翌朝、屋敷は異様なほど静かだった。
ブラック家の肖像画たちは、いつもの朝から嫌味を含んだ挨拶を投げかけてくるのに、
この日は誰一人として口を開かなかった。
まるで、今日という日が“何かを失う日”だと知っているかのように。
私は早朝から廊下を歩き、レギュラス様の部屋へ向かった。
扉の前に立つと、すでに中から気配がした。
「……入れ」
静かな声がした。
扉を開けると、レギュラス様は机の前に立っていた。
深い緑のローブを身にまとい、
その背中は、昨日よりもずっと大きく見えた。
机の上には、
古い魔法薬学の本、
スリザリンの紋章が刻まれたロケット、
そして――一枚の紙。
私はその紙に見覚えがあった。
ヴォルデモートの新聞記事の切り抜き。
かつてレギュラス様が崇拝していた“英雄”の姿。
だが、その紙は破られていた。
丁寧に、静かに、しかし迷いなく。
レギュラス様は振り返り、私を見た。
「ミスト。クリーチャーを呼んでくれ」
「……はい」
私は部屋を出て、クリーチャーの元へ向かった。
彼はまだ震えていたが、レギュラス様の呼び声を聞くと、
ゆっくりと立ち上がった。
「ご主人様……」
その声は弱く、だが忠誠に満ちていた。
レギュラス様の部屋に戻ると、
彼はクリーチャーを見つめ、静かに言った。
「行くぞ。クリーチャー」
クリーチャーは一瞬だけ怯えたように見えた。
だが、すぐにうなずいた。
「……はい、レギュラス様」
その声は震えていたが、
忠誠は揺らいでいなかった。
レギュラス様は私に向き直った。
「ミスト。屋敷を頼む」
「……レギュラス様」
言葉が喉でつまった。
止めたい。
行かないでほしい。
だが、屋敷しもべ妖精は主人の決意を否定できない。
私はただ、深く頭を下げた。
「……必ず、お戻りください」
レギュラス様は微笑んだ。
その微笑みは、昨日までのものとは違っていた。
影をまといながらも、
どこか光を宿している――
そんな微笑みだった。
「ミスト。
忠誠は……時に影を照らすものだ」
その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。
レギュラス様はクリーチャーと共に歩き出した。
廊下を進む足音は、静かで、重くて、
まるで湖底へ向かう道を踏みしめているようだった。
私はその背中を見送るしかなかった。
扉が閉まる音が、屋敷に響いた。
その瞬間、
ブラック家の肖像画たちが一斉に目を閉じた。
まるで――
これから起こる悲劇を、
見たくないと言うように。
私は廊下に立ち尽くし、
胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
レギュラス様は、もう戻れない。
影の底へ向かう足音は、
確かに湖底へ続いていた。
そして私は、
その影の行き先を知ることになる。
だが、それは――