銀色の償い   作:垂江 シン

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第四章 シグルドの亡霊①

 シグムンドからユリアの記憶に関する話を聞いたとき、ディアドラは最初は半信半疑だった。

 自分は、十年以上たった今も記憶が戻らない。

 それなのに、一年もたたないうちにユリアの記憶が戻るとは、とても信じられなかった。

 彼女を慰めるために、シグムンドが気休めを言っているのだろうと考えた。

 

 だがシグムンドの言うとおり、ユリアの記憶は徐々に戻りつつあることが、やがてディアドラにも分かってきた。

 

 ユリアは、記憶を失うきっかけとなったあの事件ことはまだ思い出せないようだったが、ディアドラとアルヴィスのことは、両親だと思い出してくれた。

 ユリウスについても朧気に記憶が戻ってきたようで、その兄が彼女の行方不明中に命を落としていたと聞いたユリアの目には、涙が浮かんでいた。

 

 娘が感じているであろう悲しみに心を痛めながら、一方でディアドラは、これで良いのだとも考えた。

 

 兄の死を悲しみ、その死を悼む。

 記憶を失っていなければ、もっと早くに感じていたはずの、それが正常の感情である。本来あるべき振る舞いだ。

 

 ユリアは記憶を取り戻せたからこそ、本来の彼女を取り戻せた。

 肉親の死を悲しみ、悼むことができた。

 では、果たして自分はどうなのか──

 

 このところのユリアの記憶の回復に、ディアドラはいつしか自分の境遇を重ね合わせていた。

 以前のディアドラは、記憶を取り戻すことに不安を感じていた。記憶が戻ったら、もうアルヴィスとは一緒にいられないのではないかと、恐怖していた。

 しかしユリアを見ているうちに、その恐怖と不安に、別の想いが混じりはじめた。

 

 ユリアは、父と母を思い出した。両親から受けた愛情を思いだし、彼女の両親に対する想いも、以前と同じようになってきたと感じる。

 一方で、ユリアはシグムンドのことも忘れたわけではない。彼に対する想いも、変わってはいない。

 ユリアは記憶を取り戻す前と同様に、彼に懐いていた。シグムンドの存在に、両親に対するものと似た心の安らぎを見いだしている。

 

 それならば自分も──と、ディアドラは思う。

 

 記憶が戻ったからと言って、アルヴィスを忘れてしまうわけではないのだ。彼やユリアに対する愛が、消えてしまうわけではないのだ。

 

 ロプトウスの言ったことが本当であれば、彼女の夫は大きな罪を犯している。それはシグルドを愛する者にとって、けして許されざる罪だ。そしてそのような男を、憎むどころか愛してしまった彼女もまた、いまも大きな罪を犯し続けている。

 

 一方で、その事実を知ってしまった以上、記憶を取り戻すことに対する怖れは、むしろ少なくなったとも言えた。

 忌まわしき真実は、もはや知ってしまったのである。

 

 ただ、その事実におののき、シグルドに申し訳ないという想いは抱くものの、しかしそれはどこか歪な状態なのだとも、ディアドラには分かっていた。

 兄の死を知ったユリアが、そのことを悲しんだことこそが、正常な反応であるように──

 ディアドラにとっては、まずは夫の死を悲しむことこそが正常な反応のはずであろう。

 だが、記憶のない彼女には、それができない。

 

 アルヴィスへの愛にこだわり、シグルドへの感情を思い出そうとしないのは、かえって元夫に対する罪を大きくすることに繋がらないかと、このところのディアドラは考えている。

 まずは彼の死を心の底から悲しみ、悼むべきではないのか。

 

 罪の償いと、アルヴィスに対する想いをどうするかは、その後の問題であろう。

 

 だから記憶を取り戻すことを怖れてはならない、と──まずは歪な現状を正常に戻すべきだろうと、ディアドラは考えるようになっている。

 

 だが、ではどうすれば自分の記憶が戻るのか、そこが彼女には分からなかった。

 ユリアは、記憶を失う前と同じように暮らすことで、徐々に過去を思い出していった。

 しかしディアドラの場合は、そもそも”記憶を失う前の暮らし”がどのようなものであったのかが分からないのだ。

 さらに言えば、”記憶を失う前と同じように暮らす”というのは、それは宮殿を出て暮らさねばならないことを意味するだろうが、しかし現実としていまの彼女の立場ではそれは難しい。

 では、いったいどうすればいいのか──?

 

 ディアドラは、自室で一人もの思いにふけっていた。

 

 彼女たちが、ユリウス──いや、ロプトウスに襲われた部屋はさすがにそのまま使うわけにはいかなかったから、いまは別の部屋が用意されている。

 開いた窓の外から、娘のはしゃぐ声が聞こえてきていた。シグムンドと共に、中庭に花摘みに行っているのだ。

 楽しそうなユリアの声を聞きながら、テーブルに肘をついてディアドラは考え続ける。

 自身の記憶のこと。

 そして、自分が前の夫に対して犯した罪と、その償いのこと──

 

 ユリアに関する憂慮が減ったいま、彼女の頭を占めているのは、自身の記憶とシグルドに対して犯した罪に関することだけである。

 寝ているときも、起きているときも、常にこの二つが頭から離れない。

 日がな一日、自室で同じようなことを何度も考え続け、ときに礼拝堂で祈り続けて、そして惰性のように食事をし、(とこ)に入る──

 それが、いまの彼女の生活だ。

 

 ただただ罪の意識に苦しむだけで何もしないのなら──記憶を取り戻したり、罪の償いのための具体的な行動すらしないのであれば、それでは生きていてもしょうがないのではないか。

 つまりは、生きていないのと同じことではないか。

 それならば、いっそ──

 と、もう何度も考えたことが、また頭に浮かんできた。

 ユリアが戻ったいまでも、ディアドラはその考えを実行しかけたことが何度もある。そして、例によってサークレットが彼女の頭を締め上げ、死んではならぬと警告をする。

 

 ただこのときは、ユリアの楽しげな声のおかげか、ディアドラは頭が痛み出す前に、死の渇望から逃れることができていた。

 

 しかしだからといって、心の苦しみが軽くなるわけではない。

 煩悶して沈み込んだディアドラは、机に両肘をついて顔を覆い、ギュッと両のまぶたを閉じた。

 と、突然に誰かから声をかけられた。

 

「罪を償う方法は見つかりましたか、母上?」

 

 ビクリと声のした方を見て、ディアドラは驚愕に目を見開いた。

 戸口に、一人の少年が立っていた。

 

「ユリ……ウス……?」

 

 額に宿したロプトウスの紋。

 呆然と呟いたディアドラに、ロプトウスの口調でユリウスが言った。

 

「償いの方法など見つからないのではないか、ディアドラ? そんなものは、ありはしないのだ。

 お前が何をしたところで、死んだ者はもう帰ってこない。その者の苦しみが、やわらぐことなどない。

 どんなに謝罪し、祈りを捧げたところで、それは単なるお前の自己満足だ。すでに死んでしまった者に、お前ができることなど何もないのだ」

 

 言葉を失ってディアドラはうつむいてしまった。

 ユリウスが、さらなる断罪の言葉を浴びせかけてくる。

 

「お前は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ、ディアドラ。

 何をしたところで、お前がシグルドを裏切った罪が消えることはない。

 お前がシグルドではなく、アルヴィスを愛し続ける限り──奴の魂はけして浮かばれぬ。未来永劫、苦しみ続ける。そして裏切ったお前を……けして許さぬ」

 

 そこで唐突に、ユリウスの口調が変わった。

 

「そうだ……。私は……けして許さない……」

 

 その声は、ユリウスのものでもロプトウスのものでもなかった。彼らとは違う、別の誰かの言葉だった。

 

 訝しげに顔を上げてユリウスのほうを見ようとし、そしてディアドラは息を呑んだ。

 息子の姿が歪んで、徐々にその形を変えていた。

 十歳の少年の体が大きくなり、逞しい成人のそれに変わる。

 ユリウスの着ていた部屋着がむくむくと膨らみ、やがて勇ましい鎧と化す。

 髪と瞳の色も、変わっていた。

 ディアドラの息子・ユリウスに代わってそこに現れたのは──

 

「シグルド……様……」

 

 彼女の夢の中にいつも出てくる騎士。あのバーハラの野で、一度だけ邂逅し、彼女の心を騒がせた男──

 ディアドラの元夫であるシグルドが、ユリウスに代わってそこに立っていた。

 

「ディアドラ……」

 シグルドが口を開く。

 

 身を固くするディアドラ。

 その口から、すぐに「ひっ!」という声にならない叫びが漏れた。

 

 シグルドの変化は、まだ終わってはいなかった。

 彼女の眼前で、シグルドの整った顔が崩れていく。

 傷一つなかった肌が突然に赤くなり、ぶくぶくと無数の水疱が生じた。

 やがて水疱がはじけて消えるとともに、肌がどろりと溶けていく。残った肌やその下の筋肉が、どんどんと黒ずんでいく──

 

 燃やされているのだ。

 見えない炎に。

 焼け爛れ、火傷を通り越して炭化し、もはや元がどのような顔であったかも分からなくなった醜く黒い塊が、ディアドラの方を向いた。

 口であったはずの場所が、ゆっくりと開かれる。

 

「私は……お前を……けして許さない……」

 喋る焼死体と変わり果てたシグルドが、ディアドラに怨嗟の言葉を吐く。

「お前は、私を裏切った。私への愛を捨て……他の男に愛を移した。私を殺した憎き男と交わり……子を成した。そんなお前を……どうして許すことができようか……」

「あ……、ああっ……」

 

 ディアドラの口が、苦しげに開く。しかし、まともな言葉は出てこない。

 悲しみと苦しみの果てに死んだシグルドに対して、彼を裏切った自分が、いったい何を言えばよいのか。

 

「ディアドラ……お前は、誓ったではないか……永遠の愛を。

 なのにお前はそれを忘れ……アルヴィスに愛を移した……。私を殺した、あの卑劣な男に……」

 

 シグルドの言葉が、ディアドラの胸を激しく突き刺す。

 彼女が、シグルドへの愛の誓いを“忘れて”いることは事実だ。どのような言葉で、どのような状況で愛を誓ったのか、彼女にはその記憶自体がない。

 

 だが、そういうことではないだろう。

 シグルドが言っているのは、そういう意味ではない。

 

 理由や過程はどうあれ──いま、ディアドラは彼ではなく別の男を愛している。その愛の果てに、彼にとっては憎んでも憎みきれぬ男の子供を産み、しかもそのことに幸福を感じている。

 シグルドは、そのことに対して怒っているのだ。

 恨み言を口にしているのだ。

「どうしてなのだ」と、彼女を責めているのである。

 

 ディアドラの口から、ようやく嗚咽混じりの言葉が漏れ出た。

 

「ゆる……して……。許して……ください……。知らなかったの……貴方のことを……貴方を愛していた……記憶が、ないのです」

 

「愛した記憶がない、だと!」

 しかしディアドラの謝罪のつもりだった言葉は、シグルドの怒りの炎に油を注いだだけであった。

「そんな覚えはない、と言うことか! 私への愛など始めからなかったということなのか!? お前が言ってくれた、あの愛の言葉は全て嘘だったのか!

 それとも……他の男を愛しているいま、自分が捨てた過去の男などはもう忘れた、思い出す価値もない、と──そういうことか!?

 あの愛の誓いは、無かったことにしたいと……そういうことなのか!?」

「違う!」

 思わずディアドラは叫び返した。

「違います! 記憶がないとは、そう意味では……! でも……」

 

 ディアドラの声が、小さく萎んでいく。

「違う」とは言ったものの、それが本当なのか、彼女自身もわからない。

 シグルドに対して、自分がどのような気持ちを抱いていたのか、それすらもはっきりとは思い出せない。

 彼に、どのような言葉をかけたのかも分からない。

 

 記憶を失っていることが、これほど恨めしいと思ったのは初めてだった。

 

 黙りこくってしまったディアドラを、シグルドが憎しみのこもった目で見つめてくる。

 それも当然のことだろうと、彼女は思う。

 ディアドラがシグルドに対して犯した罪は、記憶喪失だからといって許されるようなものではない。

 償いをするのは、当然のことだ。

 

 ただ、その具体的な方法が彼女にはわからない。

 何をすれば、彼に対する償いになるのか。

 シグルドのことをほとんど何も知らない──覚えていない彼女には、その方法が分からない。

 いまの彼女がシグルドにできることといえば、ただ謝罪をし続けることだけだ。許しを請い続けることだけだ。

 だから彼女は、呪文のように同じ言葉を繰り返し続ける。

 

「許して……許してください……。償いますから……。貴方に……シグルド様に、償いを致しますから……」

 何をすればいいのか、教えて欲しい──

 そう伝えようとして、しかしどのように言えば理解してもらえるかを逡巡し、言葉を止めてしまった彼女に、シグルドの亡霊が低く、地の底から響くような声で言った。

 

「呪ってやる……。祟ってやる……。お前も……お前の娘も、けして幸福になどさせはしない……。私が受けたのと同じ苦しみを味わい、我が恨みを思い知るが良い。私を殺した憎き男の娘ともども……未来永劫、苦しみ抜くがいい!」

 

 怨霊と化したシグルドが、くわっと目を見開いた。

 ディアドラの身体が震える。

「娘」という言葉に、彼女は反応していた。それまではさほど感じていなかった恐怖を、いま初めてこの亡霊に対して抱いていた。

 

 シグルドが、ディアドラを許せないと思うのは当然のことだ。それだけのことを、自分は彼にした。

 アルヴィスに対しても同様だろう。

 その憎き二人の娘に、シグルドの怒りの目が向けられることは理解できる。

 理解はできるが、しかし両親の罪のために、ユリアが苦しむことだけは許容することができなかった。

 苦しんで、罪を贖うのは自分たちだけでいい。

 なにも知らぬユリアが、その罪を背負うことはない。

 

 ディアドラの口から、絞り出すような声が漏れた。

「お願いです……。許してください……。償います……。貴方に対して、償いをしますから……。どうか……娘だけは……ユリアだけは許して……」

 

 何度も同じ言葉を繰り返すうちに、彼女の脳裏に一つの考えが訪れた。

 一つだけ、いまの彼女にできることがある。

 これまではできなかったが、シグルドが亡霊として目の前に現れた今ならば、できることが──

 震える声で、ディアドラはその考えを口にした。

 

「……私の、この身体を貴方に捧げます。貴方のお好きなように……罰して下さい。どのような罰も、お受けします。お好きなようにしてください。私はどうなっても構いません。いかような苦痛も苦役も受け入れます。ですから、どうか……どうかユリアだけは……」

 

 殺されれば良いのか、生き地獄を味わえば良いのか、どうすればシグルドが満足するのかは分からない。

 だから、それも含めて自分の全てを彼に(ゆだ)ねる。

 身を捧げ、彼の好きなように罰してもらうことで、罪を贖う。

 たとえ許してもらえずとも、この世のありとあらゆる苦痛を受けることになろうとも、それでも、彼の気が済むまで──

 

 それ以外に、シグルドに対して罪を償う方法を、ディアドラは思いつかなかった。

 罪を贖うためならば、どのような苦痛でも受け入れるつもりだ。

 

 ただ、ユリアだけは──何の罪もない娘には、同じ苦難を与えるわけにはいかなかった。なんとしても娘だけは、許してもらわねばならない。

 

 業火に焼かれ、全身が真っ黒い炭と化しているシグルドの怨霊にすがりつき、ディアドラは必死に懇願をした。

 

「お願いです……。私を好きにして下さって構いませんから……どんな罰でも受けますから……。どうか、娘だけは……。ユリアだけは……。私が、全ての罪を償いますから……」

 涙ながらに、ディアドラがそう訴えたときだった。

 

「お母様っ!」

 

 突然にユリアの声がして、ディアドラは閉じていた目をぱちりと開けた。

 




断っておきますが、今話に出てくる”シグルド”は、ディアドラの心が生み出した夢です。
では、”亡霊”というのは──
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