日に日にやつれていくディアドラを見るアルヴィスの顔には、悲壮なものが漂っていた。
妻をなんとかしてやりたかった。その心を、少しでも軽くしてやりたかった。
だが、彼には何もできない。
アルヴィスだけではなく、宮中の他の誰にも──
近衛の者から知らせが届いたのは、そんなときだった。
「ユリアが見つかっただと!?」
憂いの表情で書類仕事をしていたアルヴィスの声には、久々に活力が戻っていた。
「先ほど、妙な男が宮殿の門にやって来まして」
近衛が報告する。
少女を一人連れていたその男は、
──皇帝陛下か、皇妃殿下にお会いしたい。
と言ったのだそうである。
当然のごとく、門番の最初の対応はすげなかった。
「どこの馬の骨かも分からぬ者が、不敬なことを言うな!」と、そう言って男を追い返そうとした。
しかし男は引かなかった。
自分が駄目なら、この少女だけでも会わせてやれないかと、門の前で粘り続けたのだという。しかし皇帝陛下への謁見を要求する理由だけは、けして口にしようとはしなかった。
それで門番と押し問答になっているところに、たまたまアルヴィスの近衛の一人が通りがかった。ふと男が連れている少女を目にして、近衛はあんぐりと口を開けた。
薄汚れた旅人の服を着ていたが、その少女は間違いなくユリア皇女だったのだ。
慌てて男と少女を宮中の一室に案内し、その足ですぐにアルヴィスのところに知らせに来たのだという。
「どこだ!? どこにいる?」
書類が散らばるのも構わずに勢いよく立ち上がったアルヴィスは、ユリアがいるという部屋に急いだ。
近衛に先導させて廊下を行くと、同じく知らせを聞いて駆けつけてきたのだろう、侍女とともにあちらから駆けてくるディアドラの姿が見えた。
「ディアドラ!」
「アルヴィス様……。ユリアが……見つかった、と……」
アルヴィスは、久しぶりに妻のちゃんとした声を聞いた気がした。このところの彼女は、まともに言葉を発することすらできないほどに憔悴しきっていた。
「まだ、分からん」
自身の気持ちもはやってはいたが、妻を前にしてアルヴィスは努めて冷静を装った。
「まだ分からんが……近衛の者が言うには、『間違いなくユリアであった』と……」
「ああっ……」
ディアドラが両手で顔を覆う。その目に浮かぶのは、いつもの悲しみの涙ではなかった。嬉し涙だ。
アルヴィスは妻と並んで部屋の扉の前に立つと、近衛にむけて頷きかけた。
敬礼を一つした近衛が部屋に入り、中にいる者に小声で何かを話しかけた。「皇帝陛下がお着きだ」とでも告げたのだろう。やがて部屋の中から、
「グランベル帝国皇帝・アルヴィス陛下、皇妃・ディアドラ殿下がお越しである。くれぐれも、失礼のなきように!」
という朗々とした声が聞こえてきた。
扉が開かれ、恭しく礼をする衛兵たちを横目に部屋の中に入る。
中には、旅装姿の一人の男と少女がいた。
少女の顔を見た瞬間、
「「ユリア!」」
アルヴィスとディアドラは、異口同音に叫んだ。
駆け出したディアドラが、ユリアを抱きしめようとする。
しかし、少女はその父母の姿におびえたような顔を見せ、隣に立つ旅装姿の男にぎゅっとしがみついた。
「……ユリア?」
ディアドラの表情が曇る。
アルヴィスは、横に控える近衛の顔を見た。
苦渋の表情を浮かべた近衛が、ユリアがしがみついている男に視線を向ける。その目は、「お前から説明してくれ」とでも言いたげだった。
近衛の視線を追って、アルヴィスも男を見た。
異様な風体の男だった。
一言で言えば、怪しい。門番が、文字通りの門前払いを食らわせようとしたのも頷ける身なりだった。
男は、顔といい首といい、全身を包帯でぐるぐる巻きにしていた。袖口から覗く手も、手首どころか指先までもが包帯で覆われている。
重傷を負っている者のようにも見えるなりだったが、しかし背筋はぴんと張っており、その堂々とした様子は、とても傷病人のようには思えない。
室内にいる全員の視線を受けた包帯男が、口を開いた。表情は分からないが、苦々しげな、どこか申し訳なさそうな口調で彼は言った。
「この少女……いえ、ユリア皇女殿下は……記憶を失っていらっしゃるようです」
「えっ!」
「なにっ!?」
アルヴィスは言葉を失った。
同じく驚きの表情を浮かべたディアドラの目から、すぐに涙がこぼれ落ちる。つい今し方まで浮かべていた嬉し涙が消えて、衝撃と哀しみの涙に変わっていた。
「そんな……。まさか、ユリア……」
顔を覆って、ディアドラが泣き始める。
ユリアにとっては、彼女はいわば“見知らぬ女の人”なのだろう。それでも、自分を見て泣き始めたディアドラに、相変わらず包帯男にしがみついたままのユリアが、おずおずと口を開いた。
「おばさま……どうして、泣いていらっしゃるの……?」
少女の言葉に、ディアドラが涙を拭おうとする。だがその目からは、手でふいたそばから次の涙が溢れ出している。
「おばさま」と、ユリアはそう言ったのだ。
他人を表す言葉。
実母であるディアドラにとって、これ以上ないほど残酷な言葉を、意図せず口にしてしまったユリアに、包帯男が噛んで含めるように言い聞かせた。
「ユリア……殿下。この方は、貴女の実のお母様なのです。そして、あちらにいらっしゃる方がお父上の、アルヴィス皇帝……陛下です」
「お母様……なのですか? ごめんなさい……わたし、何も覚えていなくて……」
言いながらうつむいてしまったユリアを、ようやくディアドラが抱きしめた。だがそれは、とても喜び一色の抱擁とは言えないものだった。
妻と娘の再会を複雑な表情で見届けた後、アルヴィスは再び包帯男に視線を向けた。
「君が、ユリアを助けてくれたのか?」
「皇女殿下を最初に保護したのは別の者です。が、その者は子連れの旅は難しく……結局、私が面倒を見ることになりました。この子は孤児であろうと、最初は思ったものですから」
「そうか……ありがとう。感謝する」一度頭を下げて礼を述べた後、アルヴィスは続けて尋ねた。「だが、どうしてこの子が我々の娘だと分かったのだ?」
ユリアの行方不明は、国民には伏せられている。
普通であれば、助けた孤児が、まさか皇女であるなどとは考えもしないだろう。
「面影が……」
包帯男が答えた。
「以前に、皇妃様のお姿を拝見したことがございまして、似ているなと思いました」
ユリアと同様、ディアドラもめったに国民の前に姿を現さないが、それでもアルヴィスが不在のときに、代理として何度か式典に出席したことがある。国民の前にまったく姿を見せないというわけではないから、その少ない機会に見た皇妃の顔を、この包帯男は覚えていたのだろう。
「殿下が思い出したお名前も、皇女殿下と同じでしたし……あとは……」
そこで、包帯男が言葉を切った。その表情は窺い知れないが、何かをためらっているようにも見える。
やがて包帯男が口にした言葉を聞いて、彼が言いよどんだ理由がアルヴィスにもすぐに知れた。
「お告げありました。ナーガのお告げが……」
包帯男は、どうせ言っても信じてもらえぬだろうと思って、言いよどんだのであろう。
「お告げ……?」まじまじと、アルヴィスは男を見た。「君は、神官か何かか? とてもそうは見えぬ服装だが……」
「神官ではありませんが、祈祷の真似事も致します。これまでも何度かお告げを受けたことがあって、それが当たっていたものですから……。今回も、と思いました」
「そうか……」
男の言うことが、どこまで本当かは分からない。だが、嘘と決めつけて問い詰める必要も、いまはないように思えた。
「まだ、君の名を聞いていなかったな」
「シグムンドと申します」
「シグムンドか……」
聞き覚えのある名ではなかった。
アルヴィスは、自身に反逆を企みそうな者、その周囲の人間の名は、逐一密偵から報告を受けて記憶している。少なくとも、その中にシグムンドという名はない。
「その包帯は? 怪我かなにかか?」
それでも、男が顔を隠していることが気になった。心のどこかで、警鐘が鳴っていた。以前に、この男とはどこかで会ったことがあるような気がする。
だから、世間話を装って訊いたのだ。本当は顔を見せろ、と言いたかった。
「以前に、事故で全身に火傷を負いまして」
アルヴィスの問いに、聞かれ慣れた質問だというように答えながら、シグムンドが頬の当たりの包帯を少しずらし、その下にある素肌を垣間見せた。
正視に堪えないほど醜い火傷の跡が、そこにはあった。見える範囲全体に──そしておそらくは、隠された顔全体にその火傷は広がっていると思われた。
思わずアルヴィスは、シグムンドの顔から目をそらしてしまった。“火傷”という語が、心に突き刺さっていた。
誰かを殺すとき、アルヴィスはけして剣を使わない。先祖より伝わるファラフレイムの魔術を使って焼き尽くす。
確実に殺すため──ではない。
見たくはないのだ。彼が殺した者の死体を。
だから、骨どころか灰も残らぬほどに焼き尽くす。シグルドに対して、そうしたように──
目の前の男に火傷を負わせたのは、アルヴィスが生み出した炎ではありえないだろう。ファラフレイムを受けて生き残れる者などいない。
死体すらも、残ることはない。
だがそれでも、彼が殺してきた者たちを連想させる火傷の跡は、できれば見たくはなかった。
「この火傷で……」
視線をそらしたアルヴィスに構わず、シグムンドは話し続けた。
「生死の境を彷徨っているときに、初めて神の……ナーガの声を聞きました」
それ以来、祈祷のようなことを初めて、ことあるごとに神のお告げを求めるようになったのだという。そして、ユリアの出自を知った。
「もうよい……」
「お見苦しいものをお目にかけました」
恭しく言ったシグムンドが包帯を整え、ようやくアルヴィスは彼の顔をまともに見ることができた。
「……とにかく、よくユリアを連れて来てくれた。礼は望みのままだ」
後ほど、相談しよう。下がって良いぞ──
そう言いかけたアルヴィスの目に、その光景が飛び込んできた。
ディアドラに抱きしめられているユリアの細い腕が、シグムンドのほうに伸びている。彼のズボンの裾を、ぎゅっと握りしめている。
ユリアの表情に、両親との再会の喜びはなかった。浮かんでいるのは、不安と戸惑いだ。
その表情に、アルヴィスは見覚えがあった。
──貴女は、王女殿下なのです。
そう言われて、アルヴィスの屋敷から王宮へと移されて行ったときの、かつてのディアドラの表情と同じだった。
ユリアにとって──まだ十歳の子供にとって、半年という時間は、大人以上に長い。そして記憶を失ったいまの彼女にとっては、その半年間こそが、確かな思い出のある人生の全てなのである。
その間、ずっと彼女の面倒を見てくれたシグムンドこそが、いまのユリアにとっては親と言える存在なのであろう。
いまの記憶を失っているユリアをシグムンドから引き離すことは、親子を引き離すことにも等しいのだ。
そして、幼くして親と引き離される辛さは、アルヴィスが誰よりもよく知っている。
シグムンドという男に怪しさを感じないではなかったが、ユリアのことを思ってアルヴィスは言った。
「シグムンド。君はこの後、何かなさねばならぬ事があるか? もしも君の都合が付くのなら、娘が落ち着くまで、しばらくこの宮殿にとどまって欲しいのだが……」
アルヴィスの申し出を、シグムンドは快く受けてくれた。彼もユリアの行く末は心配していたようで、渡りに船の申し出らしかった。
こうして、この包帯男はユリアの家庭教師という名目で、宮殿に滞在するようになったのである。
※
皇女ユリアが帰還したことで、宮中の重苦しい雰囲気は、少しだけ和らいでいた。
ユリウスの葬儀も終わり、人々は亡くなった者を偲びつつも徐々に未来に向けて歩きはじめている。時が、心を癒やしているのだ。
アルヴィスも、同様に以前の調子を取り戻しつつあるようだった。嫡男を失った悲嘆はあるが、ユリアが戻った喜びが、その悲しみを癒やす方向に働いたようである。
そんな中、ディアドラだけが一人、陰鬱とした世界の中にいまだ身を置いていた。
悲哀は時が解決してくれるのかもしれないが、罪責感はそういうわけにはいかない。むしろ時が経てば経つほど、“何もしていない自分”という思いが、罪の苦しみを大きくしていく。
さらにユリアの記憶が失われていることが、ディアドラの苦しみをより大きなものにしていた。
「私の……記憶のない私の娘だから、ユリアも……」
夫に漏らしたその彼女の考えを、アルヴィスはすぐに否定した。
ディアドラの父方の家系であるグランベル王家に、記憶喪失の者がいたという話は聞いたことがない。そちら側の遺伝とは考えられない。
可能性があるとすれば、母方からの遺伝であろうが、しかしディアドラの母・シギュンは──ディアドラはこの事実を知らされていないが、アルヴィスの母でもある。二人は実の兄妹なのだから。
その母からも、アルヴィスは記憶喪失の親類の話など聞いたことがなかった。
加えて、もしもシギュン側に記憶喪失の血があるのならば、アルヴィス自身もそうなっているはずである。だが、実際には彼に記憶喪失などは生じていない。
アルヴィスは、ディアドラの記憶喪失はマンフロイの魔法によるものだと、いまや確信している。暗黒魔法にそのような術があるという記載を、壊滅したロプト教団から押収した資料から見つけていた。
とはいえ、グランベル王家の血筋以外のことに関しては、とてもではないが妻に話せる内容ではない。特に、ディアドラの母に関することは──彼らが実は兄妹であるということは、妻に対するアルヴィスの最大の秘密である。
結局ディアドラは、夫から確たる根拠を示されることもなく、ユリアの記憶喪失が自身の血のせいではないのかという疑念を晴らすことはできなかった。
その彼女の疑念を吹き飛ばしてくれたのは、家庭教師として宮殿に滞在するシグムンドである。
いかにも異様な風体のこの男に、ディアドラは不思議と嫌悪や畏怖を感じたりはしなかった。
ただ、全身を包帯で覆う理由が火傷であるという点が、彼女の胸を痛めた。どうしても、シグルドのことを連想してしまうのだ。あの夢を思い出して、辛くなるのである。
なのに、娘が信頼している人物であるという点を抜きにしても──どういうわけかシグムンドと同じ空間にいると、暗く沈み込んだディアドラの心が少し安らぐ。
いつしかディアドラは、この娘の家庭教師に、自身の心の内も少しずつ話すようになっていた。
あるとき、ユリアの記憶喪失について、ディアドラは自分の中に流れる先祖からの血のせいではないかと訊いた。
シグムンドは、答えた。
「ユリア殿下のご記憶と、皇妃殿下の記憶喪失とは関係がないと思います。私は各地を旅して色々な者を見、色々な話を聞いてきましたが、記憶喪失が遺伝するなどという話は、耳にしたことがありません」
ユリアが記憶を失ったのは、何か心に大きな負荷がかかったためだろうと、シグムンドは言った。
誰かに殺されかける、その際に、母がその身を犠牲にして自分を逃がす──
それだけでも、子供の心には大きな傷を残す。
「もしもそれに加えて何か、さらに皇女殿下のお心に傷を負わすようなことがあれば──具体的にそれが何かは分かりませんが、『あの時のことを思い出したくはない』という気持ちが、無意識にご自身の記憶に蓋をすることはあるだろうと、私はそう思います」
シグムンドの推測は、ディアドラにとっても納得ができるものだった。
彼女には、ユリアの心に大きな傷を残したものが何か、思い当たることがあった。
──仲の良かった、優しかった兄に殺されかける。その変貌を、目の当たりにする。
幼い少女にとって、これ以上の大きな心の傷はあるまい。
そのことを思い出したくなくて、ユリアは自身の記憶に蓋をしたのだろう。家族のことを思い出せば、どうしても双子の兄のことも想起せざるを得なくなる。
「ユリア……」
娘ことで胸を痛める母を慰めるように、シグムンドは続けた。
「しかし、心の傷はいつか癒えます。皇女殿下のように周囲から愛されている者であれば、それがやがて心を癒やす助けとなるでしょう」
シグムンドの包帯の奥の目が、ディアドラを真っ直ぐに見つめた。ユリアにその愛を与えるのは、貴女だと言わんばかりだった。
「記憶を失うきっかけとなった出来事は、思い出すのに時間がかかるかもしれません。あるいは一生思い出せないかもしれませんが、しかし、その他の記憶は徐々に戻っていくはずです」
実際、ユリアの記憶は少しずつ戻りかけていると、シグムンドは言った。
彼がユリアと出会ったとき、彼女は自分の名前さえ思い出せなかった。だから当初、ユリアは便宜的につけられた別の名前で呼ばれていたという。
きっかけとなったのは、とある街で彼女が「ユリア!」と呼びかけられたことだった。その呼び声は、実際には彼女の前を歩いていた別の女性に対してかけられたものであったが、その瞬間、彼女は思い出したのだ。自分も「ユリア」という名前で呼ばれていたことを。そうして、彼女は自身の名を思い出した。
ユリアが名前を思い出したことで、シグムンドはそこに皇女との類似性を想起し、神に彼女のことを尋ね直すきっかけになった。そして、お告げが下されたのだという。
「……ですから、幼い頃より育ったこの宮殿で、ご両親と共にいままで通りに暮らせば、きっと皇女殿下はほとんど全ての記憶を取り戻せるはずです」
シグムンドの言葉には、ディアドラを安心させようという気遣いもあっただろう。
ありがたく思うと共に、彼女はこの男にならば、自身の記憶や心の苦しみの原因についても相談していいのかもしれないと思うようになっていた。
それで、ぽつりと彼女は呟いたのだ。
「私も……そうなのでしょうか……。何かきっかけがあれば……思い出すのでしょうか……私の、過去のことを……」
「分かりませんが、あるいは……」
しかし悲しそうに首を振ったシグムンドは、そのときは、それ以上何も答えてはくれなかった。