白桜幼稚園に入園してから、1年以上が経ち、季節は移り変わっていた。
5歳になった桜庭幸村は、大財閥の英才教育と、姉の愛魅や、許嫁の冴子に、囲まれる充実した日々を送りながらも、常に、頭の片隅で、「ある違和感」と戦っていた。
前世である平良悠助としての記憶は、鮮明だ。
しかし、いくら、オタク知識があるとはいえ、人間の脳は、三十数年分の漫画や、アニメの詳細な「年表」を、全て完璧に記憶している訳ではない。
特に、原作開始の遥か昔に起きた事件となると、断片的な情報しか残っていないのが、実情だった。
「……何か、致命的な事を、見落としている気がする?」
ある日の午後、広大な自室のデスクで、幸村は、ノートにペンを走らせていた。
原作開始が、残り18年後。
現在、幸村は5歳。
つまり、ここから、数年の間に、後に『名探偵コナン』の本編に、多大な影響を与える「過去の悲劇」が、幾つか発生する筈なのだ。
幸村が、最も救いたいと願う「警察学校組」の面々。
降谷零、松田陣平、萩原研二、諸伏景光、伊達航の5人は、年齢から、逆算すると、現在は、幸村の数歳年上の少年の筈だ。
彼らが、警察学校に入校し、殉職の運命に捕らわれるのは、まだ先の話である。
宮野明美の悲劇も、まだ先だ。
(じゃあ、今、この『今年』起きる事件は、何だ? 俺が、絶対に忘れてはいけない、警察関係者の悲劇が、あった筈だ。米花町、あるいは、都内で起きた、あの有名な……)
幸村は、小さく未発達な頭を抱え、必死に、前世の記憶の引き出しを、ひっくり返した。
アニメの回想シーン、コミックスのページ、ファン達が、ネットで、考察していたタイムライン。
それらが、霧の向こうにある様に、あと1歩のところで、思い出せない。
この世界に転生したからには、ただの御曹司として、ぬくぬくと、生きるつもりは、毛頭ない。
悲劇の運命を、捻じ曲げる為に、この命と、桜庭財閥という最強の切札を授かったのだ。
5歳の肉体という制限の中で、何ができるかを模索しながら、幸村は、言い知れぬ焦燥感に駆られていた。
外では、梅雨の始まりを告げるかの様な、しとしととした静かな雨が、降り続いていた。
※※※
焦燥感が、確信に変わったのは、それから、数日後の事だった。
リビングの大型テレビで、流れていた、昼のニュース番組の音声が、幸村の耳に、飛び込んできた。
『次のニュースです。本日、午前10時頃、米花町にある東都銀行の支店に、猟銃を持った男が押し入る事件が発生しました。犯人は、現金を奪って、現在も、逃走中。警視庁は、大規模な包囲網を敷き、捜査一課を中心に、犯人の行方を追っています――』
そのアナウンサーの声を、聞いた瞬間、幸村の脳内で、バラバラだった、パズルのピースが凄まじい速度で、噛み合った。
全身に電撃が、走ったかの様な衝撃が襲う。
(東都銀行強盗事件……雨の日……捜査一課……。思い出した! 『愁思郎』事件だ!)
それは、原作において、佐藤美和子刑事が、刑事を目指すきっかけとなった、彼女の父親の殉職事件だった。
佐藤美和子の父、佐藤正義警視正(当時は、捜査一課強行犯捜査三係の警部)。
彼は、強盗犯の友人を、自首させる為、雨の交差点で、説得していた。
しかし、その直後、自責の念に駆られた犯人が、トラックの前に飛び出し、それを庇った正義刑事が、トラックに跳ねられて、殉職してしまうのだ。
正義刑事が、意識を朦朧とさせながら呟いた言葉「しゅうしろう」と言う、謎の言葉だけを、残して。
(待てよ、佐藤正義刑事が殉職するのは、美和子刑事が、小学1年生の時、つまり、原作から、18年前の事件だ。今、俺は5歳。美和子刑事は、俺の5歳年上だから……、今、丁度、10歳で、小学4年生。……計算が合わない!?)
幸村は、愕然とした。
前世の記憶にある原作のタイムラインと、この現実の世界のタイムラインに、数年の「ズレ」が、生じているのだ。
これこそが、クロスオーバー世界のバグか、或いは、転生による歪みか。
(原作の知識だけを、過信していたら、見落とすところだった。事件は、『今日』起きる! 正義刑事が、トラックに跳ねられるのは、まさに、この銀行強盗が起きた日の夕方、雨の交差点だ!)
時計を見る。
既に、午後2時を回っている。
犯人の身元は、正義刑事の友人だ。
正義刑事は、単独で彼を追い、説得を試みる筈。
場所は、米花町4丁目の交差点。
(絶対に間に合わせる。俺の、最初の救済だ!)
幸村は、愛魅と冴子が、いない隙を見計らい、子供用のレインコートを羽織ると、桜庭家の厳重な警備の死角を突いて、泥だらけになりながら、屋敷を飛び出した。
※※※
激しくなる雨の中、幸村は、小さな身体で、米花町の街を、全力で疾走していた。
5歳児の心肺機能では、直ぐに息が上がるが、3歳から、受けてきた英才教育。
過酷なランニングと、体幹トレーニングの成果が、此処で、生きていた。
泥水を撥ね、息を切らしながら、彼は記憶にある交差点へと急いだ。
午後4時前。
米花町4丁目の、視界の悪い交差点に辿り着いた。
激しい雨のカーテンの向こうに、幸村は、求めていた背中を見つけた。
ベージュのトレンチコートを着た、がっしりとした体格の男。
警視庁捜査一課の佐藤正義警部だ。
彼の前には、傘もささずに、激しく泣き崩れている男がいた。
正義刑事の友人であり、銀行強盗の犯人、鹿野修造だ。
「もういいんだ、自首してくれ。お前の罪は、俺が、一緒に背負うから……!」
正義刑事の必死の説得。
しかし、絶望した友人は、狂った様に、頭を振った。
「駄目だ、正義……! 俺は、俺は、もうおしまいだぁぁ!」
その時、交差点を曲がって来た大型トラックが、激しい水飛沫を上げて、直進してきた。
視界不良と、雨の制動距離の悪さ。
修造は、トラックの光に引き寄せられる様に、道路の中央へと、飛び出した。
「危ない!」
正義刑事が叫び、反射的に男を突き飛ばして庇う。
原作通りの展開。
男は、歩道へと転がったが、代わりに、正義刑事が、眼前に迫るトラックの、巨大な鉄塊と対峙する形になった。
トラックのクラクションが、激しく鳴り響く。
正義刑事は、避ける間がない。
(間に合えぇぇぇ!)
その瞬間、弾丸の様に飛び出して来た、小さな影があった。
桜庭幸村だ。
幸村は、3歳から、叩き込んできた格闘術の足捌きと、体重移動の技術を極限まで爆発させた。
ただの5歳児の体当たりでは、大人の男を動かす事はできない。
だからこそ、幸村は、正義刑事の膝裏の関節を狙って、全体重を乗せた鋭いスライディングタックルを敢行した。
「ぬおっ!?」
不意を突かれ、膝のバランスを崩した正義刑事の身体が、大きく傾く。
幸村は、その勢いのまま、正義刑事の衣服を掴んで、歩道側へと、強引に引き倒した。
『ズガガガガァァァン!!』
次の瞬間、鼓膜を破らんばかりの爆音と共に、トラックが、2人の数センチ横を、猛スピードで通り過ぎた。
突風と水飛沫が、2人を襲う。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
アスファルトに、倒れ込んだ正義刑事は、自分が、生きている事に気づき、目を見開いた。
そして、自分の手を掴んでいる、泥だらけのレインコートを着た、5歳の少年の姿を見て、言葉を失った。
「ボウズ……お前、俺を……?」
「……よかった。間に合って」
幸村は、泥まみれの顔で、ニィと、不敵に笑ってみせた。
運命の歯車を、己の力で、力任せに、ブチ壊した瞬間だった。
※※※
現場には、直ぐに、警察車両が駆けつけ、呆然としていた強盗犯の男は、現行犯逮捕された。
トラックの運転手も、急ブレーキをかけて、停車し、幸村と正義刑事に、怪我がない事が、確認された。
正義刑事は、現場の混乱が、落ち着いた後、自分を救ってくれた、命の恩人である少年の素性を知って、2度驚く事になった。
世界最大の財閥、桜庭家の御曹司だったからだ。
「本当に、何と、お礼を言っていいか……。お宅の息子さんが、いなければ、私は、今頃、あの世でした」
数日後、佐藤正義は、妻の知代子、そして、当時10歳(小学4年生)の1人娘、美和子を連れて、桜庭家の屋敷へと、正式に、お礼に訪れていた。
応接室で、頭を下げる正義に対し、幸村の父、昌幸は、「息子が、警察官を救ったのだ、誇りに思うよ」と、豪快に笑った。
そんな大人達の会話を他所に、幸村は、対面に座る年上の少女に、視線を向けていた。
ショートカットの髪に、ハキハキとした大きな瞳。
少し気が強そうだが、紛れもない、幼少期の佐藤美和子だった。
彼女は、父親の命を救ってくれた、5歳の幸村を、尊敬と、何処か、驚きに満ちた目で、見つめていた。
「ねえ、君が幸村くん?」
美和子が、ソファから、身を乗り出し、幸村の手を両手で、ぎゅっと握りしめた。
「うん、そうだよ。美和子お姉ちゃん」
「本当に、ありがとう……! 私、お父様が、死んじゃたのかと思って、凄く怖かったの。君は、5歳なのに、お父様を助けるなんて、まるで、本物のヒーローみたい!」
そう言って、満面の笑みを浮かべる美和子。
その頬は、少し赤くなっており、10歳の少女ながらも、年下の幸村に対して、強烈な憧れと、好意を抱いた様だった。
「将来、俺も、正義さんみたいな、格好いい刑事になりたいんだ。だから助けたんだよ?」
幸村が、前世の警察官としての本心を混ぜて語ると、正義刑事は、感激で目を潤ませ、美和子は、更に、目を輝かせた。
「刑事!? 素敵! だったら、私が、君の先輩になってあげる! 私も、将来、絶対に、お父さんみたいな刑事になるから、その時は、一緒に組みましょう!」
「おいおい、美和子、気が早すぎるぞ」
と正義刑事が、苦笑するが、佐藤家と、桜庭家の絆は、この日を境に、決定的なものとなった。
(よし……これで、最初の悲劇は、回避した。正義刑事は、生きている。美和子刑事が、愁思郎事件のトラウマに苦しむ未来は、消えたんだ)
後に、警視庁の看板刑事となる佐藤美和子との、歳の差を超えた深い絆。
原作の運命を改変した、確かな手応えを感じながら、幸村は、次なる未来の悲劇を見据え、更に、その牙を研ぎ澄ます決意を固めるのだった。