ルーデウスの十歳の誕生日から、まだ一日しか経っていなかった。
屋敷の中には、昨日の祝いの名残がわずかに残っていた。
廊下の片隅には片付けきれていない飾りがあり、厨房の方からは甘い菓子の匂いがまだ薄く漂っている。
サウロスの豪快な笑い声も、昨日よりは少しだけ控えめだった。
もっとも、それでも普通の人間よりは十分に大きいのだが。
ルーデウスは朝から、新しく贈られた杖を手にしていた。
細身で、彼の体格に合った杖。
派手な装飾は少ないが、握った時の収まりがよく、先端には淡い青の石が埋め込まれている。
魔力を流すと、その石の奥で水面のような光が揺れた。
「……すごいですね、これ」
庭の端で、ルーデウスは慎重に水弾を作っていた。
いつものように無詠唱。
だが、昨日までとは勝手が違うらしい。
ほんの少し魔力を流しただけで、水弾が大きくなりすぎる。
抑えようとすると、今度は形が乱れる。
良い道具は、ただ便利なだけではない。
使う側にも、それに見合う制御を求める。
レンはそれを見て、自分の腰にあるものを意識した。
片刃の真剣。
昨日、エリスから贈られた剣。
黒に近い深い赫色の鞘。
浅く反った片刃。
この世界の鍛冶師が、大亀流の動きとレンの体格を聞いた上で用意した業物。
まだ名はない。
昨日、初めて抜いた時の感覚が手に残っている。
重い。
冷たい。
美しい。
そして怖い。
木刀とは違う。
訓練用の剣とも違う。
本物の刃。
人を傷つけ、命を奪えるもの。
その重さを、レンはまだ完全には受け止めきれていなかった。
「レン」
エリスがこちらを見た。
彼女はいつものように木剣を肩に担いでいる。
赤い髪が朝の風に揺れていた。
「今日はその剣でやるの?」
「ギレーヌさんが許したら」
「許してくれるの?」
「たぶん、まだ無理」
「つまらないわね」
「真剣だから」
「分かってるわよ」
エリスはそう言いながらも、不満そうだった。
彼女が贈った剣だ。
早く振るところを見たいのだろう。
だが、ギレーヌは厳しかった。
真剣は、抜くだけで危ない。
構えるだけで周囲を斬る。
納める時に自分を傷つける者もいる。
だからまずは、抜く、構える、納める、歩く。
それだけを何度も繰り返せと言われていた。
レンは今朝も、日が昇る前から庭でそれを続けていた。
抜く。
構える。
納める。
歩く。
刃の位置を忘れない。
刃を見すぎない。
怖がりすぎない。
けれど、軽く扱わない。
剣に使われるな。
剣に怯えるな。
剣を飾りにするな。
持つなら、責任ごと持て。
ギレーヌの言葉が、まだ胸に残っている。
そのギレーヌは、庭の中央に立って空を見上げていた。
いつもより無口だった。
いや、ギレーヌは普段から無口だ。
だが今日の無口は、いつもと違う。
耳が落ち着きなく動いている。
尻尾も、わずかに緊張しているように見えた。
「ギレーヌさん」
レンが声をかける。
ギレーヌは空から視線を下ろした。
「何かありますか」
「分からない」
短い答えだった。
だが、軽くはない。
「魔物ですか?」
「違う」
「人?」
「違う」
ギレーヌはもう一度、空を見る。
「空気が変だ」
レンも空を見上げた。
雲は薄い。
雨が降りそうな空ではない。
だが、光が白すぎる。
朝の光なのに、どこか色が抜けている。
鳥の声も少なかった。
風も妙に乾いている。
ルーデウスも杖を下ろし、空を見上げた。
「魔力の流れが変です」
ギレーヌの耳が動く。
「分かるのか」
「はっきりとは。でも、遠くで巨大な何かが渦を巻いているような……いえ、うまく説明できません」
ルーデウスは眉を寄せる。
普段の彼なら、もう少し理屈で整理しようとする。
だが今は、そのための言葉が足りていないようだった。
エリスは空を見上げ、不満そうに木剣を振る。
「何よ、みんなして。気持ち悪いわね」
「エリス様」
ギレーヌが言った。
「今日は、屋敷の外へは出ないでください」
「出る予定なんてないわよ」
「レン。ルーデウス。お前たちもだ」
「はい」
「はい」
レンとルーデウスは同時に返事をした。
エリスだけが、少しむくれた顔をする。
「じゃあ、稽古は?」
「軽く行います」
「軽く?」
「様子を見ながらです」
「本気で軽くね」
「軽くです」
いつものやり取りだった。
だが、いつもの庭の空気ではなかった。
レンの胸の奥には、小さなざわつきがあった。
あの夜。
窓の外で、一瞬だけ見えた光。
それから続いている、空の違和感。
何かが近づいている。
そう思っていた。
だが、それが何かは分からなかった。
分からないまま、時間だけが進んでいく。
◇
稽古は、いつもより静かに始まった。
前にエリス。
斜め後ろにレン。
後ろにルーデウス。
ギレーヌが相手をする。
三年かけて身体に染み込ませた距離。
エリスが正面を押さえ、レンが横を崩し、ルーデウスが後ろから場を変える。
何度も繰り返してきた形。
「始める」
ギレーヌの声。
エリスが飛び出す。
木剣を振り下ろす。
ギレーヌは半歩ずれて外す。
その先へ、レンが入る。
今日は真剣ではない。
木刀だ。
片刃の剣は腰にあるが、抜く許可は出ていない。
それでも、真剣を持った後の感覚が、木刀の動きにも影響していた。
木刀が軽い。
だからこそ、雑に振れば線が死ぬ。
レンは刃があるつもりで木刀を運ぶ。
水龍型第一式・逆鱗。
受けると見せて軌道を変える。
ギレーヌの木剣には通じない。
だが、一瞬だけ手元を動かすことはできた。
ルーデウスが声を出す。
「足元、前!」
土がわずかに盛り上がる。
ギレーヌは踏まない。
避ける。
その避けた先へ、エリスが踏み直す。
以前なら、そのまま大きく振り回していただろう。
今は違う。
一度止まり、次の一歩で打つ。
木剣が鋭く戻る。
ギレーヌは受け流す。
だが、今の一連は悪くない。
レンはそう思った。
「右!」
レンが声を出す。
ギレーヌがレンとエリスの間を抜けようとする。
狙いはルーデウス。
レンは斜めに入る。
雷電型第一式。
壱で手元。
弐で肘。
参で肩口。
ただし、いつものような速さ頼みではない。
刃筋を意識する。
真剣を持つ稽古で見えた雑さを消す。
速く。
だが、乱さず。
ギレーヌの木剣が、壱を受ける。
弐を避ける。
参へ入る前に、レンの肩へ柄が入った。
「死んだ」
「はい」
レンは息を吐く。
だが、ギレーヌは少しだけ頷いた。
「今のは悪くない」
「本当ですか?」
「だが、三手目が見えすぎている」
「はい」
「お前は三段を繋げる時、最後で取ろうとしすぎる」
「はい」
「壱で取れるなら壱で取れ。弐で崩れたなら弐で終われ。参まで行くことを決めるな」
レンは木刀を握り直した。
技は見せるものではない。
必要な一手を出すもの。
玄斎にも、ギレーヌにも、何度も言われてきたことだ。
「はい」
その時だった。
風が止まった。
本当に、止まった。
庭の草が揺れない。
木の葉が動かない。
鳥の声が消えた。
空気が、固まったようになった。
最初に顔を上げたのはルーデウスだった。
「……っ」
彼の顔色が変わる。
次に、ギレーヌの耳がぴんと立った。
レンの背中にも、冷たいものが走る。
腰の真剣が、鞘の中で鳴ったような気がした。
「何よ」
エリスが周囲を見る。
その瞬間、空が光った。
白ではない。
青でもない。
紫にも、緑にも、赤にも見える。
色と呼んでいいのか分からない光だった。
フィットア領の上空。
そこに、巨大な光の渦が生まれていた。
最初は遠く見えた。
だが次の瞬間には、空そのものがこちらへ落ちてくるように感じた。
「ルーデウス!」
ギレーヌが叫ぶ。
「何だ、あれは!」
「分かりません!」
ルーデウスは杖を握る。
青い石が激しく光った。
「魔力が……大きすぎる!」
エリスが木剣を構えた。
「敵なの!?」
「違う! 下がれ!」
ギレーヌがエリスの前へ出る。
レンは反射的に腰の剣へ手をかけた。
だが、すぐに分かった。
斬れない。
あれは、剣で斬るものではない。
空を覆う巨大な異変。
間合いがない。
刃を届かせる相手がいない。
武器も、首も、胴もない。
それでも、レンは走った。
剣を抜くためではない。
エリスの元へ行くために。
「エリス!」
エリスは空を見上げていた。
その顔に、初めて見る種類の恐怖が浮かんでいる。
魔物でもない。
剣士でもない。
怒鳴ればどうにかなる相手でもない。
殴れるものでもない。
ただ、空が壊れている。
レンは地面を蹴った。
雷電型第一式の入りではない。
紫電閃でもない。
ただ、最短でエリスの元へ向かう一歩。
だが、その一歩が遅かった。
ルーデウスの方が近かった。
彼はエリスへ手を伸ばしていた。
「エリス!」
ルーデウスの声。
エリスが振り返る。
その手が、ルーデウスの手に触れる。
レンはさらに踏み込む。
エリスの肩へ、指先が届きかけた。
届く。
そう思った瞬間、世界が歪んだ。
地面が消える。
庭が遠ざかる。
屋敷の輪郭が崩れる。
光が、すべてを呑み込んだ。
「レン!」
エリスの声が聞こえた。
近い。
けれど遠い。
レンは手を伸ばす。
届かない。
指先が空を掴む。
ルーデウスがエリスを抱えるように引き寄せる。
二人の姿が光の中で滲む。
レンはもう一歩、足を出そうとした。
だが、足元がなかった。
大亀流の根幹である「立つこと」。
それすら、意味を失う空間だった。
ギレーヌが叫んだ。
声は聞こえない。
口の動きだけが見えた。
エリス様を――
その先は、光に砕けた。
レンの身体が引き剥がされる。
エリスとルーデウスが遠ざかる。
ギレーヌも遠ざかる。
庭も、屋敷も、フィットア領の空も、何もかもが遠ざかる。
掴めなかった。
届かなかった。
前世の記憶が、胸の奥で跳ねた。
雨の夜。
本物の刃。
動けなかった足。
伸ばせなかった手。
今度は動いた。
足は出した。
手も伸ばした。
それでも、届かなかった。
「くそ……っ!」
声が出たのか、自分でも分からない。
片刃の剣が腰で重く揺れる。
エリスがくれた剣。
同じ日でいいと言ってくれた誕生日。
その重さだけが、光の中で確かに残っていた。
レンは最後まで手を伸ばした。
だが、指先は何も掴めなかった。
光が、すべてを白く塗り潰した。
◇
最初に聞こえたのは、風の音だった。
乾いた風。
フィットア領の庭を撫でる柔らかな風ではない。
砂を運び、肌を刺すような風。
ルーデウスは、ゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけている。
頭が痛い。
身体のあちこちが重い。
口の中に砂が入っている。
起き上がろうとして、腕に重みを感じた。
エリスだった。
彼女はすぐ近くに倒れていた。
赤い髪に砂が絡んでいる。
木剣は近くに落ちていた。
ルーデウスは慌てて身を起こした。
「エリス様!」
呼びかける。
エリスはすぐには動かない。
ルーデウスの胸が冷える。
もう一度、肩に手を置いて揺する。
「エリス様!」
「……う、るさい」
小さな声が返ってきた。
ルーデウスは息を吐いた。
生きている。
エリスは目を開けると、顔をしかめた。
「なに……ここ」
彼女は身体を起こし、周囲を見た。
赤黒い大地。
奇妙な岩山。
見たことのない草。
乾いた風。
フィットア領ではない。
ロアでもない。
屋敷でもない。
空の色も、どこか違う。
「屋敷は?」
エリスが呟く。
それから、はっとしたように周囲を見回した。
「ギレーヌは!? レンは!?」
ルーデウスも周囲を見る。
いない。
ギレーヌの姿はない。
レンの姿もない。
庭で最後に見た時、レンはエリスへ手を伸ばしていた。
だが、その手は届かなかった。
光に引き剥がされた。
その光景が、ルーデウスの脳裏に蘇る。
「……分かりません」
「分からないって何よ!」
エリスが立ち上がろうとして、足をもつれさせる。
ルーデウスは咄嗟に支えた。
エリスはその手を振り払うようにしながらも、完全には離れなかった。
「ここ、どこなのよ! 父様は!? お祖父様は!? ギレーヌは!? レンは!?」
「落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょ!」
エリスの声は震えていた。
怒鳴っている。
だが、その怒りは恐怖を隠すためのものだった。
ルーデウスも怖かった。
理解できない。
あの光。
あの魔力。
あの転移。
何が起きたのか分からない。
だが、分からないままではいられない。
まずは状況を確認する。
そう自分に言い聞かせた。
「少なくとも、フィットア領ではありません」
「そんなの見れば分かるわよ!」
「はい。だから、まず水と安全な場所を――」
そこまで言いかけた時だった。
ルーデウスの背筋に、何か冷たいものが走った。
視線。
誰かに見られている。
エリスもそれに気づいたのか、木剣を拾い上げた。
「誰かいる」
二人は同時に、岩山の方を見た。
そこに、人影があった。
高い岩の上。
乾いた風の中に、静かに立っている。
背の高い男だった。
長い槍を持っている。
緑色の髪が風に揺れていた。
額には、赤い水晶のようなものが光っている。
人族ではない。
だが、ただの魔物でもない。
男は、ルーデウスとエリスを見下ろしていた。
敵意は分からない。
殺気も、はっきりとは感じない。
だが、その存在感だけで、二人の身体が強張った。
エリスが木剣を構える。
「誰よ、あんた!」
ルーデウスは杖を握った。
魔力を流す。
だが、手が少し震えている。
男は槍を持ったまま、ゆっくりと岩から降りてきた。
赤い水晶が、異国の空の下で淡く光る。
フィットア領の日常は、もうどこにもなかった。
ここから先は、知らない大地。
知らない空。
知らない魔族。
そして、帰るための旅が始まる。
ルーデウスも、エリスも、レンも。
まだ、その意味を知らない。
ただ、世界が変わってしまったことだけは、誰の目にも明らかだった。