「お母様……」
気を失いかけたディアドラを現実に引き戻したのは、ユリアの声と、自身の腕をぎゅうっと握る小さな手の感触だった。
隣を見ると、幼いユリアの顔も怖ろしさと哀しみで歪んでいた。
「ユリア……」
娘の頭を、ディアドラはそっと自身の身体に抱き寄せた。
怖い話を聞かせて申し訳なかったという思い。同時に、小さな体で必死に自分を支えてくれようとした娘に、感謝と愛おしさを感じていた。
ディアドラは、このままユリアの耳を塞いでしまおうかとも考えた。が、結局はやめておいた。
いかに怖ろしかろうと、辛かろうと、皇帝の娘として、ユリアは聞いておくべきだと思った。
生まれたときから宮殿内で何不自由なく育てられた彼女は、戦というのがどういうものなのか、よく分かっていないであろう。知識としては知っていても、実感というものがない。
今日、この話を聞いて戦争の悲惨さを知り、二度とそのような悲劇を繰り返してはならないと、心に決めてほしかった。
エーディンの話は続いている。
「あのとき、夫は最期まで私への愛を貫いてくれました……。あのときのことを思うと、悲しく辛い思いと同時に、夫の大きな愛を感じるのです。
私は、“剣士の彼女”のように、夫と共に死を選ぶこともできました。ただ、夫は最後にこう言ったのです。『子供たちを頼む』と……。
その夫の最期の言葉を守るため、私は今を生きています。これは運命などではなく、私自身の選択なのです」
そう言い切るエーディンを、ディアドラは眩しい思いで見つめた。
なんと気高く、強い女性なのだろうと敬服した。
同時にディアドラは考える。
記憶が戻ったとき、果たして自分のこの心は、愛する夫を失った悲しみに耐えられるだろうか。エーディンのように、前を向いて生きていくことができるだろうか。
だがそれでも──この先にどんなに辛く、悲しい思いが待ち受けていようとも、それでも自分は記憶を取り戻さなければならない。
エーディンは、ディアドラも被害者の一人だと言った。
だが、ディアドラ自身はそうは思ってはいない。
アルヴィスの──加害者の妻である以上、罪の結果としての恩恵を享受した身である以上、どんなに苦しい思いをしようとも、彼女は被害者にはなり得ない。
特に、シグルドに対しては──
アルヴィスと愛しあってしまった事実がある以上、ディアドラは、もはやシグルドに対する不貞行為の共犯者である。彼女の“自由意志”による選択こそが、今もシグルドの魂を苦しめ続けているのだから。
シグルドが気高い人物であったと知れば知るほど、ディアドラの罪の意識はさらに大きくなっていく。
自分とアルヴィスは、彼になんと酷いことをしてしまったのか、と。なんと取り返しのつかない罪を犯してしまったのだと、自分自身を責め苛む。
その犯した罪を償うためにも、例え彼に許してもらえずとも──せめてシグルドのことを思い出さなければならい。
心から彼の死を悲しみ、悼み、その上で謝罪しなければならない
彼の冥福を、祈らなければならない。
その悲しみを胸に抱きつつ生き続けるのか、自らの手でシグルドの所に行くことを選ぶのかは、記憶を取り戻してから考えればよい。
重苦しく沈黙したディアドラを気遣うように見た後、エーディンが再び口を開いた。
「私自身の話はこれぐらいにして……」
そこでチラリと、エーディンはユリアの方に目を向けた。
「少し、別の方のお話を語りましょうか。私の古い知り合いの恋の物語です。”ディアーラ”という名の──そう、あなたのお母様とよく似た名前の女性の話」
他人の恋愛話に花を咲かせるかのように言ったエーディンが、ちらりとディアドラのほうを見た。
交わし合った視線で、ディアドラはエーディンに感謝の意を伝える。
エーディンがこれから話そうというのは、おそらくディアドラとシグルドの出会いと馴れ初めの話だろう。
アルヴィスの娘であるユリアの手前、“ディアーラ”という名の別の人物として、語ろうというのだ。
「ただ──」
恋の話と聞いて目を輝かせたユリアを見て、エーディンの表情が少し翳った。
「このお話も、聞けば貴女は悲しい思いをするかもしれません。とても美しい恋のお話だけど、最後はとても哀しいお話。心躍る楽しい話ではありません。それでも、聞きますか?」
確認するようなエーディンの言葉に、しばし逡巡する様子を見せたユリアが、しかし確かにこくりと頷いた。どこか、覚悟を決めたような真剣な表情をしていた。
エーディンの気遣いに感謝しながら、一方でディアドラ自身も、再び心中で身構えていた。
すでに彼女は、自分とシグルドが深く愛し合っていたことを確信している。
エーディンの話を聞くまでもなく、毎夜見る夢の中で彼女が抱く気持ちこそが、そのことを言外に証明している。
そして彼女とシグルドとの愛が深ければ深いほど、それはそのまま、彼女の罪の深さとして跳ね返る。
ディアドラの心を苦しめる。
これからエーディンが語る話がどんなに甘いものであろうと、彼女がそれに酔いしれることはできないであろう。聞けば聞くほど、苦い思いを噛みしめることになるだろう。
それでも、ディアドラはエーディンが話す恋の物語を聞かなければならない。
どんなに辛くとも──自分とシグルドがどこで知り合い、どこで愛を育んだかは、聞いておかなければならない。
その場所に、実際に出向くためである。
最初は、「シグルドをよく知る者から話を聞く」だけのつもりであった。
だが、今のところそれで、自分の記憶が戻る気配はない。
やはり、行かねばならないのだ。
シグルドとの思い出の地に。
そこに出向いて、自身の記憶を刺激するしかないのであろう。
だからシグルドと自分の馴れ初めの話は、今ここで何としても聞いておかなければいけない。そこがどこなのか、きっちりと明らかにしておかなければならない。
エーディンが、語りはじめた。
「それは、私がヴェルダンの者に攫われ、彼らの城であるマーファ城に軟禁されているときのことでした」
ヴェルダン人の中にもエーディンのことを哀れに思う者がおり、城下町で彼女が過ごすことを黙認してくれたことがあった。
そのときに、彼女は街で一人の美しい娘と出会った。
精霊の森と呼ばれる場所で一人暮らしをしているという彼女に、エーディンは自身の身の上を話し、そして言ったのだ。
──必ず幼馴染みのシグルドが助けに来てくれる。
と。
──その方は、貴女の恋人なのですか?
娘のその問いを、エーディンは笑いながら否定した。幼馴染みに対してそのような想いを抱いたことは、ただの一度もなかった。
ただ、恋愛関係は否定しながらも、エーディンはこの幼馴染みのことを色々と娘に語って聞かせたのだ。
それは、囚われの身であるエーディンの精一杯の気晴らしであった。だが、その話題として幼馴染みのことを選んだのは、とある直感を得ていたからだとエーディンは言った。
「私も人のことは言えなかったのですけれど……当時の彼は、浮いた話というものが一つもなくて、それで私は日頃から彼のことを心配しておりました。」
貴族の長子としシグルドは、とうに伴侶を決めていなければならない年齢に差し掛かっていた。
実際、彼の同い年の親友たちは、その時点で既に二人とも結婚していた。そのうちの一人の妻は、シグルドの実妹である。
エーディンをはじめとする周囲の者達が、独身を貫き続けるシグルドのことを心配したのも無理のない話であった。
当時の大人たちの中には、エーディンと彼の婚姻を考える者もいたようだ。だが、当の本人たちにはまったくその気がなかった。少なくともエーディンは、シグルドを恋愛対象として見たことは一度もない。
彼のほうはというと──エーディンどころか、秋波を送ってくる他のどの女性にも、関心を抱く様子がなかった。
「だから彼は、男色家なのではないか、なんて言う人もおりましたのよ」
言ってエーディンが「ふふふ」と笑い、ディアドラは別の意味で娘の耳を塞ぎたくなった。
「しかし、私は気づいておりました」
シグルドは、別に女性に興味がないわけではない。
ただ、真面目すぎたのだ。
自分が女性に愛を囁くのは、その人こそが生涯の伴侶と思い定めたときだけだ、と心に決めていたのである。
そしてエーディンは、
──この方こそ、将来、彼のお嫁さんになる方に違いないわ!
だから彼女は、”ディアーラ”に彼のことを話して、最後にこう言った。
──いつか必ず、彼に会って頂きたいわ。貴女こそ、彼にふさわしいと思うから。
それまではエーディンの話を楽しそうに聞いていた”ディアーラ”は、その最後の言葉にだけは、悲しそうに目を伏せたという。
後から知ったのだが──そして今も詳しい事情はエーディンも知らないのだが、精霊の森の巫女であった”ディアーラ”は、「決して人と交わってはならない」と教えられて育ったのだという。
エーディンと話をしたのも、彼女にとっては掟破りすれすれの行為であった。
だが、当時のエーディンはそんな事情は知らなかったから、幼馴染みに救出された後、彼と”ディアーラ”をどう出会わせようかと、思案し続けたのだという。
だが、実際にはエーディンが何かをするまでもなかった。
ヴェルダンとの戦いの最中、シグルドと”ディアーラ”は偶然にも出会い、そして互いに一目で忘れられない存在となった。恋の炎が、一瞬にして燃え上がった。
”ディアーラ”が住む精霊の森の中で、二人は永遠の愛を誓い合ったという。
この時”ディアーラ”は、自身の体に流れる忌まわしき血のことを──だからこそ自分は人と交わってはならないのだと、彼に打ち明けている。
それでも彼は、”ディアーラ”への愛を捨てなかった。
”ディアーラ”のほうも、もはや彼への想いを──掟破りの禁断の恋と知りながらも、どうしても抑えきれなくなっていた。
ただ、”ディアーラ”に流れる血の詳しい内容を、幼馴染みはエーディンには話してくれなかった。だから彼女は、この辺りの詳しい事情はよく知らないという。
それでも、娘とともにエーディンの話を聞いたディアドラは、自分がどこでシグルドと出会い、愛を語り合ったかをつぶさに知ることができた。
エーディンは──多少冷やかし気味ながらも、シグルドと”ディアーラ”の熱愛ぶりを詳細に語って聞かせてくれた。
彼女は、話上手であった。聞けば知り合いの吟遊詩人から──レヴィンから、恋愛物語の話し方を伝授されていたようである。
いつしかディアドラは、頬を染めながらエーディンの話に聞き入っていた。
これが過去の自分のことでなければ、二人の男女の甘い恋物語に、少女のように胸を高鳴らせていたことだろう。
シグルドがディアドラに言ったプロポーズの言葉も、エーディンは教えてくれた。恥ずかしがりながら、同時にとても嬉しそうに、かつてのディアドラが報告してくれたのだという。
彼の、あまりに芝居がかかった、同時にディアドラを思う気持ちが溢れかえった言葉。
それを聞いたディアドラの頬が、ますます赤く染まっていった。
これほどに恥ずかしく、同時に胸をときめかせる愛の言葉は、アルヴィスにも言われたことはなかった。
シグルドという男にはなんとなく口下手な印象を持っていたのだが、こんなにも情熱的な愛を囁ける人であったのかと、ディアドラは少し驚いていた。
彼の、意外な一面を知った気がした。
横を見ると、ユリアもうっとりとした目でエーディンの話を聞いていた。
吟遊詩人の語るロマンティックなラブストーリーさながらのエーディンの話に、少女らしく胸をときめかせているようだった。
だが、熱愛の末にシグルドと電撃結婚をした”ディアーラ”の物語が、アグストリアの首都・アグスティにまで辿り着いたところで、エーディンの表情が曇った。どうやら、その先を話すことを躊躇っているようだった。
彼女の様子に、ディアドラは悟った。
おそらくその地で、自分の身に何かが起きるのであろう。記憶を失い、シグルドと引き離されて、愛し合う二人の物語は、悲劇的な結末へと向かうのだ。
ディアドラは一度ユリアを見、そしてエーディンへと視線を戻した。
真剣なディアドラの表情に、エーディンもその意志の強さを改めて感じたようだった。
それまでの様子から一転して表情を改め、エーディンは再び語りはじめた。
「私はその時、シグルド様の軍に従軍しておりましたので、これはあくまで聞いた話ですが──」
そう前置きして、続きを話す。
アグストリアでの戦いにおいて、シグルドは産まれたばかりの息子と妻の”ディアーラ”を城に残したまま出陣していた。乳飲み子を連れて戦場に出るわけにはいかないし、赤子とその母を引き離すわけにもいかなかった。
息子とともに城に残っていた”ディアーラ”は、夫の勝利の報を聞くと、供の者が止めるのも聞かずに、シグルドを出迎えるために一人で城を飛び出した。
そして、二度と戻ってこなかった──
シグルドと再会することもなく、ディアドラは行方知れずになったのだ。
彼女の身に何が起きたのか、それは誰にもわからなかった。
何者かに殺されたのではと言う者もいたが、シグルドは最後まで彼女がどこかで生きていると信じていたそうである。
その彼の想いは──実際に、その通りではあったのだ。
だがディアドラは生きていたからこそ、二人の身に起きた悲劇は、より残酷な結果を迎える。
愛する妻と引き離されただけではすまない、悪意が含まれているとしか思えない運命が、シグルドの身に降りかかる。
最愛の妻は記憶を失い、彼を罠に嵌めて──無実の罪を着せて殺した男の妻になっていた。シグルドは、そのことを見せつけられた上で、失意と哀しみの果てに殺害された──
長い話を終えたエーディンに、ディアドラはまた深々と頭を下げて篤く礼の言葉を述べた。
穏やかな笑みを返してくれながら、エーディンは最後にこう言った。
「ディアドラ様。今の私たちの立場は、昔とは大きく異なるものとなってしまいました……。ただ、それでも私は、貴女とこうしてまたお話をすることができて、嬉しく思います。
願わくば……また貴女とお話しをすることができればと思います。今度は哀しいお話ではなく、美味しいお茶でも飲みながら、楽しいお喋りを──」
帝国から身を隠して暮らす立場であるエーディンと、皇妃であるディアドラとがまた再び出会うことができるのかは、分からない。
それでもディアドラは、
「ええ。是非とも」
と言って、エーディンに別れを告げた。
彼女に話があると言うレヴィンと入れ替わるように、ユリアと共に部屋を出る。
戸口でふと振り返ったとき、レヴィンと話をしているのであろうエーディンが、両手で顔を覆って泣いているのが見えた。
ただ、それは悲しみの涙ではなく、喜びの涙であるように、何故だかその時のディアドラは感じていた。
ユリアをこの場に同席させるかは、作者としても悩みました。ただ、CERO-Aですからね。年齢制限のない物語のはずです。