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冬木教会。
夜明け前。
石造りの礼拝堂は静まり返っていた。
本来なら聖杯戦争の監督役だけがいるはずの場所。
しかし今夜は違う。
教会全体を覆う黒い魔力。
壁を這うように伸びる黒い紋様。
まるで建物そのものが病に侵されているようだった。
青年マスターは息を呑む。
「……何だ、この空気。」
肺が重い。
心臓が速くなる。
理由もなく不安になる。
誰かに見られているような。
責められているような。
失敗したような。
何も起きていないのに、胸だけが締め付けられる。
「うっ……」
膝をついた。
「マスター!」
アベンジャーが支える。
その手は温かかった。
「吸うな。」
「え?」
「この魔力を深く吸うな。」
静かな声。
「これは身体ではなく心を蝕む。」
その頃。
礼拝堂最奥。
祭壇の前に、一人の老人が立っていた。
監督役の神父だった。
だが。
様子がおかしい。
瞳は濁り、
口元は震え、
祈りの言葉を繰り返している。
「誰も悪くない。」
「誰も悪くない。」
「誰も悪くない。」
「だから仕方ない。」
「仕方ない。」
「仕方ない……」
その言葉だけを。
何百回も。
何千回も。
唱えていた。
アベンジャーは足を止める。
「……そういうことか。」
青年が顔を上げる。
「分かったのか?」
「これは呪詛ではない。」
「もっと悪質だ。」
「思考誘導。」
「思考……?」
「自分の意思で考えることをやめさせる。」
彼は礼拝堂を見渡した。
「責任を押し付ける。」
「理不尽を受け入れさせる。」
「異常を日常だと思わせる。」
「そして。」
「誰も止めなくなる。」
青年は凍り付いた。
それは。
どこかで聞いたことがある。
いや。
経験したことがある。
「そんな……。」
「これは。」
アベンジャーは小さく頷く。
「精神疾患を生む環境、そのものだ。」
その時。
拍手が響いた。
パン。
パン。
パン。
礼拝堂の奥。
黒い霧の中から、一人の人物が姿を現す。
神父服。
しかし顔は見えない。
仮面を付けている。
白い仮面。
笑っているようにも。
泣いているようにも見える。
「素晴らしい。」
「流石は黎明のアベンジャー。」
「もう気付いたか。」
青年が叫ぶ。
「お前は何者だ!」
男?は笑う。
「名前など意味はない。」
「君達なら。」
そうだな。
「観測者(ウォッチャー)。」
そう呼ぶといい。
「観測者……?」
「私は何もしない。」
「ただ見ているだけだ。」
「人間が人間を壊す様を。」
「それだけ。」
青年は怒鳴る。
「ふざけるな!」
「止めろよ!」
「止められるだろ!」
観測者は首を傾げた。
「何故?」
「彼らは自分で選んだ。」
「厳しい指導を。」
「長時間労働を。」
「同調圧力を。」
「見て見ぬふりを。」
「私が命令したわけではない。」
「人間が選び続けた結果だ。」
青年は言葉を失う。
反論できない。
確かに。
全てが命令されて起きたことではない。
小さな無関心。
小さな悪意。
小さな正義。
それらが積み重なり。
誰かを壊す。
アベンジャーだけは。
静かだった。
「そうだ。」
観測者が笑う。
「怒れ。」
「憎め。」
「人間を。」
「君はそうなるべきだった。」
「違う。」
一言。
礼拝堂が静まり返る。
「私は。」
「人間を憎まない。」
観測者の笑みが止まる。
「……何?」
「私が憎むのは。」
「お前のような存在だ。」
「私は何もしていない。」
「違う。」
アベンジャーは一歩前へ出る。
「見ていただけ。」
「知っていただけ。」
「止めなかった。」
「それも加害だ。」
観測者の空気が変わった。
初めて。
怒気が漏れる。
「……面白い。」
「では聞こう。」
「君は全員を救えるのか?」
「世界中の人間を?」
「何億人も?」
黎明のアベンジャーが答える。
「無理だ。」
即答だった。
青年が驚く。
観測者も僅かに目を見開く。
「私は万能じゃない。」
「英雄でもない。」
観測者が反応する。
「なら!」
アベンジャーは続けた。
「だが。」
「目の前の一人なら。」
「救える。」
静寂。
「一人救えば。」
「その一人が。」
「また一人救うかもしれない。」
「百年後には。」
「何万人になるか分からない。」
「だから。」
「私は諦めない。」
観測者は鼻で笑う。
「非効率だ。」
「そうだ。」
「愚かだ。」
「そうだ。」
「報われない。」
「そうだ。」
「それでも。」
アベンジャーは笑った。
「誰かが始めなければ。」
「何も変わらない。」
観測者は。
初めて沈黙した。
復讐者。
憎悪。
怒り。
絶望。
それらから生まれたはずの存在が。
何故。
未来を信じられる。
「……君は異常だ。」
「よく言われる。」
「復讐者らしくない。」
「それも。」
「よく言われる。」
「なら。」
観測者は腕を広げた。
「証明してみせろ。」
黒い魔力が爆発する。
礼拝堂全体が震えた。
床から黒い泥が溢れ出す。
しかし。
それは泥ではなかった。
一人。
また一人。
人影が立ち上がる。
皆、顔がない。
スーツ姿。
白衣姿。
教師。
上司。
同僚。
学生。
親。
誰でもあり。
誰でもない。
彼らは一斉に口を開いた。
「甘えるな。」
「努力が足りない。」
「みんな耐えてる。」
「お前だけじゃない。」
「我慢しろ。」
「空気を読め。」
「逃げるな。」
「自己責任だ。」
青年は耳を塞いだ。
聞いているだけで息が苦しい。
吐き気がする。
だが。
アベンジャーは。
目を閉じた。
静かに。
深呼吸する。
「……聞こえている。」
そして目を開く。
その瞳には、怒りではなく、深い哀しみが宿っていた。
「だからこそ。」
彼はゆっくりと右手を掲げる。
「顕現せよ、お前の生む呪い、その正体。もう秘匿させない……!」
その瞬間、礼拝堂全体を蒼白い魔力が駆け巡る。
「癌細胞切除(キャンサー・エラディケーション)」
黒い人影たちの身体に、赤黒い紋様が浮かび上がる。
観測者が初めて目を見開いた。
「……それは!」
アベンジャーは静かに告げる。
「病巣観測。」
「隠された病は、見つけなければ治療できない。」
「だから私は、お前たちを観測する。」
黒い人影の胸元に、消えない烙印が刻まれていく。
──呪創。
「今まで名前のなかった苦しみに、名前を与える。」
「見えなかった傷を、見えるようにする。」
「それが、切除の第一歩だ。」
観測者は初めて一歩退いた。
この復讐者は、敵を殺そうとしているのではない。
"病巣そのものを可視化し、世界に突きつけようとしている"。
その在り方は、これまでのアベンジャーとはあまりにも異質だった。
礼拝堂のステンドグラスから、朝焼けの光が差し込む。
長い夜が、終わろうとしていた。
だが本当の戦いは、今まさに始まったばかりだった。
今回少し自分を出しました。
辛いことが多いこの世の中。
黎明のアベンジャーは何故アベンジャーなのか。
シールダーの方が合ってそうなのに。
次回もお楽しみに。
【毎日17時更新 / 全17話+α・7月23日完結予定】