ユリアの母に異変が生じたのは、レヴィンと合流してアグストリアの州都・アグスティの郊外を移動しているときだった。
街道沿いだが町並みから外れ、ひとけの途切れた場所に差し掛かったとき、馬車の上から景色を眺めていたディアドラが、突然に頭を抱えてうずくまった。
「な、なにをするの!? ……やめて!!」
みな、何事かと振り返った。
「お母様!?」
馬車の反対側で景色を見ていたユリアは、慌ててディアドラのそばに移動して母に手を添えた。御者台に座っていたシグムンドと、外を歩いていたレヴィンも駆け寄ってくる。
心配そうな視線が集まる中、ディアドラが譫言のように呟いた。
「ああっ、シグルド……さま……。セリス……」
ガクガクと震え、額から大粒の汗を流しながら、ディアドラは馬車の床を見続けている。
「お母様……」
支えるようにディアドラに抱きついたユリアの目にも、涙が浮かんできた。
「しっかりして……しっかりして、お母様……」
必死に母に声をかける彼女の頭に、やがてふわりと温かいものが乗った。ディアドラの手だった。
まだ震えの残る掌で、それでもゆっくりとユリアの頭を撫でてくれながら、ディアドラが言った。
「ごめんなさい、ユリア……。もう、大丈夫……」
母の顔はいまだ蒼白だ。それでも、ディアドラはユリアに優しく微笑みかけてくれた。
「皇妃様、記憶が……戻られたのですか……」
ディアドラが落ち着くのを待ってシグムンドが静かに尋ねた。ディアドラがゆっくりと頷く。
「少しだけ……ですが」
一度目を閉じて、自身の心を静めるように首を振った後、ディアドラは意を決したように言った。
「ここで……この場所で、私は
ユリアは息を呑んだ。
マンフロイという男のことは、彼女も知っている。ユリアの父の側近だった男だ。何とも言えない禍々しく、怖ろしい雰囲気を感じる男で、正直ユリアは、この老人のことが好きではなかった。
きっと彼女は、本能的にマンフロイの邪悪さを知覚していたのであろう。
ユリアのこの直感は正しかった。
彼女とディアドラを襲い、兄・ユリウスを殺した犯人は、このマンフロイであったと聞いている。
しかしそればかりか、ディアドラを攫った張本人であったとは──
衝撃を受けるユリアたちに、ディアドラが続けた。
「マンフロイは……私にこう言いました。『おまえは今から生まれ変わる』と。『全ての記憶を失い、ある男の妻になる』と。そして、こう続けたのです。『それがおまえの運命じゃ、あきらめよ』と……」
そう語るディアドラは、記憶が戻ったショックからか、そばにいる娘への気遣いを完全に忘れているようだった。
母の言葉に、ユリアはさらに大きな衝撃を受けていた。
マンフロイが言った”ある男”とは、間違いなく父・アルヴィスのことだろう。
仕組まれていたのだ。ディアドラとアルヴィスの出会いは。
ユリアの父と結婚させるため、マンフロイは母を攫い、その記憶を奪った。
両親の結婚は、運命の赤い糸に結ばれての結婚などではなかったのである。非道な策略の末の、文字通りの略奪婚だった。意図的に誰かを苦しめることを承知の上での、本来は祝福など受けてはならない結婚だったのだ。
ユリアの心は、ひどく打ちのめされた。心の中が、暗い闇で侵食されていくように感じた。
ぎりり、という歯ぎしりの音がして、呆然としていたユリアは我に返った。音がした方を振り返る。
シグムンドだった。
仮面に覆われた顔からは、その表情は読み取れない。だが、強く握りしめられた彼の拳は、ぶるぶると震えていた。
「アルヴィス皇帝は、そのことを知っていたのか?」
比較的冷静な様子のレヴィンの言葉に、ディアドラは首を振って答えた。
「知らないと……思います。マンフロイが勝手にやったことだと……。そう思わなければ……あまりにも……」
そこまで言って、哀しそうにディアドラは目を伏せた。
「少なくとも、アルヴィス様の愛は……本当であると思います。私は、そう……信じています」
ディアドラの言葉にシグムンドが無言で顔をそむけ、レヴィンが鼻白んだような表情を見せた。
一方ユリアは、父が悪事には荷担していないことを知って、少しだけほっとしていた。
ただ、それでも彼女の思いは複雑だ。
(お父様は、何と罪深いことをしてしまったのでしょう……)
ユリアの小さな胸が、きりりと痛んだ。
「俺は、”運命”という言葉が嫌いだ」
突然に、レヴィンが吐き捨てるように言った。
「その運命とやらのために、いったいどれだけの人間が苦しんだ? 何人の人間が不幸になった? 何人の人間が悲しい思いをした?
納得など、できるものか!
なのに、そんなものを振りかざして、あいつらは……!」
「レヴィン、それ以上は……」
「シグムンド、お前だって!」
そこまで言ったところで、レヴィンはハッとしたように口をつぐみ、それ以上はもう何も言わなかった。
その日から、ディアドラの表情は再び冴えなくなった。
旅に出る直前の彼女がそうであったように、言葉を発することすら稀になり、馬車の上から愁いを帯びた目で、かつて歩んだという道をただ眺め続けているだけだった。
※
アグストリアとヴェルダンの国境が近づき、旅芸人の一座とはそこで別れた。
新たにユリアたちが加わったのは行商人の一行であったが、そうなると彼女たちの仮面はかえって目立つ。
レヴィンは皆に仮面を外すように言い、代わりにユリアには帽子を目深にかぶらせた。
ディアドラは、再び服装を変えていた。ここから先は治安が悪く、あまり派手な格好だと盗賊に目をつけられてしまうらしい。
レヴィンから渡されたヴェルダンの民俗衣装だという服を、ディアドラはまじまじと見つめていた。その目には、どこか懐かしむような色があった。
さらにディアドラは、黒い帽子にこれまた黒いヴェールをつけて、肩口に喪章を身につけた。未亡人を装ったのである。金がないから喪服が買えないという設定で、これ見よがしに喪章を身につけていれば、ヴェールで顔を隠すのもそんなに不自然ではないと思われた。
驚いたことに、このことを提案したのはディアドラ自身であった。
最初に母からこの提案を聞いたとき、心の中でユリアはそっと呟いた。
(お母様……それは、どなたに対する喪章なのですか……?)
旅は、順調に進んでいった。
ヴェルダンの統治に関して、帝国は不思議なほどに無関心なのだとレヴィンは教えてくれた。ほとんど帝国からうち捨てられたような状態で、まともな役人すら置かれず、各部族が覇権を巡って争いを繰り返している。街や村では、盗賊団が我が物顔で暴れ回っている。
「だからこそ、逆に安全なのかもしれないけどな」
皮肉げに、レヴィンが言った。
バーハラからの追っ手は、あまりこの地方では情報を集めることができないだろう。だから、彼女たちを知る者に直接顔を見られる事がない限り、まずユリアたちの居場所が知られることはない。
実際、大陸じゅうの指名手配犯が、この地方になだれ込んできているのだという。
ユリアたちのようにあからさまに顔を隠している者もそれなりにいて、奇妙なことに、それがかえって不自然ではなくなっていた。そのような者たちに対して、誰も何も言わない風潮ができあがっているのだ。
ヴェルダンに入ってからは、紛れ込む行商人の一行は次々と変わっていった。アグストリアの国境沿いから、ちょうど精霊の森まで向かう一団が見つからなかったのだという。野盗が多い地域だから、商人も長距離の旅を避けるのだ。
結果としてユリアたち四人だけでの道行きも多くなり、野営も増えた。裕福な旅人向けの旅籠も、少ないのである。
「まともな個室すらないような安宿に泊まるより、野営の方がかえって安全だ」
そう、レヴィンは言った。
シグムンドと共に旅をしていたときには、ユリアは野営が当たり前であった。
だから彼女はあまり気にならなかったのだが、ディアドラもユリアと同様、野営を気にする様子がまったくなく──むしろ慣れているそぶりすらあったことが、ユリアには意外だった。
おそらくアルヴィスと結婚する前の母は、頻繁に野営も経験していたのだろう。
母の、知らない一面を見た気がした。
そんな旅が何日も続いて、いよいよ目的の精霊の森が近づいてきた。
ユリアたちは、マーファという街に泊まった。幸いにもこの街にはまだ活気が残っており、旅籠も充実している。
いつものように母娘の部屋の両隣をシグムンドとレヴィンが押さえ、ユリアは母と二人で部屋に入った。
ここから先には、もう大きな街はないという。
次は、いよいよ精霊の森だ。
シグルド様と”ディアーラ”──いや、過去のディアドラが出会った場所である。
昂ぶりと同時に、ユリアは言い知れない不安感を抱いていた。
母はいったい今、どのような気持ちでいるのだろう──
ちらりとディアドラの方を伺うと、母は窓際の椅子に腰掛けて、鎧戸の隙間から外を眺めていた。
ユリアは最初、母が夕焼けを見ているのだと思った。
だが、違った。
母の視線は、空ではなく下の方に向けられていた。
彼女たちが泊まる部屋は、旅籠の二階だ。部屋の窓は大通りに面している。
その大通りの一点を、ディアドラはただじっと見続けていた。
母の顔は、いつもの憂いの表情とは異なっていた。哀しみの表情は確かにあるのだが、同時に何かを懐かしむような目もしていた。
そこで唐突に、ユリアは思い出した。
この街は、エーディンとディアドラが出会った場所なのだ。”ディアーラ”が、初めてシグルドという男の話を聞いた街なのである。
あの話し上手のエーディンのことだ。さぞかし素晴らしい語り口で、シグルドのことを語ったのだろう。
実際にユリアも、エーディンの話を聞いて、シグルドという男はなんと素敵なんだろうと、胸をときめかせた。
彼は、まさしく英雄譚の主人公であった。もしもユリアが男の子だったら、きっと将来こういう男になりたいと思ったことであろう。
しかし、その勇ましさや活躍とは裏腹に、彼は悲劇の主人公でもあるのだ。二人の親友、妹、そして父親を次々と殺された上、自身も反逆者の汚名をかぶせられて無惨に殺された。
忌憚なく言えば、何の救いもない人生だった。
特に”ディアーラ”の件は、あまりにも哀しすぎるとユリアは思う。
主人公が愛する者を攫われる物語は数多くあるし、権力者に最愛の者を奪われて、無理矢理に結婚させられる話だってある。
高潔な人物が、志半ばに殺される物語だって、世の中には数多く存在する。
そのどれもが、悲劇の物語として聞く者の涙を誘うことだろう。
でもシグルドの場合は、それらの全てが降りかかってきたのだ。
しかも攫われた妻は、彼の記憶を失ったまま、攫われた先で幸福な結婚生活を送った。シグルド一人が、不幸を全て抱え込まされたま取り残されて、苦渋の果てに殺された。
加えて、シグルドは死の間際に、幸福な妻とその新しい夫の姿をまざまざと見せつけられている。
彼への愛を失い、今まさに殺されようとする夫を見ても、その命を助けるようなことは何もしない妻の姿を──
”ディアーラ”が悪女であれば、これは妻に裏切られた不憫な男の物語であり、これもまた、ままある話なのかもしれない。
だが、そうではないのだ。
シグルドは、彼女を恨むことも憎むこともできないのだ。
怒ることすら、できない。
”ディアーラ”は、
やり場のない辛さと苦しさを抱え込んだまま、シグルドは心穏やかに眠ることすら許されない。
そして彼のことを忘れてしまった妻は、その死を悲しむことすらしない。
彼の死を悼むこともない。
自分には無関係の、赤の他人が死んだとしたか思っていない。
あまりにも、酷すぎる。むごすぎる。残酷すぎる。
これが誰かの創作であれば、もはや悪意の産物としか思えない。
悲劇を語りたいのであれば、一つだけでも十分であったはずなのに、シグルドに対するこれでもかという仕打ちには、彼に対する強烈な憎悪を、そして彼に感情移入した者に対する猛烈な悪意を持っていたように感じてしまう。
その者はきっといま頃、シグルドだけではなく、彼に感情移入した者が心に傷を負って苦しむ姿を見て、大きな愉悦に──あまりにも悪辣な愉悦に浸っているのではないかとすら思えてくる。
そうでなければきっと”その者”は、シグルドに対して何かの救いを用意するはずだろうから。
聞き手の心を傷つけないために。
万一傷ついてしまったその心を、癒やすために。
それは、いまからだって遅くはないはずだろうに。
だがそうなっていないのは、これが物語などではなく、ユリアの母の、その先夫の身に、実際に起きたことだからだ。
創作ではなく、現実だからこそ、何の救いもないのである。
シグルドは、いまも苦しみ続けている。
その苦しみを与えているのは、ユリアの父と母だ。
そう考えると、彼女の小さな胸は、張り裂けそうなほど苦しくなってくる。
シグルドに対する罪については、ユリアもけして無関係ではないと思う。
彼女は父と母の罪深い行為の結果であり、その生きた証拠であるからだ。
ディアドラに、幸福を与えている張本人であるからだ。
それは、「知らなかったから」という言葉で許されるものでは、到底ない。
「生まれてきた子供に罪はない」という者もいるかも知れない。
でも、理屈ではないのだ。
感情が許せない。
父を、母を、そして何より自分を許せない。
だから、彼女も償いをしなければと思う。
母は、「シグルド様に償いをする」と言っていた。
その償いには、自分も参加しなければならない。
できれば、父・アルヴィスも──
すでに死んでしまった者に対して、何をどうすれば償いになるのかは分からない。だから、母はいま苦しんでいる。
でも、母はその方法を探している。見つけようとしている。
そしてその方法が見つかったとき──母が何かをしようとしたときには、ユリアも協力せねばならないと思う。
少なくとも、母の償いの邪魔をするようなことがあってはならない。
それが、例えユリア自身に痛みを伴うようなことであっても。
ただ──
と、ユリアは考える。
もしも母がその命を捨てようとしたならば。
死ぬことで、シグルドに対する償いをしようと
それだけは、何がなんでも止めなければいけないと思う。
(そんなことは、きっとシグルド様も望んではいないはずだから……)
シグルドという男は、例え自身に対する償いのためといえども、愛する者の死を望むような人物ではないだろうと、ユリアは思う。
生きていれば、きっとディアドラの自死を何が何でも阻止するような人間であろう。
例え、元妻が愛しているのは、いまの自分ではないとしても──
ユリアと母は、もうすぐ目的地に──精霊の森に行き着く。
そこで、償いの方法を探す彼女たちの旅は終わる。
母の行動には、気をつけておかなければと、ユリアは思った。
ディアドラは、生きて償う方法を見つけ出すのか、それとも──
幼い身体に強い決意を抱きつつ、ユリアはその日、眠りについた。