いつの間にかディアドラは、テーブルに突っ伏して自分の両腕に顔を埋めていた。はっとしてその顔を上げると、目の前に心配そうなユリアの顔がある。
「ユリ……ア?」
半ば朦朧としながら娘を見上げ、そしてキョロキョと部屋の中を見回した後、ディアドラは言った。
「シグルド……様は?」
「シグルド様?」
ユリアが不思議そうな顔をする。
彼女の横に立っていたシグムンドが言った。
「夢を見ておられたのですな。我々が戻ってきたとき、貴女はひどくうなされていた……」
「そう……なのですか」
いつの間にか眠っていたのだ。
では、あれは……あのシグルドの亡霊も、夢なのだろうか──
困惑するディアドラを気遣うように見ながら、ユリアが口を開いた。
「お母様は……しきりに“償い”という言葉を呟いておられました。それは……以前に仰っていた、お母様の罪のことですか?」
聞いてきたユリアの顔を、ディアドラはまじまじと見つめた。
娘に、自身の罪に関する話をしたのは、一度だけだ。ユリウスに襲われた、あの日である。
つまりユリアは、思い出しているのだ。兄を失ったあの日のことを。
その直後に起きた出来事まで覚えているのかは分からないが、少なくとも、あの日にディアドラと交わした会話は、はっきりと思い出している。
だが、その会話に関してだけは、忘れてくれていてもよかったのに──と、ディアドラは複雑な気持ちに陥った。
ユリアは優しい子だ。ディアドラとアルヴィスの犯した罪を知れば、きっと彼女は哀しむ。
もしかしたら、両親と一緒に罪を償おうとするかもしれない。そしてそれが、彼女の人生を大きく狂わせてしまうことになるかもしれない。
だからユリアには、これまで両親の罪の詳細は話していないし、今後も話すつもりはなかった。
(だけど……)
ユリアの真っ直ぐな問いかけにどう答えるべきか、ディアドラは逡巡する。彼女自身が、ユリウスからアルヴィスの罪を聞いてしまったように、自分が話さなくとも、いつかどこかで、娘は真実を知ってしまうかもしれない。
そしてその時、今まで何も知らなかったと言う事実が、ユリアの心痛をよりいっそう大きくするのではなかろうか。あの日、ロプトウスから真実を聞かされたときのディアドラがそうであったように。
ならば、いっそ母の口から直接話してやった方が良いのか──?
自身の犯した罪についてどこまでユリアに話すかディアドラが決めかねていると、じっと観察するように彼女たちの様子を見ていたシグムンドが、口を開いた。
「ユリア様。皇妃様は大丈夫のようです。だからユリア様は、お勉強の続きをしましょう。隣の部屋に、植物の辞典を用意しておきました。先ほど見た花の名前を調べてみてください」
「…………。はい、シグムンド小父様……」
素直に応じながらも、ユリアはどこか名残惜しげだった。
だがこの聡明な少女は、自分の存在が大人たちの会話の邪魔になるようだ、とも察してはいるようだ。心配そうに何度も母のほうを振り返りつつも、黙って隣の部屋へと向かっていく。
ユリアが出て行った扉が、完全に閉まったことを確認したところでシグムンドがまた口を開いた。
「さて皇妃様……。いったい、何があったのです? 私でよろしければ、お聞き致しますが」
「…………」
黙って首を振るディアドラに、シグムンドがさらに言う。
「話しにくい事情があることは、察しています。無理に聞こうとはしません。ただ、人に話すことで、少し気が楽になることもあります」
シグムンドの瞳を、ディアドラはじっと見つめた。
顔中に包帯を巻き付けた彼は、表情というものがまったく読めない男だ。
ただ、その澄んだ瞳を見れば分かる。
この男が、ディアドラを案じてくれていることが、よく分かる。
そして彼女も、何故かこの目を見ていると、冷えきった心が暖かくなってくる。
彼になら、全てを話しても良いのではないかと、そういう気持ちになってくる。
しばしの逡巡の後、ついにディアドラは口を開いた。
「シグムンド様は……祈祷のようなこともなさると聞きました。では……除霊や鎮魂もされるのですか?」
「除霊や鎮魂……?
そう言ったシグムンドの目が、少し泳いだように感じたのは気のせいだろうか。
ディアドラは言った。
「出たのです。シグルド様の……亡霊が……」
「シグルド……」
「十一年前の、バーハラの戦いのことは、ご存じですか?」
その言葉にシグムンドがうなずく。その瞳に、どこか哀しげな色がよぎる。
ディアドラは続けた。
「あの時、アルヴィス様に反逆者として討ち取られたシグルド公子は……あの方は……。私の……夫だったのです」
言って、ディアドラは目を伏せた。
これまで誰にも──アルヴィスにすら話したことのない事実を、彼女はついに告白していた。
「皇妃様、ご記憶が戻られたのですか?」
「いいえ……。でも……」
最大の告白を終えたディアドラは、そこからは堰を切ったように話しだしていた。
毎夜見る夢のこと、そこに出てくる騎士のこと。
──シグルド様を裏切った女のくせに。
とある式典で聞かされた言葉。
そして、全ての事情を知るある人物から、真実を聞かされたこと。
彼女に真実を告げた者の名と、どのような状況でそれを聞いたかだけは、さすがに話すことはできなかった。
だがそれ以外の全てのことを──彼女を悩ます、過去の罪の全てを、ディアドラはシグムンドに話した。
あるいはそれは、懺悔のようなものであったのかも知れない。
家族や近しい者には決して話せぬことだからこそ、信頼でき、かつ適度に距離のある者に、自身の胸の内の全てを話すことができた。
「すぐ傍で、夫が殺されたというのに……私は、悲しむことすらしなかった。夫を殺した人の傷の手当てをして、その人の心配をしていた……。
そして今も……その人を愛してしまっているのです。私の夫を殺した方を……。
シグルド様にとって、私は何とひどい妻なのでしょう……。恨まれて……憎まれて当然です……」
ディアドラの話に、シグムンドは特に口を挟まない。たまに相槌を打ち、彼女が言い淀んだときだけ──そして彼女がまだ何かを言いたそうな時だけ、先を促すような言葉を短く挟むだけだ。
ディアドラの告解は続いた。
「それでも……シグルド様の死の哀しみよりも、ユリウスを失った悲しみの方が、よほど大きいのです! そしてもしも……もしも、アルヴィス様を失ったときのことを考えると……その悲しみの方が、シグルド様の死の哀しみよりも、はるかに大きいだろうと……そう考えると……」
ディアドラの目に、みるみると大粒の涙が溢れだしていた。視界がかすみ、目の前に座るシグムンドの顔もよく見えなくなってくる。
だからディアドラは気づかなかった。
彼女がそう言ったときだけ、シグムンドの目に暗い光が宿り、ディアドラを正視することを避けるように彼女から目を逸らした。
だが、すぐに再びシグムンドは彼女に視線を戻し、何事もなかったかのように話を聞き続ける。
そんな彼の様子には気づかず、ディアドラは続けた。
「シグルド様に……償いをしなければいけません……。でも、こんな私が……いまもシグルド様を裏切り、苦しませ続けている女が、あの方に償いなど……できるのでしょうか……」
そこまで言いきって、ようやくディアドラは言葉を止めた。
それまで黙って彼女の話を聞いていたシグムンドは、ディアドラがそれ以上は話そうとする様子がないと判断したのだろう。先ほどまでとはうってかわり、口を開いて自身の考えを述べ始める。
「皇妃様にはその人が、シグルド……殿が、夫であったという知識はある。だが、知識はあっても実際の記憶はない。だから、彼の死に実感などわくはずがありません。なのにそのような方の死に、それだけ哀しむことのできる貴女は、本当にお優しい……。
ただ皇妃様のその哀しみが、ご自分の息子や……いま愛している方をなくす悲しみよりも小さいのは、当然のことでしょう。そちらには、確かな実感が伴っているのですから。
ですから、貴女がそのことを気に病む必要はありません。シグルド……殿も、それで貴女に怒ることはないでしょう」
ディアドラは顔を上げ、苦しそうに表情を歪めて言った。
「でもっ! でも、シグルド様は……仰ったのです。私を許さない、と……。呪ってやる、祟ってやると……。自分の恨みを思い知れ、と……そう、仰ったのです……」
「…………」
シグムンドの瞳に、また哀しげな光がよぎった。言葉を探すためか、しばらく視線を伏せた後、彼は言った。
「皇妃様……。実は、私は生前のシグルド殿のことを少し存じ上げております。あの方が、そのようなことを仰るとは、私にはとても思えません」
「気休めはよして下さい……」
シグムンドの言葉に、ディアドラは首を振って返す。
「確かに先ほど見たのは……私の夢だったのかもしれません。私の心が作り出した、幻覚だったのかもしれません。でも……シグルド様は、きっと怒っていらっしゃる……。あの方への愛を裏切り、他の人に愛を移してしまった私を……。
そしてきっと、悲しんでいらっしゃる……。苦しんでおられる……。私は、それが辛いのです……」
再び心の内を話しはじめたディアドラに対し、シグムンドは何も返してはこなかった。
ディアドラの目に浮かんだ涙が、ポトリとテーブルの上に落ちる。
「生きて償うことができないのなら……いっそ死んで償いをしようと、何度も思いました……。でも、できなかった……。
死ぬことは償いにはならないのだと……自分自身の苦しみから逃れるために、死を選ぶことは……あの方に対する償いにはならないのだと、そう思いました。
でも……生きていても結局、シグルド様に償うことはできない……」
ディアドラは弱々しく首を振り、そしてついにその言葉を口にした。
「もう、どうしていいのか……わたしにも、わかりません……」
言い終えた瞬間、ディアドラはハッとした。
どういうわけか、以前にも目の前の男に同じ言葉を言った気がした。
だが、シグムンドに対して自身の胸の内を話したのは、間違いなくいまが初めてである。
だから──シグムンドではないのだ。
かつてこの言葉を言ったのは、彼に対してではない。
シグムンドではない誰かに、彼女は同じことを言ったのだ。
では、それはいったい誰なのか──
そこが、思い出せなかった。
どのような状況で、この言葉を口にしたのかも。
きっとそれは、彼女が記憶を失う以前のことなのだろう。記憶をなくす前に、彼女は誰かにこの言葉を言ったのだ。
言葉の内容じたいはなんでもない、何のひねりもないものである。
なのにこれだけ心が騒ぐのは、この言葉を、誰か大切な人に、大切な場面で口にしたからではないだろうか。
彼女にとって大切な人──
おそらくは、シグルドに対して。
いつ、どのような状況でこの言葉を口にしたのかは分からない。分からないのだが、なぜだか森の中の風景が、頭に浮かんだ気がした。
この言葉は、どこか森の中で言ったのだ。
目の前にシグムンドがいることも忘れて、ディアドラは呆然と佇んだ。
こんなことは、初めての経験だった。毎夜見る夢の中以外で──目が覚めているときに、失った記憶の手がかりのようなものが、はっきりとそう意識されて浮かんできたのは。
(記憶を……取り戻せるかもしれない)
唐突に、ディアドラは思った。
彼女の記憶の回復を阻んでいた蓋のようなものが、いつの間にかなくなっているような気がしていた。
考え込むディアドラの表情は、それまでとは明らかに違っていた。
ディアドラは気づかなかったが、そんな彼女を見たシグムンドの包帯の下の表情も緩み、優しげな瞳でじっと彼女を見つめていた。
当然ディアドラは知らないことですが、彼女の記憶の想起を妨害していたマンフロイの術が、ロプトウスの消滅によって、すでにその効果を失っています。
あとは、彼女自身が思い出すだけの状態になっています。