銀色の償い   作:垂江 シン

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プロローグ

気がつくと、男は白い霧の中を漂っていた。

 身体が横倒しになり、宙に浮いている。手足が、だらんと中空に投げ出されている。

 

 一瞬、夢の中にいるのではないかと思った。あまりにも、現実ではあり得ない状況だ。

 

 しかしすぐに違うと気づいたのは、意識がはっきりしてくるにつれて、つい先ほどまでの記憶が、怒濤のように押し寄せてきたからだ。

 

 全身を襲う激痛と、耐えがたいほどの熱さ──

 視界が真っ赤に染まり、開いた口と鼻の穴から、炎を伴った空気が入り込んでくる。喉から肺の奥まで焼き尽くされて、呼吸ができなくなる──

 

 それでも彼は、相手に斬りかかった。

 

 手応えは、あった。

 かなりの深手を負わせたのではないかと思う。だが──自分の感覚が確かなら、致命傷を与えることはできなかっただろう。

 

 その真偽の程は、分からない。確かめらなかった。

 彼は、次の瞬間に意識を失ったのだから。

 

(そうか……。私は、死んだのだな。焼き殺されたのだ……)

 

 するとここは、”死後の世界”とやらなのか。

 視界に移るのは、白いもやのような霧ばかりだ。全体に淡く光り輝いて、光源がどこかもわからない。方向感覚どころか、上下の感覚さえ曖昧になってくる。

 力なく垂れ下がる手足は指一本、動かすこともできず、仕方ないからしばらく白一色の景色を眺めていたら、やがてその霧の中に、いくつかの影のようなものが浮かんできた。

 

(あれは──?)

 

 目をこらして影を見る。

 

(!)

 

 そしてそれが何だか分かった瞬間、彼の心に激しい怒りと悲しみとが訪れた。

 

 浮かんでいる影は、人間の体だった。

 彼と同じように、力なく中空に浮かぶ人体。おそらく死体だ。自分と同じように、死してこの場所にやって来た者たち。

 その死者たちの顔は、どれも見知っている者ばかりだった。

 つい先ほどまで、共に戦っていた仲間たち──

 

 その多くが、自分と同じようにこの場所に浮かんでいる。

 死体として。

 皆、死んだのだ。

 敵に──あの男に、皆殺しにされた。

 

(ジャムカ、アーダン、ミデェール、アイラも……)

 

 激しい感情に翻弄される。

 自分の体が生きたまま焼かれたときよりも、いま焼かれている心の方が、はるかに痛くて苦しかった。

 

(みんな、すまない……)

 

 唇を噛みしめるような思いで目を閉じようとしたとき、突然に脳裏に”声”が響いた。

 

『ようこそ。お前をこれから、”ヴァルハラの地”へと案内しよう』

 

 耳から聞こえるというより、頭の中に直接語りかけてきているようだった。

 その言葉に出てきた”ヴァルハラの地”という場所の名前を、彼は聞いたことがある。

 死した後に行く場所のうち、神々に勇者や聖者と認められた英霊だけが行くことのできる、喜びの地であると聞いている。

 その場所に行くことは、この世界に生きる者にとって最高の栄誉だ。神々から生前の武勇や功績を讃えられ、各人の望みに応じた幸福で安寧な生活が約束される。望めば、家族も死後に呼び寄せることができるとも言われている。

 

(家族──)

 

 その単語を思い浮かべた瞬間、彼の胸に鈍い痛みが走った。

 死ぬ直前に見た、最愛の妻の顔──

 

 ずっと行方不明になっていた妻だ。

 ずっとずっと、会いたいと祈り願っていた。

 その彼女との再会も束の間、彼は殺された。

 

(私が望めば、彼女は一緒に”ヴァルハラの地”に来てくれるのだろうか──)

 

 そこまで考えて、彼は最後に彼女が発した言葉を──そしてその少し前に”あの男”が言い放った言葉を思い出す。

 彼が死ぬ直前、”あの男”は、

 

 ──私の妻に合わせてやろう。

 

 とそう言って、彼女を紹介してきた。

 彼女のほうも、あの男のその言葉を自然に受け入れているようだった。

 彼女は、あの男の妻などではなく、自分の妻のはずなのに──

 

 妻は、自分への愛を失ってしまったのだろうか?

 自分ではなく、あの男に愛を移してしまったのだろうか?

 だから自分を捨てて、あの男に自分を殺させたのか……。

 

(違う……)

 

 心に浮かんだ考えを、彼は必死に振り払った。

 妻は、そのような悪辣なことができる女ではない。慈愛に満ちた、誰よりも優しい心を持った女性だった。夫を殺害させてその者の妻となるような非道な行いは、自分の知る彼女ならば決してしない。

 

 それにあの女性は──彼の妻と同じ名前、同じ顔を持つその女性は、どうやら彼のことが分からないようだった。

 

 ──私のことを知っているのですか?

 

 と、あのとき彼女は、他人に語りかけるように言ってきた。

 とぼけているわけでも、皮肉というわけでもなく、本当に、彼が誰だか分からないという様子だった。

 ではあれは、妻ではなかったのか。

 それとも──

 

 そこで、ようやく彼は気がついた。

(記憶を、失っているのか──?)

 

 妻が行方不明になってから、かなりの時間が経過している。

 その間、彼女は何らかの原因で過去の記憶を失ったのではなかろうか。そうして彷徨(さまよ)ううちに、”あの男”と出会い、結婚した──

 

 そこまで考えた彼の胸に、深い悲しみが訪れた。

 辛くて、苦しくて、大声で叫び出しそうになってくる。

 知らず、目から涙が溢れていた。

 

 同時に、妻が生きていたことに、いま──おそらくは満ち足りた生活を送っているであろうことに、安堵する気持ちも抱いた。

 死んでしまった自分は、もう彼女を幸福にしてやることはできない。

 それならば、例え自分や仲間たちを殺した憎き相手であろうと、その男が、彼女を幸せにしてくれるというのなら──

 

 悲嘆と、諦観と、そして少しの安堵と。

 様々な感情に翻弄される彼に、再び”声”が語りかけてきた。

 

『さあ、行こう。”ヴァルハラの地”へ』

 それを聞いた瞬間、思わず彼は叫んでいた。

「そのような場所になど、行きたくはない!」

 

 その言葉は、”声”にとっては聞かされ慣れたものであったのだろう。自身の死をすぐに受け入れ、冥府に旅立てる者などそうはいないだろうから。

 優しく、しかし言い聞かせるように”声”は言った。

 

『お前の気持ちも分かるが、お前は既に死んでいるのだ』

 まるで、父親が渋る息子を説得するかのような声音だった。

『”ヴァルハラの地”へ行けば、お前には望むままの生活が約束される。もう、現世で苦しみもがく必要などなくなる。その地へ行くことは、お前に対する我々からの労いであり、褒賞なのだ。最高の栄誉であると、人の子が言うことだ』

「栄誉など、私には不要だ!」

 再び、彼は叫んだ。

「そして──望むままの生活と、あなたはいま仰った。だが、私が望むことは一つだけだ! ”ヴァルハラの地”へ行ってしまえば、けして叶えられぬ望みだ。それは、私がかつて神に──あなたに祈り願ったことだ。私への褒賞というのなら、それをどうか叶えさせて欲しい! 私が望むことは、それだけだ!」

 

 かつて妻を娶るとき、彼は神に対して祈った。

 もしも自分たちの愛が罪だというのならば、その罰は自分一人に与えて欲しい、と。

 そして願った。

 妻をどうか永久に守って欲しい、と。

 

 その時のことを思い出しながら、彼はさらに言いつのる。

 

「私の身に起きたことは、私自身が望んだ罰なのだから仕方がない。そこは、甘んじて受け入れる。だが、その私への罰に、なぜ仲間たちを巻き込んだのだ!? 彼らには、何も罪がないはずだ!」

『…………』

 

 その彼の言葉は、少なからず”声”に動揺を与えたようだった。

 彼自身にそこまでのつもりはなかったが、彼は、神に対する不信を口にしたのである。

 それが私利私欲や自身の志のためではなく、あくまで仲間を想う気持ちから出た言葉であったことも、”声”の主を揺さぶる理由になっていた。

 

 なにより”声”の主は、この後に起こる運命も知っていた。彼の妻が、豹変した息子によって殺される──という運命を。

 その彼女の最期は、彼の妻にとっての”罰”となろう。

 だがそれでは──彼一人ではなく、神は彼の妻にも罰を与えたことになってしまう。加えて、「妻を永久に守る」という彼の願いも、無視したことになる。

 

 そもそも、彼らの愛は本当に罪だったのか。

 罪というのなら、罰を与えなければいけないというのなら、むしろ──

 

 ”声”の主は、逡巡しているようだった。

 もしも彼が、愛する妻の身にこれから起きる運命を知ったら、神に対する彼の不信は頂点に達するだろう。そうなれば、この史上稀に見る輝きを持った英雄の魂が、下手ををすると闇に取り込まれる怖れすら出てくる。

 類い希なる英雄とはいえ特別扱いをするわけにもいかぬだろうが、しかしかといって、このまま無理に”ヴァルハラの地”へ連れて行ったところで、それは彼に対して何の褒賞にもなり得ない──

 

 しばらく、無言の時間が経過した。

 何も言わぬ神を睨むように眉をひそめていた彼は、ふと自身の身体に異変が起きていることに気づいた。

 

(?)

 

 ”声”の主が彼の処遇を決めかねている間に、彼の身体が、何者かに引っ張られるように徐々に下方へと沈み込んでいる。

 

『ふむ……』

 彼の身に何が起きているか理解した様子の“声”が、呟いた。

『運命を変えようとする者が、下界にいるのだな』

 ならば──

『わかった』

 重々しく、“声”が言った。

『そこまで言うのなら、お前自身の手で運命を変えて見せよ。お前自身で、望む生活とやらを手に入れて見せよ──』

 

 その声を聞きながら、彼の身体は白い霧の下へと降りていった。

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