無職転生×異伝   作:からし明太子

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第二十一話 ターニングポイント

 

 

 ルーデウスの十歳の誕生日から、まだ一日しか経っていなかった。

 

 屋敷の中には、昨日の祝いの名残がわずかに残っていた。

 

 廊下の片隅には片付けきれていない飾りがあり、厨房の方からは甘い菓子の匂いがまだ薄く漂っている。

 

 サウロスの豪快な笑い声も、昨日よりは少しだけ控えめだった。

 

 もっとも、それでも普通の人間よりは十分に大きいのだが。

 

 ルーデウスは朝から、新しく贈られた杖を手にしていた。

 

 細身で、彼の体格に合った杖。

 

 派手な装飾は少ないが、握った時の収まりがよく、先端には淡い青の石が埋め込まれている。

 

 魔力を流すと、その石の奥で水面のような光が揺れた。

 

「……すごいですね、これ」

 

 庭の端で、ルーデウスは慎重に水弾を作っていた。

 

 いつものように無詠唱。

 

 だが、昨日までとは勝手が違うらしい。

 

 ほんの少し魔力を流しただけで、水弾が大きくなりすぎる。

 

 抑えようとすると、今度は形が乱れる。

 

 良い道具は、ただ便利なだけではない。

 

 使う側にも、それに見合う制御を求める。

 

 レンはそれを見て、自分の腰にあるものを意識した。

 

 片刃の真剣。

 

 昨日、エリスから贈られた剣。

 

 黒に近い深い赫色の鞘。

 

 浅く反った片刃。

 

 この世界の鍛冶師が、大亀流の動きとレンの体格を聞いた上で用意した業物。

 

 まだ名はない。

 

 昨日、初めて抜いた時の感覚が手に残っている。

 

 重い。

 

 冷たい。

 

 美しい。

 

 そして怖い。

 

 木刀とは違う。

 

 訓練用の剣とも違う。

 

 本物の刃。

 

 人を傷つけ、命を奪えるもの。

 

 その重さを、レンはまだ完全には受け止めきれていなかった。

 

「レン」

 

 エリスがこちらを見た。

 

 彼女はいつものように木剣を肩に担いでいる。

 

 赤い髪が朝の風に揺れていた。

 

「今日はその剣でやるの?」

 

「ギレーヌさんが許したら」

 

「許してくれるの?」

 

「たぶん、まだ無理」

 

「つまらないわね」

 

「真剣だから」

 

「分かってるわよ」

 

 エリスはそう言いながらも、不満そうだった。

 

 彼女が贈った剣だ。

 

 早く振るところを見たいのだろう。

 

 だが、ギレーヌは厳しかった。

 

 真剣は、抜くだけで危ない。

 

 構えるだけで周囲を斬る。

 

 納める時に自分を傷つける者もいる。

 

 だからまずは、抜く、構える、納める、歩く。

 

 それだけを何度も繰り返せと言われていた。

 

 レンは今朝も、日が昇る前から庭でそれを続けていた。

 

 抜く。

 

 構える。

 

 納める。

 

 歩く。

 

 刃の位置を忘れない。

 

 刃を見すぎない。

 

 怖がりすぎない。

 

 けれど、軽く扱わない。

 

 剣に使われるな。

 

 剣に怯えるな。

 

 剣を飾りにするな。

 

 持つなら、責任ごと持て。

 

 ギレーヌの言葉が、まだ胸に残っている。

 

 そのギレーヌは、庭の中央に立って空を見上げていた。

 

 いつもより無口だった。

 

 いや、ギレーヌは普段から無口だ。

 

 だが今日の無口は、いつもと違う。

 

 耳が落ち着きなく動いている。

 

 尻尾も、わずかに緊張しているように見えた。

 

「ギレーヌさん」

 

 レンが声をかける。

 

 ギレーヌは空から視線を下ろした。

 

「何かありますか」

 

「分からない」

 

 短い答えだった。

 

 だが、軽くはない。

 

「魔物ですか?」

 

「違う」

 

「人?」

 

「違う」

 

 ギレーヌはもう一度、空を見る。

 

「空気が変だ」

 

 レンも空を見上げた。

 

 雲は薄い。

 

 雨が降りそうな空ではない。

 

 だが、光が白すぎる。

 

 朝の光なのに、どこか色が抜けている。

 

 鳥の声も少なかった。

 

 風も妙に乾いている。

 

 ルーデウスも杖を下ろし、空を見上げた。

 

「魔力の流れが変です」

 

 ギレーヌの耳が動く。

 

「分かるのか」

 

「はっきりとは。でも、遠くで巨大な何かが渦を巻いているような……いえ、うまく説明できません」

 

 ルーデウスは眉を寄せる。

 

 普段の彼なら、もう少し理屈で整理しようとする。

 

 だが今は、そのための言葉が足りていないようだった。

 

 エリスは空を見上げ、不満そうに木剣を振る。

 

「何よ、みんなして。気持ち悪いわね」

 

「エリス様」

 

 ギレーヌが言った。

 

「今日は、屋敷の外へは出ないでください」

 

「出る予定なんてないわよ」

 

「レン。ルーデウス。お前たちもだ」

 

「はい」

 

「はい」

 

 レンとルーデウスは同時に返事をした。

 

 エリスだけが、少しむくれた顔をする。

 

「じゃあ、稽古は?」

 

「軽く行います」

 

「軽く?」

 

「様子を見ながらです」

 

「本気で軽くね」

 

「軽くです」

 

 いつものやり取りだった。

 

 だが、いつもの庭の空気ではなかった。

 

 レンの胸の奥には、小さなざわつきがあった。

 

 あの夜。

 

 窓の外で、一瞬だけ見えた光。

 

 それから続いている、空の違和感。

 

 何かが近づいている。

 

 そう思っていた。

 

 だが、それが何かは分からなかった。

 

 分からないまま、時間だけが進んでいく。

 

 ◇

 

 稽古は、いつもより静かに始まった。

 

 前にエリス。

 

 斜め後ろにレン。

 

 後ろにルーデウス。

 

 ギレーヌが相手をする。

 

 三年かけて身体に染み込ませた距離。

 

 エリスが正面を押さえ、レンが横を崩し、ルーデウスが後ろから場を変える。

 

 何度も繰り返してきた形。

 

「始める」

 

 ギレーヌの声。

 

 エリスが飛び出す。

 

 木剣を振り下ろす。

 

 ギレーヌは半歩ずれて外す。

 

 その先へ、レンが入る。

 

 今日は真剣ではない。

 

 木刀だ。

 

 片刃の剣は腰にあるが、抜く許可は出ていない。

 

 それでも、真剣を持った後の感覚が、木刀の動きにも影響していた。

 

 木刀が軽い。

 

 だからこそ、雑に振れば線が死ぬ。

 

 レンは刃があるつもりで木刀を運ぶ。

 

 水龍型第一式・逆鱗。

 

 受けると見せて軌道を変える。

 

 ギレーヌの木剣には通じない。

 

 だが、一瞬だけ手元を動かすことはできた。

 

 ルーデウスが声を出す。

 

「足元、前!」

 

 土がわずかに盛り上がる。

 

 ギレーヌは踏まない。

 

 避ける。

 

 その避けた先へ、エリスが踏み直す。

 

 以前なら、そのまま大きく振り回していただろう。

 

 今は違う。

 

 一度止まり、次の一歩で打つ。

 

 木剣が鋭く戻る。

 

 ギレーヌは受け流す。

 

 だが、今の一連は悪くない。

 

 レンはそう思った。

 

「右!」

 

 レンが声を出す。

 

 ギレーヌがレンとエリスの間を抜けようとする。

 

 狙いはルーデウス。

 

 レンは斜めに入る。

 

 雷電型第一式。

 

 壱で手元。

 

 弐で肘。

 

 参で肩口。

 

 ただし、いつものような速さ頼みではない。

 

 刃筋を意識する。

 

 真剣を持つ稽古で見えた雑さを消す。

 

 速く。

 

 だが、乱さず。

 

 ギレーヌの木剣が、壱を受ける。

 

 弐を避ける。

 

 参へ入る前に、レンの肩へ柄が入った。

 

「死んだ」

 

「はい」

 

 レンは息を吐く。

 

 だが、ギレーヌは少しだけ頷いた。

 

「今のは悪くない」

 

「本当ですか?」

 

「だが、三手目が見えすぎている」

 

「はい」

 

「お前は三段を繋げる時、最後で取ろうとしすぎる」

 

「はい」

 

「壱で取れるなら壱で取れ。弐で崩れたなら弐で終われ。参まで行くことを決めるな」

 

 レンは木刀を握り直した。

 

 技は見せるものではない。

 

 必要な一手を出すもの。

 

 玄斎にも、ギレーヌにも、何度も言われてきたことだ。

 

「はい」

 

 その時だった。

 

 風が止まった。

 

 本当に、止まった。

 

 庭の草が揺れない。

 

 木の葉が動かない。

 

 鳥の声が消えた。

 

 空気が、固まったようになった。

 

 最初に顔を上げたのはルーデウスだった。

 

「……っ」

 

 彼の顔色が変わる。

 

 次に、ギレーヌの耳がぴんと立った。

 

 レンの背中にも、冷たいものが走る。

 

 腰の真剣が、鞘の中で鳴ったような気がした。

 

「何よ」

 

 エリスが周囲を見る。

 

 その瞬間、空が光った。

 

 白ではない。

 

 青でもない。

 

 紫にも、緑にも、赤にも見える。

 

 色と呼んでいいのか分からない光だった。

 

 フィットア領の上空。

 

 そこに、巨大な光の渦が生まれていた。

 

 最初は遠く見えた。

 

 だが次の瞬間には、空そのものがこちらへ落ちてくるように感じた。

 

「ルーデウス!」

 

 ギレーヌが叫ぶ。

 

「何だ、あれは!」

 

「分かりません!」

 

 ルーデウスは杖を握る。

 

 青い石が激しく光った。

 

「魔力が……大きすぎる!」

 

 エリスが木剣を構えた。

 

「敵なの!?」

 

「違う! 下がれ!」

 

 ギレーヌがエリスの前へ出る。

 

 レンは反射的に腰の剣へ手をかけた。

 

 だが、すぐに分かった。

 

 斬れない。

 

 あれは、剣で斬るものではない。

 

 空を覆う巨大な異変。

 

 間合いがない。

 

 刃を届かせる相手がいない。

 

 武器も、首も、胴もない。

 

 それでも、レンは走った。

 

 剣を抜くためではない。

 

 エリスの元へ行くために。

 

「エリス!」

 

 エリスは空を見上げていた。

 

 その顔に、初めて見る種類の恐怖が浮かんでいる。

 

 魔物でもない。

 

 剣士でもない。

 

 怒鳴ればどうにかなる相手でもない。

 

 殴れるものでもない。

 

 ただ、空が壊れている。

 

 レンは地面を蹴った。

 

 雷電型第一式の入りではない。

 

 紫電閃でもない。

 

 ただ、最短でエリスの元へ向かう一歩。

 

 だが、その一歩が遅かった。

 

 ルーデウスの方が近かった。

 

 彼はエリスへ手を伸ばしていた。

 

「エリス!」

 

 ルーデウスの声。

 

 エリスが振り返る。

 

 その手が、ルーデウスの手に触れる。

 

 レンはさらに踏み込む。

 

 エリスの肩へ、指先が届きかけた。

 

 届く。

 

 そう思った瞬間、世界が歪んだ。

 

 地面が消える。

 

 庭が遠ざかる。

 

 屋敷の輪郭が崩れる。

 

 光が、すべてを呑み込んだ。

 

「レン!」

 

 エリスの声が聞こえた。

 

 近い。

 

 けれど遠い。

 

 レンは手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 指先が空を掴む。

 

 ルーデウスがエリスを抱えるように引き寄せる。

 

 二人の姿が光の中で滲む。

 

 レンはもう一歩、足を出そうとした。

 

 だが、足元がなかった。

 

 大亀流の根幹である「立つこと」。

 

 それすら、意味を失う空間だった。

 

 ギレーヌが叫んだ。

 

 声は聞こえない。

 

 口の動きだけが見えた。

 

 エリス様を――

 

 その先は、光に砕けた。

 

 レンの身体が引き剥がされる。

 

 エリスとルーデウスが遠ざかる。

 

 ギレーヌも遠ざかる。

 

 庭も、屋敷も、フィットア領の空も、何もかもが遠ざかる。

 

 掴めなかった。

 

 届かなかった。

 

 前世の記憶が、胸の奥で跳ねた。

 

 雨の夜。

 

 本物の刃。

 

 動けなかった足。

 

 伸ばせなかった手。

 

 今度は動いた。

 

 足は出した。

 

 手も伸ばした。

 

 それでも、届かなかった。

 

「くそ……っ!」

 

 声が出たのか、自分でも分からない。

 

 片刃の剣が腰で重く揺れる。

 

 エリスがくれた剣。

 

 同じ日でいいと言ってくれた誕生日。

 

 その重さだけが、光の中で確かに残っていた。

 

 レンは最後まで手を伸ばした。

 

 だが、指先は何も掴めなかった。

 

 光が、すべてを白く塗り潰した。

 

 ◇

 

 最初に聞こえたのは、風の音だった。

 

 乾いた風。

 

 フィットア領の庭を撫でる柔らかな風ではない。

 

 砂を運び、肌を刺すような風。

 

 ルーデウスは、ゆっくりと目を開けた。

 

 視界がぼやけている。

 

 頭が痛い。

 

 身体のあちこちが重い。

 

 口の中に砂が入っている。

 

 起き上がろうとして、腕に重みを感じた。

 

 エリスだった。

 

 彼女はすぐ近くに倒れていた。

 

 赤い髪に砂が絡んでいる。

 

 木剣は近くに落ちていた。

 

 ルーデウスは慌てて身を起こした。

 

「エリス様!」

 

 呼びかける。

 

 エリスはすぐには動かない。

 

 ルーデウスの胸が冷える。

 

 もう一度、肩に手を置いて揺する。

 

「エリス様!」

 

「……う、るさい」

 

 小さな声が返ってきた。

 

 ルーデウスは息を吐いた。

 

 生きている。

 

 エリスは目を開けると、顔をしかめた。

 

「なに……ここ」

 

 彼女は身体を起こし、周囲を見た。

 

 赤黒い大地。

 

 奇妙な岩山。

 

 見たことのない草。

 

 乾いた風。

 

 フィットア領ではない。

 

 ロアでもない。

 

 屋敷でもない。

 

 空の色も、どこか違う。

 

「屋敷は?」

 

 エリスが呟く。

 

 それから、はっとしたように周囲を見回した。

 

「ギレーヌは!? レンは!?」

 

 ルーデウスも周囲を見る。

 

 いない。

 

 ギレーヌの姿はない。

 

 レンの姿もない。

 

 庭で最後に見た時、レンはエリスへ手を伸ばしていた。

 

 だが、その手は届かなかった。

 

 光に引き剥がされた。

 

 その光景が、ルーデウスの脳裏に蘇る。

 

「……分かりません」

 

「分からないって何よ!」

 

 エリスが立ち上がろうとして、足をもつれさせる。

 

 ルーデウスは咄嗟に支えた。

 

 エリスはその手を振り払うようにしながらも、完全には離れなかった。

 

「ここ、どこなのよ! 父様は!? お祖父様は!? ギレーヌは!? レンは!?」

 

「落ち着いてください」

 

「落ち着けるわけないでしょ!」

 

 エリスの声は震えていた。

 

 怒鳴っている。

 

 だが、その怒りは恐怖を隠すためのものだった。

 

 ルーデウスも怖かった。

 

 理解できない。

 

 あの光。

 

 あの魔力。

 

 あの転移。

 

 何が起きたのか分からない。

 

 だが、分からないままではいられない。

 

 まずは状況を確認する。

 

 そう自分に言い聞かせた。

 

「少なくとも、フィットア領ではありません」

 

「そんなの見れば分かるわよ!」

 

「はい。だから、まず水と安全な場所を――」

 

 そこまで言いかけた時だった。

 

 ルーデウスの背筋に、何か冷たいものが走った。

 

 視線。

 

 誰かに見られている。

 

 エリスもそれに気づいたのか、木剣を拾い上げた。

 

「誰かいる」

 

 二人は同時に、岩山の方を見た。

 

 そこに、人影があった。

 

 高い岩の上。

 

 乾いた風の中に、静かに立っている。

 

 背の高い男だった。

 

 長い槍を持っている。

 

 緑色の髪が風に揺れていた。

 

 額には、赤い水晶のようなものが光っている。

 

 人族ではない。

 

 だが、ただの魔物でもない。

 

 男は、ルーデウスとエリスを見下ろしていた。

 

 敵意は分からない。

 

 殺気も、はっきりとは感じない。

 

 だが、その存在感だけで、二人の身体が強張った。

 

 エリスが木剣を構える。

 

「誰よ、あんた!」

 

 ルーデウスは杖を握った。

 

 魔力を流す。

 

 だが、手が少し震えている。

 

 男は槍を持ったまま、ゆっくりと岩から降りてきた。

 

 赤い水晶が、異国の空の下で淡く光る。

 

 フィットア領の日常は、もうどこにもなかった。

 

 ここから先は、知らない大地。

 

 知らない空。

 

 知らない魔族。

 

 そして、帰るための旅が始まる。

 

 ルーデウスも、エリスも、レンも。

 

 まだ、その意味を知らない。

 

 ただ、世界が変わってしまったことだけは、誰の目にも明らかだった。

 

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