κ(Kappa) /第二農園処 第三翅脈編隊録 作:AllZ:M
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春先の、風光る
偏西から
その
彼は、辺境に咲く
吹き抜ける春の風が、腕先を包む法衣の袖をぱたぱたと波立たせ、
鼻腔へともたらされる、
心身を委ねるようにして、息をひとつ吐き出す。
次に、傍らに供えていた細い雑草の一部を、壊れ物を扱うように、丁重に摘んだ。
細い蔦を、人差し指の先に引っ掛ける。
後は――押さえて、引っ張る。
その蔦にはやがて、幾つもの『玉結び』が刻まれていく。
ひとつ、またひとつ。
いまが終わればつぎが来る。その繰り返し。
蔦の先が、八つ目の玉結びに差し掛かったところで、その指先がふと止まった。
――風心地が、目に見えて変わる。
東風の中に、僅かに違う質の流れが混じた。
湿気を多く孕んだ、重みのある空気。
もっと近い。もっと――生々しいもの。
彼は顔を上げず、代わりに耳を澄ませる。
聴覚を頼りに、辺りの気配を探る。
其の背中から垂れた
草を踏む音。
歩幅は広いが、着地は丁寧。
重心の置き方に、
誰のものかは、聞かずとも分かる。
「…
アリゲラは、足音の鳴る方角を見据えた。
紫に染まる方喰みの花弁の隙間から、翠色の影が視界に映る。
和装で身を装った人物が、其処に立っている。
無精髭を蓄えた、
それは、いまだ未成熟の若齢個体であるアリゲラとは違う、完全な成熟個体、という証でもあった。
「殿下が珍しく、定刻ぎりぎりまで持ち場に来ないかと思えば、ついばんだ
ガルザ、と呼ばれた其の個体は、アリゲラの膝の傍らに置かれた玉結びの履歴を見て、軽口を叩く。
「…何も」
アリゲラは視線を逸らし、言い淀んだ。
「…何でも、よかろうとも」
アリゲラの声色には、
「何も、って…別に異存ではないよ、殿下」
ガルザはそう呟くと、アリゲラの
「今や、
二人の間に、ひとつの沈黙が落ちた。
やがて、示し合わせたわけでも無く、二人の焦点は、遥か向こうに位置するアラビカの
アリゲラの視線には、過去への苛みが。
ガルザの視線には、どこか懐古的な熱が映る。
「そんな貴方が、此の風に身を委ねながら、若齢の
「…過ぎた話だ」
過ぎた、と言いながらも、アリゲラの視線は、どうしてもその幼木の輪郭を、僅かに手放せずにいた。
「思えば貴方は、昔から手際が巧みだった」
嬉々としていたガルザの声が、ふと静まった。
幼木からアリゲラへと、視線が移る。
「…此度も、その手腕を頼りにしていますから」
その真摯な眼差しが、彼に向けられる。
「…
アリゲラが、葉から起立する。
重力から開放された葉が、風を食むように揺らぐ。
「
――この季節初めての、アラビカ区域への飛行偵察。
例年よりも、雨季への移ろいが早まっている。
迫り来る嵐の予感が、彼らの背負う
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彼らは、俗に『
『母艦』や『
それらの言葉の意味するところは、彼ら生体が行動できる領域の総称――つまり、
アリゲラは、此の第二農園の
天に張り巡らされた鈍重な膜より差す太陽は、既にその角度を傾かせ、夕陽へと変化しつつある。
その光に照らされた草木の影が、交差しながら幾何学的な模様を刻んでいく。
アリゲラは、第七十七番目のアラビカの樹皮へと
手のひらを当てながら、眼下を見下ろした。
北斜面の稜線に沿って、点在する緑の影。
第三翅脈編隊の兵達が、ぞろり、ぞろりと集まってくる。
「…若宮さま」
葉裏の影から、ふと声が響いた。
聞き慣れた、鈴鳴りの虫を転がすような、柔い
「…ペル」
アリゲラの視線の先に起立していたのは、長身でありながら、その
「…
『ペル』と呼ばれた
「…不承であったか?」
アリゲラの伺いに対し、ペルは「ううん」と首を振る。
「はは、
苦笑混じりでそう答えたペルヘイムの背後から、先程の巨漢――ガルザが、葉裏を掻き分けて直登してきた。
「愛称で動揺しちゃう子に軍略が務まりますかねえ、ペルさんよ」
ガルザの口から、再び茶化しが漏れ出でる。
「
彼らの中にある、信頼故の対話の応酬。
アリゲラは、昔からこういった言葉たちが好きだった。
若齢の
その時の、脳の何処かにじわ、じわ、と感じたあの浮き足立つような感覚を、今も覚えている。
やがて、ぞろり、と集まり切った影が、北斜面の稜線に沿って、静かに整列する。
最前列に陣取るのは、いつも同じ顔触れ。
隻眼に眼帯を巻いた、古株の古兵。
その隣でせわしなく触角を動かしている、まだ脱皮の跡も新しい、翅のなき若い個体。
後列では、背部の翅脈に包帯を幾重にも巻いた者が、静かに、しかし真っ直ぐに立っている。
此処に在る存在こそ、我々の積み重ねてきた累積の歴史だと、アリゲラは思う。
農園の外から舞い来た者達が、此の北斜面に根を張り、今や
その事実が、言葉にならない重さで、彼の胸の裡に静かに沈んでいる。
アリゲラは樹皮から手を離し、振り返った。
眼下に広がる、緑に染まるアラビカの海。
第三翅脈編隊――翠軍配雲霞の兵達が、その複眼をいっせいに、
沈黙が、場を満たしていく。
「…
短く、それだけ言い放つ。
稜線の端まで届くような
「
アリゲラの視線が、編隊の隅々まで、一分の滞りもなく流れていく。
「
息継ぎに、息を吸う音。
そして、一拍。
「及び、
静寂。
「…
返る声はなく、風の音だけが流れている。
それこそが、彼らの答えだ。
夕暮れに凪ぐ風が、珈琲の葉を揺らしていく。
正面より照る夕陽の光に当てられたアリゲラの翅脈は、あざやかな、緋色の色彩を保っていた。
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