に無残に転がされている肉塊――切り取られた舌を指で示した。

 

「……少佐、検視の専門家を待つまでもないが……この切断面の血を見ろ。首の創傷に比べて、舌の切断面からの出血量は明らかに少ない。周りの皮膚への血の飛び散り方も不自然だ」

 

「……では」

 

「この舌は、中将が首を断たれて絶命した『後』に切り取られている。死後にわざわざ口を開き、刃物で切り取ったのだ」

 

 グロッセは手袋を嵌めた指で自らの顎を撫でた。

 

「実に興味深い……遺体にこれほどの労力をかけて意図的な損傷を加えたことには、明確な『メッセージ』が存在する。我々のオークの裏社会、あるいは中央の政治的な世界ならば、舌を切り取る行為は一つしか意味しない――『裏切り者』あるいは『秘密を口外した密告者』への見せしめだ」

 

 グロッセは眉をひそめ、ルネーアを見た。

 

「どうだね、少佐。エルフの文化、あるいはアンファングリアの慣習において、死者の舌を切り取るような儀式や私刑の文化はあるのか?」

 

「……バカバカしい」

 

 ルネーアは即座に、吐き捨てるように言い放った。

 

「我がダークエルフの文化にも、白エルフ(アールブ)の教条的な儀式の中にも、裏切り者は処刑するが、死体を損壊して晒すなどという悪趣味な風習は存在しない。それに、死者はただ静かに森へ返すのが私たちの掟だ。死体を不必要に弄ぶのは、復讐というよりも……ただの狂気か、あるいは――」

 

「あるいは、見る者に特定の印象を植え付けるための『演出』か」

 

 グロッセは彼女の言葉を継いだ。

 

「犯人は、我々に『これは裏切りに対する私刑だ』と思わせたがっているわけだ……良し、覚えておこう」

 

 その時、グロッセの指示で隣室(浴室と手洗い場)を検分しに行っていた警察警部と、同行していた内務調査班の女性下士官が戻ってきた。

 

「大尉、隣の洗面場と浴室の確認を済ませておきました」

 

 警部が帽子を脱ぎ、汗ばむ額を拭いながら報告した。

 

「どうやら……シャワーを使った形跡は一切ありませんね。排水口も乾燥していますし、石鹸も固く乾いたままです」

 

「なに……?」

 

 グロッセの瞳に、鋭い光が宿った。

 

「これから『コト』に及ぼうという場所で、シャワーを使っていないだと?」

 

 その言葉に、ルネーアが不審そうに首を傾げた。

 

「え……どういうことだ、大尉? シャワーを使っていないことが、なぜそれほど重要なのだ? 身体の清潔さなど、殺人と何の関係がある?」

 

 ルネーアは本気でピンと来ていない様子で、生真面目に眉を寄せている。

 

 この手の『夜の男女のやり取り』に関して、彼女が恐ろしく疎いことが一目瞭然だった。軍事や諜報、法規には精通していても、こうした私娼窟における俗世の性的な慣習には、全く免疫がないらしい。

 

 グロッセは薄い唇の端を僅かに引き上げ、呆れたような、どこか揶揄うような笑みを浮かべた。

 

「つまりだ……少佐。ここは『豚の寝床』だぞ? ……お堅い少佐殿には少々刺激が強い話かもしれんがね。ここは街の最底辺の私娼窟だ。客である将軍が女の部屋に入り、事に及ぶ前には、衛生上の観点からも、あるいは雰囲気を整える意味でも、まず体を洗うのがこの手の店の絶対の『暗黙の了解』なのだよ。特に相手が身分の高い客であればなおさらだ」

 

 グロッセは軽く肩をすくめた。

 

「な……っ」

 

 ルネーアは内容を理解した瞬間、一気に頬を朱に染め、不快そうに顔を背けた。

 

「下品な……! 現場でそのような戯れ言を!」

 

「疎いな、少佐。まあいい、純真な軍人の感性を傷つけたなら謝罪しよう……だが、論理的な意味は極めて重大だ」

 

 グロッセの顔から笑みが消え、冷徹な捜査官の表情へと戻った。

 

「部屋に入って衣服を脱ぐ余裕すらなく、あるいは入室してシャワーを浴びる間もなく殺されたということは……どういうことか解るかね? 犯人は中将が部屋に入ってきてすぐか、あるいは挨拶を交わす暇もなく即座に首を切り裂いたということだ。つまり、初めから殺す計画だったか……あるいは、出会い頭の突発的な犯行だったということになる」

 

 ルネーアは顔の赤みを力ずくで押し殺し、冷徹な思考を取り戻すと、小さく息を飲んだ。

 

「……つまり、中将は娼婦を買うためにここに来たか、ハメられたか……あるいは、この部屋の住人とあらかじめ『面識』があり、無警戒に部屋に入った瞬間を狙われた、ということか?」

 

「鋭いね、少佐」

 

 グロッセは短く褒めたたえた。

 

「ロザリンドの猛将と呼ばれた男が、武器も抜かずに首を丸出しにして斬られたのだ。見知らぬ女に背後から襲われたとしても、多少の抵抗痕は残るはず。だが部屋には格闘の痕跡がない。中将は相手を完全に『無害な存在』、あるいは『心を許した知り合い』だと油断していた可能性が高い」

 

 続いて、グロッセは懐から取り出したピンセットで、中将の血塗られた胸元から、あの銀色の物体――『銀狼(アンファングリア)徽章』を慎重に持ち上げた。

 

銀メッキが施された、遠吠えする狼を模した精巧な徽章。表面にはどす黒い血液がへばりつき、不吉な輝きを放っている。

 

 彼はそれを目の高さまで持ち上げ、光にかざして裏表を精査した。

 

「ずっしりと重いな……。鋳造の精度も高い、刻印も製造番号もない普及品か……どうだね、少佐。これは本物かね?」

 

 ルネーアは忌々しそうに徽章を受け取ると、しげしげと眺め、黒い眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。

 

「……形状、厚み、銀メッキの質感を見る限り、我が旅団の正規支給品のようだが……。副官、お前の胸の徽章を外せ」

 

「はっ」

 

 ルネーアの右斜め後ろに直立していた副官の女性士官が、一切の躊躇なく自身の胸元に手をやり、綺麗に磨き上げられた自身の『銀狼(アンファングリア)徽章』を外して少佐へと手渡した。

 

 その本物の徽章を受け取ると、グロッセがピンセットで持つ血塗れの徽章と並べ、微小なディテール、彫りの角度、裏面の留め具の構造を完璧な集中力で見比べる。

 

「……外見上の違いは見出せない。金型、メッキの質感、重量感……我が旅団で支給されている本物と寸分違わぬように見える」

 

 ルネーアはその徽章をグロッセの前へと差し出した。

 

「見比べてもらっても構わない、大尉」

 

 グロッセは手袋越しに、二つの徽章を並べて精査した。角度を変えて光を当てた。

 

「……ふむ。専門家ではないので鑑識の化学分析待ちだが、見たところは本物のようだ。これが正規ルートで流出した本物なのか、それとも軍の工廠レベルの設備で作られた超一級のレプリカなのか……」

 

「さて……遺体と周囲の状況は粗方見た。あとは調べるべき場所があるのか?」

 

 ルネーアがやや痺れを切らしたように尋ねた。

 

「当たり前だ」

 

 グロッセは呆れたように肩をすくめ、ピンセットの徽章を慎重に証拠品用の小さな布袋へと収めると、遺体から離れ、部屋の奥に置かれた安っぽい木製の洋服ダンスや小物入れ、鏡の割れた化粧台へと歩み寄った。

 

 彼は手袋を嵌めた長指を伸ばし、部屋の隅に置かれた古びた木製の洋服ダンスの扉を躊躇なく押し開けた。

 

「部屋は住人の『生き様』を雄弁に語る書物だよ、少佐。犯人や被害者だけに囚われて、生活痕を見落とすのは三流の捜査官だ」

 

 グロッセは手際よくタンスや小物入れを改め、鏡がひび割れた化粧台から一瓶の香油と安物の粉白粉(パウダー)を手に取りながら言った。

 

 ルネーアは眉をひそめながら、その痩せた背中の後ろから覗き込む。

 

「……どうだ?」

 

「女だな。確実にここに住み着いている」

 

 グロッセは手の上の香油瓶を軽く揺らし、棚の奥へと視線を走らせながら答えた。

 

「確実に女がここで暮らしていた痕跡がある。頽廃的な赤い口紅。そして洋服ダンスの中には、派手な色合いの女物の下着と、丈の短いドレスと薄手の大判ショールが数着、乱雑に掛けられていた。そして……男物は、下着一枚、手拭きタオル一つに至るまで……一切ない。完全に女の城だ」

 

 グロッセは部屋の中を見回し、断定した。

 

「つまり、ここは単なる『娼婦が客を引く部屋』であり、この女が単身で生活拠点として使っていた部屋だ。中将は日常的な同居人ではなく、今日、何らかの理由でここへ呼び出されたか、訪れたのだ……それは間違いなさそうだ」

 

「ああ。問題は、その女が何者なのかだ」

 

 グロッセは振り返り、ドアの脇で固まっていた警察警部へと視線を向けた。

 

「警部。あらためて確認したい。アパートの住民や近隣住民への聞き込みにおいて……この部屋の住人に対する日常的な目撃証言は、やはり白エルフで間違いないな?」

 

「は、はい、大尉!」

 

 警部は手帳を開き、汗をかきながらページをめくった。

 

「日常的に姿を見せることはほぼありませんでしたが……夜間に黒いヴェールを被って出入りする姿が目撃されておりました。隙間から覗いた白い肌や金髪、そして部屋に残された生活痕から、住人は『白エルフ(ヴァイス・エルフ)の女』と推察されます。黒エルフが日常的に出入りしていたという証言は一切ありません」

 

「白か……やはりそうか」

 

 グロッセが顎に手を当てたその時、警部が思い出したように指を立てた。

 

「それと大尉、先ほどお話しした『黒エルフ(シュヴァルツ・エルフ)』を目撃した管理人のボルフですが、一階の管理人室で待機させております」

 

「よし……すぐにその牡と会おう。案内しろ」

 

「はっ! ご案内いたします!」

 

「少佐は?」

 

「愚問だな……大尉。行くに決まっている」

 

 現場の部屋の警戒を憲兵曹長に委ねると、グロッセとルネーア、彼女の部下たちは管理人室に向かって階段を降りて行った。

 

 一階の入り口近くにある粗末な部屋の中で、警察官と憲兵に囲まれて小さくなって椅子に座っていたのは、一頭の若いオークの牡であった。

 

 縮こまっていたボルフが、室内に足を踏み入れたグロッセたち――漆黒の軍服を纏い、矢車菊青色の腕章を巻いたルネーア・オルトリンデ少佐ら、ダークエルフの女たちの姿を捉えた瞬間、彼の表情が一変した。

 

 恐怖が吹き飛び、その大きな瞳に怪しい熱量が灯ったのだ。

 

「お前が管理人のボルフか」

 

 グロッセが冷たく問うと、ボルフは慌てて視線を戻した。

 

「お前が目撃したという『黒エルフ(シュヴァルツ・エルフ)』の件、本当に間違いはないのだな?」

 

「は、はい! 俺は見ました! あれは間違いなくダークエルフの軍服です!」

 

 ボルフは興奮気味に声を張り上げた。

 

「ほう……」

 

 グロッセは腕を組み、冷ややかな視線を注ぐ。

 

「……なぜそう断言できる? 夜の暗がりだ。この細雨と煤けたガス灯の下で、ただの黒い服を着た者とダークエルフの軍服を、どうして区別できたのだ?」

 

 問い詰められた若いオークは、気まずそうに鼻を鳴らし、チラリとグロッセの隣に立つルネーアへと視線を送った。

 

 ボルフは急にモジモジと大きな体を縮こまらせ、耳を赤く染めながら白状した。

 

「俺……実は、その……大の『ダークエルフ好き』でしてね……」

 

「……何だと?」

 

 グロッセが眉をひそめる。

 

 ボルフは大きな身体を落ち着かない様子で揺らしながら、熱っぽい、ねっとりとした視線をルネーアへと向けた。

 

「暇さえあれば、国王官邸の前に行って、ダークエルフのねえちゃんたちの警備交代を見に行ってるんですよ……あの引き締まった体と、気高い雰囲気がたまらんくて……」

 

 ボルフの不躾で生々しい視線が、ルネーアの顔から、彼女の漆黒のズボンで包まれた下半身――太ももから脚のラインへと、ねっとりと舐めるように降っていった。

 

「……ほう」

 

 ルネーア・オルトリンデ少佐の黒い眼鏡の奥の瞳が、恐ろしいほどの殺気を孕んで細められた。

 

 彼女は腰の山刀の柄に手を伸ばしかけ、低く地鳴りのような声を漏らした。

 

「……いい度胸だな、豚頭(オーク)め。その卑しい眼球を今すぐ削ぎ落としてほしくば、そのまま見つめているがいい……」

 

「ひっ……! え、えっと! 違うんです! 怪しい者じゃありません! 見、見たんです、本当に!」

 

 ボルフはルネーアの殺気に恐怖し、悲鳴を上げながら両手を振った。

 

「だから、何をだ?」

 

 グロッセがボルフとルネーアの間に立って、冷たく問い質した。

 

「あいつの足元ですよ! 階段を下りてきた瞬間、チラッと見えたんですよ! ダークエルフたちのズボンの側面に入った……あの『鮮烈なライン』が!」

 

「……!」

 

 ルネーアの表情が凍りついた。

 

 アンファングリア騎兵旅団――その騎兵科将校および下士官兵のズボンには、伝統と誇りの象徴として、側面に鮮やかな「赤い稲妻の側線(パイピング)」が施されている。それは夜の暗がりでも、一目でそれと分かる特徴的な意匠であった。

 

 ボルフは汗をダラダラと流しながら一気に捲し立てた。

 

「ズ、ズボンの脇ですよ! 闇の中に消えていくその脚元に走る赤い稲妻の側線(パイピング)は、アンファングリアのダークエルフの女だけのものだ! 俺は毎日見惚れてるから間違いねえ! 真っ赤な稲妻のようなあのラインは、絶対に見間違えるはずがありません!」

 

 男の必死な証言が、静まり返った部屋に響き渡った。

 

「……なるほど」

 

 グロッセは静かに頷いた。

 

(日常的には白エルフ(ヴァイス・エルフ)が住み……殺害の瞬間にだけ、アンファングリアの徽章を残し、騎兵の赤い側線を見せつけるように黒エルフが逃げ去る……)

 

 グロッセの明晰な頭脳の中で、違和感の警報が激しく鳴り響いていた。

 

「……出来過ぎだ」

 

 あまりにも美しく、あまりにも親切に「手掛かり」が揃いすぎている。

 

 まるで観客席にいる自分に対して、舞台の上の役者が「ほら、犯人はあそこにいますよ」と指をさして提示してくれているかのように。

 

 グロッセは懐から静かに銀の懐中時計を取り出し、パチンと音を立てて蓋を開けた。文字盤の針は、容赦なく刻限を刻んでいる。

 

――午前三時一分。

 

 東の空が白み始め、日の出を迎えるまで……残りあと二時間弱。

 

 このわずかな時間の中で、自分は完璧に仕組まれた舞台装置の裏側を暴き、国家を破滅へ導く陰謀の真実を引きずり出すことができるのか?

 

 強烈な胃の激痛が、グロッセの腹の底を突き刺した。彼は上着の上から強く腹を押さえ、痛みに耐えながら、心の中で激しい焦躁と知性の火花を燃え上がらせていた。

 

(あと二時間……。日の出までに、この迷宮の出口を見つけ出さねばならん……!)

 

「お手柄だな、ボルフ……警部!」

 

「はっ!」

 

「この男の証言は極めて重要だ。身柄を厳重に拘束し、憲兵隊本部へ連行しろ。口封じや余計な噂の拡散を防ぐため、数日間は外部との接触を一切断たせるように」

 

「承知いたしました! おい、来い!」

 

 刑事たちに両腕を抱えられ、ボルフはルネーアへ未練がましい視線を送りながら、部屋から引きずり出されていった。

 

 扉が閉まり、室内には再びグロッセとルネーア、そして彼女の部下たちだけが残された。

 

 激しい思考の回転と比例するように、グロッセの胃の底から焼けつくような激痛が突き上げてきた。

 

「うっ……」

 

 グロッセは眉間にしわを寄せ、上着の上から胃のあたりをぎゅっと押さえた。痛みに耐えるため、わずかに呼吸が荒くなる。

 

 すると、すぐ隣から忍び寄るような小声が聞こえてきた。

 

「……なんだ、お前」

 

 ルネーアが黒い眼鏡の縁を指先で直しながら、グロッセだけに聞こえるような極めて小さな声で囁いていた。

 

「シルヴァン川の時からのその胃痛は、まだ治っていないのか?」

 

 グロッセはポケットから内服薬の小瓶を取り出すと、水もなしに白い錠剤を唾液とともに飲み込んだ。

 

「……慢性なんだよ。君のような可愛げのない連中と顔を合わせるたびに痛む仕組みになっているらしい」

 

「相変わらず減らず口を叩くオークだ」

 

 ルネーアの唇の端が、わずかに、本当にごくわずかに和らいだ。

 

 二人の間に漂う空気には、先ほどまでの刺々しい対立や警戒感は消え去っていた。

 

 彼らは半年前、あの星歴八七六年一月の極寒のシルヴァン川の渡河後の調査で出会って以来、決して敵対していたわけではなかった。

 

 ただ、軍の組織と種族の壁、そしてお互いの立場ゆえに、この半年間一度も顔を合わせる機会がなかっただけなのだ。

 

「君は……あれから、変わったのか?」

 

 グロッセは痛む胃を宥めながら、低く尋ねた。

 

 亡命直後の、いつ折れてもおかしくなかった冷たい氷のような雰囲気を纏っていた彼女が、いまや国軍の軍服を着こなし、部下を率いる堂々たる少佐となっている。

 

 ルネーアは静かに、自分の左腕に巻かれた矢車菊青に内務調査と書かれた腕章とグロッセの左腕の憲兵腕章を交互に見つめた。

 

 同じ矢車菊青を戴く憲兵組織でありながら、二人はまるで違う道を歩んでいる。

 

「フン……前と変わって見えるか?」

 

「いや」

 

 グロッセは薄い唇を微かにほころばせた。

 

「相変わらず、可愛げのない完璧主義のままだ。安心したよ」

 

「余計なお世話だ。痩せっぽち……」

 

 ルネーアは小さく鼻を鳴らすと、すぐさま冷徹な捜査官の顔へと戻り、険しい表情を浮かべた。

 

「冗談は終わりだ、大尉。日の出まで、もう時間がない……白エルフの部屋、黒エルフの服を着た犯人、切り取られた舌、および我が旅団の徽章。この支離滅裂なパズルのピースを、どう組み立てる?」

 

 グロッセはゆっくりと息を吐き出し、胸を張った。

 

「ピースはすでに揃いつつある、少佐……次は、あの部屋の『本当の主』を探し出す番だ」

 

 夜明け前の暗黒の首都ヴィルトシュヴァインで、二人の知性はさらなる深淵へと足を踏み入れていった。

 

 

 

 

(第6話に続く)




※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。


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