κ(Kappa) /第二農園処 第三翅脈編隊録   作:AllZ:M

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αρχή(はじまり)
クローリスの萌芽


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 其の糸は、『(くう)』から垂れていた。

 

 青白い、透き通った光を内包したそれを見て、それは『ああ、美麗(うつくしい)な』と心酔し、見惚れる訳でもなく、『けがらわしい』と跳ね除ける事すらしない。

 これはただの糸ではなく、この世界のあらゆる事象を、理によって縛り、記述するための罫線だと、直感で理解していた。

 その確信と、全能的な感覚を、此の感情の只中で、生を受けた其の時から、既に承っていたのだ。

 

 網の主は、其の糸に対する最初の手探りを始めた。

 先ずはひとつ、垂れた糸に触れる。

 緊縮(ひきしま)った線は、細い指先が離れた瞬間に、微小な弧を描いて世界を切り裂いた。

 

 震えが、つたわる。

 最初に震えたのは、大気を満たす多湿さ。

 次に震えたのは、足下に広がる濃緑(みどり)の天蓋――アラビカの、肉厚な葉脈。

 その震えの波形(かたち)を、我が内臓(からだ)の裡で、冷徹に翻訳(いいかえ)ていく作業を始めた。

 

 雨粒が、葉に滴る。

 澄んだ一滴の水影に、『顔』が生まれる。

 

 さざめきが聴こえる。

 葉の擦れの中に、『声色』が産まれていく。

 

 水影に生まれた『顔』は、歪んでいる。

 産み落された『声色』は、ことごとくが熾烈(しれつ)な拒絶を孕んでいた。

 

 さらに幾本もの糸を、その長い肢で手繰り寄せる。

 編み、束ね、緊縛(くくり)つけるたびに、無機質な震えは熱を帯び、意味を持った言葉へと変質していく。

 

 側脈の影で、震脚(あが)く小さな影。

 それは恐怖(きょうふ)を叫んだ。

 

 農園の最下層で、蠢動(うごめ)く無数の顎。

 それは飢餓(きが)を叫んだ。

 

 すべては、網の上で記述される『暴力的な意訳』に過ぎない。

 それを何よりも、理解している。

 

 だが、その時。

 主の指先を、かつてない強靱な波紋(うねり)が弾いた。

 

 一本の糸が、限界まで張り詰め、互いに決して交わることのない二つの『曲率』を描いて、激しく交差していた。

 

 糸が揺れる。ぐらり、と揺れる。

 張ち切れんばかりに、其の稜線を伸ばす。

 

 其れはやがて、平行する二本の縦の糸となって、編み込まれた曼荼羅(マンダラ)の中央に、ひとつの区切りを描いたのである。

 

 主は、その二本の糸に、幾度となく指先を這わせた。

 触れる、離れる。

 触れる、離れる。

 

 そのたび、糸は同じ震えを返してくる。

 決して交わらぬ、二つの曲率(かたち)

 

 奇妙(けったい)な事だ、と、それは思った。

 他の無数の糸は、絡み、縺れ、時に千切れて、網の一部へと還っていく。

 だが此の二本だけは、幾ら引き寄せても、隣り合ったまま、決して重ならない。

 

 主は、それを『区切り(くぎり)』と呼ぶ事に決めた。

 一枚の網の中に生まれた、もうひとつの網。

 

 其の区切りの奥で、二つの震えが、確かに息づいていた。

 

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 其の若宮(わかみや)はいま、戦地に起っている。

 

 地表の稜線が弾けた瞬間、拡げられていた濃緑(みどり)翅脈(しみゃく)が、熱鉄(ねつてつ)の火花によって無残に引き裂かれた。

 火の粉がばちり、と散ったのち、彼の翅脈の一部が内部から圧壊し、びしゃり、と淡緑色の溢血を起こす。

 

 視界を埋め尽くすのは、閃光。

 そして、己の器官(からだ)を震わせる圧倒的な駆動音。

 

「――無理もない」

 それでもなお、彼の思考は、未だ恐ろしいほどに水平を保っていた。

 

 翅脈を片手で撫ぜたのち、再び得物を握り直す。

 外殻(よろい)を掠める風の質量から、逆算される敵の軌道。

 掌で握り締めた槍を構え、彼は跳躍した。

 一点の無駄もなく、相手の懐へと、真っ直ぐに槍が突き刺さる。

 

 ――筈、であった。

 

 厭な感触が走る。

 外したのではない、防がれた。

 其の外郭は、あまりにも硬質だ。

 

「この…路傍(ろぼう)が!」

 彼の精確(せいかく)な連撃を、その七星(ななほし)円盾(えんたく)は、微動だにせず受け止めている。

 

 なぜ、退かない?

 焦燥が、彼の脳の裡で小さく爆ぜた。

 

 彼の指示に、その(はね)に、狂いは一切ないはずだった。

 なのに、眼前の存在は、ただそこにあるだけで彼が描いた絵図を、幼生の肢を捻るように、文字通り『圧殺』していく。

 

 ――重い、言葉はない。

 ただ、沈黙が迫る。

 

 短く、途切れがちな呼吸の合間に、相手の一歩が、地の葉を穿つ。

 間合いが、爆発的に詰まる。

 

 槍を引き戻す暇もなく、円盾がその()を叩き落とした。

 掌が痺れ、槍が地に落ちる。

 拾う間も与えず、円盾の縁が、若宮の外殻(からだ)を薙ぎ払った。

 

 ()き飛ばされた身体が、湿った土に転がる。

 息が、詰まる。

 それでも、彼はすぐさま四肢で地を掴み、身を起こした。

 

「…立つか」

 頭上から降る声には、驚きも、(あざけ)りもなかった。

 ただ、事実を確かめるだけの、平坦な響き。

 若宮は、(にじ)む溢血を外殻(からだ)の内側に押し留めながら、牙を剥いた。

 負けを認める理由が、彼にはひとつも見当たらない。

 

 その拒絶に応えるように、騎士は円盾を僅かに下げた。

 ――隙、ではない。

 それは、若宮に対する、ひとつの猶予。

 

「…お前は、某に似ている」

 騎士の呟きは、戦場の轟音の中でさえ、なぜか若宮の耳に届く。

 誰に、とは問われなかった。

 問う余裕も、若宮にはない。

 

「其の――頭蹴頭蹴(ずたずた)の自尊、もはや稀人に顔向けも出来まい!」

 頭上より、落雷の如き響き。

 その拒絶が、彼の外殻(からだ)を芯から震わせた。

 

 見下ろす騎士の、憔悴の瞳孔()

 底が知れない。

 この男の裡にあるのは、自分を凌駕する熾烈(しれつ)な傷の深さか。

 あるいは、すべてを諦め果てた調停者の、冷徹な義務か。

 

 交錯する。

 若宮の突き出した一閃と、騎士が振り下ろした質量(おもみ)が、網の中央で真っ向から噛み合った。

 噛み合い、軋み、火花が世界を白く染め上げる。

 

 彼らの『糸』が限界まで張り詰めた、その刹那。

 

「…ナトー!」

 

「――アリゲラ!」

 

 二人は、互いの存在の総てを込めて、互いの名前を、其の空間に叩きつけていた。

 

 白刃の閃光が、最高潮に達したその刹那。

 

 ぱつん、と。

 天上より垂れていた見えざる罫線が、限界を超えて弾け飛んだ。

 

 引き裂かれた翅脈の痛みも、今は遠くへ。

 遥か遠くへと、消えていく。

 

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 ――これは、少し先の、未来の記述である。

 ぐらりと揺れていた世界が、不意に静寂を取り戻す。

 

 湿った風が、アラビカの葉を静かに揺らしていた。

 物憂げな春先の空気の中で、翅脈(しみゃく)がひとつ、震えている。

 

 かれらの『糸』は、此処から編まれ始めたのだ。

 

 まだ、名も持たぬ二本の糸として。

 まだ、交わる事も、遠ざかる事も知らぬまま。

 

 網の主だけが、それを識っていた。

 これから記述される幾万の震えの中で、この二本だけは、決して重ならぬまま、(つい)に同じ場所へと辿り着く事を。

 

 其れがいつの事かは、網の主にも分からない。

 

 ただ、其の糸を手繰る指先だけは、既に()める術を持たなかった。

 

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