いよいよ……です。
マーファ城から街道を進み、左右の森が深くなってきたところで、レヴィンが街道をそれて木々の間へと踏み入った。
精霊の森に、到着したのだ。
森の中には街道のような整備された道はなかったが、獣道らしき草木の途切れた場所が随所にあった。一行は、そのような場所を進んで森の奥深くへと分け入っていく。
周囲を同じような木々に囲まれて、ユリアは方向感覚もおかしくなってしまいそうなのに、レヴィンもシグムンドも、そしてディアドラも、迷いなく歩を進めていた。
どうやら大人たちは、全員がどう進めば目的地にたどり着けるか、知っているようであった。
森の中を進んだのは、三十分ほどだっただろうか。
やがて、木々がぽっかりと途切れた場所に辿り着いた。空き地のように開けた場所の真ん中に、一件の古びた小屋が建っている。
屋根は苔むし、壁には蔦が這っている。だが、不思議と朽ち果てた印象はない。
その小屋を見たディアドラの目が細められ、吐息のような声が漏れた。
「ああ……」
「……貴女が、生まれ育った家だ」
レヴィンが言った。
「いまは誰も住んでいない。だが、精霊の村の住人が時折やって来て、管理をしてくれていたそうだ」
だから、森の中の空き家なのに、朽ち果てずに残っていたのだ。
「ここは貴女の家なのだから、自由に使ってくれて構わないと言われている」
レヴィンが、小屋の扉を開けた。
わずかばかりの埃が積もってはいたが、中は十分、使えそうな様子だ。
めいめいに荷物を下ろし、落ち着いたところでディアドラが言った。
「精霊の村の方々は……?」
レヴィンが、首を振りながら答えた。
「いまの貴女には会えないと言っていた。貴女のことを気にはしていたようだが……」
だから、この家の面倒を見てくれていた。いつか、ディアドラがここに戻って来てもいいように。
だが、掟を破って村を出て、暴虐な皇帝の妻になっている娘とは会うことはできない。
いまのディアドラは、精霊の森の巫女ではなく──皇妃であり続ける限りは、村の人間であるともいえない。村の外の人間との交わりはできる限り避けるのが、精霊の村の掟なのである。
「そう、ですか……」
ディアドラが、悲しそうに目を伏せた。
ただ、それは母にとっては覚悟していた答えでもあっただろう。
これは、ディアドラ自身が選んだことなのだ。村を捨て、森を捨てて、外部の人間であるシグルドと共に生きることを決めたのは、他ならぬ彼女自身である。
そのとき望んでいた人生とは随分と異なるものになってしまったが、だからといって、いまさら村の者にあわせる顔がないのは、彼女のほうも同じではないのだろうか。
暗く沈んだ表情のディアドラに、話題を変えるようにレヴィンが言った。
「ここから少し行ったところに、泉がある。歩いて数分ほどの距離だ。少し休んだら、そこに向かおう」
ディアドラの肩が、ピクリと震えた。が、何も言わずにレヴィンの言葉に頷いている。
泉は、確かに小屋から歩いてすぐの所にあった。
木立がまるで壁のように周りの視線を遮ってはいたが、その間をすり抜けていくと、すぐにまた目の前が広がり、綺麗な水をたたえた美しい泉が見えてくる。
「うわぁっ……素敵!」
思わず、ユリアは目を輝かせた。
宝石のように美しい泉だった。
澄んだ水をたたえ、鏡のように平らな水面には、森の木立が天地を逆さにして映り込んでいる。木々の緑の間から、水に反射した陽光がキラキラと輝いていて、まるで泉自体が光っているかのようだ。
ディアドラとシグムンドの視線も、その美しい泉に釘付けになっていた。
「ここが……」
泉を見ながら立ち尽くす彼女たちに、レヴィンが言った。
「シグルドとディアドラの、思い出の場所だ」
ユリアは、エーディンの話を思い出していた。
二人はこの場所で結ばれ、永遠の愛を誓いあったのだ。
エーディンが語ってくれた胸がときめく恋物語の、その象徴たる場所に立っていると思うと、ユリアの心は自然と興奮に沸き立った。想像通りの美しい場所だったから、なおさらである。
レヴィンが、続けて言った。
「ここで、シグルドは初めてディアドラと出会い、そして二人は、一目で恋に落ちたんだ」
その瞬間、ディアドラが「えっ?」という表情でレヴィンの顔を見た。
奇妙な母の反応にユリアが首をかしげていると、シグムンドが思わずというように口を開いた。
「レヴィン、それはちが……」
「なんだ、シグムンド?」
「いや……」はっとしたように口をつぐみ、シグムンドが誤魔化すように泉の方に目をやった。「何でもない……。綺麗な泉だ……」
レヴィンからシグムンドの方に視線を移していたディアドラも、やがて泉の方に目をやると、そのままなにも言わずにじっと水面を眺めていた。
実のところユリアは、母がここで記憶を取り戻すのではないかと考えていた。
アグストリアのときのように、衝撃を受けた母が取り乱してしまわないか、心配していた。
だが、それは杞憂であった。
シグムンドの横に立ったディアドラは、ただ静かに泉を見続けている。
母のその表情は、泉の美しさに心を奪われているようではないように思えた。
失った自身の過去に、思いを馳せているのか──
何故だか、それも違うようにユリアは感じた。
母は、黙って何かをじっと考え込んでいるかのように、ユリアの目には映った。
いつしかディアドラは、草むらの上に横座りしてじっと水面を見つめている。
その背後を守るようにして立っているシグムンドも、考え事をするように目を閉じていることが多かった。眠っているわけではなく、ときおり目を開けては泉を見やり、そしてまた目を閉じるということを繰り返している。
ユリアは、母たちの様子をちらちらと伺いながら、やがて泉の回りを散策しはじめた。
すると、やはり暇を持て余したのか、レヴィンが彼女につきあってくれる。
「こいつには毒があるから、絶対に食べては駄目だぞ。こっちの実は食えるけど、あまり
などと、泉のほとりに生える草木のうち、食べられる物とそうでない物の見分け方を教えてくれる。
泉のほとりには、たくさんの木の実がなっていた。ユリアでも摘み取れそうな灌木になる実もあれば、背伸びしても届かないほど高い木の上になっている実もある。
「あの実は、
近くの木の枝に鈴なりになっている赤い実を指差しながら訊くと、
「おっ、あれは美味いんだぞ。よぉし!」
と言って、ユリアを肩車してくれた。シグムンドほどは逞しくない体で、少しふらつきながら枝の下まで進んでくれる。
手を伸ばして、ユリアは次々と木の実を摘んでいった。両手に抱えきれないほど、摘むことができた。
「今夜の食事のデザートだな。こいつは焼いても美味いんだ。小屋の厨房で料理しようぜ」
レヴィンが、満足そうに笑った。
※
小屋には厨房を兼ねた食堂とは別に、部屋が二つあった。一つをシグムンドとレヴィンが、もう一つをディアドラとユリアが使うことにする。
日が傾きかけ、シグムンドが「もう少し薪を取ってくる」と言って小屋を出た。
泉のほとりでの講義の続きか、レヴィンがユリアに採ってきた植物の調理の仕方、食べられる部分とそうでない部分の切り分け方を説明している。
仲の良い父子のように料理をはじめた二人の様子をそっと窺いながら、ディアドラは静かに小屋を出ると、シグムンドの後を追った。
シグムンドは、泉のほとりにある森の中で木切れを拾い集めていた。
そっと彼に近づくディアドラの手には、小屋から持ってきたスリングショットが握られている。彼女がここに住んでいた頃、高いところにある木の実を落とすために使っていたものだ。小屋の箪笥に、そのまま残っていたものを持ってきた。
かつてそうしていたように、ディアドラは頭上の木の実に向けてスリングショットを構えると、狙いを定めて小石を放った。
シュッ──!
バサッ、バサバサバサァッ!
木の葉が揺れて、驚いた鳥たちが慌てて枝から飛び立っていく。
ディアドラの狙い通りに落ちてきたいくつかの木の実が、シグムンドの体に当たった。突然の出来事に戸惑っている様子の彼に、スリングショットを懐に隠しながら近づき、ディアドラは静かに声をかけた。
「シグムンド様……」
「皇妃様……? これは、お恥ずかしいところをお見せしました」
慇懃に──他人行儀に言ったシグムンドを、悲しい思いでディアドラは見つめた。
シグムンドが、問いかけてくる。
「こんな所までお一人で来られるなんて、いったいどうしたというのです?」
「あなたに……お礼が言いたくて」
「お礼?」
「私を……ここまで連れてきて下さった、お礼を」
「そうですか……」
そのシグムンドの言葉には、なにを今さらという響きが込められていた。
「でも、その前に……」
言いながら、ディアドラはシグムンドに歩み寄る。
「お願いがあるのです」
彼の前に立ち、まっすぐにその顔を見上げる。
そうして、ディアドラは言った。
「貴方のお顔を……拝見させては頂けませんか?」
「顔……? 私の顔には──」
「ひどい火傷を負っていらっしゃるのは、存じております。でも、それでも……」
一度でいいから、恩人の顔をこの目で見たいのだと言ったディアドラの願いを、しかしシグムンドは首を振って拒絶した。
「女性にお見せできるような顔ではございません。男性でも……私の顔を見て悲鳴をあげる者がおります。それほど……見るに堪えない顔なのです」
そう断られても、ディアドラはなおも彼に食い下がった。
「貴方のお顔なら……私は、醜いとも、悍ましいとも思いません」
「申し訳ございません。それでも、お見せするわけには参りません」
「そう、ですか……」
頑なに拒絶するシグムンドに、ディアドラは首を振って目を伏せた。
ただ、どんなに自分が頼んでも、けして顔を見せてはくれないだろうということは、実は予想の範囲内だった。
しばらく残念そうに黙り込んでみせた後、彼女はまた顔を上げてシグムンドに言った。
「では、せめて何かお礼をさせてください。貴方に対する感謝の印を……言葉ではなく、行動で示させて下さい」
「行動で?」
不思議そうに言ったシグムンドの肩の辺りを、ディアドラは指さした。
「服が……汚れております」
シグムンドの肩から背中にかけての服が、潰れた木の実で真っ赤に染まっている。
「……ああ、先ほど落ちてきた木の実ですね」
初めて気づいたというように自分の肩を見るシグムンドに、静かに、しかし強い意志を込めてディアドラは言った。
「そのままでは、シミになってしまいます。貴方に対する感謝の印に、どうか私にその服を洗わせて下さい。ちょうど、すぐそこに泉があります」
「皇妃様ともあろうお方に、そのようなことをして頂くわけには……」
「だからこそ、感謝の証なのです」
シグムンドが困ったような顔をした。彼の固辞の言葉を、ディアドラは逆手に取ったのだ。
次の言葉に詰まった様子の彼に、畳みかけるようにディアドラは言った。
「お体には、火傷の
ユリアがそう言っていたし、以前に天幕の中でチラリと見たときにも、綺麗な肌をしていたように思う。
シグムンドが反論しないのを見たディアドラは、懇願する目を彼に向けた。
「お願いします、シグムンド様……。どうか私に、貴方に対する感謝の気持ちを、行動で示させて下さい。貴方のその服を……私に洗わせて下さい」
シグムンドの困惑する様子が強くなった。彼としては、もはや断ることが難しくなっているのだろう。
高貴な人妻に、肌着だけの姿を見せるのは不敬にあたる。だが、素顔を見られるよりはマシだろうと判断したのか、やがてシグムンドは、ディアドラに背を向けて上着を脱ぎはじめた。背中ぐらいであれば、肌着姿を見られても良いだろうと思ったのだろう。
だが、それこそがディアドラの計略だった。
「肌着まで
言いながら素早く彼に近づき、抵抗される前にシグムンドの肌着をまくり上げる。
露わになるシグムンドの裸の背中。
その背を見たディアドラの目に、みるみると涙が浮かんだ。
感極まった彼女は、気づけばそのままシグムンドの背中に抱きついていた。
「こ、皇妃様!?」
狼狽するシグムンド。
構わず、ディアドラはぎゅっとその体を抱きしめる。
「会いたかった……。お会いしたかった……」
囁くような、涙まじりの声で、彼の名を呼ぶ。
「
その言葉を聞いたシグムンドの身体が、雷を受けたかのようにびくりと震えた。
絞り出すように、彼は言った。
「私の名前は……シグムンド、です」
「いいえ、いいえ!」
涙を飛ばしながら、ディアドラは首を振る。
「私には分かります! 貴方の妻であった、私には……」
言いながら、シグムンドの裸の背をなぞる。
背骨からやや右よりに、脇腹の後ろまで斜めに伸びる大きな古傷があった。
「見間違えるはずがありません。この、傷あとの形を……。貴方の……私の夫の背中を……」
それは、若かりし日のシグルドが落馬したときに負った傷だと聞いている。運悪く、木切れの上に落ちてしまったのだ。
騎士にとって、背中に傷を負うことを何よりの恥とされている。敵に背を向けて逃げた証となるからである。
シグルドの傷は戦いで負ったものではなかったが、彼はこの傷を大いに恥じて、誰に対しても秘密にしていた。
仲間や友人が旅先で水浴びをしているときにも、彼はけして皆と一緒には水に入らなかった。
シグルドが、全く女遊びをしなかった理由の一端もここにあるのだろう。生涯の伴侶と決めた人以外の女性に──恥ずべき秘密を明かしても良いと思う女性以外に、背中を見られることを嫌ったのだ。
ディアドラと出会ったときも、彼は誰にも見られずに旅の垢を落とそうと、一人で森の奥のこの泉にやって来たのである。だから、戦時中にも関わらず、誰も共の者を連れていなかった。
シグルドは、この傷のことを知る者は、もはや誰もいないと思っていたことだろう。
ただ一人、この傷を目にしたことがある者は──何度も生まれたままの姿で抱きあったその人は、彼との記憶を失ってしまったのだから。
その思いが、彼の油断に繋がった。
「ディアドラ……。きみは……記憶が……」
その彼の言葉は、自分がシグルドであると認めたようなものだった。
そして、その問いに対する答えは、もう口にするまでもないだろう。
記憶が戻っているからこそ、ディアドラは、彼の背中の傷を確認しようとしたのだから。
「お顔を……お顔を見せて、シグルド様。貴方のお顔なら……どんなにひどい火傷でも、私は……」
「…………」
シグムンドは──いや、シグルドはしばらく黙ったままだった。
ゆっくりと振り返り、涙に濡れた目で彼を見上げる“妻”の顔をじっと見つめ続る。
やがて彼は、覚悟を決めたように顔の包帯を外していった。
「ああっ……!」
両手を口に当て、ディアドラは声を漏らした。
目に浮かぶ涙は、もはや悲しみの涙ではなかった。
喜びによる涙に、変わっている。
誰よりも愛した、愛しい夫の顔がそこにあった。火傷の痕は、微塵もない。
「シグルド様っ!!」
そう叫んで、彼女はもう一度、強くシグルドを抱きしめた。