シグムンドとの会話以来、考え込むことが多くなったディアドラの様子は、明らかに以前とは異なっていた。
悲しみ、心の痛み。そして、罪責感──
これらは、まだ消えてはいない。弱くなったわけでもない。一生消えることはないだろうと、彼女は思っている。
ただ、シグルドに対して犯した罪を償うにはどうすればよいのか。その一端を、掴んだような気がしていた。
やはり、まずは記憶なのだ。
これを取り戻さなければ、話は始まらない。
もしもシグルドとの記憶が戻ったら──過去の彼と、自分のことを知ってしまったら、いまディアドラが感じている哀しみと罪悪感は、さらに大きなものになってしまうかもしれない。自分の心が、それに耐えられるかどうかは分からない。
だが、それでも思い出さなければならないのだ。
あのとき、シグルドの亡霊は言った。
──自分に対する愛の誓いを忘れたのか。
と。
シグムンドは言った。
あの亡霊が口にしたような恨み言を、シグルドという男が口にするはずはない──と。
そのシグムンドの言葉が、本当かどうかは分からない。
ディアドラを慰めるための、気休めだったのかもしれない。
だが、シグルドという男がどういう人物だったのか。
自分はシグルドとどのように過ごして、いったい何を語り合ったのか。
ここが分からなければ、償いなどできようはずがない。ただ空虚な言葉で謝罪を口にしたところで、シグルドの心には伝わらない。
例え記憶が戻らずとも、せめてシグルドという男のことをもっと知らなければならない。
できれば、過去の自分とシグルドの両方を知る者から、話を聞きたい──
いつしかディアドラは、その方法を具体的に考えるようになっていた。
彼女は、できればこのことに誰かを巻き込みたくはないと思っている。だが、残念ながら彼女一人でできることなど、たかが知れている。どうしても、誰か協力者がいる。
しかし、夫には頼めなかった。
アルヴィスはきっと反対をする。ディアドラが真実を知ることを、彼はひどく怖れている。アルヴィスの愛を疑っているわけではないが、この件については彼の協力は望めない。
そして、いまディアドラの周りにいる人間は、ほぼ全てがアルヴィスの意に添うことだけを考えている者たちばかりだった。
皇帝の意向に逆らい、ディアドラの頼みを聞いてくれそうな者は──彼女には一人しか思いつかなかった。
できれば、その人を巻き込みたくはない。
危険な立場に、追い込みたくはない。
だが、他に方法が考えつかなかった。
しばしの葛藤の末、ある日ディアドラは、ついにその男に──シグムンドにある頼み事をした。
申し訳ないと思いつつ、何度も謝りつつ、彼にこう頼んだ。
──生前のシグルドをよく知る者を捜して、その居場所を教えて欲しい。
と。
生前のシグルドをよく知る者──
その人はきっと、いまのこの国では反逆者の残党ということになるだろう。謀反を企てた咎人として、身を隠して生きていかねばならない立場の者であろう。
グランベル帝国が行った反逆者狩りは、いかにも苛烈で執拗なものであったと聞く。もしかしたら彼らの多くは、すでにこの世の者ではないのかもしれない。
でも、必ずどこかに生き残っているはずだと、ディアドラは信じている。
生前のシグルドは、この広い大陸の半分近くを駆け回っていた。彼を知る者は、大陸じゅうに存在していたはずだ。その全てが既に息絶えているとは、さすがに考えられない。
なによりも、あの言葉。
──シグルド様を裏切った女のくせに。
この言葉を発した者は、少なくともディアドラがシグルドの妻であったことを知っている。生前のシグルドと、ディアドラのことを知っている。ならばこの者こそ、激しい反逆者狩りを生き残った者ではないのか。
なんとかその者に、話を聞くことはできないだろうか。
シグムンドは、「生前のシグルドを知っている」とディアドラに言った。
ならば、例え細くとも、彼にはその者を捜しだすあてがあるのではないか──
ディアドラの頼みを聞いたとき、シグムンドはしばし黙考した。そして彼女にこう言った。
「皇妃様、いったい何をお考えなのですか?」
ディアドラは何も答えなかった。彼の顔を正視せず、ただ目を伏せて沈黙を貫いた。
シグムンドがさらに言う。
「シグルド……殿のことを知る者を探せ、というところまでは理解できます。しかし、その者をこの宮殿に呼んでほしい、あるいは話を聞きに行ってほしいとのご命令ではなく、居場所だけを教えてほしいというのは解せない。居場所を聞いて、いかがしようというのです?」
「その方を害そうとする意図はございません」
きっぱりとディアドラは言い切った。
兵や暗殺者を差し向けるつもりで居場所を聞いているわけではない──ということを、はっきりさせておきたかった。
シグムンドは「そんなことは分かっている」と言いたげに嘆息をした。
「だからこそ……ですよ。皇妃様、もしやご自身で……」
「それ以上は仰らないで!」
叫ぶように、ディアドラはシグムンドの言葉を遮った。
「貴方にご迷惑をおかけすることになります。場合によっては、命の危険も……」
アルヴィスは、ディアドラが彼の元から去っていくことを極度に恐れている。幼いころ、母が不倫の末に自身を捨てて出て行ったときの心の傷が、いまだに彼を悩ませている。
だからアルヴィスは、けしてディアドラを一人では外出させない。
たとえ公務であれ、宮殿の外に出ることすら、あまり良い顔をしない。
一方で、アルヴィスが遠征に出るときなどは、いつも彼女を同行させたがる。
自分の目が届かないところに彼女を置くことを、ひどく嫌がる。
ディアドラにとっては窮屈とも言える生活だが、これまでは、それは夫が自分を愛するゆえなのだと、理解していた。
彼女を愛するが故に──最愛の妻が、かつての母のように自分を捨てて出て行ってしまうことがないように、アルヴィスは常に腐心している。
もしも、ディアドラの勝手な外出を誰かが手引きしたと知れば、確実にアルヴィスは怒り狂うだろう。
激情家の彼のことだ。最悪、その者を処刑してしまうかもしれない。
だから、ディアドラは自身の計画を誰にも相談できないのだ。
彼女一人で計画し、一人で実行しなければならないのである。
黙りこくるディアドラに、何かを考え込んでいた様子のシグムンドが口を開いた。
「皇妃様。私は、この宮殿に長くいすぎました」
あまりにも唐突な言葉。
えっ、と思いながらも、それでも下を向き、見透かすような彼の視線から逃れようとするディアドラに、シグムンドが続けた。
「ユリア殿下も、記憶を取り戻しつつある。皇帝陛下や皇妃殿下が自分のご両親だ、ということも思い出されたようだ。私の役目は終わりつつある。ちょうど、旅の空が恋しくもなってきたところ。そろそろ……暇を頂戴しようと思います」
「シグムンド様!」
ついにディアドラは顔を上げた。その瞬間、素早く彼は言ってきた。
「
ユリアを逃がしたときに、そのことは証明済みだ。
「杖は、ユリア殿下に使ってもらうつもりでしょうか?」
さすがにアルヴィスも、娘には激情をぶつけたりはしないだろう。確かに、ディアドラはそう考えていた。
「…………」
それでも、ディアドラは口をつぐむ。
彼を、巻き込むわけにはいかない──
つっと、彼から目を逸らしたディアドラに、シグムンドが静かな、しかしはっきりとした口調で言ってきた。
「皇妃様が仰る人物には心当たりがあります。居場所も、知っています」
その言葉に、ついディアドラは、再び彼の方を見てしまう。
彼女の顔をまっすぐに見返して、シグムンドが言った。
「決行は、いつです?」
「…………」
それでも黙っていると、目を細めてシグムンドが言ってきた。
「明日、私は陛下にお願いして、暇を頂きます。そして皇妃様のご意向に添えるよう、準備に入りましょう。決行の日取りを教えて頂ければ、その日に貴女を迎えに参ります。私が、皇妃様をお守りします」
真摯な瞳で自分を見据えてくるシグムンドを、ディアドラはじっと見つめた。
彼を巻き込みたくはない。危険に晒したくはない。
だけど、後者の想いはシグムンドも同じなのだ。
彼女を一人で旅させるわけにはいかないと、彼は考えている。
しかしその想いに、はたして甘えてもいいものだろうか──?
ディアドラは思い悩む。
一方で、不思議と彼の言葉に安心感も覚えていた。
案じるような目で自分を見るシグムンドの瞳をみつめ返す。
長い煩悶と、妙に懐かしい気持ちが胸に渦巻く。
そしてついにディアドラは、口を開いてしまった。
内に秘める計画を、彼に話してしまった。
「……わかりました。それでは、またご連絡いたします」
うなずいたシグムンドが立ち上がり、部屋を出て行く。
このとき、彼もディアドラも気づいてはいなかった。
扉の外で二人の話に耳を澄ましていた影が、シグムンドが立ち上がると、そっと廊下の向こうに消えていったことを。
※
翌日、シグムンドはアルヴィスに役目を辞することを願い出た。
皇帝は、二つ返事で彼の願いを了承した。
娘の手前、宮殿内に留め置いてはいたが、初対面の時からこの男に対する印象はあまり良くはなかったのだ。妻の傍に、自分以外の男が長時間いることもあまりいい気分ではなかった。
その日のうちにシグムンドは、ユリアとディアドラに別れを告げて宮殿から姿を消した。
一ヶ月後、今度は皇帝アルヴィスが宮殿を出た。こちらは、公務である。
大陸の中でまだ彼の支配下に入っていないトラキアという国。その王との会談の席に出向いたのだ。
これまでであれば、このようなときアルヴィスは、旅路にディアドラを同行させることが多かった。しかしこのときは、妻子の心身の負担を考慮して、宮殿に残していくという苦渋の決断をした。
トラキアの王が、油断のならない男であることも、彼の判断に影響していただろう。不意打ちはもちろん、子供を人質にして親を殺すことも平気で行うような男だ。そうやって、対立する国の王を殺害した前科がトラキア王にはある。
突然に襲われる可能性がないともいえず、妻と娘を人質にとられる危険性もあるから、ディアドラとユリアの身を案じるならば、同行させない方が得策だ。
残していく妻と娘に後ろ髪を引かれるように、アルヴィスはバーハラを出立していった。
皇帝不在の宮殿で、再び事件が起きたのは、その三日後のことである。
宮中の者たちは皆、顔を蒼白にして蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
皇妃ディアドラが、失踪したのである。
もっとも今回は、賊の侵入はあまり考えられなかった。皇妃自身の意思による出奔だということを示す置き手紙があったのである。
そこには、こう書かれていた。
『記憶を取り戻すための旅に出かけます。
ご心配をおかけして、本当にごめんなさい。
どうか、私のわがままをお許しください。
私の身勝手で迷惑をかける宮殿の皆様を、どうかお叱りにならないようお願いします。
愛しております、アルヴィス様。
──ディアドラ』