オルクセンズ・グローリア   作:榎本氏

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 口先で誓われた忠誠よりも、同じ毒を噛み殺しながら並び立つ者を選べ。

                  ――星欧の古いことわざ



(6)――逃走した二人の犯人たち

――首都ヴィルトシュヴァイン シュタッフェン街の裏手 「豚の寝床」 1階管理人室前

 

「で、どうするんだ? 大尉」

 

黒い眼鏡の奥から燃えるような赤い瞳を向け、ルネーア・オルトリンデ少佐は試すように問うた。

 

引き締まった小柄な体を包む漆黒の肋骨服、その肩をわずかに揺らし、彼女はグロッセの次の行動を見定めている。

 

管理人のボルフが警部と警察官たちに連行され、粗末な廊下に残されたのは、降り続く細雨の音と、電灯が発する光だけだった。

 

「日の出まで二時間を切った。管理人の目撃証言によって『赤い側線(パイピング)のズボンを履いた黒エルフ』という容疑者像が、警察と憲兵の間に確定しつつある。このままでは、夜が明けると同時に『アンファングリアの兵士が東方軍の英雄を暗殺した』という噂が首都を駆け巡るぞ」

 

ルネーアの声には、焦りこそないものの、刻一刻と迫る国家的な破局に対する冷徹な危機感が込められていた。

 

ハインリヒ・グロッセ大尉は、特注の細身の軍服の襟元を正すと、胃のあたりを軽く手袋越しに押さえながら、静かに息を吐き出した。

 

「焦るな、少佐。敵が我々に『見せたいもの』を完璧にお膳立てしてくれたのだ。ならば、我々はその親切すぎる舞台装置を、逆から紐解いていくだけのこと」

 

グロッセは痩せた長身を翻し、同行する警部とルネーアと彼女の部下たちを促して、暗い階段の上――凄惨な死体が転がる4階の部屋へと視線を向けた。

 

「管理人の証言で解ったことが二つある。一つは、犯人が『アンファングリアの騎兵』に見えるよう、極めて意図的に自分の服装と逃走ルートを演出し、このオークに見せつけたということだ」

 

「演出……だと?」

 

ルネーアが眉をひそめる。

 

「ああ。考えてもみろ。暗殺者が犯行後に逃走する際、わざわざ階段の暗がりで管理人の視界に入り、乗馬ズボンの側線をハッキリと見せつける必要があるかね? 暗殺の基本は『無音・無姿』だ。影のごとく潜入し、影のごとく去る。特に君たちダークエルフの偵察兵や騎兵なら、気配を消してこの程度のボロアパートから脱出するなど造作もないはずだ。そうでなければ……よほど慌てたとしか考えられん」

 

ルネーアは細い顎に指をやり、グロッセの言わんとすることを察して小さく頷いた。

 

「なるほど……確かに、我が旅団の訓練を受けた者なら、管理人に姿を見られるような無様は晒さない。あえて姿を晒した……つまり『見せるための逃走』か……」

 

「その通りだ。そして二つ目――これが最も重要だ」

 

グロッセの眼光が、剃刀のような鋭さを増した。

 

「管理人は『黒エルフ』を見たと言った。だが、奴が見たのは『赤い側線の入ったズボン』と『黒い服装』だけだ。顔を確認したわけでも、声を聴いたわけでもない……少佐。乗馬ズボンと軍服など、仕立屋に金を出せばいくらでも偽造できる。あるいは、倉庫や兵舎から盗み出すこともな」

 

「……つまり、犯人がダークエルフであるという確証すら、最初から崩れているということか」

 

「そう考えるのが合理的だ。犯人は我々に『アンファングリアの暴走』と誤認させたい。そのために、胸の上に置いた徽章、切り取った舌、そして逃走時の赤い側線という三重の『署名』を用意した……だがね、少佐。料理でも何でも、調味料を効かせすぎた皿は、かえって素材の悪臭を誤魔化そうとしている証拠なのだよ」

 

グロッセの薄い唇に、皮肉めいた笑みが浮かんだ。

 

「行くぞ。もう一度、あの4階の部屋を洗う。今度は『犯人が隠したがっていたもの』を探すのだ」

 

「ふむ……案内してもらおうか、大尉」

 

ルネーアは部下に手招きをし、グロッセの後に続いて再び木製の階段を上がっていった。

 

ギシギシと不快な音を立てる階段を登りながら、彼女たちの洗練された足音は驚くほど静かであった。

 

再び踏み込んだ4階の部屋。

 

レーヴェルン中将の血の海はさらに広がり、冷え切った死体からはどす黒い血液の臭気が立ち込めていた。

 

グロッセは部屋の中央に立ち、腕を組んで室内をじっと見回した。

 

「少佐。君たちダークエルフは、我々オークよりも遥かに鋭敏な視力と嗅覚を持っているな?」

 

「当然だ。夜間の森林戦闘や追跡において、視界の悪さは五感全般で補う……何を探させたい?」

 

「『違和感』だ。オークの鼻では捉えきれない、この部屋に漂う微細な匂いの層を解剖してくれ」

 

ルネーアは黒い眼鏡のフレームに指をかけ、ゆっくりとそれを外した。

 

現れたのは、陶器のように白い肌と、吸い込まれるような深みを持った燃える赤き瞳。彼女は軽く目を閉じ、細い鼻腔をかすかに広げて部屋の空気を深く吸い込んだ。

 

あの時から何も変わっていない――グロッセは彼女の横顔を見つめながら、心の中でそう呟いた。

 

沈黙が部屋を支配する。

 

雨の音、血の匂い、湿気、古い木材の匂い――その中で、ルネーアの鋭敏な感覚が部屋の中に存在する幾重もの「匂いの糸」を手繰り寄せていく。

 

数秒後、彼女はパチッと赤い瞳を開いた。

 

「……三つの匂いがある」

 

「ほう?」

 

「一つは、この死体と溢れた血液の匂い。二つ目は、この部屋に充満する安物の粉白粉と頽廃的な花の香油の匂い……白エルフの女が使っていたものだ。そして三つ目……」

 

ルネーアは部屋の窓際、そして化粧台の周囲へと足を進めた。

 

「……微かだが、焦げた紙の匂いと、ある特殊な『薬品』の匂いが残っている。洗面所の石鹸や香水のものではない……これは、硝酸とエーテル、そしてアルコールの匂いだ」

 

「薬品の匂い……?」

 

グロッセは思案するように眉を寄せた。

 

「それは軍用の火薬か? あるいは何らかの化学薬品か?」

 

「火薬の匂いとは違う。もっと精錬された、化学実験室や高等な印刷所、あるいは……高級な写真や文書の処理に使われる薬品の匂いだ。それも、ほんの数時間前にここで使われたか、持ち込まれた痕跡がある」

 

ルネーアの指摘に、グロッセの脳内でパズルのピースが音を立てて噛み合わさった。

 

「そうか……! 印刷、あるいは写真……少佐、物陰やタンスの引き出し、暖炉の灰を改めろ!」

 

グロッセとルネーアは即座に行動を開始した。

 

ルネーアの部下たちが無言の連携で部屋の隅々の家具を改め、グロッセ自身は部屋の角にある小さな鋳物の暖炉の前にかがみ込んだ。

 

ストーブの灰の中に残っていたのは、ほとんどが黒く炭化した紙の粉末だった。

 

グロッセがピンセットで慎重に拾い上げたのは、奇跡的に燃え残った爪の先ほどの紙片のみ。判別できるのは公文書特有の活字の頭文字『Ober...』という微かなインクの痕跡だけであった。

 

「それだけではありません、少佐!」

 

部屋の改めを進めていたダークエルフの一人が、ベッドの下から黒い革製の鞄を引きずり出した。

 

「ベッドの下から中将閣下の軍用鞄が発見されました! ……ですがご覧ください、錠前が刃物で強引に破壊され、中身が乱暴にあさられております!」

 

グロッセが視線を落とすと、頑丈な真鍮の錠前は無惨に歪み、鞄の内部には白紙の便箋や手帳、個人的な筆記具だけが取り残されていた。

 

「中身を改められたか……」

 

グロッセは手袋を嵌めた指で、空になった鞄の内ポケットを追った。

 

「犯人は最初から、中将がこの鞄に入れて携行していた『特定の機密文書』を狙っていたのか。そして必要な書類だけを奪うと、残りをこのストーブにくべて焼き捨てたのだな」

 

ルネーアが思わず声を上げた。

 

「なぜ、このような私娼窟のストーブに、軍最高司令部の書類がくべられているんだ……? 中将は女を買うためにここを訪れ、待ち伏せされたのか……あるいは、白エルフの女と極秘裏に取引をするためだったのか?」

 

「中将が純粋に女を買いに来て巻き込まれたのか、あるいは情報の引き渡しなどの取引だったのか……現段階でどちらかと断定するのは早計だな」

 

グロッセは立ち上がり、静かに胸を張った。

 

「だが、鞄の錠が破られ中身があさられている以上、犯人の目的がその書類にあったことだけは確実だ。中将が買春目的の私情で訪れたにせよ、極秘の接触だったにせよ――この部屋に入った時点で相手を完全に無害だと油断しきっており、その丸腰の隙を突いて首を断たれた。それだけは間違いない」

 

「……なるほどな」

 

ルネーアは納得したように小さく頷いた。

 

「動機が何であれ、油断を誘うための『舞台』としてこの部屋が選ばれ、機密が持ち去られたというわけか」

 

「そこだよ、少佐。最大の疑問点は」

 

グロッセは懐から銀の懐中時計を取り出し、カチリと音を立てて開いた。

 

文字盤の針は、すでに午前三時二十分を指している。

 

「犯行が行われたのは、せいぜい一時間から一時間半前。白エルフの女が犯人だとすれば、彼女が黒いヴェールを被って逃走したことになる……だが、管理人は『赤い側線のズボンを履いた者』を見たと言った。白エルフがダークエルフの騎兵服に変装して逃げたのか? それとも、白エルフの女はすでに別の場所へ逃げ、殺害を実行した『第二の人物』が存在するのか?」

 

グロッセの胃が、きりきりと鋭い悲鳴を上げた。

 

彼は手袋を嵌めた手で腹を強く押しつけ、顔をかすかに歪めた。

 

「くっ……」

 

「大尉……無理をするな」

 

ルネーアが静かに歩み寄ってきた。

 

彼女は懐から、上質な銀の小さな水筒を取り出すと、グロッセの前へと差し出した。

 

「飲め。水だ。中に少しだけミントの葉を浮かべてある。胃の灼熱感を和らげる効果がある」

 

グロッセは一瞬、驚いたようにルネーアの顔を見た。

 

無表情で冷徹に見えるこのダークエルフの女士官が、過酷な現場でさりげない気配りを見せたことに、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。

 

「……感謝する、少佐」

 

グロッセは水筒を受け取り、中の冷たいミント水を少量口に含んだ。

 

清涼感のある香りが口内に広がり、焼けつく胃の激痛がゆっくりと引いていく。

 

「ふう……助かった」

 

「礼には及ばん。貴公の明晰な頭脳が胃痛で害されては、我が旅団の冤罪を晴らすことができなくなるからな」

 

ルネーアは水筒を受け取ると、素っ気なく腰の帯革へと戻した。

 

「それで……次はどうする、ハインリヒ?」

 

彼女が自然と「大尉」ではなく、半年前のあの極寒の地で呼んだ「名前」を口にしたことに、グロッセは気づいていたが、あえて何も言わなかった。

 

「白エルフの女の足取りを追う。彼女はこの部屋から逃走する際、必ず『痕跡』を残している」

 

グロッセは洗面所へと足を進めた。

 

洗面所の小さな窓枠。

 

そこには、夜の細雨によって濡れた煤(すす)とホコリが溜まっていたが、窓枠の木部の一部だけが、新しく擦られたように塗料が剥げていた。

 

「窓から出たか……」

 

グロッセは窓の外を覗き込んだ。

 

4階の窓の外には、建物の外壁に沿って粗末な鉄製の非常階段と、雨水を流す鉛の排水管が垂直に伸びていた。

 

「この雨の中、4階の窓から非常階段へ飛び移る……。並の体術では死を見るな」

 

「エルフなら造作もない」

 

ルネーアが横から覗き込み、冷ややかに言った。

 

「白エルフであれ、我らダークエルフであれ、木々や高所を跳躍するのは幼少からの身のこなしだ。この程度の足場があれば、雨の中でも音もなく下まで降りられる」

 

「よし。少佐、君の部下を二人、この窓から外の非常階段へ降ろしてくれ。下の地面に『足跡』が残っていないか確認させる。できるか?」

 

「ふん……承知した」

 

ルネーアの短い合図で、後方に控えていた二人の女性下士官が、風のように軽やかに窓枠を乗り越え、雨の降る闇の中へと消えていった。

 

そのあまりにも無駄のない、しなやかな動作に、グロッセは呆然と絶句していた。

 

数分後。

 

建物下の暗い裏路地から、女性下士官の低い報告の声が響いた。

 

「少佐殿! 下の地面に痕跡を発見いたしました! 雨で流れかけておりますが……明確な靴痕です!」

 

グロッセとルネーアは即座に部屋を出て、階段を駆け下りると、建物の裏手にある泥と石畳の混ざった狭い裏路地へと向かった。

 

ホコリをかぶった電灯光が微かに届く裏路地。

 

降り続く細雨の中、雨具を着た二人のダークエルフ下士官が、泥地にしゃがみ込んでランタンの光を当てていた。

 

「これです、少佐殿」

 

ランタンの光が照らし出したのは、ぬかるんだ泥の上に残された、小さく細身の靴痕だった。

 

「……小さいな」

 

グロッセがかがみ込み、泥の表面を凝視した。

 

「オークの足跡ではない。人間の女性、あるいはエルフの足底のサイズだ。靴底のパターンは……極めて滑らかな革底。軍靴のようなスパイクや滑り止めはない。街歩き用の高級な婦人靴だ」

 

「白エルフの女の靴だな」

 

ルネーアが断定した。

 

「そして……見ろ、大尉。この足跡のすぐ隣だ」

 

ルネーアが指示した場所には、もう一つ、別の足跡が残されていた。

 

それは先ほどの婦人靴の靴痕とは明らかに異なる、大きく、深いくぼみだった。

 

「……これは!」

 

グロッセの瞳が激しく揺れた。

 

その足跡は、重い軍靴(ブーツ)によって踏みつけられたものだった。しかも、靴底のかかと部分に、国軍騎兵科特有の『拍車(スパー)』を取り付けるための凹みパターンが刻まれていたのだ。

 

「国軍の騎兵用ブーツ……! そしてこの歩幅、この沈み込みの深さ……間違いなく、相応の体重と踏込みを持った者の足跡だ!」

 

「……ダークエルフの騎兵ブーツのパターンと合致する」

 

ルネーアの声が、氷のように低く沈んだ。

 

二つの足跡は、非常階段の真下から始まり、裏路地の奥――シュタッフェン街の暗い迷宮へと向かって並んで伸びていた。

 

「二人で逃げた……のか?」

 

警部が震える声で尋ねた。

 

「白エルフの女と、ダークエルフの騎兵が……一緒にここから脱出したというのですか!?」

 

「待て」

 

グロッセは手袋を嵌めた指で泥を指し示し、静かに首を振った。

 

「歩幅と足跡の重ね合わせを見ろ……平行して歩いていない。小さな靴痕が前にあり、そのすぐ後ろを、重いブーツの足跡が追うように重ねられている。……これは『一緒に逃げた』のではない!」

 

グロッセは立ち上がり、暗い路地の先を射抜くような視線で見つめた。

 

「『追跡』だ。白エルフを黒エルフが追いかけたのか……なぜだ」

 

「追跡……?」

 

ルネーアが問い返した。

 

「白エルフの女が部屋から逃走し、それを黒エルフ服の人物が追いかけたということか?」

 

「そうだ。あるいは、部屋の中で中将が殺害された直後、白エルフの女は命からがら窓から逃げ出した。そして、中将を殺害した犯人が、彼女を口封じのために追いかけたのか」

 

グロッセの頭脳の中で、これまで乱雑に散らばっていた全ての謎が、一直線のシークエンスとなって繋がり始めた。

 

「少佐、全てのシナリオを組み直そう」

 

グロッセは指を一本ずつ立てながら、冷徹な論理を紡ぎ出した。

 

「第一幕。レーヴェルン中将は、私娼を買いに来たのか、あるいは機密文書の取引のために、協力者である白エルフの女の部屋(豚の寝床4階)を訪れた」

 

「第二幕。だが、その取引をあらかじめ察知していた『第三の暗殺者』が部屋に潜伏、あるいは直後に押し入った。暗殺者は中将を襲い、一撃で首を切り裂いて殺害。機密文書を奪い、ストーブで焼き捨てた」

 

「第三幕。現場にいた白エルフの女は、慌てて窓から非常階段を使って裏路地へと逃走した」

 

「第四幕。暗殺者は、中将の遺体の舌を切り取り、胸元に『銀狼徽章』を置いた。そして、管理人の前にあえて姿を現して正面から脱出した……いや、あるいは一階の暗がりから裏手へ回り、逃げた白エルフの後を裏路地へと追ったのだ!」

 

ルネーアはその完璧な推理に息を飲んだ。

 

「……筋が通る。完璧な筋書きだ、大尉」

 

ルネーアは外していた黒い眼鏡を静かにかけ直すと、その奥の燃えるような赤き瞳を細めた。

 

自らの部隊、そして自らが忠誠を誓ったオルクセン国軍を陥れようとする醜悪な罠――その正体を冷徹に暴いていくハインリヒの横顔に、彼女は密かな戦慄と確かな信頼を寄せていた。

 

「ならば……その『暗殺者』は何者なのだ? なぜアンファングリアの徽章を持ち、騎兵の軍服を着ていた?」

 

「理由は二つ考えられる」

 

グロッセは冷たい雨に濡れた略帽の鍔を直した。

 

「一つは、アンファングリア内部に本物の『裏切り者』が存在し、どこかの勢力に買収されてこの工作を実行した可能性」

 

「……その可能性があった場合、私の手でその裏切り者を処刑する」

 

ルネーアの声に、絶対の殺気が宿る。

 

「そしてもう一つは……」

 

グロッセの眼光が深まった。

 

「軍服も徽章も、全て外部の諜報機関が用意した精巧な偽物であり、犯人はダークエルフですらない可能性だ。精巧な変装と、管理人の『偏見と性的嗜好』を逆手に取った心理的な誘導……奴らは最初から、管理人が『ダークエルフのズボンの側線』にしか目を奪われないことまで計算に入れていたのだ」

 

「……恐ろしい人物だな」

 

ルネーアの薄い唇から、冷ややかな感嘆が漏れた。

 

「私どもの存在そのものを、国家を引き裂くための『起爆剤』として利用したわけか」

 

「ああ。だが、犯人は一つだけ重大な計算違いをした」

 

グロッセは自らの胸を張った。

 

「何だ?」

 

「白エルフの女を、現場で即座に殺せなかったことだ。女が窓から逃げ出したことで、犯人は追跡を余儀なくされた。そして、この裏路地に明確な『二つの足跡』を残す羽目になったのだよ」

 

グロッセは足跡が伸びる裏路地の先――暗闇の中に消えていく石畳の路地を指さした。

 

「足跡はまだ新しい。雨で消えかけてはいるが、君たちダークエルフの追跡技術なら、この靴底の痕跡を辿ることができるはずだ」

 

ルネーアは即座に振り返り、控えていた下士官たちに凛とした声で命じた。

 

「全員、追跡隊形(スクラム)を組め! この靴痕を最優先で追跡する! 泥の沈み込み、壁の擦れ痕、匂いの微粒子……一つとして見落とすな!」

 

「「はっ!!」」

 

四人のダークエルフ下士官たちが、一斉に姿勢を正し、闇の中へと弾かれたように散っていった。

 

その無駄のない洗練された挙動は、まさに夜の森林を駆け抜ける冷徹な狩人そのものであった。

 

追跡の陣を敷かせた後、グロッセとルネーアは濡れた路地を後にし、不快なカビと煤の匂いが充満する「豚の寝床」1階の薄暗い軒下へと戻った。

 

降る雨を庇の下で避けながら、グロッセは特注の軍服のポケットから銀の煙草ケースを取り出し、愛飲しているゲッティンゲン No.4を一本抜いた。

 

「……一本もらうぞ、ハインリヒ」

 

ルネーアが自然な動作で隣に佇み、細い指先を差し出す。グロッセは無言で紙巻き煙草を一本手渡し、自らも口にくわえると、マッチを擦った。

 

小さな橙色の炎が、暗闇の中で二人の顔を等しく照らし出す。

 

火を分け合い、紫煙が薄暗い軒下へとゆっくりと立ち上った。

 

煙草の芳醇な香りと紙巻きの焦げた匂いが、雨の湿気とすれ違いに混ざり合う。

 

ルネーアは細い唇から紫煙を吐き出し、黒い眼鏡を指先でわずかに直しながら、遠く暗い東の空を見つめた。

 

グロッセもまた、煙草を指に挟んだまま、手袋を嵌めた手で痛む腹を押さえ、静かに銀の懐中時計をパチンと開いた。

 

――午前三時四十分。

 

東の空の低い雲の端が、かすかに白み始めていた。

 

夜明けまで、あと三十分。

 

「時間がないな……」

 

煙草の先端で明滅する小さな赤い火種が、濡れた夜気に溶け込む二人の冷徹な瞳を静かに照らし出していた。

 

吹き付ける細雨の中、紫煙を静かにくゆらせながら、グロッセとルネーアは無言のまま暗い街路の先を見つめていた。

 

オルクセンの未来を決する影の闘いは、夜明け前の静寂の中、この1階の軒下で静かに加速しようとしていた。

 

 

 

 

(第7話に続く)




※この物語はオルクセン王国史の二次創作小説です。


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