その夜、屋敷の空気はいつもより重かった。
ブラック家の壁に飾られた肖像画たちが、
まるで何かを予感しているかのように沈黙していた。
私は廊下を歩きながら、胸の奥にざわつきを覚えていた。
理由は分からない。
ただ、何かが“ずれている”ような気がした。
その違和感の正体を、私はすぐに知ることになる。
――クリーチャーが帰ってきたのだ。
「……ミスト……ミスト……」
かすれた声が、廊下に落ちた。
私は振り返り、息を呑んだ。
クリーチャーは、いつもの誇らしげな姿ではなかった。
身体は震え、目は虚ろで、
手足は泥と血で汚れていた。
「クリーチャー!? どうしたのですか!」
思わず駆け寄った。
屋敷しもべ妖精は主人以外に触れてはならない。
だが、その禁を破るほど、クリーチャーの姿は異常だった。
「……ご主人様……レギュラス様……」
その名を呼ぶ声は、泣き声に近かった。
私はクリーチャーを支えながら、レギュラス様の部屋へ向かった。
扉を叩くまでもなく、レギュラス様はすでに立っていた。
「クリーチャー……どうしたんだ」
その声は、いつもの穏やかさを保っていた。
だが、瞳の奥には鋭い影が走った。
クリーチャーは崩れ落ちるように膝をつき、
震える声で語り始めた。
「……ヴォルデモート様が……クリーチャーを……洞窟へ……」
その瞬間、レギュラス様の表情がわずかに揺れた。
私は息を呑んだ。
ヴォルデモート――
レギュラス様が崇拝していた人物。
その名を呼ぶクリーチャーの声は、
恐怖と絶望で濁っていた。
「毒薬を……飲ませられ……亡者に……湖に……引きずられ……」
クリーチャーの言葉は途切れ途切れだった。
だが、十分だった。
レギュラス様は、静かに目を閉じた。
その沈黙は、怒りでも悲しみでもない。
もっと深い、もっと重い――
“崩壊”の気配だった。
「……クリーチャー。よく帰ってきた」
レギュラス様は膝をつき、
震えるクリーチャーの肩にそっと手を置いた。
その手は、優しかった。
だが、その優しさが、逆に痛かった。
私は見てしまった。
レギュラス様の瞳に宿った“決意”を。
それは、純血主義でも、家族の期待でも、
ヴォルデモートへの忠誠でもない。
ただ一つ――
クリーチャーを守るための決意だった。
「ミスト」
突然、名を呼ばれた。
私は背筋を伸ばした。
「このことは……誰にも言うな」
その声は静かだった。
だが、命令の重さは、屋敷の空気を震わせた。
「はい……レギュラス様」
私は頭を下げた。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
忠誠は影の中で息をする。
だが、その影が濃くなりすぎれば――
忠誠は、命を奪う。
その夜、私は初めて恐れた。
レギュラス様の優しさが、
彼自身を殺してしまうのではないかと。
そして、クリーチャーの忠誠が、
彼を地獄へ導いてしまうのではないかと。
屋敷の闇は、静かに深く沈んでいった。
その中心に、
レギュラス様の影があった。