◆

 シスター・リディアは、神を信じていた。
 故に、どれほど傷だらけで現れても祈ろうとしない男、カインのことを、困った人だと思っていた。
 けれどある夜、教会が野盗に襲われる。

 神の家は穢され、祈りは届かず、リディアの信仰が折れかけた瞬間――彼女の前に立ったのは、血に濡れたカインだった。

「なら、助けた俺が――お前の神だな」

 その日から、リディアの祈りは神ではないものへ向けられる。




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重たいシスターが好きです。


祈りの果てのあなた

 

 ◆

 

 日も暮れて、冷たい夜風が教会を覆う頃。

 その時間に、いつも彼はやってきた。

 

「治療を頼む」

 

 重たい扉を押し開けて、男はいつものようにそう言った。

 名は、カインというらしい。

 2ヶ月ほど前に、聞いたばかりだ。

 

 黒い外套はところどころ裂け、裾には乾いた泥がこびりついている。

 背は高く、肩幅もある。けれど体つきは大柄というより、無駄なものを削ぎ落とした刃物のようだった。

 乱れた黒髪の奥には灰色の目があり、その目はいつも、どこか遠くの火事を見ているように冷めている。

 

 顔立ちは悪くない。

 むしろ整っている方だと思う。

 ……けれど、初対面の者が彼を見て抱く印象は、おそらくそれではない。

 

 頬に薄く走る傷跡。

 首筋に残った古い裂傷。右手の甲に刻まれた火傷の痕。

 どれも命に届かなかった傷。けれど確かに、命の近くを通り過ぎた傷だった。

 

 シスター・リディアは、彼の姿を見るたびに胸がきゅっと縮む。

 よかった。

 今日も、生きて戻ってきてくれた。

 その安堵と、また怪我をしたのかという呆れと、明日は戻ってこないかもしれないという恐怖が、胸の奥で一緒になる。

 

「……そこに座ってください」

「助かる」

 

 カインは短く答え、礼拝堂の隅に置かれた椅子へ腰を下ろした。

 

 リディアは小さく息を吐いて、治療箱を取りに行く。

 消毒液。布。針と糸。清潔な包帯。

 いつの間にか、彼が来る夜のために一通りのものを手の届く場所へ置いておくようになっていた。

 

 それが少し、嫌だった。

 

 彼が怪我をしてくることに、自分が慣れてしまっているようで。

 

「外套を脱いでください」

「ああ」

 

 カインが外套を外すと、左腕の袖が赤く濡れていた。

 リディアは眉をひそめる。

 

「これは……」

「浅い」

「浅くありません」

 

 すぐに否定すると、彼はムスッとした顔でこちらを見る。

 

「骨は見えてねぇ」

「骨が見えていなければ浅い、という考え方を今すぐ改めてください」

 

 少し強めに言うと、カインは面倒くさそうに目を細めた。

 

「お前は俺の母親か何かか」

「母親ではありません。シスターです」

 

 丁寧に傷口を、観察する。

 酷い怪我だ。

 だけど、いつもよりは確かに軽い。

 

「説教するということに関しては同じだな」

「説教されるようなことばかりなさるからです」

 

 血で貼りついた布を剥がす。

 傷口が露わになり、リディアは唇を結んだ。

 決して浅くなどない。刃物で斬られた傷だ。深さこそ致命傷には遠いが、放置すれば熱を持つ。

 

 消毒液を染み込ませた布を当てると、カインの肩がわずかに動いた。

 

「痛みますか」

「別に」

 

「痛むなら、痛むと言ってください」

「痛いって言ったら治りが早くなるのか?」

 

「なりません」

「なら言う意味ねぇだろ」

 

 リディアは手を止めた。

 こういうところだ。

 思わずため息もつきたくもなる。

 

 この男は、自分の痛みに興味がない。

 痛いなら痛いと言えばいい。

 つらいならつらいと言えばいい。苦しいなら苦しいと言えばいい。

 そういう当たり前のことを、まるで知らない子供のように飲み込んでしまう。

 

 だから、心配になってしまう。

 このままでは死んでしまうのではかと、放っておけない。

 

「たまには、ご自愛なさってください」

 

 もうすっかりと慣れた手つきで処置を進める。

 ケッ、と唾でも吐きそうな男。

 

「自分を大事にしてちゃ、為せねぇもんがあるだろう」

「しかし、その為したいことも、命あっての物種です」

「その時は、俺はそれまでの人間だったってだけだ」

 

 あまりにもあっさりと言う。

 リディアは消毒の手に少しだけ力を込めた。

 

「痛っ」

「痛むのではありませんか」

 

「今のはお前がやったんだろ」

「気のせいです」

 

「シスターが嘘つくなよ」

「私は、あなたのために必要なことをしているだけです」

 

「そういうところだぞ」

 

 カインは呆れたように息を吐いた。

 

 リディアは傷口に薬を塗り、清潔な布ーー包帯を巻いていく。

 ぐるぐると。

 彼の、重たくて大きい左腕。

 彼の腕に触れるたび、皮膚の下にある熱を感じる。

 生きている熱。

 その熱がまだここにあることに、リディアはいつも安堵してしまう。

 

「何度も申し上げていますが、あなたは命を軽く見すぎています」

「軽く見てるつもりはねぇよ」

 

「では、どうして危険な場所へばかり向かうのですか」

「必要だからだ」

 

「誰にですか」

「俺に」

 

「あなたにとって必要なことは、まず生きることです」

「生きてるだけじゃ、腹は膨れねぇ。誰も守れねぇ。何も変わらねぇ」

 

 その言葉に、リディアは返せなくなった。

 カインはいつもそうだった。

 

 乱暴で、無愛想で、こちらの忠告などまともに聞かない。

 けれど、その目は決して虚ろではない。

 命を粗末にしているようでいて、彼はきっと、命より重い何かを抱えている。

 

 それが何なのか、リディアは知らない。

 聞いても、きっと答えくれないだろう。

 

「祈りは」

 

 リディアは包帯を結びながら、静かに言った。

 

「人の心を支えてくださいますよ」

「支えねぇよ」

 

「支えます」

「俺は、神には祈らねぇ」

 

 その言葉は、教会の静けさの中でひどく不似合いに響いた。

 

 リディアは包帯を巻く手を止める。

 

 祭壇の奥には、慈愛に満ちた神の像がある。

 昼間ならば窓から差す光に照らされ、訪れる者の心を少しだけ和らげてくれるその像も、夜にはただ暗がりの中に沈んでいた。

 

「……ここは教会ですよ」

「だからなんだ」

 

「神の家で、そのようなことを言うものではありません」

「神が聞いて困るようなことでもねぇだろ」

 

 悪びれもせず、カインは笑った。

 リディアはその笑みが少し苦手だった。

 

 傷だらけのくせに、痛みなど最初から知らないような顔をする。

 明日死ぬかもしれないくせに、今日を惜しむことさえしない。

 

「祈りは、弱いものではありません」

「そうか?俺には弱者が縋っているようにしか見えねぇがな」

 

「そんなことありません。人は、自分だけでは立っていられない時があります。そういう時に、祈りが支えになるのです」

「立っていられねぇなら、膝つく前に手を伸ばす」

 

「誰にですか」

「届く奴に」

 

 カインはつまらなさそうに天井を見上げた。

 古びた梁の向こうには何もない。

 ただ冷たい夜の闇があり、風が壁の隙間を撫でているだけだった。

 

「別にいいじゃねえか。俺はお前の信仰に対して口を出してるわけじゃないし、俺は、祈ってる暇があるなら動く。そこにあるのは、ただの価値観に違いだ」

 

 唇を噛む。

 その通りだ。

 それを言われれば、私は何を言い返すこともできない。

 私はただーーそんな言葉を素直に吐けない自分も悪いのだと知っているから。

 

 

「……それで、また怪我をしてここへ来るのですか」

「治してくれる奴がいるからな」

 

 ちょっとした八つ当たりみたいだと、言ってから後悔した。

 しかし、彼の口から出たのはあまりにもまっすぐな返答だった。

 

「私は、あなたが怪我をするために治療しているのではないのですが」

「知ってる」

 

「では、どうして」

「さっき言っただろ」

 

 カインはリディアを見た。

 

「自分を大事にしてちゃ、為せねぇもんがある」

「しかし」

 

「平行線だな」

「……そうですね」

 

「じゃあ、今日は俺の勝ちってことで」

「なぜですか」

 

「俺は治療された。お前は説教しきれなかった」

「明日以降に持ち越しただけです」

 

「しつこい女だな」

「あなたが聞き分けのない方だからです」

 

 カインは小さく笑った。

 その顔が、リディアにはどうにも子供っぽく見えた。

 

 体は傷だらけで、目は冷たくて、口は悪い。

 それでも、こちらの小言から逃げようとする様子だけは、叱られ慣れていない少年のようだった。

 

 リディアは包帯の端を整え、そっと手を離す。

 

「今日は、もう無茶をなさらないでください」

「考えとく」

 

「それは、聞かない人の返事です」

「よくわかってるじゃねぇか」

 

 カインは立ち上がり、外套を肩にかけた。

 引き止めたいと思った。

 

 せめて今夜だけでも、ここで休んでいけばいい。

 傷口が開く。

 熱が出るかもしれない。

 夜道は危ないーーいくらでも理由は浮かんだ。

 けれど、どれを口にしても彼は出ていくだろう。

 

 彼はそういう人だ。

 誰かに止められて、止まれる人ではない。

 

「神に祈るくらいなら」

 

 扉の前で、カインが振り返らずに言った。

 

「俺は俺の足で行く。俺の手で掴む。俺の剣でどうにかする」

「……それでも、どうにもならない時はどうするのですか」

「あん?そんなん決まってるだろ」

 

 彼は肩越しに笑った。

 

「もっかいやんだよ。出来るまでやる。死ぬまでやる。それだけだ」

 

 その姿は、どうしてだろう。少し眩しく見えた。

 

「……私はそんなにも強くは生きれません」

「なら祈るより先に、助けを呼べ。俺が聞こえる場所にいるなら、行ってやるよ」

 

 冗談のような声だった。

 けれどリディアは、なぜか返事ができなかった。

 ーーガチャン、と。

 重い扉が閉まる。夜風が一瞬だけ入り込み、蝋燭の火が揺れた。

 教会に、また静けさが戻る。

 リディアは祭壇の前に立ち、胸の前で手を組んだ。

 

「主よ」

 

 いつも通り、祈ろうとした。

 けれど、その夜だけは。

 彼の背中が、なかなか瞼の裏から消えてくれなかった。

 

 ◆

 

 それから三日後の夜。

 後片付けを進めながら、祭壇を見やる。

 

 教会は、いつもよりも静かだった。

 昼のうちに訪れていた子供たちは帰り、近所のお婆様も、膝の痛みが和らいだと何度も頭を下げて帰っていった。

 今はもう、礼拝堂にはリディア一人しかいない。

 

 蝋燭の火が、壁に影を揺らしている。

 祭壇の前に膝をつき、リディアは祈りを捧げていた。

 

 今日も村が平穏でありますように。

 病める者に癒しを。

 飢える者に糧を。

 迷える者に導きを。

 

 そして。

 どうか、あの人が今日も生きていますように。

 

「ーーなんて、個人的にすぎるでしょうか」

 

 その祈りを最後に加えてしまったことに、リディアは少しだけ罪悪感を覚えた。

 

 本来、祈りは万人へ向けられるべきものだ。

 誰か一人にだけ心を傾けることは、シスターとして正しい姿ではないのかもしれない。

 それでも。

 彼の傷だらけの腕を思い出すたび、祈らずにはいられなかった。

 

「さて。少し早いですが、今日は寝室に向かってしまいましょうか」

 

 祈りを終え、腰を上げる。

 チラリ、時間を確認する。

 この時間ならもう誰が来ることもないだろう、と足を寝室へ運んだ。

 

 運ぼうとした、その時だった。

 

 パリン、と。

 外で、何かが割れる音がした。

 リディアは顔を上げる。

 

 風ではない。

 続けて、男たちの笑い声が聞こえた。

 

 荒い足音。

 馬のいななき。

 金属がぶつかる音。

 誰かが扉を蹴った。古い木の扉が大きく震える。

 

「……どなたですか」

 

 返事はない。

 代わりに、また扉が蹴られた。

 

 一度。

 二度。

 三度目で閂が悲鳴を上げ、扉が内側へ弾け飛んだ。

 

「っ……!」

 

 衝撃に後ずさる。

 もしかして、という最悪の想像はそのままに、目の前で形となった。

 

 夜風と共に、男たちがなだれ込んできた。

 

 薄汚れた革鎧。

 刃こぼれした剣。

 酒と汗と血の臭い。

 どの顔にも、礼拝堂に入る者が持つべき畏れはなかった。

 

「へぇ、ここが教会か」

「金目のもんは奥だろ」

「聖杯とかあるんじゃねぇのか?」

 

 野盗。

 リディアは息を呑んだ。

 

 噂には聞いていた。

 近隣の村を襲い、荷を奪い、人を傷つけて逃げる者たちがいると。

 けれど、この村にまで来るとは思っていなかった。まして、神の家である教会に踏み込んでくるなど。

 

「ここは教会です」

 

 リディアは震える足で立ち上がった。

 声だけは、どうにか落ち着かせる。

 

「どうか、お引き取りください。金品をお求めなら、ここには差し上げられるようなものはありません」

 

 消えてしまいそうな勇気をなんとなく振り絞り。

 彼らも人。

 話し合えば分かりがあえるかもしれない、と口を開く。

 

「あ?」

 

 一人の男が、祭壇の上に置かれていた燭台を手に取った。

 そして、乱暴に床へ投げ捨てる。

「あ……っ!」

 金属の音が礼拝堂に響いた。

 

「あるじゃねぇか」

「や、やめてください」

「やめてください、だとよ」

 

 男たちが笑う。

 下卑た声だった。

 

 別の男が壁際の棚を開け、布や薬瓶を床へ放り投げる。

 救貧用に取っておいたわずかな食料袋も裂かれ、中身が石床へ散らばった。

 

「それは、病人や子供たちのためのものです」

「だからなんだよ」

 

「お願いです。これ以上は」

「お願い?」

 

 先ほどの男が、リディアの方へ歩いてくる。

 リディアは一歩退いた。

 

 男の視線が、顔から首元へ落ちる。

 さらに下へ。シスター服の上からでも分かるくらい、舐め回すような目つきだった。

 寒気がした。

 

「へぇ、結構いい顔してるじゎねぇか」

「シスター様ってやつか」

「神様に仕えてる女は、どんな声で泣くんだろうな」

 

 笑い声が増える。

 リディアは両手を胸の前で組んだ。

 

 いつもの祈りの形。

 そうすれば、心が落ち着くはずだった。

 

「しゅ、主よ」

 

 もうすぐそこまで迫った身の危険に、咄嗟に祈りは言葉として口から漏れた。

 小さく、けれど確かに呟く。

 

「どうか、この者たちに正しき心を。どうか、罪を思いとどまらせてください」

「何ぶつぶつ言ってんだ?」

 

「祈ってんだろ」

「へぇ」

 

 男がリディアの腕を掴んだ。

 強い力だった。

 

「いっ……。や、やめてください!」

 

 骨が軋む。

 

「祈って止まると思ってんのか?」

「……神は、見ておられます」

 

「はっはっ!そりゃ滑稽だ!それならじゃあ、見せてやろうぜ」

 

 リディアの背中が祭壇にぶつかった。

 息が詰まる。

 

「その神様とやらによう、俺たちとのあつーい夜を、よー

 

 男の手が肩に伸びる。

 布越しに触れられた瞬間、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れた。

 

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 

 それでも、リディアは祈りを止めなかった。

 

「主よ」

 

 声が震える。

 

「どうか、お救いください」

 

 誰かが笑う。

 別の誰かが、聖像に剣を突き立てた。

 木製の像に刃が食い込み、乾いた音を立てて欠ける。

 

 リディアは目を見開いた。

 神の像が。

 ずっと見上げてきた、祈りを捧げてきた、その像が。

 簡単に傷つけられていた。

 

「やめて……」

「やめてください、だろ?」

 

 野盗の一人が、壊れた聖像の欠片を踏みつける。

 鈍い音がした。

 リディアの中で、何かも同じように踏み砕かれた気がした。

 

「主よ」

 

 もう一度、祈る。

 

「どうか」

 

 男の指が、彼女のヴェールに触れる。

 乱暴に引かれ、髪がこぼれた。

 冷たい空気が首筋を撫でる。

 

「どうか」

 

 祈る。

 祈る。

 祈る。

 祈り続けるーーけれど、誰も止まらない。

 

 聖具は壊され、薬は踏みにじられ、食料は奪われる。

 男たちは笑っている。神の家で。神の像の前で。神を恐れることもなく。

 

 その目が、今度は自分へ向けられている。

 リディアは震える唇で祈った。

 

「どうか、お救いください」

 

 どうか。どうか。

 言葉が虚しく響いた。

 

「……っはぁ。はぁ……っ、や、やめ、」

 

 呼吸が苦しい。

 助けて。助けて。

 いくら願っても、彼らの私の体を弄る手が止まりはしない。

 

 ーーどうして。

 必死に抵抗しながらも。涙は流すまいと、唇を噛み締めながら、なんでと問う。

 胸の奥で、問いが生まれる。

 

 どうして、止めてくださらないのですか。

 ここはあなたの家ではないのですか。

 私は、間違っていたのでしょうか。

 私の祈りは、届いていなかったのでしょうか。

 

 それとも。

 神は、本当にここにおられるのですか。

 

 その疑いが心に浮かんだ瞬間、リディアは自分自身に怯えた。

 いけない。

 そんなことを考えてはいけない。

 

 けれど、一度生まれた疑いは消えない。

 祈りの言葉に混じって、黒い染みのように広がっていく。

 

「おーおー。やはりシスターの肌ってのは穢れ一つなく綺麗だなぁ!俺たちとは違ってよ」

 乱暴な手つきが服を引き裂く。

 

「シスターってのはやっぱり処女なのか?なぁ、教えてくれよ。教えてくれたら、ちっとは楽になるかもよ」

 下腹部を撫でる手つきに、ゾワゾワと嫌悪感が走る

 

「なぁ、今どんな気分だ。教えてくれよ。ほら、祈れよ。お前が信じる神様は、こんな時お前に何をしてくれるんだ?」

 首筋をそう刃物に、恐怖でどうにかなりそうだった。

 

 ぎゅっ、と目を瞑る。

 神様。

 神様。

 神様。

 

 お願いです。

 誰でもいい。

 どうかーー、そう"祈った"先だった。

 

「よぉ」

 

 その声は、壊れた扉の向こうから聞こえた。

 低く、気だるげで、不遜な声。

 

「リディア、だったか?」

 

 野盗たちが一斉に振り返る。

 リディアも顔を上げた。

 

「あな、たは」

 

 思わず、目を見開く。

 夜の闇を背負って、男が立っていた。

 黒い外套。乱れた黒髪。灰色の目。腰には剣。

 

 見間違えるはずもない。

 カインだった。

 

「誰だ、てめぇ」

 

 野盗の一人が剣を構える。

 カインは答えない。

 ただ、礼拝堂の中を見た。

 

 散らばった薬瓶。

 踏みつけられた食料。

 割れた燭台。

 欠けた聖像。

 

 祭壇の前で腕を掴まれ、ヴェールを剥がされたリディア。

 

「てめぇら」

 

 彼の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 次の瞬間。

「え」

 リディアの腕を掴んでいた男の身体が、横に裂けた。

 

「え、あ」

「よぉ、大丈夫……ではなさそうだな」

 

 何が起きたのか、理解できなかった。

 血が噴き上がる。

 けれど、その赤がリディアに届くことはなかった。

 

 気づいた時には、カインが彼女の前に立っていた。

 黒い外套の背中。

 肩越しに見える剣。

 彼が、血を浴びていた。

 

「わりぃな」

 

 カインは首だけを少し振り向かせる。

 口元には、いつものような笑みがあった。

 

「神とやらが、助けに入る様子がないんでな。邪魔ぁさせてもらうぜ」

 

 その宣言にも近い言葉を皮切りに、野盗たちが怒号を上げた。

 

 一人が斬りかかる。

 カインは半歩だけ前に出た。

 それだけだった。

 

 剣が走る。

 

 斬りかかった男の腕が宙を舞い、悲鳴が上がる前に喉が裂かれた。

 血が床に広がる。

 その上を踏んで、別の男が突っ込んでくる。

 

 カインは笑っていた。

 

 獣のように。

 けれど、その剣は獣ではなかった。

 速い。

 正確で。

 そして、容赦がない。

 

 一人。

 二人。

 三人。

 

 迫る者を斬っては捨てる。

 剣が肉を裂き、骨を断ち、血が礼拝堂を汚していく。

 先ほどまで神の家を荒らしていた男たちは、今度はその床に転がる肉になっていった。

 

 リディアは動けなかった。

 怖いはずだった。

 

「カイン……さん……?」

 

 人が斬られている。

 血が飛んでいる。

 悲鳴が上がっているーー死が、目の前で形を持っている。

 

 恐ろしい。

 恐ろしいはずなのに、目を逸らせない。

 恐ろしいはずなのに、どうしてでしょう、私は今、とても、興奮しています。

 

 カインは、ずっとリディアの前にいた。

 誰も彼女に近づけない。

 伸ばされた手は斬り落とされる。

 振り上げられた刃は弾かれる。

 逃げようとした男すら、彼の間合いに入った瞬間、血の中へ沈む。

 

 それは救いだった。

 けれど、祈りの中で何度も思い描いた、優しい光などではなかった。

 慈愛に満ちた手でもない。

 白い翼でも、鐘の音でも、祝福でもない。

 

 血に濡れた背中。

 人を斬る剣。

 低く笑う声。

 

 暴力。

 恐怖。

 死。

 

 それらすべてをまとって、それでも彼はリディアの前に立っていた。

 守ってくれている。

 その事実だけで、胸が熱くなった。

 

 祈りの形に組んだ指先が震える。

 膝から力が抜けて、祭壇にもたれかかる。頬が熱い。

 喉が乾く。息がうまく吸えない。

 パクパクと口は動くも、言の葉は連らない。

 

 これは恐怖だ。

 そう思おうとした。

 けれど、違う。違うと、心のどこかが知っていた。

 

 リディアは、彼を見上げていた。

 壊れた聖像ではなく。

 血に濡れた男の背中を。

 

「ば、化け物……!」

 

 誰かが呟いた。

 カインが斬った数が十に届こうとした頃、野盗たちの勢いは完全に止まっていた。

 

 足を止めた。

 止めざるを得なかった。

 血に濡れた男が、まだ笑っていたからだ。

 

「おい」

 

 その声は、腹の底まで響くようだった。

 

 野盗たちは息を呑む。

 

 先ほどまで下卑た笑い声で礼拝堂を満たしていた男たちが、今は誰一人として声を出せない。

 

 カインはゆっくりと剣先を下げた。

 血が刃を伝い、石床へ一滴、二滴と滴り落ちる。

 その音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

「一度だけ聞いてやる」

 

 赤の中で、灰色の双眼が浮かんでいた。

 

「お前たちの中で、死にてぇ奴はどれだけいる」

 

 嗤っていた。

 恐怖。

 暴力。

 死。

 

 そのすべてを体現したかのような存在が、壊れた教会の中央に立っていた。

 野盗たちの戦意は、とっくに折れていた。

 一人が後ずさる。

 次に、もう一人。

 

 剣を取り落とす音がする。

 誰かが情けない声で許しを乞うた。

 けれどカインは何も言わない。ただ見ている。

 

 その沈黙に耐えきれなくなったように、野盗たちは逃げ出した。

 壊れた扉から、転がるように外へ出ていく。

 怒号も、笑い声も、もうない。

 あるのは足音と、恐怖に引きつった呼吸だけだった。

 やがて、それも遠ざかる。

 

 教会には、静けさが戻った。

 けれどそれは、いつもの静けさではなかった。

 

 床には血が広がり、壊れた聖具が転がっている。

 聖像は欠け、棚は荒らされ、祭壇の布は裂けていた。

 神の家だった場所は、もう以前の姿を留めていない。

 

 その中央に、カインだけが立っている。

 血に濡れて。

 剣を下げて。

 息一つ乱さずに。

 

「よぉ、リディア」

 

 彼は振り返った。

 リディアは答えられなかった。

 

 膝をついたまま、ただ彼を見上げていた。

 胸の前で、両手を組んでいる。

 意識してそうしたのか、無意識だったのか、自分でもわからない。

 ただ、それは祈りの形だった。

 けれど、今その祈りが向かう先は、壊れた聖像ではなかった。

 

「怪我は?」

 

 カインが問う。

 リディアは小さく首を振った。

 声が出ない。

 彼はそれを見て、少しだけ息を吐いた。

 

「そりゃよかった」

 

 軽い声だった。

 人を斬った直後とは思えないほど、いつも通りの声だった。

 

 リディアの体は震えていた。

 恐怖のせいだと思いたかった。

 けれど、カインが一歩近づくと、その震えは強くなった。

 逃げたいのではない。むしろ、近づいてほしかった。

 

 どうか。

 もっと近くへ。

 そう願ってしまった。

 

 カインは、壊れた聖像をちらりと見た。

 それから、リディアの組まれた手を見る。

 そして、にやりと笑った。

 

「われらを助けたまえ、我らが神……だったか?」

 

 リディアの喉が震える。

 カインは血に濡れた剣を肩に担ぎ、冗談めかして言った。

 

「なら、助けた俺が――お前の神だな」

 

 その言葉が、礼拝堂に落ちた。

 軽口だったのだと思う。

 戦いの熱が残ったまま吐き出された、いつもの不遜な冗談。

 カインにとっては、それだけだったのかもしれない。

 

 けれど、リディアにとっては違った。

 

 壊れた聖像。

 届かなかった祈り。

 踏みにじられた神の家。

 

 伸ばした手。救いを求めた声。

 その手を取って、声を拾ってくれたのは主ーー神なんかではなかった。

 

 恐怖。

 絶望。

 そのすべての後に、彼だけが現れた。

 彼だけが助けた。

 彼だけが、自分の前に立ってくれた。

 

 リディアの胸の奥で、何かが音もなく崩れた。

 そして、崩れた場所に別のものが満ちていく。

 熱く、重く、甘く、どうしようもなく歪んだ何かが。

 頭がどうにかなってしまいそうだった……いや、もう手遅れなのだろう。

 それでも私はもう、戻れない。戻ることはしない。

 

 彼女は血に濡れた男を見上げる。

 頬は熱く、瞳は潤み、唇は震えていた。

 祈りの形に組んだ手を、さらに強く握る。

 

「……はい。主よ」

 

 掠れた声で、リディアは答えた。

 

「私の、主よ」

 

 カインの笑みが、そこでわずかに止まった。

 

「は?」

 

 ◆

 

 

 

 





  後日譚

 ◆

 あれから、七日が経った。
 教会が野盗に襲われた夜から、七日。

 壊れた扉は修理され、割れた棚は新しいものに替えられた。
 床に染みついた血も、何度も水で流され、灰を撒かれ、布で擦られたらしい。
 それでも石床の隙間には、まだ薄く赤黒い跡が残っている。

 死体は片づけられた。
 逃げた野盗どもは、その後この辺りに姿を見せていない。

 村の人間は口々に言った。
 神のご加護だ。
 シスター様が無事でよかった。
 神はこの教会を見捨てていなかった。

 そのたびに、腹の底がむず痒くなるような気分になった。
 神のご加護。
 便利な言葉だ。

 ただ、人を斬ったのは神じゃない。
 刃を振ったのも、血を浴びたのも、逃げる背中を睨みつけたのも、自分だ。
 それを恩に着せるつもりはない。たまたま近くを通った。悲鳴が聞こえた。見覚えのある教会だった。助けに入った。

 それだけだ。
 それだけのはずだった。

「カイン様」

 朝。
 宿の食堂で硬いパンを齧っていたカインの前に、湯気の立つ皿が置かれた。

 豆と根菜の煮込みだった。
 薄く切った肉も入っている。香草の匂いがした。宿の女将が出すものより、少しだけ丁寧な味がする。

 皿を見た。
 それから、皿を置いた人物を見た。

 白いヴェール。黒い修道服。胸の前で静かに重ねられた手。
 リディアが、当たり前のような顔でそこに立っていた。

「……なんでいる」
「朝食は大切ですので」

「質問に答えろ」
「答えています。朝食は大切です」

「宿の食堂に、なんで教会のシスターがいるんだって聞いてんだよ」
「カイン様が、硬いパンと干し肉だけで朝を済ませようとなさっていたので」

「見てたのか」
「はい」

「いつから」
「カイン様が食堂に降りてくる少し前から」
「それを世間では待ち伏せって言うんだよ」

 リディアは小さく首を傾げた。

「そうなのですか?」
「そうなのですか、じゃねぇ」

 カインは頭を抱えた。
 これがもう、七日続いている。

 最初は、たまたまだと思った。
 教会の修理を手伝うついでに顔を合わせる。傷の具合を見たいと言われる。その程度なら、まだわかる。

 二日目には宿の前で待っていた。

 三日目には、俺の外套へ勝手に薬草袋を縫いつけていた。

 四日目には、帰ってきた俺の手を取って「指の関節が腫れています」と言い、そのまま宿の井戸端で冷やされた。

 五日目には、酒場で安酒を頼んだ瞬間、背後から「傷の治りが遅くなります」と囁かれた。

 六日目には、町外れで剣の手入れをしていたところ、いつの間にか横に座っていて、布を差し出してきた。

 そして七日目。
 朝食に煮込みが出てきた。

 もう、意味がわからない。
 何が起きればこうなる。

「カイン様、冷めてしまいます」
「様をつけるな」

「それはできません」
「しろ」
「できません。何せ、私の主ですから」

 リディアは穏やかに、何の迷いもなく言った。
 その異常に、口を開きかけて、やめた。
 次いで、ため息を吐く。

 それはこの七日間、何度も聞いた断り文句だった。
 様をつけるなと言えば、彼女は必ずそう返す。

『私の主ですから』

 最初は怒鳴った。
 次は睨んだ。
 その次は無視した。
 さらにその次は説得を試みた。

 結果がこれだ。
 つまり全部、無駄だった。

 リディアは、拒絶すら祈りの一部みたいに受け止める。叱られれば嬉しそうに目を伏せ、突き放せば「試練ですね」とでも言いたげな顔をする。
 どうにもならない。
 こういうやつは、無敵だということはこれまでの人生でよく知っている。
 なんて、諦めながら煮込みを睨み、それから匙を取った。

「……勝手にしろ」
「はい、カイン様」

「嬉しそうにするな」
「難しいです」

「難しくてもやれ」
「努力します」

 匙を口に運ぶ。
 うまかった。
 それがまた腹立たしい。

「お口に合いましたか?」
「普通だ」

「よかった」
「普通だって言っただろ」

「カイン様の普通は、おいしい時の普通です」
「勝手に分析するな」

 リディアはふわりと笑った。
 以前の彼女は、ここまで笑わなかった気がする。

 教会で傷を治してもらっていた頃、リディアはいつも困ったような顔をしていた。
 眉を寄せて、ため息をついて、小言を言って、それでも丁寧に包帯を巻いていた。

 世話焼きで、心配性で、少しうるさい女。
 それくらいの認識だった。
 それが今はどうだ。

 目が違う。
 こちらを見る目が、明らかにおかしい。

 好意や恩義なら、まだわかる。
 だが、リディアの目にあるのは、もっと別のものだった。
 もっと深くて、重くて、湿っている。

 こちらが言葉を発するたびに、それを啓示みたいに受け取る。
 こちらが命じれば喜ぶ。
 こちらが顔をしかめても、それすらありがたそうに見つめてくる。

 気味が悪いったらありゃしない。
 なんでこうなっちまったんだ……と、煮込みを飲み込みながら、本気で頭を悩ませた。

 しかし、まぁ。
 そうはいいつつも原因は、わかっている。
 否が応でも、脳はその日の光景を思い出す。

 あの夜。
 血の臭いが満ちた教会で、壊れた聖像の前で、リディアが膝をついていた。
 胸の前で両手を組んで、熱に浮かされたような顔で、こちらを見上げていた。

 そして俺は言った。
『なら、助けた俺が――お前の神だな』
 ただの軽口だった。

 戦いの後で気が立っていた。
 教会の空気も、神だ祈りだという言葉も、何もかもが気に食わなかった。
 だから言った。言ってしまった。

「はぁ」

 あの時の自分を殴れるなら、二、三発では済まさない。

「カイン様」
「なんだ」

「右手を見せてください」
「飯食ってんだよ」

「昨日より腫れています」
「見せねぇ」

「では、食後に」
「決定すんな」

「食後に」
「お前な」

 匙を置いた。
 限界だった。

 食堂には他の客もいる。
 店主もいる。
 だから声は抑えた。だが、これ以上この調子で付きまとわれると、本当に仕事にならない。
 拒絶の意をもって、リディアを睨んだ。

「お前は一体いつまで俺のストーキングをするつもりなんだよ」

 リディアは瞬きをした。
 はて一体何のことでしょう、とでも言いかねない顔だった。

「すとーきんぐ」
「付きまといだ。監視だ。待ち伏せだ」

「人聞きが悪いです」
「実際やってんだろ」

「私は、カイン様のお世話をしているだけです」
「頼んでねぇよ」

「ですが、カイン様はご自身を大切になさいません」
「だから?」
「ですから、私が大切にします」

 言葉がまっすぐすぎて、一瞬返事に詰まった。
 リディアは微笑む。
 静かで、穏やかで、ひどく歪んだ微笑みだった。

「カイン様が不要だと仰るものを、私が拾います。
 カイン様が捨てようとなさる命を、私が抱えております。
 カイン様が傷つくのなら、私が治します。
 カイン様が汚れるのなら、私が拭います」

 つらつらと並べられる言葉に、頭が痛くなってくる。

「やめろ」
「はい。命じられるのであれば」

「命令じゃねぇ。普通にやめろって言ってんだ」
「私には、同じことです」

「同じじゃねぇ」
「同じです」

 リディアは胸の前で手を重ねた。
 祈る形ではなかった。
 けれど、俺にはそれが祈りに見えた。

「カイン様が命じるのであれば、私は従います」
「……本気で言ってんのか」
「はい」

「俺が、何を命じてもか」
「はい」

「俺が間違ってても?」
「カイン様がそう望まれるのであれば」

「人を傷つけろって言っても?」
「カイン様が本当にそれを望まれるのなら」

「教会を捨てろって言っても?」
「……カイン様が、それを望まれるのなら」

 一瞬だけ、リディアの声が揺れた。
 だが、それでも彼女は否定しなかった。

 俺は目を細める。
 軽口でも、冗談でもない。
 この女は本気だ。

 本気で、自分の命令を待っている。
 それがどれほど危ういことなのか、たぶん理解している。理解していて、それでも差し出すつもりでいる。

「それならお前は」

 口から出た声は、自分が思っているより、低いものだった。

「俺が命じれば、なんでも言うこと聞くのか?」

 リディアは迷わなかった。

「あなた様が望むものなら、なんでも」

 その言葉が、やけに静かに落ちた。
 カインは口元を歪める。

 まずい。
 普通の脅しが効かない。
 突き放しても、拒絶しても、都合よく受け取られる。

(――っち)

 内心で舌打ちを打つ。
 ……だったら、もっと直接的に言うしかない。
 この女が引くようなことを。
 神だ主だと綺麗な言葉でこちらを見上げているなら、その幻想を壊してやればいい。

「なら、お前の体」

 できる限り、最低にリディアの胸を指しながら言い放つ。

 食堂の空気が止まった気がした。
 リディアも、さすがに固まった。

 その反応を見て、内心で少しだけ安堵する。
 そうだ。
 普通はそうなる。

 恩人だの主だのと勝手に持ち上げている相手が、欲望をむき出しにした瞬間、幻滅する。
 怖がる。
 距離を取る。
 それでいい。
 これで少しは――

「よろこんで」
「……は?」

 リディアの頬が、みるみる赤く染まっていった。
 怯えではない。
 嫌悪でもない。
 感極まったような、泣きそうなほど嬉しそうな顔だった。

「今、なんて言った」

 目の横の筋肉がかすかに痙攣する。

「よろこんで、と」

 恍惚と頬を朱に染めるリディア。

「いや、違う。違うだろ。そこは違うだろ」
「どこか、問題がありましたか?」

「問題しかねぇよ」
「場所でしょうか。ここでは人目が」

「そういう問題じゃねぇ!」

 声を荒げた時には、リディアはもうヴェールに手をかけていた。
 するり、と白い布が外れる。

 淡い髪が肩へ落ちる。

 続けて、首元の留め具に指が伸びた。
 小さな金具が外れ、修道服の襟がわずかに開く。
 白い喉。鎖骨の影。
 普段は布の奥に隠されている肌が、食堂の朝日を受けてやわらかく浮かび上がった。

「待て待て待て!」

 慌てて、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
 慌てて自分の外套を掴み、リディアの肩へ乱暴にかける。

「何脱いでんだ!?」

「? ですが、カイン様が」

「それは――っ!」

 そうなんだが。
 そうじゃない。

「違うだろ!いきなり体求められてんだぞ!?
「? はい」

 何を言ってるんだという顔をするリディア。
 その顔をしたいのは俺の方である。

「普通引くだろ!」
「引く?」

「嫌がれ!怒れ!軽蔑しろ!そういう場面だろうが!」
「なぜ?」
「お前シスターじゃねぇのかよ!」

 食堂の隅で、店主が見てはいけないものを見た顔で視線を逸らした。
 舌打ちと共に、奥歯を噛む。

 最悪だ。
 朝の食堂で何をしている。
 誰のせいだ。
 たぶん、いや間違いなく自分のせいでもある。

「来い」

 急いでリディアの手首を掴んだ。

「カイン様?」
「ここじゃ話にならねぇ」

 リディアを外套で包んだまま、カインは食堂を出た。

 階段を上がり、宿の二階へ向かう。
 自分の部屋の扉を開け、リディアを中へ押し込んでから、乱暴に扉を閉めた。

 狭い部屋だった。
 寝台。机。椅子。剣を立てかける壁。
 それだけの、何の飾りもない部屋。

 リディアは外套に包まれたまま、部屋の中央に立っている。
 頬は赤く、目は潤んでいた。
 その顔を見て、頭を抱える。

「服を直せ」
「はい」

「今すぐだ」
「はい」

 リディアは素直に襟元へ手を伸ばした。
 だが、指先がわずかに震えている。
 リディアの様子に眉をひそめた。

「……お前、熱でもあるのか」
「いえ」

「嘘つけ。顔が赤い」
「これは、その」

 リディアは目を伏せた。

「お恥ずかしい話ですが、少し、香が残っておりまして」
「香?」

「あの夜、野盗の一人が持っていたものです。教会に撒かれていた香粉の一部が、修道服に染みていたようで」
「なんの香だ」

「……情欲を煽る類のものかと」

 世界が固まった。
 開いた口がふさがらない。

「なんでそんなもんを着てる」
「洗えば落ちると思ったのです」

「落ちてねぇじゃねぇか!」
「はい」
「はいじゃねぇ!」

 リディアは申し訳なさそうに目を伏せた。
 だが、その表情の奥に、熱がある。

「カイン様にお会いすると、余計に」
「余計に、なんだ」
「……胸が、苦しくなります」

 リディアの声は、細く震えていた。

「息が浅くなって、指先が熱くなって、どうしていいのかわからなくなるのです。
 祈ろうとしても、カイン様のことばかり浮かびます。
 目を閉じても、あの夜の背中が消えません。
 血に濡れて、私の前に立ってくださった姿が」

 うるんだ瞳。
 上気した頬。
 目をそらさなければ、自分が人であることを忘れてしまいそうだった。

「リディア」

 リディアは胸元を押さえた。
 襟の留め具はまだ外れたままだった。

 白い喉が上下する。
 浅い呼吸。
 熱を帯びた肌。
 修道服の黒が、かえってその白さを際立たせている。

 まずい。
 これはまずい。

 自分が今まともなのは、香を吸っていないからだ。リディアの方は違う。
 完全に飲まれてはいないが、明らかに普段より歯止めが弱い。

「その服、脱げ」

 言ってから、自分の言葉に舌打ちした。
 案の定、リディアの目が潤んだ。

「はい」
「違う。違うからな。香が残ってるなら脱いで、俺の外套でも着てろって意味だ」

「はい」
「今のはいちいち感動する場面じゃねぇ」

「ですが」
「ですがじゃない」

 早くしろ、と俺はリディアに背を向ける。

「俺は見ねぇ。さっさと着替えろ」

 背後で、布の擦れる音がした。
 留め具が外れる小さな音。
 修道服が肩から落ちる気配。

 天井を睨む。
 見るな。
 絶対に見るな。

 そう思うほど、背後の気配が鮮明になる。
 衣擦れ。
 浅い息遣い。
 床に布が落ちる音。
 そして、少しの沈黙。

「カイン様」
「なんだ」

「外套が」
「そこにあるだろ」

「うまく、羽織れません」
「子供かお前は」

 なんでだよ、と。
 苛立ち混じりに振り返りかけて、ぎりぎりで止まった。

「自分でやれ」

 リディアからの返答はない。
 帰ってくるのは、荒い息使い。

「申し訳ありません。手が、震えて」
「……」

 目を閉じた。
 これ以上放っておけば、本当に何かに引火する。
 主に、自分の中のナニカに。

(だぁ、くそ)

 自分の視線を床へ落としながら振り返った。
 リディアは寝台の端に腰を下ろしていた。
 修道服は足元に落ちている。

 肌着一枚の上から、カインの外套を抱えている。
 隠れている。
 隠れてはいる。だが、隠れているからこそ余計に目のやり場に困る。

 白い肩。
 細い足首。
 赤く染まった耳。
 その姿に心の中で悪態をついた。

「動くな」
「はい」
「返事もするな」

 我ながら酷い無茶ぶりというか八つ当たりだとは思うが、そんなこと考えている余裕など、もはやない。
 リディアは唇を閉じた。

 彼女が持っている外套を取り上げ、彼女の肩へかけなおす。
 首元を包む。
 胸元を隠す。
 膝まで布を落とす。

 雑にやればいいのに、指先が妙に慎重になる。
 肌に触れないように……けれど、完全には避けきれない。
 指が肩先をかすめた瞬間、リディアの体が小さく震えた。

「声を出すな」

 リディアは小さく頷いた。

「俺の冗談で、自分を差し出すな」

 リディアの睫毛が震える。

「体ってのは、命令で渡すもんじゃねぇ。恩でも、信仰でも、差し出すもんじゃねぇ。お前が、お前の意思で守るもんだ」
「……ならば」


 リディアが、こちらを見上げているのが分かる。
 その妖しさに、思わず息をのむ。

「ならば、私の意思で、望むことならば、許されますか」

 カインは黙る。
 リディアは外套の前を握りしめていた。

「カイン様に触れたいと思うことも、許されますか」
「香のせいだ」

「そうかもしれません」
「なら」
「でも、香がなくても、私はきっと同じことを願います」

 リディアは顔を上げた。
 潤んだ瞳が、カインを捉える。

「カイン様に、触れたいです」
「やめろ」

「触れてほしいです」
「リディア」

 リディアが立ち上がった。
 外套が肩からずれる。

「お許しください」

 こちらに歩み寄るリディアを止めようと手を伸ばした。
 その手を、リディアが掴んだ。
 細い指とは思えないほど、強い力だった。

「あなた様に、情欲に溺れてしまいそうな、私を」

 次の瞬間、背中が寝台に沈んだ。

「……っ、おい!」

 押し倒された。
 理解するより早く、リディアが上に乗っていた。

 軽い。
 力で退けようと思えば、すぐにできる。
 なのに、一瞬動けなかった。
 思わず、見惚れた。

 乱れたヴェール。
 外套から覗く白い肌。
 赤い頬。
 祈るように潤んだ瞳。
 そのすべてが、あまりにも近かった。

「お前、何して」
「申し訳ありません」

「謝るならやるな」
「止めてください」

「は?」
「カイン様が本当に嫌なら、止めてください。私は、きっと逆らえません」

 リディアの声は震えていた。
 熱に浮かされている。
 だが、完全に自分を失っているわけではない。

 彼女はわかっている。
 自分が今、何をしようとしているのか。
 わかっていて、カインに止める権利を渡している。
 その事実に、奥歯を噛んだ。

「卑怯だぞ、お前」
「はい」

「はいじゃねぇ」
「私は、卑怯です」

 リディアの指が、肌を撫でる。

「あなた様に拒まれれば、それを罰だと思えます。
 あなた様に受け入れられれば、それを祝福だと思ってしまいます。
 どちらにしても、私はカイン様から離れられない」

 もはや抵抗する気もおきん、と両腕を寝台に下した。

「重すぎる」
「ありがとうございます」

「褒めてねぇ」
「わかっています」

 リディアはゆっくりと身をかがめた。
 髪が頬に触れる。
 甘い香がした。
 香粉の残り香。
 教会の蝋燭。
 そして、リディア自身の熱。

「カイン様」
「なんだ」

「ひとつだけ、命じてください」
「何を」
「私を、止めるのか」

 彼女の唇が、耳元に近づく。

「それとも、このまま溺れることを許してくださるのか」

 このまま、欲のままにこの女に貪りつきたいという思いをどうにか我慢しながら天井を睨んだ。

「はぁ」

 わしわしと、髪を掻きむしる。
 どうしてこうなった。
 何度目かわからない問いが、頭の中をよぎる。

 きっと、この女を壊したのは自分なのだろう。

 そうでないかもしれないし、俺の与り知らぬことと言えばそれまでだ。しかしおそらく、完全には間違っていない。

 あの夜、軽口で神を名乗った。

 それを真に受けるほど、リディアは追い詰められていた。
 だからと言ってb責任を取れ、などと言われても困る。
 困る、はずだった。
 だが。

 自分の上で震えているリディアを、力ずくで床へ放ることはできなかった。
 俺は片手でリディアの手首を掴んだ。
 もう片方の手で、ずれた外套を引き上げる。

 隠すためではない。
 逃がさないためでもない。
 ただ、彼女の体が冷えないように。

「……香のせいだけじゃねぇんだな」
「はい」

「明日になって後悔しても知らねぇぞ」
「後悔するなら、触れなかったことを後悔します」

「言うようになったじゃねぇか」
「カイン様のせいです」

「俺のせいにするな」
「はい。私のせいです。全部、私のせいですから」

 リディアは微笑みながら、俺の胸元に手を這わせる。
 リディアの顔を見る。
 泣きそうなほど嬉しそうな顔だった。

「俺は神じゃねぇ」
「はい」

「祈るな」
「はい」

「崇めるな」
「……努力します」

「そこは即答しろ」
「難しいです」

「本当に面倒な女だな」
「はい」

 掴んでいたリディアの手首を離す。
 その代わり、彼女の頬に触れた。

 熱い。
 指先に、リディアの震えが伝わってくる。

「なら、今だけだ――神だの主だの、そういうのは全部置いていけ」
「……はい」
「俺の上にいるのは、シスターでも信徒でもなく、ただの女だ」

 リディアの瞳が大きく揺れた。
 それから、彼女はゆっくりと頷いた。

「はい」

 今度の返事には、祈りの響きがなかった。
 ただ、熱があった。
 リディアはカインの胸に手をつき、恐る恐る顔を近づける。

「……カイン……さま」

 唇が触れる。
 拙い口づけだった。
 祈り方は知っていても、こういう触れ方は知らない。そんな不器用さがあった。
 すぐに離れようとしたリディアの後頭部を、片手で押さえる。

「……っ」

 リディアは震えながら唇を噛んだ。
 リディアの頬がさらに赤くなる。

 リディアの手が、胸元を辿る。
 指先は震えている。けれど逃げない。
 自分の手もまた、外套越しに彼女の腰へ回っていた。

 細い。
 頼りない。
 それなのに、熱だけは強い。

「カイン様」
「今は呼ぶな」
「では」

 リディアは少し考えて、恥ずかしそうに目を伏せた。

「カイン」

 呼び捨てにされた瞬間、自分の中で何かがひどく悪い方向へ傾いた。

「……お前な」
「駄目、でしたか」
「いや」

 彼女の細い腰を引き寄せる。
 彼女の体が、完全に重なった。

 外套と肌着と服。
 まだ何枚も隔てている。
 それなのに、リディアは息を詰まらせ、カインの肩に指を立てた。

「悪くない」

 そう言った瞬間、リディアの表情がほどけた。
 それは、シスターの顔ではなかった。
 信徒の顔でもない。
 恋を知ってしまった女の顔だった。

「もう一度、呼んでも?」
「好きにしろ」
「はい」

 リディアは嬉しそうに笑った。
 その笑みに煽られるように、彼女を抱き寄せ、もう一度唇を塞いだ。
 今度は、先ほどより深かった。

 リディアの手が、背に回る。
 祈りのために組まれていたはずの指が、男の服を掴む。

 蝋燭の火が揺れた。
 窓の外では、朝の気配が少しずつ遠のいていくように感じた。

 リディアの外套が寝台の上に広がる。
 白いヴェールが、静かに床へ落ちる――それを見て、低く笑った。

「明日から、付きまとうなよ」
「努力します」

「お前の努力は信用できねぇな」
「では、また叱ってください」

 どこか、浮ついた顔。
 呆れてため息が出る。

「……そういうところだ」

 リディアは答えなかった。
 代わりに、自分の胸元へ額を寄せる。
 熱い吐息が、服越しに落ちた。

「お許しください」

 彼女はもう一度、囁いた。

「カイン様に、情欲に溺れる私を」

 天井を見上げる。
 最後の理性が、呆れたように肩をすくめている気がした。

「……今回だけだ」

 彼女の背に腕を回しす。
 今回だけ。
 その言葉がどれほど信用ならないものか、自分でもわかっていた。
 それでもリディアは、祝福を受けたように微笑んだ。

 して。
 その夜ではなく、その朝。
 祈りのために組まれていたシスターの手は、男の背に回された。
 そしてカインは、その手を振りほどかなかった。



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