皇帝アルヴィスの願いも虚しく、ユリアの捜索は難航を極めていた。
バーハラの街は広い。全ての衛兵を彼女の捜索に回しても、街全体を捜すには何日もかかる。実際には彼らには治安維持などの職務もあるから、皇帝の息女とはいえ、一人の少女の捜索に全人員を注力するわけにもいかなかった。
ユリアが普段、国民の前にあまり姿を見せていなかったことも災いした。市井の者の中に、彼女の顔を知る者がほとんどいないのだ。
加えて、襲撃されたときのユリアは部屋着だった。アルヴィウスもディアドラも、贅沢で華美な暮らしは好まなかったから、ユリアの服装は少し裕福なバーハラ市民の娘とあまり変わりがない。
従って仮にユリアを保護した者がいたとしても、それが皇女だとはすぐに気づかれない可能性が高かった。
娘に、皇女の証となる品を携帯させておかなかったことをアルヴィスは心底、後悔していた。彼女が一人で外出することなど、まったく想定していなかった。
もっとも行方不明になったユリアについて、まったく情報が得られなかったわけではなかった。彼女らしき少女を見た、という証言はいくつか得ることができた。
城壁外の荒野で、十歳くらいの銀髪の少女が倒れているところを見た者が何人もいたらしい。旅人らしき男が彼女を介抱し、親を捜しながら近くの旅籠に保護した、という証言もあった。
その場所を聞いたとき、アルヴィスの胸に鈍い痛みが走った。
ユリアらしき少女が見つかったという場所は、まさにアルヴィスがシグルドを殺害したあの場所であったのだ。
唇を噛みしめつつ、しかし一方でアルヴィスは、妙に納得もしていた。
娘を
襲撃者が襲撃者なだけに、宮殿の中は安全とは言えない。そして宮殿以外の場所に、土地勘も人間関係の構築もないのは、ディアドラも娘と同様であった。
妻の出奔を極度に怖れるアルヴィスは、外部からの侵入者を軽快するとともに、ディアドラの外出にも制限を加えていた。
だからディアドラは、宮殿の外の“安全な場所”を思い浮かべることができなかったはずなのだ。
そこでディアドラは、娘を託せる最も信頼できる人物のいる場所に──すなわち子供の父であり、自身の夫である人物のいる場所に、ユリアを飛ばそうとしたのではないか。
ディアドラの夫──
具体的な場所を思いつかずに杖を振った瞬間、彼女が無意識に“安全”と考えた場所が、そこであった。彼女が最後にシグルドと会った、あの場所である。
危急の折に──いや、そう言う状況だからこそ、ディアドラはアルヴィスとシグルドを錯覚した。無意識のうちに、シグルドこそが自身の夫なのだと認識して行動をした。
噛みしめるアルヴィスの口から、真っ赤な血が流れ落ちた。いわば彼は、ディアドラにとって夫に成り代わっている男に過ぎなかったのだ。
彼女が、心の底でいまも夫として愛しているのは──
その絶望的な考えに暗澹としつつも、アルヴィスは部下を連れてユリアらしき少女が保護された旅籠に急行をした。
だが、どうやら一足遅かった。
訪れた旅籠にはすでに少女の姿はなかった。彼女を保護した旅の男たちが、連れて行ってしまったのだという。
保護されたとき、少女は自分がどこの誰だか言えなかったらしい。そこで男たちは、付近を回って少女のことを訪ね歩いたという。
だが結局、彼女を知る者は見つからず、みなしごと判断されてしまったのだ。
彼らの行き先は、旅籠の者も聞いてはいなかった。ただ、バーハラの市街地とは反対方向に歩いていったようではあったという。
アルヴィスは迷った。
近隣の諸公に、ユリアを探すように御触れを出すべきか──
だが、貴族の中には、まだアルヴィスの治世に納得していない者もいる。旧グランベル王国以外の地域では、いまだに反乱の芽もくすぶっている。
謀略の限りを尽くしていまの地位まで上りつめたアルヴィスだからこそ、皇女であるユリアの行方不明を諸公に知らせることは、自身の弱みをさらけ出すことに繋がる。
結局アルヴィスは、貴族たちにユリアの捜索を依頼することはできなかった。
ただ、信用のおける者だけを使っての捜索には限界がある。バーハラの街だけでも手に余るというのに、この上、都の外もとなると、とてもではないが人手が足りない──
絶望的な思いに駆られたまま、虚しく半年の時が過ぎていった。
その間、アルヴィスとディアドラは、終始、黒い喪服に身を包んでいた。皇太子ユリウスの死の知らせは、さすがに国民に広く知れ渡っている。
皇帝アルヴィスの表情には、常に悲痛の色が浮かんでいた。
嫡男が死に、その妹も行方不明。
その心痛に、さらに妻の様子に対する心配も加わっていた。
ディアドラの憔悴ぶりは、アルヴィス以上に凄まじかった。
「私は……どうして、まだ生きているのでしょう? なぜ、あのとき死んでしまわなかったのでしょう……」
あるときディアドラが、ぽつりとアルヴィスにそう呟いた。
※
ディアドラの心の苦しみには──アルヴィスを含めて誰も知らなかったが、子を失った悲しみだけではなく、シグルドに対する罪の意識も加わっていた。
悲哀と罪責感が合わさり、ディアドラの心をひどく責め苛んでいた。
あまりにも重くて深い闇に侵食され、押し潰されて、もはや壊れる寸前の心を映し、暗く淀んだ目をした彼女の体を、アルヴィスがきつく抱きしめた。
「そんな哀しいことを言わないでくれ。お前まで失ったら……私はそれから、どうやって生きていけばいいのだ……」
アルヴィスの目には、涙すら浮かんでいた。
「ディアドラ……愛している。私のためにも、どうか……どうか死のうなどとは考えないでくれ……」
「アルヴィス様……」
夫に抱きしめられたディアドラの目にも涙が浮かんだ。
「私も……アルヴィス様を愛しています……」
だが、皮肉なことにその事実こそが、彼女を苦しめる大きな要因の一つだった。夫の気持ちを、その愛を痛いほどに理解したディアドラの心の苦しみは、アルヴィスに愛され、自身も彼を愛していることを自覚すればするほど、鋭い刃に切り裂かれるように激しく痛む。
自分一人が、愛する人とともに満ち足りた生活を送っていると痛感することは、むしろ彼女の罪責感をより大きく深いものにしていくのだ。
ユリウスから全ての真実を聞かされたあの日以来、ディアドラが毎夜見る夢の内容は、以前と少し変わっていた。
夢に出てくる男がシグルドであると、いまの彼女にははっきりと分かる。
以前はぼんやりとしていたその顔が、あのバーハラの野で出会った男の顔にはっきりと変わっている。
それでも彼と一緒にひとときを過ごして、夢の中のディアドラは、安心感と幸福感に包まれる。そこは、以前の夢と一緒だ。
大きく違うのは、その後である。
これまでは、シグルドの姿はだんだんと闇に溶けるようにして消えていった。そして、最後に一瞬だけ赤い光が見えた。
いまは違う。
赤い光は、明瞭な紅蓮の炎に変わっていた。
その炎が、シグルドの全身を包み込む。シグルドが、一歩、二歩とディアドラの方に歩みかけ、やがて黒焦げの人型の塊となって動かなくなる。
仁王立ちの彼の体が、ぼろりと崩れる。
完全に崩れ落ちて無惨な黒い塊となった後、突然そこに醜く焼けただれたシグルドの顔が浮かぶ。そして、こう言うのだ。
「ディアドラ……なぜだ……。どうして私を裏切った。どうして、私を殺した……。許さない……。けっして……。お前も……アルヴィスも……」
その言葉を聞いた瞬間、ディアドラは悲鳴をあげて飛び起きる。
両の目から流れている涙は、恐怖によるものではない。
哀しみだ。
意識がはっきりしてくるにつれて、シグルドに対する申し訳ないという気持ちが徐々に広がっていく。
「許さぬ」という彼の言葉が、胸を突く。
そしてそんなことが、一晩に何度だってある。
もはや満足に眠ることもできず、ディアドラの顔はどんどんとやつれていった。
最近の彼女は、食事すらもろくに取れてはいない。
朝晩の食事も、促されて味見程度に一口、二口、運ぶだけだ。
彼女のために端正込めて作ってくれた料理人には申し訳ないが、何を食べてもまるで砂を噛んでいるようで、味見にすらならなかったし、とてもそれ以上は食べようという気になれなかった。
ディアドラは、何度も「死のう」と考えた。
実際に、何度も実行しかけた。
宮殿のバルコニーから身を投げ出そうとした。
ナイフや尖っているものを手にして、自身の喉を突き刺そうとした。
紐状のものを手に取って輪を作り、その中に首を突っ込んだ──
しかしどういうわけか、そのたびに耐えがたい頭痛が彼女を襲い、自死の実行を妨げていた。
彼女の額にあるサークレットが、まるで軽挙を戒めるかのように頭全体をきつく締めあげるのだ。
そのサークレットは、彼女がアルヴィスの屋敷で発見された時から身につけているものだった。何故だか彼女は、このサークレットだけは、けして外してはいけないもののような気がしていた。
額にある王家の血筋を証明する聖痕が発見されたときも、サークレットを外したのはディアドラの意志ではなかった。
初めてアルヴィスの婚約者として、当時のグランベル王・アズムールに紹介された時、王は彼女にサークレットを外して額を見せるように言った。同じ聖痕を持つ者として、彼女を一目見た時から直感するものがあったのだろう。
ディアドラの額に現れている聖痕が、彼女が王家の血を引く者だと──おそらくアズムールの孫娘であろうと証明をした。
それ以降も、聖痕を示すために一時的に外すことはあっても──彼女はけしてそのサークレットを誰かに預けることはしなかった。文字通り、常に肌身離さず身につけていた。
そのサークレットが、ディアドラが自死を試みるたびに、彼女の頭をきつく締めつけていた。
あるとき、あまりの痛みに耐えかねて思わずそのサークレットを外したディアドラは、そこで初めてサークレットの裏に刻み込まれた文字に気づいた。
これまでは一度も気がつかなかった、とても小さな文字が、不思議とこの時だけは、浮かび上がるように目に飛び込んできた。
『永遠の愛を込めて S to D』
と、そこにはそう刻み込まれていた。
SとDという頭文字が誰のものなのか、ディアドラにはすぐに分かった。そして、思ったのだ。
(死ぬな、ということなのですか……?)
──生きろ、と。
そういうことなのか。
ただ、今の彼女にはその言葉は、
──生きて苦しみ続けろ。
と、そのように受け取れてしまう。
なにより、このまま生き続けていったい何になるというのか。
死んでいった者たちは、もう帰ってこない。
彼らに謝罪することもできない。
罪を償おうにも、その方法が分からない。
ユリウスが言っていたとおり、すでに死んでしまった人に対して、何をどのようにすれば、償いとなりうるのか。
もはやこの世にいないシグルドに対して、いまの彼女にいったい何ができるのか。
彼の魂の安寧のために祈ればよいのか。
謝罪の言葉を唱え続ければよいのか。
彼の死を悼み、悲しみ続ければよいのか──
それが果たしてシグルドに対する償いに──自分の犯した罪に対する贖罪になるのだろうか。
夢の中で彼が言った「許さぬ」という言葉が、何度も頭に響き渡る。
──シグルド様を裏切った女のくせに。
式典で聞いたあの言葉が蘇る。
このまま死なずに生き続けたとして、彼女はシグルドに対して何の償いもできないのではないか?
それならばいっそ、死んでしまった方が良いのではないか。
死んで地獄に堕ちて、犯した罪に対する罰を受けるのだ。
そう考えたディアドラは、また自ら死を選びかけ、額のサークレットがもたらす痛みが、彼女を生の世界へと引き戻す。
死ぬことも生きることもできず、ディアドラはまるで幽鬼のように宮中を彷徨いながら、暗澹たる日々を過ごしていた。
重い展開が続いて申し訳ありませんが、ディアドラの罪責感の描写と、記憶がなくとも……という描写は必須と思いますので。
「リメイクしてもストーリーは変えるな」という人は、こういう描写も「必要ない」と言うのでしょうけど。