ボレアス家の庭に、三つの声が響くようになった。
「前!」
「右、抜ける!」
「足元、変えます!」
エリスの声。
レンの声。
ルーデウスの声。
最初はばらばらだった。
エリスは声を出す前に突っ込む。
レンは声を出す前に動く。
ルーデウスは声を出した時には、もう魔術を発動しかけている。
そのたびにギレーヌの木剣が飛んできた。
「遅い」
「早すぎる」
「味方を見ろ」
「敵を見失うな」
「声を出せ」
「声だけで満足するな」
短い言葉と、痛い一撃。
それが毎日のように繰り返された。
朝は剣。
昼は授業。
夕方は連携。
夜は復習。
以前のボレアス家なら、エリスは授業から逃げ回り、使用人を困らせ、ギレーヌに引きずられていたのだろう。
だが、今は違う。
少なくとも、完全には逃げなくなった。
理由は単純だった。
ルーデウスが授業を戦いに結びつけたからだ。
「今日の計算は、護衛の配置です」
「配置?」
エリスが眉を寄せる。
「はい。敵が三人、味方が三人。誰がどこに立てば、一番守りやすいかを考えます」
「それならやるわ」
「では、この図を見てください」
ルーデウスは板に丸と線を描く。
前にエリス。
斜め後ろにレン。
さらに後ろにルーデウス。
そして敵が三つ。
エリスは最初、文字を見るだけで嫌そうな顔をしていた。
だが、そこに剣や敵の位置が入ると話が変わる。
「こいつが横から来たら、レンが止めるのよね」
「そうです」
「でも、こっちの敵が私の横を抜けたら?」
「その時、エリス様が追いすぎると陣形が崩れます」
「追わなきゃ逃げるじゃない」
「だから、レン君に任せるか、僕が足を止めます」
「む……」
エリスは唸る。
納得しきってはいない。
だが、考えている。
それだけでも大きな変化だった。
読み書きも同じだった。
以前は、手紙と聞けば面倒だと投げ出しかけた。
だが、ルーデウスが「作戦を伝えるには文字が必要です」と言った途端、少しだけ態度が変わった。
右。
左。
前。
後ろ。
下がる。
止まる。
回り込む。
短い単語から始まり、やがて簡単な文章になった。
エリスの字は荒かった。
線が強すぎて紙が破れそうになる。
だが、以前よりは読める。
本人はそれを認めたがらない。
「字なんて読めればいいのよ」
「読めるようになってきましたね」
ルーデウスが言うと、エリスはそっぽを向く。
「当たり前でしょ」
「褒めています」
「分かってるわよ!」
顔は怒っている。
だが、耳は少し赤い。
レンは隣でそれを見て、小さく笑いそうになる。
すると必ず睨まれる。
「何笑ってるのよ」
「笑ってない」
「笑った顔だったわ」
「エリスの字、少し読みやすくなったなと思って」
「少し!?」
「前より」
「もっと褒めなさいよ!」
「かなり読みやすくなった」
「最初からそう言いなさい!」
理不尽だった。
だが、それもいつものことになりつつあった。
◇
ギレーヌもまた、授業を受けていた。
最初はその光景に、レンも少し戸惑った。
剣王級の剣士。
ギレーヌ・デドルディア。
大人の男たちを一瞬で叩き伏せる彼女が、子供たちと並んで文字を書いている。
しかも、真剣に。
とても真剣に。
エリスが途中で飽きて足を揺らす横で、ギレーヌは一文字ずつ丁寧になぞっていた。
「右」
低い声で読む。
「左」
少し間を置く。
「前」
板を見る。
「後ろ」
間違えると、無言で眉間に皺が寄る。
だが、投げ出さない。
ギレーヌは分からないことを恥じていない。
分からないままにすることを嫌っている。
それは剣の稽古と同じだった。
できない。
なら、できるまでやる。
エリスは最初、ギレーヌが授業を受けることを不思議がっていた。
「ギレーヌも字が苦手なの?」
「はい」
「なのに、やるの?」
「必要です」
「面倒じゃない?」
「面倒です」
「じゃあ何で?」
「強くなるためです」
その一言で、エリスは黙った。
強くなるため。
そう言われれば、エリスは反論できない。
レンも同じだった。
文字を書くこと。
数を数えること。
地図を読むこと。
それらは剣を振ることとは違う。
だが、戦うために必要になることがある。
町中で誰かを守る時。
依頼を読む時。
敵の数を把握する時。
道を選ぶ時。
知らなければ、剣を抜く前に負ける。
ルーデウスはそれを知っている。
ギレーヌも、それを学ぼうとしている。
レンもまた、授業を軽く見ることはできなかった。
◇
午後の魔術訓練は、レンにとって特に新鮮だった。
エリスは魔術に対して、最初からあまり相性が良くなかった。
いや、興味がないわけではない。
水弾で的が砕ければ目を輝かせる。
土が盛り上がれば面白がる。
炎が灯れば、もっと大きくしろと言う。
だが、自分でやるとなると、すぐに苛立つ。
「出ない!」
「もう少し魔力をゆっくり流してください」
「流してるわよ!」
「力みすぎです」
「魔術なのに力むって何よ!」
エリスは両手を突き出したまま怒鳴る。
ルーデウスは苦笑しながら、丁寧に説明する。
「剣で強く振ろうとして肩に力が入ると遅くなりますよね」
「なるわね」
「それと同じです」
「魔術も剣みたいに言えばいいと思ってるでしょ」
「エリス様にはその方が伝わるので」
「むかつくけど、ちょっと分かるのがもっとむかつくわ」
結局、エリスは小さな水を出すのにもかなり苦戦した。
出たとしても、形が崩れる。
飛ばそうとすると、すぐ落ちる。
何度も失敗する。
そのたびに怒る。
しかし、やめない。
それがエリスだった。
一方で、レンは魔術そのものを本格的に習うつもりはなかった。
魔力はある。
簡単な感覚も、ルーデウスに教われば掴めないわけではない。
だが、レンの中心は剣だ。
大亀流だ。
魔術を鍛え始めれば、時間がいくらあっても足りない。
だから、彼が集中したのは、魔術を見ることだった。
ルーデウスが水弾を撃つ。
レンはその前後を見る。
手。
肩。
目。
呼吸。
足。
指先。
魔力そのものは見えない。
だが、完全に無から水が生まれるわけではない。
ルーデウスほど無詠唱に長けた者でも、意識の向きは出る。
狙いを定める瞬間。
手首がわずかに変わる瞬間。
体の中心が的へ向く瞬間。
そこに、起こりのようなものがある。
剣士の踏み込みほどはっきりしていない。
けれど、何もないわけではない。
「もう一度」
レンが言う。
ルーデウスは水弾を作る。
今度はわざと少し遅く。
レンは横へ外れる。
水弾が通り過ぎ、的に当たる。
「今のは避けられましたね」
「ゆっくりだったから」
「実戦ならもっと速くします」
「だよね」
「でも、レン君はさっきより反応が早いです」
「手を見るより、目と体の向きを見た方が少し分かる」
「なるほど」
ルーデウスは興味深そうに頷く。
「僕も、撃つ前に癖が出ているのかもしれません」
「たぶん」
「直した方がいいですね」
「こっちは困るけど」
「お互い様です」
ルーデウスは笑った。
その笑みは年相応にも見える。
だが、会話の中身はやはり子供のものではない。
レンはまだ、そこへ踏み込まない。
ルーデウスも踏み込まない。
それでいい。
今はまだ、剣と魔術の話だけで十分だった。
◇
三人での連携は、少しずつ形になっていった。
エリスは前に出る。
それは変わらない。
変わらないが、前に出た後のことを考えるようになった。
外された時。
横から敵が来た時。
ルーデウスの魔術の線を塞がない位置。
レンが横へ入る空間。
そういうものを、少しずつ意識するようになった。
もっとも、熱くなればすぐ忘れる。
「エリス、出すぎ!」
「分かってるわよ!」
「分かってないから言ってる!」
「うるさい!」
怒鳴りながらも、半歩下がる。
その半歩が以前とは違う。
レンはエリスの横を抜けた相手を止める。
雷電型第一式で手元を潰す。
影縫で相手の視線から外れる。
逆鱗で防御の外を滑らせる。
荒神で武器の軌道を崩す。
時には火柱で押し返そうとして、力不足を思い知らされる。
大亀流の五剣一式は、単体で使うだけでは足りない。
連携の中では、もっと短く、もっと早く、もっと選んで使わなければならない。
大技を出す時間がない時もある。
技に入る前に、味方の位置を見なければならない時もある。
それは難しい。
だが、面白かった。
ルーデウスは後ろから場を作る。
土で足を止める。
水で視界を塞ぐ。
小さな風で木片を飛ばし、注意を逸らす。
炎は危険なので、訓練ではほとんど使わない。
彼の魔術は派手ではない時ほど厄介だった。
敵を倒すのではなく、一瞬だけ遅らせる。
足元をずらす。
目線を動かす。
その小さな一瞬に、エリスかレンが入る。
ギレーヌはそれを見ながら、時々言った。
「今のはよい」
「今のは遅い」
「味方を巻き込むな」
「声が足りない」
「声に頼るな」
矛盾しているようで、矛盾していない。
声は必要。
だが、声だけでは遅い。
見ることも必要。
だが、見ることに集中しすぎれば身体が遅れる。
考える。
沈める。
動く。
何度も失敗し、何度も打たれながら、三人は少しずつ覚えていった。
◇
そんな日々の中で、ルーデウスは時折、遠くを見るような目をした。
授業の合間。
庭の端。
魔術の訓練後。
彼はふと空を見上げる。
その横顔に、子供らしからぬ影が差す。
レンは何度か気づいた。
エリスも気づいているのか、ある日、唐突に言った。
「ルーデウス」
「はい?」
「たまに変な顔するわよね」
「変な顔ですか」
「そう。何か考えてる顔」
「いつも考えていますよ」
「そういうのじゃないわ」
エリスは腕を組む。
「あんた、何かやりたいことでもあるの?」
ルーデウスは少し驚いたようだった。
レンも驚いた。
エリスが、こういう聞き方をするとは思わなかった。
以前の彼女なら、気に入らなければ殴るか怒鳴るかだった。
だが、今は相手の中にあるものを見ようとしている。
ルーデウスは少し考えた後、答えた。
「あります」
「何?」
「魔法大学に行きたいと思っています」
「魔法大学?」
エリスが首を傾げる。
「魔術を学ぶ場所です」
「ふうん。強い魔術師がいるの?」
「いると思います」
「じゃあ面白そうね」
「僕の場合、そこへ行くためのお金を貯める必要があります」
ルーデウスは少し笑った。
「家庭教師の仕事を引き受けた理由の一つも、それです」
「お金のため?」
「はい」
エリスはじっとルーデウスを見た。
普通なら、貴族の娘相手に金のためと言うのは失礼なのかもしれない。
だが、ルーデウスは正直に言った。
エリスはそれをどう受け取るのか。
レンは少し気にしていた。
エリスはしばらく黙ってから、ふんと鼻を鳴らした。
「なら、ちゃんと働きなさい」
「はい」
「私を強くして、字も読めるようにして、魔術も教えるのよ」
「もちろんです」
「それでお金をもらうなら、ちゃんとやりなさい」
ルーデウスは一瞬、目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「はい。頑張ります」
エリスは当然という顔をした。
「レンは?」
「俺?」
「あんたは何のためにここにいるの?」
突然だった。
レンは少しだけ言葉に詰まった。
武者修行。
大亀流が外でどれだけ通じるかを見るため。
強くなるため。
怖くても動けるようになるため。
エリスやルーデウスと出会う前なら、それで答えは終わっていた。
だが、今は少し違う。
「最初は、自分の剣を試すためだった」
「今は?」
エリスがまっすぐ見てくる。
逃げられない目だった。
レンは木刀の柄に触れた。
「今は、強くなりたい。自分のためにも、誰かと一緒に生き残るためにも」
エリスは少し黙った。
ルーデウスも静かに聞いている。
「ふうん」
エリスはそっぽを向いた。
「なら、私と同じね」
「同じ?」
「強くなるのよ。理由は違っても、やることは同じでしょ」
あまりにも単純な結論だった。
だが、不思議と腑に落ちた。
レンは頷く。
「そうだね」
「じゃあ、今日もやるわよ」
「今、休憩中だったと思う」
「休憩は終わり」
「誰が決めたの」
「私」
「だと思った」
エリスは木剣を手に取る。
ルーデウスは苦笑する。
レンも木刀を持ち上げた。
結局、そうなる。
考えた先に、いつも稽古がある。
それがボレアス家の日々になっていた。
◇
季節は少しずつ進んでいった。
ロアの町を吹く風が変わり、庭の木々の色が変わる。
エリスの字は少しずつ読めるものになった。
算術も、買い物や護衛の配置に絡めれば解けるようになってきた。
魔術は相変わらず苦手だったが、小さな水を出すことには成功した。
その時のエリスの勝ち誇った顔は、三本勝負で一本取った時と同じだった。
「見た!? 水よ!」
「見ました」
ルーデウスが拍手する。
「小さいけど」
レンが言うと、エリスは即座に睨む。
「出たのが大事なのよ!」
「そうだね」
「もっと驚きなさい!」
「すごい」
「棒読み!」
結局、怒られた。
ギレーヌも読み書きが進んだ。
簡単な手紙なら、時間をかけて読めるようになった。
その時、彼女は小さく頷いただけだった。
だが、ルーデウスは静かに拍手し、エリスも珍しく素直に喜んだ。
「ギレーヌ、読めたじゃない!」
「はい」
「すごいわ!」
「ありがとうございます」
ギレーヌの声はいつも通りだった。
だが、その目は少しだけ柔らかかった。
ルーデウスは家庭教師として、少しずつ屋敷に馴染んでいった。
エリスは相変わらず彼を怒鳴る。
殴ることもある。
だが、以前とは違う。
完全に拒絶しているわけではない。
騙された件を忘れたわけではないが、助けられたことも忘れていない。
その二つを抱えたまま、彼女はルーデウスの授業を受けるようになった。
レンは、屋敷の雑用を手伝いながら、稽古を続けた。
ギレーヌとの手合わせでは、相変わらず一方的に打たれる。
だが、まったく触れられないわけではなくなった。
一度だけ、荒神で木剣の軌道をほんの少し逸らし、ギレーヌの袖をかすめたことがある。
その時、エリスは自分のことのように騒いだ。
「今、触ったわよね!?」
「袖だけ」
レンが言う。
「触ったのは触ったでしょ!」
ギレーヌは木剣を下ろし、短く言った。
「今のはよかったです」
それだけだった。
だが、レンには十分だった。
ほんの少し。
本当にほんの少しだけ、壁に爪がかかった気がした。
◇
ある日の夕方。
三人は庭で並んで座っていた。
稽古の後で、誰もすぐには立てなかった。
エリスは汗だくになりながら、空を見ている。
ルーデウスは息を整えながら、手元のメモに何かを書いている。
レンは木刀を膝に置き、沈む夕日を見ていた。
「何書いてるの?」
エリスがルーデウスの手元を覗く。
「今日の反省です」
「反省?」
「はい。エリス様が前に出すぎたところとか」
「消しなさい」
「事実なので」
「消しなさい」
「では、良かったところも書きます」
「それならいいわ」
エリスは単純だった。
ルーデウスは続けて書く。
「エリス様、三本目の踏み直しは良かったです」
「当然よ」
「レン君は、二本目の荒神で護衛の剣を外したところが良かったです」
「ありがとう」
「ただし、その後エリス様の位置を見るのが遅れました」
「はい」
「僕は土の位置が少し前すぎました」
「自分の反省も書くんだ」
「もちろんです」
ルーデウスは当然のように答える。
エリスはそれを見て、少しだけ感心したようだった。
「先生も反省するのね」
「しますよ」
「ふうん」
エリスは空を見る。
「じゃあ、明日はもっと良くなるわね」
「そのための反省です」
「ならいいわ」
レンはそのやり取りを聞きながら、目を細めた。
明日。
この屋敷では、自然にその言葉が出る。
明日も授業。
明日も稽古。
明日も三本勝負。
明日も失敗して、明日も直す。
そんな日々が続いていくように思える。
だが、レンの胸の奥には、時折小さな不安がよぎった。
原作の流れを知るわけではない。
未来を知っているわけでもない。
それでも、この世界がただ穏やかに続く場所ではないことは知っている。
魔物がいる。
貴族の思惑がある。
人の悪意がある。
そして、いつか予想もしない何かが起きる。
倉庫の事件で、それを少しだけ知った。
だからこそ、今やる。
今、強くなる。
今、見えるものを増やす。
レンは木刀を握る。
エリスが言った。
「レン」
「何?」
「明日は、私が勝つわ」
「毎日言ってる」
「明日は本当に勝つの」
「今日も本気だったよね」
「明日はもっと本気」
レンは笑った。
「なら、俺ももっと本気でやる」
「よし!」
ルーデウスが苦笑する。
「毎日これですね」
「先生も明日はもっと本気で撃ちなさい」
「味方に当てない範囲で」
「当てたら殴るわ」
「気をつけます」
三人の声が、夕方の庭に溶けていく。
その遠くで、ギレーヌが静かに見ていた。
彼女の目は厳しい。
だが、どこか満足しているようにも見えた。
ボレアス家の庭で、三人の子供たちは少しずつ変わっていた。
エリスは、前だけではなく横と後ろを見るようになった。
ルーデウスは、誰かと連携して魔術を使うことを覚え始めた。
レンは、一人で立つ剣から、共に生き残る剣へと少しずつ踏み出していた。
家庭教師の日々。
それはただの授業ではない。
ただの稽古でもない。
後に大きな災厄が彼らを呑み込む時、この庭で交わした声と距離が、確かに彼らを生かすことになる。
まだ誰も、そのことを知らない。
今はただ、明日も強くなると信じて、三人は夕日の中で息を整えていた。